はてなキーワード: 蹂躙とは
輪姦AVが好きだ。
たくさんの男に美少女系AV女優が蹂躙されているのを見るのが好きだ。
だが、自分は竿役の男の側ではなく女優の方に感情移入している。どうせなら可憐な女の子になって、こういう目に遭わされたいと思うことすらある。
見たいとか触りたいとかではない。チンコのない身体というのはどういうものだろうという興味だ。
幼稚園に通っていたくらいの年頃、寝るときにパジャマとパンツの間にタオルを挟んでいた。こうすると股間になにもなくなったように思えたからだ。その上から手で触ると不思議な興奮を覚えた。
やがてそれが親に露見するときが訪れたが、親は「おしめが恋しいのだろう」くらいに捉えていたようである。もっと倒錯的な意図には気づかれずに済んだ。
性自認は間違いなく男性であり、肉体との違和感を覚えたことは一切ない。男性としてのエロティシズムに対する感性を備えたまま、女性の身体で振る舞いたいといったところだろうと思う。
友人が小遣いをつぎ込んでいた「藤子不二雄ランド」に収録されていた「バケルくん」を読ませてもらったとき、こういう技術がほしいと思った。宇宙人から託された大量の人形。その鼻を押す(だったかな)と、その人形に乗り移って意のままに動ける。その中には当然女の子の人形もあるのだ。藤子・F・不二雄の漫画には手塚治虫ほどではないにしろ、ほんのり倒錯要素の感じられる作品があるが、これもそうだと思っていた。当時は言語化できるほど理解もしていなかったが。
そんな嗜好が強くなってきたのはおそらく「女性のセックスは男性のセックスの10倍気持ちいい」という話をどこかで読んだか聞いたかして以来だと思う。
そんなわけであるから、ある時点から増えてきたいわゆる「トランスセックス・フィクション(TSF)」は自分のために描かれた物語ではないか、とさえ思う。女装ではなく、ある事件(謎の薬物や身体の変調など)によって突然女性の身体になってしまう、という筋書きは本当に自分もなってみたいという妄想を満たしてくれる。新堂エル「TSF物語」などは同人誌まで買い求めた。
需要がなければ供給は増えないので、自分のような嗜好あるいは指向の持ち主はそれなりに多いのだろうか。
そして、今日も自分は妄想する。年端も行かぬ少女になった自分を。
見知らぬ男に捕まり嬲られ、早すぎる性の目覚めに導かれる自分を。
華奢な身体を蹂躙される恐怖と苦痛に喘ぎながら、歓喜に打ち震える肉体に困惑する自分を。
こないださやわか氏かな、が東氏はずっと寝てたけど早朝にやってた配信でいってたけど確かにいろいろと作劇としては破綻している部分も多く、それはある意味致命的だったりするし、終盤の展開なんて戦争美化とかいわれてもしょうがない部分が多いと思う。
特に謎だったのが大戸島でゴジラに襲われるシーンでなぜか発砲できないというところ。目の前で人がバンバン喰われてるのにガタガタ震えて引き金が引けない。これたとえば相手が米軍機だったりとかほかの人間だったりするのであればまだわかる。ガンダムUCでバナージがうてませえええええんって叫ぶけどあれは面識ある人間だしそりゃ撃てないだろとおもうが、相手は人を喰う怪獣である。
銃自体を忌避しているのかっつうと戦後のシーンでは機雷除去でバンバン撃っているのでそういうことはない。となると生き物を撃てない人ということじゃないかとなるけどそこを裏付けるような描写はない。なかったとおもう。クマを殺すな!って人がいるんだからそんな人がいてもいいじゃないかというかもしれないけど、終戦直後の日本の話である。そういう人はかなりレアだろうからそういうことであればそこを裏付けるようななんらかの描写が必要だったろう。
とまあいろいろツッコんでたらキリがないところだけど、これ要するに”ガンダム”なんである。
直接の描写的にもだいぶ参考にしてるんじゃなかろうかってところはある。
大戸島のシーンのうてませえええんもそうだし、ラストにゴジラを引っ張り上げるために漁船がぞくぞくとってのは逆襲のシャアだ。そもそも特攻をやりなおすという大枠自体がこれはガンダムじゃないけど”リーンの翼”だ。
キノコ雲が話題になった熱線発射のシーンも背びれが順番にビヨンビヨンと光ってブワー・・・って感じでシンゴジリスペクトと言うよりはもうメガ粒子砲である。
で、ガンダムだとすると同様に戦争賛美じゃんと批判されていた過去と現在をみるに結局の所コンテンツとしてのパワーの前ではそんなこといってもしょうがないのである。でっかい怪獣に街を蹂躙される快感!それに対抗しようとする無力な人間達!この構図はたぶん社会が相当にかわらないとなかなかオワコン化しないのではないだろうか。だからアメリカですらそこそこヒットしたらしいし今後も同様の路線のコンテンツは続くのではないだろうか。
つい先日、私人逮捕系ユーチューバーであるガッツchが逮捕された。
一方で同じようなことをしていた煉獄コロアキは大バッシングされていた。この二人の違いは何か?
ガッツchを支持する女性の大半は彼が捕まったことによる男のこれで安心といった趣旨のコメントや警察の対応の早さに憤っていた。
一見すると「性犯罪者を野放しにしている」「警察は性犯罪だけ対応が遅い」といった怒りだが、これは彼女たちの本質なのだろうか?
自分は違うように感じる。
彼女たちの怒りの本質は「自分たちが持つ男への暴力性の代弁者がいなくなったこと」ではないだろうか?
自分たちを舐めている存在である男。実際痴漢や盗撮に相手への侮りがあることは否定できない。
しかし舐められてもやり返すことは出来ない。なぜなら多くの女性は男に力で勝てないから。
そんな男が組み敷かれる姿にある種の痛快さを覚えるのではないだろうか。
全然方向性が違うが日本人が大谷翔平のホームランを見た時のような感覚だ。
白人や黒人よりチビで力が弱く舐められやすいアジア人が向こうのどの野球選手より豪快にホームランを飛ばす様は見る者に「やり返してやった」というようなカタルシスを感じさせる。
つまりガッツchのような人を支持するのは「性犯罪者を止めてくれるヒーロー」という建前の裏に「自分たちの持つ暴力性を発露してくれる人」という心理があるのだと思う。
実際私人逮捕系が登場したての頃に「冤罪だったらたまったもんじゃない」「やりすぎ」というコメントに「そんなに怖いなら自衛すればぁ?」という女性の意見が多々見られた。
だからこそ今回の逮捕に安心するのも自衛の一つだと思うのだがそこに憤る辺りやっぱり本質は男が蹂躙されるのが見たかっただけなのでは?と感じてしまう。
謎の存在に不条理にも蹂躙される話って、理屈をつけてしまうと結局人間同士の内ゲバとかに収束してしまって陳腐になっちゃう。陳腐というと語弊があるかもしれないけど、人間の愚かさだの悪意だのが招いた事態だ、みたいな感じだと結局そこかよ……って思う。
進撃の巨人とかはその辺の政治劇に軸を移してからもも話が丁寧だったって言われてるみたいだけど。
さりとて謎を謎のままにするのも気持ち悪い。でもそういう不条理ホラーというか、理屈などない。ただ襲われ、それに抵抗するという事実があるだけ。みたいな作品のほうが好きかもしれない。
新劇なんかはもう完全に親子関係で話をまとめて、マジで使徒とは何だったのか……状態だった。ただ暴れ回る怪獣でしかなかったやん。
謎は謎のままにして、それはそれとして完全に別軸で人間関係の話を強引に進めていった感がある。
動機も関係も謎のままだけど、最後には晴れやかさのようなものがある。
エイリアンも良い。宇宙人です。人を襲います。以上。戦って、倒す。人外と人間が争い、人間が勝ち残る。シンプルで良い。
逆に負けてしまってもいいかもしれない。そうなると不条理パニックといった感じだろうか。そういうアンチヒューマニズム丸出しの作品がもっとあっても良いかもしれない。
理屈をつけるにしても、内ゲバじゃなければ割と好みかもしれない。マブラヴとか?よく知らんけど、珪素生物がどうのみたいな。それだと設定が膨大で煩雑になりがちなのがネックなのかな。
そういう設定についてきてくれるような既存のフォロワーを持たない人が初手で大風呂敷を広げるには、エロゲって良い媒体なのもかもしれない。Fateとか月姫とかも詳しくないけどそんな感じなんだろうか。
==== 追記 ====
書いた直後に全然反応がなかったのに、今見たら色々コメントがついていて驚きました。
ブコメを読んだら、結構な数の人が怒っていて、私の中の善良な市民感覚が、「悪いことをしてしまった」という後悔の念を自然と抱かせましたが、落ち着いて考え直してみると、別にそう悪いわけでもないなという気もしています。とりあえず、これが率直なところです。
・「不快」で他人の発言を抑圧しようとするのを表現規制って言うんじゃなかったっけ
・自分の意思にそぐわないからと言って他人の言動を制限しようという発想かー。上手くいきそう?
・自分の不快感のために他人の自由を制限できると思ってるんかな
・不快に思うのは勝手だが、人の発話の自由を制限しようとするのは何様のつもりだろうと思うし、方言の利用を咎めることも更に最悪って感じがする(私は方言コスプレをポジティブにとらえている)
これらの意見は大きくは、自分の不快を理由に他人の行動を制限するのは駄目だ・許されていないという意見だと理解しています。この「制限」というのが、肉体的な拘束や洗脳のように、相手の権利を蹂躙するものならば許されないと思いますが、「不快だからやめろ」と言ったり、ネットに書いたりするのは全く正当な権利だと思っています(アホとかいうのは良くないですが)。こういう自由はむしろ私たちに与えられている非常に重要な権利だと思いますし、これを封じる方がよっぽど表現規制でしょう。一応誤解のないよう言っておくと、私は他人の自由を規制できるとは思っていません。ただ「やめろ」と言うのはありということです。
「上手くいきそう?」については、無理そうって感じです。本文に書いたように、たまたま「なんよ」に連続で遭遇した勢いで書いたので、見通しは特にありません。
・たった100文字のブコメでネイティブの「なんよ」と非ネイティブの「なんよ」の見分けがつくんか!すごいのう〜!うち岡山出身じゃけどようわからんわ〜!!日本人口のほぼ半分は西日本に住んどるって知っとる?
仰る通りで、つきませんね。ただ私の観測してきた「なんよ」使用者数からいって、ノンネイティブが使っているのは間違いないと思ったので、それらの人に届けばいいと思いました。誤算としては、私が思っていたより「なんよ」圏が大きかったことです。でも一定数のノンネイティブには届いたと思います。
他のブコメも含め、関西全域で使われているみたいな主張もありましたが、流石にそれはないんじゃないのとは思います。私は十年ほど関西に住んでいましたが、ほとんど出会ったことがありません。とはいえ私は交友関係が狭いのであれですが。局在しているってのが一番ありそうな気がします。
・「他人の言動に無思慮に追従してしまう主体性のなさへの嫌悪」「「なんよ うざい」、「なんよ 気持ち悪い」が上位に上がるので、軽蔑的な印象を持つ人はそれなりにいるようだ」露骨なブーメランだし釣りなんよな?
これはつまらない意見ですが、トラバにも同様の内容があったので返答しておきます。読めば明らかなように私は不快に思う理由をメインで書いています。そして、他人の意見を参照しているのは論理の補強のためです。つまり、他の人たちも嫌悪しているようだから、その嫌悪は必ずしも独りよがりではないはずだという論理です。これは普通に読めばわかることだと思いますし、こんなのは本筋からずれた瑣末な部分です。もうちょっと文章を大局的に捉える訓練をしては?
・他者への解像度を想像だけで上げようとするとそれは自分の投影になると思う。そういう人なのであろうという想像は自身の内面を紹介するような感じがするので私はしたいとは思わないかな。
==== 以上追記 ====
前から気になっているんだけど、ここ数年「じゃないんよ」とか「違うんよ」とか「必然なんよ」みたいに「〜んよ」と言う語尾(?)を使う人をよく見る。元々は九州とか中国地方あたりの方言なんだろうけど、そうじゃない人も多く使っていると思う。私はこの語尾が嫌いで、見聞きするたびに少しイラっとくるんだけども、今日はてブを見ていたら短時間に三度ほど見てしまって、これは警鐘を鳴らすべきだと思った。
この語尾を使っている人たちが、なんの影響で使い始めたかは知らないけれど(千鳥の影響だと推測しているが)、これは元々方言であって、ノンネイティブの人が使うのは問題ではないが、エセ関西弁と同じで薄ら寒い。ネイティブの人が使うのは別にいい。これは偏見という自覚はあるけども、私はこの言葉遣いをした時点でメタ認知能力に欠けたアホではないかと懸念を抱く。
「なんよ」を使っている人は以下の点について自問してほしい:
2. どのような人の前でそのような言葉遣いができるか?
1で無意識に流行り(?)の口調を真似て使ってしまっていたという人は、この機にやめてはどうか?小中学生の頃に、無意識に他人の口調や言葉遣いを真似したり、お笑い芸人のギャグを真似したりする人がいただろう。子供なら無邪気で済むかもしれないが、大人がしていたら見苦しい。あなたがしているのはそういう無分別な子供じみた振る舞いだ。
2については、そもそもカジュアルな言葉遣いだから目上の人には使わないだろうが、ただ、例えば立場としては対等でも、適切に自分を評価して欲しいと思う相手に、そのような言葉遣いをするだろうか?ちょっとアホっぽいからやめようと思わないだろうか?もしそうならば、あなたは一定の状況下ではアホっぽい振る舞いをしていたことになる。自分の言葉遣いがどういう印象を相手に与えるかにもう少し意識的になってはどうだろうか?
ここまで書いて思ったけれども、私が「なんよ」を不快に思う理由の根っこは、他人の言動に無思慮に追従してしまう主体性のなさへの嫌悪感にあるのではないかと思った。同じ特徴的な言葉遣いでも、例えば一人称に「おいら」を使ったり、語尾が「〜なのさ」の人にこれまで出会ったことがあるが、全く不快には思わず、単にそういう人なのだと感じた(多少面食らったが)。しかし、「なんよ」は私には同じような特徴としてではなく、自分が他人からどう見えるかを認識する能力(メタ認知能力)の欠如、他人と自分を簡単に同一視してしまう自他の境界の曖昧さとして映る。これが一面的な見方であることは重々承知しているけれども、限られた情報から他人を判断する必要上、一定程度は合理的だとも思う。私のような考えを持つ人がどれだけいるかは分からないけれども、google で「なんよ」と打つと「なんよ うざい」、「なんよ 気持ち悪い」が上位に上がるので、軽蔑的な印象を持つ人はそれなりにいるようだ。なんらかの強い理由がなければ今後は使わないで欲しい。
でもカウセ高い。
保険適用ならマシかもしれないけど心療内科混みすぎ問題だしカウセ受けたいって言っても紹介してくれない医者も多い。自宅最寄りの心療内科なんか抗うつ剤すら出さない。ひたすらビタミン剤サプリとプロテイン処方してくる。
首吊りして救急搬送で連れてかれた病院はカウセも紹介するよって言ってくれたけど遠すぎて通えない。
自宅からはそれ以上に遠い。
正直言ってどう考えても死んだ方が早いから行く気がしない。
生きて楽になるためのコストが高過ぎる。
それでも生きてるのは、きっと自分では気づいていない生きることのメリットがあるんだろうけど、なんのことかわからない。
ただ、死にたい気持ちを見て見ぬふりして、苦しい気持ちと戦わされて、悲しい気持ちに蹂躙されて、心がボロボロで、死にたい。
楽に生きれるならその方がいいとハッキリ言える。
でも、楽になる方法カウセなんでしょ?
カウセに連れてってくれ。