はてなキーワード: 遊戯とは
そして、金儲け=悪 という訳のわからない概念がこの国には蔓延ってるので、経済よりの発言や行動は叩かれやすい。
日本は私権を制限できない国なので、それを担保しながら経済ダメージを最小限にした最大限の感染対策ってどんな政策があるんだろう。
緊急自体宣言中は、飲食店ほかカラオケなど遊戯施設はおひとりさましか入れない。
その代わりGOTOキャンペーンのようなインセンティブをつけて、店に来てくれるような施策をする。
フェスのあと、仲間とワイワイ飲み会は禁止。おひとりさまでしか、店に入れない。
接客業や医療関係者ほか人と接する仕事の人がフェスに行けないのは困るなぁ。
https://www.youtube.com/watch?v=N-GLUFIyGmM
http://kakugeblog.blog.jp/archives/75074494.html
梅原:
話をまとめると、eスポーツって結局ゲームなんだけど、「eスポーツ」って言うと、世間からよく見られるから、eスポーツって呼ぶってことですよね。
ふ〜ど:
楽しみを求めたり、勝敗を競ったりする目的で行われる身体運動の総称。
精選版 日本国語大辞典
広義の運動競技のこと。もともとは気晴らしにする遊戯をさしたが、時代の変遷とともに競争的要素の強い、技術的にも高度な運動競技をさすようになった。
一般的な認識としてスポーツの定義に運動であることが含まれる以上は「スポーツ」という言葉に対する世間的なイメージにフリーライドしていると思われるのは当然だし
本来の定義であれば「気晴らしにする遊戯」全般をスポーツと呼ぶべきだから↓の増田はどちらにしても的外れにも程があるやね
だからスポーツという言葉の定義を根拠にeスポーツという表現を正当化したいなら
FPSも格ゲーも放置ゲーもリングフィットアドベンチャーもどうぶつの森も全部スポーツなんだ!
と言いましょう(笑)
前回の:
・スカパラ
・演出のコンテクストが汲み取れず彼らが何をしたいのか理解不能
→すごい人なのだが、フィーチャーされず演出と噛み合っていなかった
・南国にいそうな鳥みたいなダンス
・アイヌやエイサーなど民族舞踊から始まり日本の盆踊り紹介映像
→小学生が育てたあさがおに勇気を貰ったと言及するも、枯れていた写真がSNSに出回っていたため微妙な空気に
→橋本聖子より長い、女の話より長い
・大竹しのぶの小芝居で締め
→これを劇場でみたら迫力合ったんだろうなと思った
その他雑感
スカパラをベースとした演出だったが、スカパラだけじゃ寂しいから間に適当に曲を挟んだ印象
コンテクストが不在、何をしたいのか理解不能、ごった煮の鍋食わされているような感じ
演出プランは決まっておらず、導線だけ決めてあとはダンサーを適当に踊らせていた気がする
盆踊りは本当に酷かった
以上
ゲーム盤の上に乱数発生器が載ってなきゃ運が絡まないと思ってる奴らの底知れない浅さたるや。
人間がルールや道具を作り出したあらゆる遊びや試合といったものは絶対的に対人であるということさえ理解できないのだろうな。
ファンタジーの世界で「皆には見えるオーラやエーテルが見えない存在」が時折題材になるが、立ち位置としてはそこに近いのでは?
ある種のクオリアのようなものが生まれつき欠如していて、普通に生きていれば見えるようになるものが生まれつき絶対的に見えていない、そうとしか思えないほどに、鈍感力が無限大の彼方へと突き抜けている。
だがそれでは、ゲームを論じることは出来ないのだよ。
たとえば味覚障害のあるものが「味覚障害のある人間なりに匂いと香りと見かけだけで食べ物を評価する」といった奇策を打っても、それが真っ当なレビューの一つに数えられることは永遠にない。
「将棋(を含めて全てのゲームは乱数発生器の搭載の如何を問わずに)運ゲー」とういことが理解できない人間が語るゲーム論は、絶対的に致命的に圧倒的に絶望的に喜劇的に根本的なピント調整が永久の不安定なままで語られていく。
たしかに彼らの語る論がたまたま偶然あってしまうことはあるが、それは単なるタイプライターを叩いた猿がシェイクスピアをかきあげたと言うだけであって、その主張の正当性は結局その著者たる猿本人によっては一切担保されないわけである。
著者本人が一切正当性を担保できないのでは、それは「論」ではなくて単なる「談」、ジョークブックに載ることはあってもマニュアルに載ることは永遠にないのだ。
純粋なスポーツの凄さを楽しみたいなら、男子バレーボールを見て楽しめばいい。
女子バレーボールは、男子に比べて大分レベルが劣るが、「女性」という性的要素が少しあるから、まあ見てられる。
さて、問題のビーチバレーだが、バレーボールより数段レベルが劣った選手の集まりで、その中にさらに女子となれば、
男子バレーボールでトップやってる選手から見えばお遊戯レベルだろう。
そんなお遊戯レベルのプレーは、素人からしても見れたもんじゃない。
その競技団体の努力の結果として、ここまで競技が拡大したんだろう。
こんなの暗黙の了解で、競技に従事している関係者なら誰もが理解してることだろう。
そんなのに、突然「わたしたちは性的な視線で見られたくない!性的搾取の被害者だ!キリっ!」ってされても、説得力ゼロなんだよ。
できないから、レベルが低くて、性的要素というゲタが履けるビーチバレーをやって、それで金なり名声なりをそれなりに得てきたんだろう。
頭空っぽで、「性」で売って露出して、散々ワガママして、金も名声も利権も確保した女子アナが40代になって「性的搾取の被害者」になって、
フェミになるケースと同じ。
いやいや。いきなり本音ベースの話にしちゃアカンでしょ。売春は違法。OK。だから「『男が女を金で買うこと』の正当性や倫理性」は、ここでは論点でない。男性であろうが女性であろうが、性をお金で買うことは不当で非倫理的です。オーケー当たり前の話。そこには私もあなたも争いがない。たとえば賭博は不当で非倫理的で、ついでい違法です。だから、たとえば地下賭博場を開いてる人、捕まる。働いている人、保護されない。仕方ない。オーケー。誰もそれ問題だと言わない。
でも、今問題になってるセックスワーカーは、たとえて言えばパチンコ屋の店員。店に来てる人全員、そこで行われていることが実質は賭博であることを知ってる。警察も知ってる。賭博は不当で非倫理的です。でもね、三店方式という言い訳によって、あくまであれは遊戯という建前で警察も目をつぶってるわけ。でもって、パチンコ屋は法に基づいて営業してて売り上げ申告もして課税もされて、公的に合法的に営業しちゃってるわけ。なのにあなたは、いきなり本音ベースの話を持ち込んで「賭博は不当で非倫理的」という見解の下に、パチンコ屋の従業員が労働者として扱われなくてもオーケーだと言おうとする? それはさすがにヤバくないですか? ということ。いきなりそこだけ本音ベースで「賭博はダメだから彼らは労働者じゃない」なんて言い出したら、全国のパチンコ屋店員困りますよ。おねーさん。
日本共産党中央委員会の論文集『投降主義者の観念論史観』を読めば答えが見つかると思いますよ
日本共産党の志位和夫委員長ですが,1988年に,ほぼヒラ同然の専従から書記局長に抜擢されました。出世のきっかけになったのが,「伊里一智事件」での活躍だといわれています。 伊里一智事件とは,1985年当時,東大の院生支部の党員が,宮本顕治の引退なども含め,党の改革を訴える提案を党大会に提案しようとしたところ,その提案が連名であることを以て,党機関が「分派活動」と決めつけて,その動きを阻止したもの,および,その後の「党大会でのビラまき」「週刊誌のインタビュー」「伊里一智氏の著書出版」などの一連の出来事をいいます。伊里一智はその院生が名乗った活動名です。 この事件は,典型的な,民主集中制の原則を悪用した,異論の政治主義的な封殺でした。その主な下手人が,志位和夫委員長その人なのです。志位氏は,「変節者のあわれな末路」(「赤旗」1986年3月18日,19日)「退廃と遊戯の『哲学』 ――浦地実『<ポスト・モダン>と唯物論』批判」(『前衛』1986年4月号)などの論文を書いて,伊里氏を口汚くののしりました。この,異論排除の能力が宮本顕治に買われて,出世を果たしたとかなんとか,いわれているところです。これら共産党側の論文は,『投降主義者の観念論史観』という本にまとめられています(上写真)。 今回,上に挙げた志位氏の論文を紹介します。ぜひぜひ,読んでみてください。あの顔からは想像できないような悪口雑言の数々が並んでいます
社会学は哲学と同じ善だの悪だのバイナリゲームのお遊戯の一種なのでいいかげん学問になるかお遊びのままでいるか進む方向を選ぶべき
学び問う、問えるだけの情報整理と定義とそのための集積、それらと分け隔てなく接し理解するための時間を費やす学び、それらを合わせて学問
学問によって定義ができる情報群ができたとき、その情報を応用できる手段にしたものが論
多くの意見や情報や視野を集める学びを会す場をつくることが学会でそれを基軸に題名をつけるなら学、何々学
あつまりもしてないし意見も聞かないし問うに情報が整理されていない、ただ罵倒するためだけにつけた蔑称で独自の定義を披露する社会学はそれらのどれにも少しもあてはまらない
学問という文字から大きくそれた「社会学」なんてものはもう言葉遊び
西暦何年~何年までとする それ以外は「社会学以外からの引用や参照や比喩」として理解できる 逆に範囲内に言及する場合は学会の方針に沿う
実在した人物や組織の名前をそのまま使い、個人的な評価をその名前を付け合せて妙な名前を都度生成しない
結果や行動について集積、分類するために評価基準を定義する 大虐殺なら評価基準は人数なのか方法なのか効率なのか等 それにより救われた人数や伸びた産業はどう評価するか等
・共有する
これが一番問題なのだろうけど、定義基準ができたとしてそれを利用できなければ意味がない
現在の社会学は他の社会学者が歌ったポエムにアンサーポエムを返したりしているだけ
社会学が学問として学が成り立ったとしたら次のような表現方法ができるはず
「ナチス」という一時期に存在した集団がとった行動の評価は「100(例として作った数字なので意味はない)」
これはAの時代のBという状態にあったCという組織や、同系統の例を定義上の要素で評価採点した方法による D論 の評価
のようになるべき
善だった悪だった悪だが民衆に好かれた、当時の価値観としては善だったが、などただの時系列を無視した正確性を欠くジャーナリズムでしかない
正確性も欠いているし時系列も現在とのつながりが話題性以外になく、善とか悪とかの価値観に巻き込まれた関係者の人数分布や思想の強度を行動や現象で数字化して比較するわけでもなく個人が判断しただけ等となると愚の骨頂
事実、現時点において何らかの問題を解決するのに歴史的な事象や統計にある手段を用いようとしたところで社会学のなにが方法としてだせるのか