はてなキーワード: 看護士とは
「疲弊しているのは男性医療従事者だけではないのですが・・・寝る時間の無い女医さんたち、看護士さんも大勢おられます。TVCMの表現もですが、こういう時も男女の比率は(アメリカが30年やってきたように)社会の実状に近づけて描いて欲しい。」
からの
「皆さん必死なのはなぜでしょう? 私はどっちでもかまいません。 」
からの
「外されている方たちが抗議の声をあげたらどうなるんでしょう? 日本のフリー素材ではたぶんそこまで真剣に考えられていないから問題になるんだと思いますが。」
からの
「女医さんとは限らない・・・と指摘されました。いらすとやの一つの定型的な説明が眉毛のやや茶色い方が女性というだけで、「両方とも男性」「両方とも女性」で使ってもかまわないそうです。誤読と断定することが誤読だったんですね。」
からの
「たぶんカッカしているほとんどの人は、医療従事者がどうなろうと、実際には何とも思っていないのだろうな・・・と、よくわかりました。」
からの
「これが「寝不足の医療従事者の女性」の正しいイメージなのだそうです。医療従事者の女性の皆さん、同意されますか? 表現にもっと選択肢があっても良いのではないでしょうか? 私は友人たちがこのように描かれているのは、男性であれ、女性であれ、嬉しくはありません。」
からの
「見間違った? 参考の定義はしていても二人とも男性としてでも、女性としてでも使って良いフリー素材だそうです。そのためのいらすとやだそうですし、それが悪いなど一言も言っていません。一人は絶対に女性でなくてはならないとお考えの人がある程度いるようですが、そうお考えになるのはご自由です。 」
からの
「だれがどのイラストを「すっかり男性だと思い込んだ」のですか? 右? 左? もともとどちらか特定していないのに。二人とも女性かも知れないとの指摘もあり、この話はもはやするだけ無駄だと思います。」
からの
「フリー素材なので両名男性、両名女性、男女其々・・・と、どう使っても良いものだそうです。右は女性医師・・・という説明は作者による「参考」ということらしいですが「絶対に女性」にしたい理由は何なのでしょう? 」
からの
「男女共に医療従事者がおかれている窮状についてはまったく同意ですが、このイラストを見ても、その意図が私には汲み取れないという意味です。」
からの
「誰も文句つけてなどいない。二人とも女性の表現ということでも使えるとの指摘で・・・どっちが男性かも決める必要はなく、入れ替わり可能だそうです。フリー素材は泥人形みたいなもので、表現物はどのようにも解釈して良い。誤読なんてコンセプトがそもそも無いのでは?」
なんで「私の見間違いで早とちりでした。」の一言が言えないのか。
そのたった一言で終息する話なのに。
自己中心的で話題はいつも自分のことでないと不機嫌になり、お金使いが荒く、異性にもだらしがない癖に変に純粋でよく男に泣かされていた。
私が高卒で独立して働きだしてからは変にお節介を焼きたがって周りの人間関係を引っ掻き回したり、急に現れてはお金をせびってくることも多々あった。
それでも女手一つで高校卒業まで私を育ててくれたのは事実だし、感謝することはあれど恨むようなことはなかったはずなのに。
あの日は仕事がトラブル続きでイライラしていた所に、不注意で自損事故を起こしてしまい、挙げ句に帰宅したら隣室の住人が引越の際に出たであろうゴミを私の部屋のドアを塞ぐように放置し、大家に連絡しても「警察に連絡してください」の一点張りで電話を切られて途方に暮れていた時だった。
限界まで来ていたストレスが爆発しないよう、水が満タンに入ったバケツを頭の上に載せているみたいに慎重に歩く私の背中を押したのは、母からの電話だった。
大家からの折り返しだと思って確認せずに通話を押した私の鼓膜を、急にザラついた猫なで声が叩いた。
甘えたようなワントーン高い声で電話が始まる時は大抵何か頼みごとがある時で、ここ最近は決まってお金に関する話題だった。
私はイライラを隠すことなく「今忙しいから」と言って電話を切ろうとしたが、母はその度にわざとらしく私の昔話や一人で子供を育てる苦労を語り出して同情を引こうとした。
普段ならきっと途中で「しかたないな」と思えただろうに、その日は私をより一層苛立たせた。
「私が死んじゃったら困るでしょ~」
冗談っぽく言う母の甘える声に対して、この時の私の声はひどく冷たいものだったと思う。
「そっかぁ、もういらないかぁ」
母の声はさっきと全く変わらないようで、急に明るさを失っていて、まるで電話先の私にではなくもっと遠い誰かに向けられたような話し方だった。
私はここで怯んだらまた元通りだと思い、グッと堪えて何も言わずにいた。
しばらくお互いの息づかいだけが聞こえる無言の時間が続いていたが、ガラガラという窓を開ける音がして、私は慌ててiPhoneの画面に向かって「何してるの、止めてよ!」と叫んでいた。
「助けて」
母のか細い呟きが聞こえたと思うと、続けて数秒後に ごしゃり という音が聞こえてきた。
冗談だと思った、きっと母が携帯を窓から投げ捨てたのだと信じこんだ、でも念のために救急車を呼ばなきゃって、後で「イタズラで呼ばないでください」って親子で怒られればいいやって、そのまま二人で久しぶりに飲みに行って沢山愚痴を聞いてもらおうって、色んな考えが頭の中をグルグル廻っているのに、私に出来たのは一歩も動かずにひたすらマイクから聞こえる音を聞き続けることだけだった。
「ウッワ、ヤバくね」「気持ち悪」「初めて見た」「大丈夫ですか」「確実に死んでるっしょ」「見ちゃダメ」「最悪じゃん」「救急車呼んで」「スゲーな」「写真撮るなよ」
沢山の声が聞こえてくる、そのうちサイレンの音がして私はそのまま気を失っていた。
目覚めた私は青白いカーテンに囲まれていて、ここが病院だと気がついた。
目を覚ました私に気がついた看護士が医者を呼び、医者が私に体調を尋ねると、次に警察が現れ「本当に母が死んだ」という事実を伝えた。
もっと沢山のことを話したはずなのだけれど、まるで記憶が抜け落ちたように何も思い出すことができない。
最後に職場の上司が顔を出し、「しばらくゆっくり休むと良い」と言われたことだけは覚えている。
私はそのまま長い眠りにつき、その職場には結局2度と出社することはなかった。
それどころか、従姉妹の子供が遊んでいた携帯電話型のおもちゃを耳に当てただけで、あの ごしゃり という音が急に聞こえて、そのまま過呼吸になってしまったこともあった。
困った。
もうかれこれ10年ほど前の話なので書く
自分が担当していた取引先の社長から来月の連休に沖縄に旅行に行くという話を聞いた
那覇ではなく宮古島にダイビングをやりに行くというので、「そうなんですか 自分も昔講習受けてライセンスだけは持ってるんですよ」と返事をしたのが間違いであった
暫くしてその社長から電話があり「参加予定の1人が急遽これなくなってキャンセル料とかもったいないので増田君来れないかな」と誘われてしまった
自分としてはそこまでダイビングが好きではないしという思いもあったが、「若くてかわいい女性看護士2名も来るよ」という台詞に負けて参加することとなった
参加メンバーは取引先の社長とその友人、60過ぎくらいの夫婦、若い看護士さん2名、自分、インストラクターの計8名
関西空港からの宮古島直行便に乗り、到着当日はダイビングはしないというのでその夜はしこたまお酒を呑んだ
翌朝酷い二日酔いの中でダイビングをすることになったわけだが、船での移動時間が異常に長い
自分は海岸からすぐのところに潜るのかと思っていたのだが、ダイビングポイントまで高波に揺られながら1時間以上かかるという
酷い二日酔いの中でさらに船酔いにもなり、吐きそうになるのを耐えながらようやくポイントに到着
海の中は名前のよく分からないカラフルな魚でいっぱいだったが、自分は吐き気を抑えるので精一杯だった
ダイビング終了後、また1時間ほどかけて帰るわけだがダイビングをしたあとなので10月の沖縄といってもやはり寒い
他の人たちはマイ機材に防寒着も準備している中、フルレンタル機材で防寒着なんぞ用意しているわけもない自分はすぐに尿意を催してきた
インストラクターにその旨を伝えるとボートを止めるのでボートのへりに捕まって下半身を海につけてしろと言う
なるほどと思いながらもう限界に来ていた私は指示されたとおりに小便をしようとしたところ、あろうことかブリュブリュと下痢便も水着の中に出してしまった
両手はボートに捕まっているので水着を脱いで海水で洗うことも出来ない しばらく時間がたちインストラクターが「終わりましたか」と聞いて来たところで私は全てを白状した
インストラクターに片手を掴んでもらいながら水着を脱ぎ海水でゴシゴシと洗いながしボートにあがる自分
若い看護士さんからの「大丈夫ですよ 私たち二人ともオペ看なんでもっとグロいのとか見慣れてますから」というフォローが自分をより一層惨めにさせた
3泊4日のダイビングツアーであったが、私は翌日のダイビングはキャンセルさせてもらい、一人で宿で待機し昼間からオリオンビールを呑んだ
その日の夜食にはダイビング中に見たカラフルな魚の刺身が出てきた
「もしかしたら自分の下痢便を餌として食べた魚たちがそこら中泳ぎ回っていて、みんなそれをおかずとして食べているのかな」と思うと少しだけ気が晴れた
肛門の周りにできものができて痛みがあり病院に行った。結論としてただのできもので大したことなかったが、初めての肛門触診を受けた。
30歳くらいの女性の看護士さんに尻たぶを拡げられた上で男性医師が荒々しく指をグリグリと5秒ほど。
できもののハレもあってメチャクチャ痛くて声が出てしまった。もう指を入れられている前後はなにも考えられない状態。終わった後にズボンを上げて良いと看護士さんに言われ、履こうとしたが体がわなわなしてベルトがうまくとめられなかった。
異物が体内に入ってくることがどういうことか40年以上生きてきて初めて知った。マジでバージンの人には特に優しくしてやってくれ。男女問わずだ。
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/35910.html
「15日連続で勤務を続け、今、疲れて何がなんだかわかりません。若い看護師らが気の毒で、できれば追加勤務をさせないようにしていますが…家に帰って横になった瞬間、爆睡ですからね」
2日、大邱(テグ)のある選別診療所で働く看護師のキム・ジュヒョンさん(仮名・48)は「問い合わせの電話が殺到し、なかなか電話がつながらず、直接訪ねてきたり、病床不足で入院できない患者さんを見るのが残念でならない」としながら、このように述べた。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応で目が回るほど忙しく、大変な現場で働いているが、いつも超緊張状態を維持しなければならないせいか、「事態が収束したら疲労で倒れるかもしれない」と話した。
先月18日、新天地大邱教会で始まった「スーパースプレッディング」事件で、大邱・慶尚北道地域にCOVID-19の感染者が急増してから2週間近く経ち、同地域の医療陣の疲労も限界に達している。新天地大邱教会の信者の全数調査を進める選別診療所はもちろん、一般病棟に比べて業務量が2倍の隔離病棟で勤務する看護士たちも、医療陣1人が担当しなければならない患者数が大幅に増え、倒れる寸前だと訴える。
感染者90人以上が入院した大邱カトリック大学病院隔離病棟で勤務する看護士のユン・ジュヨンさん(仮名・33)は1日午後病院に出勤し、夜の12時頃に勤務を終えるまで、食事をとる時間以外は座ることすらできなかった。先月26日、COVID-19感染者の入院のため、病床100床を追加で設けたことで、隔離病棟で看護士1人に任せられる患者数は6人から10人に増えた。彼女は感染予防のため「歩くだけで汗だくになる」レベルDの全身防護服を着用し、保護者と看病人の代わりに患者の食事をはじめ、高齢患者のオムツ替えまで行っている。ユンさんは「レベルDを着ると、動きづらく、普段より仕事の効率も落ちるのに、不安がる患者さんたちが頻繁にナースコールを押す。一部の保護者は患者との接触を最小化した回診方式に不満を抱いて、暴言を吐くこともある」とし、「疲れた同僚たちが『疲れて動けない』『もう限界だ』と訴えるが、自分が辞めると残っている同僚たちがさらに大変だから、どうすることもできない状況」だと打ち明けた。
医療装備まで枯渇していく状況で、医療陣はさらに追い込まれている。ユンさんは「休憩を取ってまた病棟に入る時は、新しい防護服に着替えなければならないが、レベルD不足で、なかなか病室から出られない」とし、「交代勤務者が着る防護服がなく、他の病院から送られるまで待たされる場合もある」と伝えた。
医療陣の厳しい状況を踏まえ、韓国政府は遅ればせながら支援対策を打ち出している。キム・ガンリプ中央災難安全対策本部(中対本)第1総括調整官は2日、「医療陣の肉体的・精神的疲労度が高いため、追加の医療関係者を確保し、現場医療陣の十分な休憩時間を保障する案を探す」と話した。
政府は国家感染病専門病院に指定された国軍大邱病院に、軍の医療関係者を中心に医師と看護士111人を追加で投入することにした。国防部はまた、今年新規任用予定の公衆保健医(入隊対象者で軍服務の代わりに公衆保健業務に従事する医師)750人の4週間の軍事訓練を延期し、5日から現場に送る方針だ。これに加え、野戦部隊を除いた病院医療関係者327人も、COVID-19の対応に投入することにした。
保健当局は大韓看護協会などと共に大邱・慶尚北道の医療現場で働く医療陣を募集している。大韓看護協会に大邱・慶北行きを希望した看護士が1日で510人と集計されるなど、これまで同地域で勤務する意向を示した看護士は合わせて約1300人に達するという。大邱市医師会は現在、医師約300人が大邱・慶尚北道地域でCOVID-19感染者のための医療ボランティア活動を行っていると発表した。このうち、大邱・慶北以外の地域から来た人たちは10%程度だという。
何でこんな書き方になるのだ
ググりました!
明治大学中退後、東京厚生年金看護専門学校に入学。同校を卒業後1987年より東京厚生年金病院に勤務。内科病棟を経て、神経科病棟および緩和ケア病棟の看護師長を歴任する。
小林光恵
茨城県立鉾田第一高等学校在学中は地学部やチアリーダーで活動をしていた。1982年に東京警察病院看護専門学校卒業後[1]、看護師、編集者などの経験を経て、著述業となる。
国立療養所宇多野病院付属高等看護学校卒。都内で看護婦として働く[1]。夫は新聞記者の柴野徹夫。1987年に『看護病棟日記』を刊行して話題となり、数冊の著作をなした。
山中利子
室園孝子
久留米医師会看護専門学校卒業後、聖マリア病院へ勤務、並行して音楽専門学校にてボイストレーニングを重ね、バンド活動等を経験。 二児の母になったのをきっかけに執筆活動を始める。
真杉静枝
1911年に一旦日本に戻ったが、再び台湾に戻り、台中の看護婦養成所を卒業して1916年から看護婦として台中病院に務める[1]。
弥永英晃
看護師として救急救命・外科・内科・整形外科・脳外科・終末期医療・訪問看護・精神科の経験、病院・クリニックの心療内科・精神科・児童・思春期外来で病院カウンセラーとして勤務。独立し「心理カウンセラー・メンタルトレーナー・作家」として活動。
吉見マサノヴ
ルイーザ・メイ・オルコット
1860年にオルコットは「ジ・アトランティック・マンスリー」(The Atlantic Monthly)誌に作品を書き始め、また1862年から1863年にかけて六週間ほど、ワシントンD.C.のジョージタウンにある合衆国病院で看護婦を務めている。
1997年、家族がコンピュータを買ったことをきっかけに小説を書き始める[2]。この時、看護師になって20年が経っており、まだ看護師という職業が好きだったが、何か新しいことを始めてみたいと思っていたという[1]。
ヴィッキィ・バウム