はてなキーワード: 格闘家とは
https://ranobeprincess.hatenablog.com/entry/2020/09/25/141312
他カテゴリの侵略はともかく、格闘家の「上がり」や「一発屋芸人は営業で稼いでる」に近似する、「本は出にくくなったラノベ作家の、お小遣い程度にはなる評論市場」はあってもいいんじゃねという気がするのよね。
つまるところ一足飛びにラノベ界隈に評論市場を作ろうというのが安直で横着なわけで、まずは「一般小説の文庫末尾にはある解説」をラノベにも導入するところから始めるべき。
作家的にも「あの人に自作の解説を書いて貰いたい」という欲求は少なからずあるはずだと思うのよ。
『本好きの下剋上』には現実の本キ○ガイ、日下三蔵や荒俣宏や北村薫辺りの解説文が欲しかったし、
『魔法科高校の劣等生』には有名プログラマやSEの解説文があっても良かったでしょ。
『SAO』にはVRものの先達で作品の出来的にはまったく負けてない(率直に言って勝ってる)彩院忍や内田美奈子の解説が欲しいし、
書籍化が決まってる『現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢をするのはちょっと大変』には支倉凍砂や池井戸潤に解説を書いてもらいたい。
体系化や系譜の話も充分できるし、過度の権威化は避けつつも小遣い稼ぎの余地はちょいある、という程度に収める「ラノベ界に解説文の導入」、まずはこれでしばらく様子を見るの、悪くないと思うんですがねー。
触れずに倒す、などのはっきり言えば別ジャンルの人によって勁は随分勘違いされてきました。しかし勁はマジックでもなければ詐欺でもありません。そればかりか日常的に勁は使われています。勁とは力の作用の仕方を総称したものだからです。例えば野球選手の投球フォーム、ハンマー投げ選手の重心移動なども勁の一種です。それが今日の体育的か武術的かの違いに過ぎません。
実際のところ発勁という単語は日本特有のもので、中国では単に勁と書きます。
身体操作法です。武術観点から言えばひねらずためず、肉ではなく骨の力を使うことが多いです。この場合骨盤や肩甲骨の回転、地面の衝撃を止めずに流す手法などが取られます。
勁には一番簡単な実感方法があります。ご自身で手を伸ばして、その先端が地平線上に糸でどこまでも引っ張られているとイメージしてください。その後その伸ばした腕が曲げられるか第三者に試させてください。普通に力任せに曲げられないようにこらえたときと違い、糸が伸びるようなイメージで伸ばした腕は曲がりません。このように「勁を働かせる」とは、普段惰性で行っている身体操作を意識の持ちようで別の動きに変えることを意図しています。
身体操作の内部的感覚を錬成するためにやるだけで、その感覚を得やすいからやってるに過ぎません。ちなみにこっちばかり先鋭化されすぎるとMMAでボコボコにされた某気功家みたいな悲惨な勘違いを生むことになります。ちなみにあの気功家、大東流柔術とは全く無関係の大東塾武道という流派を呼称しています。大東流の方もさぞ迷惑だったことでしょう(もっとも、これは擁護ではなく大東流の方々が直ちにMMAで勝負できるという意味ではありません)。
確かに現代的な練習を積んでいない武術家はぶっちゃけ弱いです。最近の事件として中国MMA格闘家が太極拳の指導者を叩きのめしたことは記憶に新しいです。この点は各方面から伝統派も実践式スパーを取り入れるべきだという意見が飛んでいます。一方、伝統派がスパーを入れて競技化すると武術的な技は形骸化して意味を失います。極真空手の型、柔道の寝てからの攻防など、体育化によって失うものもあります。
また、武術家全員が弱いわけではありません。古流空手出身でRIZINのトップファイター堀口恭司選手は、靭帯の怪我に泣かされて朝倉海選手に敗退するまで連戦連勝でした。彼は古流特有のロングレンジからの突きを多用します。また、総合のUFCで活躍する菊野克紀選手は古流空手で、そのパンチであるナイハンチは浸透勁の手法です(システマの打ち方に似ているという指摘もあります)。キックボクシングの大月晴明選手は合気道の歩法をキックの試合に取り入れた結果、ロー必ず当たるようになったと語ります。勘違いしてはならない点として、彼らは脱力した技法を用いるにしても、筋力の鎧はまとっているという点です。打たれてダウンする選手は活躍できません。
また、武術家当人が弱くとも、勁を通す技術体系そのものまで貶められるのは筋が違います。上記選手の方々のように使い方次第です。
別段ブロックは皮膚と内部を巻き藁あるいは鉄砂掌でならした空手家や拳法家が普通に壊せますので、勁とかそういった(働きもありますが)大げさなものではないでしょう。それに、内部に効かせるものが多いと思います。ボクサーなどにも言えますが、効くパンチとパンチングマシーンなどの衝撃測定では結構な落差が出ると言います。力を抜いてインパクトの瞬間だけ握りしめる手法も一種の勁で、この方法と相手の反射、例えばカウンター時に合わせるなどして一挙に意識外から意識を持ってゆきます。
実はここが一番問題です。本格的な勁の多くは極端な脱力によってもたらされるもので、力を込めて威力を加える近現代的な体育の身体作法とは真逆のアプローチを取ります。組み込み難さはかなりのものでしょう。そして、一番の問題は応用が効くまで一定の型内でしか発揮しにくい、という点です。例えばリング際で胴タックルから肘を入れられてのけぞらされた場合、少なくとも地面を利用した勁を使うことはできなくなります。こうした不測の事態を考えていない武術家は不利な状況下での身体操作を理解していないため、上述の太極拳指導者のようにやられてしまいます。もっとも、あの人の場合ただ単にパンチに反応してないだけですが。
あれをそのまま使う人はいません。基本的に力の流れを意識して体の内部を注視しながら感覚を身に着けさせるためのメソッドでしかなく、体操化した太極拳にはそうした体内を注視する意識も欠けています。実践の際にはもっと素早く動きますが、初心者に素早い動きをさせると力んで力を使うため、ゆったりと感覚を身に着けさせるように誘導します。
今の所中国ですら武術がスポーツ化していると言われており、武術的な型を使ったスポーツ化している選手が多いのではと推察しています。渡航しないとわかりませんけど。試合の流れの中で使う分には、散打特有の投げルールポイントを駆使したほうが勝利しやすい、などの理由もある気がします。
肩口から出る力を使い、脱力してインパクト時に握り、ミットやサンドバッグにあたった瞬間にその衝撃だけ伝えて手を引く、いわゆるジャブは肩口からの勁です。また、コークスクリュー・ブローは纏絲勁を前腕、リスト部分に用いた限定的な用法です。
限定された動きのみならず、すべて格闘技と異種格闘戦を行って武術的アプローチで対策を練る、現代的に見ると変な武術家が現れない限り、実力があるとは認められないのも事実かと思います。そんな申し出は社会的にも失礼な話ですからね。打撃に混ざって練習生を崩して投げるやつがいたら練習生の邪魔になります。
また、多く武術は投げ以降が簡単な関節技しかないため、寝技のあるMMAとスパーしても今度はMMA側が楽勝すぎて練習にならないでしょう。故、塩田剛三先生クラスでなければ寝た瞬間に力んでしまい、固められておしまいかと思います。この辺は型として、それも打ち込みで反復練習できる実践的な型として勁をどう使うか、という研究が足りない気がします。
id:sangping よく分からんが、勁が「力の作用の仕方を総称したもの」なら、昔ながらの抽象的な表現をそのまま用いず、物理数式に置き換えて実証すればいいんじゃないの? 現代なら計算によるシミュレートも可能だろうし。
これ「売れる」ってスキルが最上位に来てるから若林の言葉に違和感がないけど、売れるスキルと売りたい技能が別の場合そうでもないよなあ。こいつなんでトップにいんの? みたいなケースがたくさんあるし。
格闘家の那須川天心が先日YouTubeで朝倉未来と対談してて、那須川が言うには、最近実力がないのに目立つことができる人が出てきて、それは違うなと思う、と語っていた。対する朝倉は強いだけで売ること考えないやつにも問題ありますけどね、と釘を刺した。
これ、スタンスの違いなんだけど、那須川は実力主義でストイシズムを全面に出した解答をしている。一方朝倉は自己プロデュース含めて総合力で勝つ話をしている。限定された世界での勝ちの話をしてない。売れるってことを是非で考えた場合、自分は天心派なので、売れるだけ売れて大したことないやつは嫌いだ(※朝倉の揶揄しての文言ではない)。
でも他方、かつての番組で拝見した、芸人のホリが言うところの「本家よりうまいものまね芸人とかまあ売れないですね」というセリフもわかる。コメディアンは本物になりすぎると世界観がマジになりすぎて笑えなくなる。真の笑い、笑いのレベル、という単語が周囲に飛び交う松本人志も心底笑えないマジな時代があった。お笑い芸人に関しては未完成な方が笑える。明石家さんまは面白い上に完璧だけど、その隙きのなさ故に流行になるような爆発力がすでにない。当たり前だ、ベテランってそういうもんだ。
納得はできるが華がない世界と、華はあるが実力のない世界なら、大半の人は後者を選んでしまう。
考えながらしたためていたけど、悲しいかな現実はこんな結論が妥当だと思う。
宮崎駿はもののけ姫の取材のさい、武術家(甲野善紀か黒田鉄山だった。多分甲野)の動きを参考にした。
その時監督は先生の動きはコマを飛ばしたみたいでアニメの参考にならない、といったそうだ。
最近格闘系のYouTubeばかり流し見しているが、トップクラスのボクサーやキックの選手の動画はなにをやってるのかわからない瞬間がある。単純に技術が細かすぎてよくわからない面と、単純にスピードが早すぎてよくわからない面と二種類ある。特に軽量級の選手は巧くて速くて細かいので余計にわかりにくい。動きも最短距離をイメージして動いてるので、中間の動作や打ち初めの溜めがない。溜めがないのでワンツーも寸断なく出てくるし、囮を打って誘い、カウンターを成功させた際もあまり上手に理解できない(格闘経験レベルの差が眼の差になって出てくる)。
アニメの場合全く逆だ。大げさな溜め、見せ絵になる中間の振りかぶり(トリガーやボンズ作品に多い)、ヒットしたときに拳をすっと戻さずに撃ち抜くなど、まるで格闘的ではない。上体や下半身の動きも大げさで、その代わり人間の関節稼働限界を超えた動きを何分も行う。むしろそっちのほうがアスリートとして驚異的な気がしなくもない。スウェーから背筋だけを利用してウィービングを何回繰り返しても、アニメならちょうどよい表現になる。しかし格闘家なら奇妙な体幹の持ち主だ。
アニメ的な動きはこのように大げさかつ隙だらけで、それなのにフィジカル能力の高さだけででかわしたり打ったりする。おかげでアニメ格闘のラリーはかなり長い時間無駄な体力を消耗しながら進む。溜めの多いテレフォンパンチを大仰なモーションと尋常ならざる速度でかわし続けるのだ。地面をける時も大げさなので、本当なら移動する場所が丸わかりである。
攪乱作戦などを用いたアニメの動きも演出上もたつく。撹乱された相手は大仰にたじろいでしまう。本来一流の戦士ならば撹乱された場所からすぐに移動して視界を確保するものだ。しかしアニメの一流の敵はなぜか味方の攻撃に思うままに翻弄される。その間の秒数も演出なのでとても長い。
要するに日本の様式美は今もって歌舞伎的で、おそらく殺陣のリアリティや美しさよりも伝わりやすさを重視するのではないかと思う。とは言え、リアルさを匂わせるものもある。ナウシカのユパの動きはまるで武術的で、あのナイフのパリィは若干の参考資料が入っていることを匂わせる。中国拳法の推手から入る攻防、特に詠春拳や截拳道の攻防に近い。飛び込んで入る演出も多分に演出的ではあるが、中心をしっかりガードして体をすぼめて銃弾から身を守っている。そして敵から目をそらしていない。大変合理的だ。そりゃ討ち取って名を挙げられない。
デカダンスは基本対人戦ではなく、対ガドル戦ではある。ただし体の動かし方は上項の指摘に沿っている。溜めの多いモーションと力んだ投球フォームで彼らは針を投げる。本来あの針はダーツのように斜めに構えて持ち、すっと突き出すように投げたほうが刺さりやすい。地上なら投げやりのフォームが参考になるが、空中に浮いているならダーツだ。あとは重力が導いてくれる。持ち手が順手の場合、ボーリーングのスローイングに似た動きをとればきれいな垂直を描いてガドルに刺さる。しかし、デカダンスで力みないフォームでガドルを倒すカブラギやナツメがあってはならない。攻撃に感情が乗らなければ演出にならないからだ。
あの武器はいけない。折ってくれと言ってるようなものだ。巨人の急所を攻撃する目的なら刺す系列の武器が有効だろう。彼らの構造遺体は人体を模倣しているので。筋肉の隙間と骨の継ぎ目、そして巨人の弱点である首を狙えばいい。そう考えると実はハンマー系のほうが無力化に有効な気がしなくもない。そう思えば巨人に鉄球をぶつけるアイディアは遠からずといった感じもある。
俺もヒョロガリ男性だけど、女性の場合は「低身長で弱いと思われたらレイプされる」という恐怖があるのではないかな?
身長190cmの格闘家には恐怖を感じないけど、そいつが「俺はゲイでノンケ食いが趣味です」と自己紹介したら恐怖を感じるのと同じで。
正直、自分と同じの身長の男にすら喧嘩で勝てないなって思うし、気もそんな強くないから恫喝されたりしたら普通にビビって相手に従いそうだなって自分で感じてる。
でも一部の女が言うみたいに身体差による恐怖みたいなのって全くないんだけど、あれを言ってる人って何をもってして感じてるんだろ。
そりゃ女性はもっと小さくて身長150とかの人もいるけど、自分は相手が190くらいある格闘家の人にあったことあるけどそういう恐怖は感じなかった。(威圧感はちょっと感じるけど)
正直、現代日本で「相手が突然襲い掛かっても勝てない恐怖」とか感じることある?
別にそういう恐怖自体を否定したいわけじゃないけど、それって身体性以前の「相手が突然襲ってくる恐怖」なんじゃないのって感じる。これってカウンセリングとか認知の問題だよね。