はてなキーワード: 千羽鶴とは
折り紙は各自用意だったので、当時クソ貧乏だった自分は小遣いすらなく用意できず困ったが、母親に泣きついた。
なかなか折り紙を買ってきてもらえなかったが、提出日には折った状態の鶴を貰えた。
仕事の合間に折ったのか、やや折り方が雑だ。
しょうがないのでそのまま提出したら「○○君のは折り方に心がこもってない!」と言い、折りなおさせられた。
むしろ、別にプロ目指すわけでもないたかが趣味の集いに、しかも「その趣味のプロ」ではなく日給1万で雇っている「教育のプロ」を実質ボランティアで休日つぶして参加させ、買ったの負けたの学校の名誉だの教育とは程遠い問題で振り回す「部活動」というものに何の意味が? と聞きたい。せめてそこに「教育的意義」くらい見出したいと思うだろう、教育のプロなら。
「教育の観点」から部活の意義を考えるときよくあるのは、大会やコンテストでの勝利、入賞を目指して勝ち取り達成感を味わわせることで努力や協力の尊さ大切さを実感させるというものがある。だがこれは、一面で勝つことや承認されることだけが目的化し、とにかく勝てばいいとか勝てなければ努力は無意味だとかいった「勝利至上主義」を植え付けるとして近年批判の対象となっているところである。また、大会のためにしか努力しない「コンテスト主義」が、日本の学生が純粋にスポーツの喜びやジャンルそのものの楽しさを味わうことをむしろ阻害しているという批判まである。
そもそも、地域の文化活動、社会体育が日本において十分でなく学校の部活動がその代わりを担ってきたのは、単純に日本が貧しかった時代の名残だ。現状でこれを維持する意味はほとんどない。そのうえ、いたずらに生徒と教員を疲弊し学業にまで差し支えがでるのなら、部活動自体は今や「基本的には無意味な活動」であり、その意義はせいぜい「みんなで一緒に努力する楽しさ」を味わわせることくらいにしかないと言って差し支えないのではあるまいか。たとえば学校における「校外学習」がいまや「学習」の意味を失い、行き場所にはほとんど意味のない単なるレクリエーション活動となっているように。
そう考えると「折り鶴」というこれ以上ないくらい明白に無意味な、しかも特別の訓練も才能もいらず、「絶対やりたくない」といえる程の明白な反対理由を見出すのも難しい活動を強制的にやらせるその教員は、現在の部活動の本質を的確に見抜き、かつ勝利至上主義や大会主義の弊に陥ることなく、費用もそれほどかけずけがなどの危険もなく、しかも指先を使ううことで脳を活性化させ学生の本業たる勉強にまで役立たせている…しかも、大会で勝ったか負けたかに関わらず、全員で折った千羽鶴は確実に形となって残るため、これを見るたびに部員たちは、全員で協力して努力して何かを達成したことを思い出せるのだ! 大会至上主義に陥っている現今の部活動の在り方への批判意識も含め、「千羽鶴折り」活動はここでは「最適解」の一つとも言える。
この顧問、決してバカでないどころか、極めて優秀な教員であるかもしれない。部外者には測り知れないところだが、実際、常にそこは紙一重なのである(笑)。
「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって / 前田拓也 / 社会学 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2
小田嶋隆さんは、『超・反知性主義入門』(2015)のなかで、「本音」の痛快さが消費されていく現状に疑義をさしはさみます。
近年、「『学級委員長』的言説」が忌避され、「『本音』が、まさに『本音』であること自体によって免罪されるはずのものだということを、強烈に信じ込んでいる」(p107)人の声がとても大きくなってきているように感じます。
「善悪や正邪とは別に、『本音』と『建前』という座標軸が現れた時、無条件に『本音』を神聖視する考え方が力を持」ち、「『露悪的な人間ほど信用できる』という倒錯が生じ」ています(p109)。
引用されている部分以外で小田嶋というひとがどういうことを言ってるのかは本がないので知らないが、
ここで「『学級委員長』的言説」といわれているものはいわゆる「心にもない綺麗事(上の引用部では『建前』)」というやつだろう。
「心にもない」という部分が重要だ。
「綺麗事」の脆弱性は、まさに「本人が心にも思っていない」点にある。
だから、露悪的な『本音』トークが『建前』に勝つのは当たり前だ。信じていないものと信じているものが衝突したときに、残るのはかならず後者だ。
『聲の形』という漫画がある。映画化されて、昨日公開されたばかりの作品だ。
この漫画にはまさに「委員長」である川井という少女が出てくる。彼女のキャラを一言で説明すると、偽善者だ。
小学校のクラス内のいじめに消極的に加担し、しかしそのいじめが糾弾されるようになると「わたしは止めようとした」と一転して自己保身に走る。高校生になると入院したクラスメイトのために「千羽鶴を作って贈ろう」とクラスで提案する。自分の容姿の優位性や「涙は女の武器」であることを巧みに利用して周囲を操り、それでいていかにも私は良い人ですという面で歩いている。
しかし彼女は自分自身を偽善者だとは思っていない。「私はいじめに加担してない」と本気で思っているし、「千羽鶴を折ることが良いこと」だとも本心で信じている。
メタ認知になれたネット民からすれば「浅い」人間に思われるだろう。漫画で後半、彼女は自分の無意識の計算高さに勘付く展開になる。それは置いといて、現実にも「千羽鶴を折って送ることがいいことだ」と何の留保もなしに信じている人間はいっぱいいる。
それをネットでは「自己満足にひたりたいだけの偽善者」と呼ぶ。でも本当にそうした人々は「自己満足」なんだろうか。
こと千羽鶴に関しては「ごみ処理する手間がかかる」「送られる本人は千羽鶴なんかより欲しいケアがあるはず」などといった「送られる相手を慮れ」問題が絡んでくるので一概には言えないが、「良くなって欲しい」と虚心坦懐に、千羽鶴にまるでまじないでもかかっているかのように信じている人は一定数いる。
素朴な人々、とネット民なら言うだろう。
だがその浅薄な思いやりはかつては「本音」だった。今だってそうだろう。
それが、「建前」や「心にもない綺麗事」であると、いつのころからか批判されるようになった。
思いやりには相手の事情を勘案しない「浅い思いやり」と相手に寄り添った「深い思いやり」があって、後者だけが本当の「親切」であると、いつのころから、そういうことになった。
単に「こう言えば賢いように思われる」「こう言えば周囲の仲間たちにデキるやつだと思われる」という、昔からよくある付和雷同的な同調圧力の結果なんじゃないんだろうか。
「反知性主義」だの「本音主義」だの言ってる人々は、自分の「本音」が何で、どういう部分が「建前」なのか、一回も考えたことのない人たちなんじゃないのか?
広島市の事例
http://hiroshima-orizuru.com/concept/
広島には世界各地より平和を願う人々が折った折り鶴が送られてきます。たくさんの人々から毎年送られてくる折り鶴は年間約10トンという膨大な量です。これまで広島市は年4回一億円をかけて焼却しています。
千羽鶴にフォーカスしているわけではないが、むやみに不用品を送るなという話
http://www.isad.or.jp/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=IB17&ac2=knowhow63&ac3=5902&Page=hpd_view
西宮市には、ゆうパック約20万個が届き、その中身としては、アルミホイールに包まれたおにぎり、みかん、ラーメン、缶詰等の食べ物、茶、天然水、ジュース等の飲料水、ノート、消しゴム、鉛筆等の文具類、肌着、セーター、防寒着等の衣類、タオル、ティッシュペーパー、生理用品等の生活必需品で、その内訳は、衣類70%であり、そのうち50%が中古であった。被災者は中古の衣料は受け取らないため、西宮市では、どうしても使用できない義援物資等を処分するのに、2,800万円の費用を投じた。
【千羽鶴】送る側の「思い」は込められているのでしょうが、私の職場(部署)だけでも、かなりの数の千羽鶴が送られて来ました。全部を飾る場所もなく、きちんと糸で止められていなかったりする物も多く、大量に送られると迷惑です。
ざっと調べただけでは、折り鶴のせいで○○円の被害が出た、みたいな事例は見当たらない。
ただ、扱いに困る「支援品(使用感のある古着や毛布が多いが、折り鶴が挙げられていることもある)」を輸送、分類、配布/処分する手間が膨大に発生している、みたいな話はたくさんヒットする。
折り紙くれるなら、折っていないきれいな1000枚がほしいな。
鶴を折った中古品なんていらない。
新しい折り紙で、避難所で小さな子供が年寄りから折り紙を教えてもらってもいいんじゃない?
こどもの日のためのカブトを折ったり、飾り付けをしてもいいんじゃない?
そもそも、千羽鶴ってどこで知ったかと考えたら、小学校だった気がする。
級友が言い出したのか、先生が言い出したのかは忘れた。
折り紙を持ち寄って「1人何羽折りましょう」とかいわれたような。
親しい友達と、学級委員と、先生が入院先にもっていったんだろうな。
それで、なんかその級友のためになった気がした。
その時間で、「入院した級友が何に困ってるか考えましょう」ってやってほしかった。
「話し相手がほしいかもしれない。」「学校の様子が聞きたいかもしれない。」とか
「することないから、漫画がほしいんじゃないか」とか「好物を持って行ってあげよう」とか
逆に、「1人にしてほしいんじゃないかな」っていう意見もでるかもしれない。
そして、自分たちがやれそうなことをすればいい。
結論として、「私たちにできることは何もない」でも、良かったと思う。それが事実かもしれないのだから。
先生は「みんなで相手のことを思って1つのものを作るりあげることが大切」なんて言うかもしれないが、組体操の問題に似てて、
震災関連だと生理用ナプキンの件もそうだけど、実在しないかもしれない「非常識な」人達に向かって勝手に憤って、その行為がいかに不都合なことなのかって話をするのは、結局自分の論理の正当性に酔いたいだけなんじゃないだろうか。
今日、被災地支援に於いて千羽鶴が不要だという声があがっている。
被災地への千羽鶴 「いらなかった」の声続出-ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2152972
これに対してツイッター上では
「邪魔かどうかではなく気持ちを素直に受け入れられないのか。傲慢ではないか」など反感を買っているようである。
被災者の「千羽鶴はいらない」に激怒する人達-togetter
上記まとめ末尾で言われているように、お金という即物的なものを送ることへの抵抗感や
自分は被災者の為にできることをしたという充足感、その両者を得ることができる形として
千羽鶴を送るというのは古来より婉曲表現を好む日本人らしさすら感じるし、そういった考え方を否定しない。
だがその一方で、ソーシャルネットワークなどによる情報共有の簡易化の為に顕在化したのか、
それとも実質的な数値の上でなのかは定かではないが被災地支援における千羽鶴問題は存在するのである。
千羽鶴が一切いらないとは言わない、だが避難所1つに有り余るほどの千羽鶴がある光景を想像して欲しい。
例えば、あなたが不慮の事故や病気によって入院したとき、あなたの病室には家族や親戚、友人が見舞いに訪れる。
そしてその一人ひとりが全員笑顔で千羽鶴を抱えてやってきた時、あなたはどう思うだろうか。
最初はもちろん嬉しいと思うだろう。
でも2人目、3人目の見舞客も千羽鶴を持ってきたら?
本を自炊して、保管スペースがいらなくなるって話があるけど、千羽鶴も写真にとってさっさと燃えるゴミに出すの。
昨日、焼却施設も被災してごみの処理が滞ってるってニュースみたから、送るほうも写真とって最初から電子データで送ると喜ばれると思う。
旦那が夕飯を捨てる http://anond.hatelabo.jp/20160422152421
元増田の要約すると、
・旦那が夕飯を捨てる
・一回「夕飯作っておかない方がいい?」って聞いたことあるけど、「作って欲しい」って。
・捨てられるのわかってて作るの辛い。
つまり、食わないなら作らせるな、という話。
食べない分ははじめから作らないことにすれば、作る側の労力は明らかに減る。
1人前を余分に作るが作るまいが変わらないというかもしれないが、少なくとも配膳と食器洗いの手間は減る。
人は悲しい時、泣く。
といっても、なにも考えず、涙を流して大声を上げて泣くわけではない
多くの人は、泣きながら、頭の片隅で別のことを考える。
そして行動を起こす。
俳句をたしなむ人であれば、自分の悲しみを五七五で表現しようとする。
悲しみをおぼえ、鶴を折る。
「水や食料が不足しています」という知らせを見て、
鶴を折る人がいる。水が欲しいと訴える被災者に向けて、
鶴を折る。水が、鶴に変わるのだ。
牛は水を乳に変える。
蛇は水を毒に変える。
人は水を鶴に変える。
蛇に「乳が欲しい」と水を与えても、できるのは毒である。
鶴を折る人に「水が欲しい」と訴えても、できるのは鶴である。
例えばあなたが地震や津波や台風で家を失ったとする。水も食料もない。
「水が欲しい、食料が欲しい」と訴えて、どうなるか。
千羽鶴が届くかも知れないのだ。
ネット上での熊本の地震に関しての様々な書き込みを見て、世の中は、なんでこんなにクズばかりなのだろうと感じます。
逆に言えば、クズばかりがネット上で我先にと書き込みをするのだろうか?
togetterで震災系のまとめを見てるとこんな記事があった
このまとめの内容は、吐き気がするくらい、
「何かしてる奴は悪で、何もしないことが正義」ということを、延々と語っている。
このまとめ主のTL上での共通認識であるようだが、クズはクズを呼び、クズばかりのコミュニティを形成してしまうのか?
2)震災直後の現地に個人で行くのは、あくまで自給自足で物資用意できる人だけ。
3)震災直後から復興段階に入るまでの間で必要なのは「組織力」と「他の組織と連携できるコネクション」と「資金の集束力」
4)千羽鶴は被災地に送るなら、千円札や万札で折って送りましょう。A4用紙とか折り紙?ゴミでしかないです。
6)被災直後は道路の破損や輸送車両集中などで現地の輸送力が必要車両だけでも混乱・停滞します。
無駄に素人が行くことはその輸送能力の阻害となるので結果的に被害拡大させてます。小さな善意大きな迷惑。
8)被災支援のつもりで被災地に物資や能力無しが行っても、震災が続けば行った者がただの二次被災者になるだけです。
9)「無能な個人」が集団でボランティアに行って役立つのは、震災直後の混乱期ではなく、その混乱が収まり、輸送手段が回復した後の「廃棄物処理段階」の人足としてだけです。
その場合も現地に事前に連絡して受け入れ側の許可受けてからいきましょう。そうでなければ火事場泥棒の不審者と同じように現地に不安与えますよ。
10)ボランティア団体を支援する、参加する場合はその団体の過去の行動、活動内容を調べましょう。
12)「腐敗物品優先廃棄期」までに必要なのは素人ではなく「プロの組織集団」です。
18)善意を持つことは悪いことではありません。ですが、先や相手側のことを考えないで行う「善意」とは「独り善がり」であることも認識しましょう。
要は、空気を読めと同町圧をかけているのですよ。
しかも、そんなことを書きつつも、
14)可哀そう、悲しい、言ってるくらいなら明るい絵を描く、可愛い絵を描く、明るい曲を用意する。そういったものを紹介する。その方が気が滅入りがちな被災地支援にはいいのでは?
「実際に素人が動くなんて迷惑」という考えの裏には、どうも「何もしない私を認めろ」的なルサンチマンが見え隠れします。
まあ、このルサンチマンと言う言葉をだすと、この手の物言いをするネットの人間たちは皆「藁人形論法」といって、そんな事はないと否定するのです。
震災すら、こういった承認欲求や自己肯定のネタに使う彼ら彼女らには、ちょっとうんざりするし、
そこで、延々と論破合戦に時間を使っている輩を見るたびに、なんでこんなにクズばかりなのだろうと思うのです。
こういうまとめを作って、震災の貢献をしたような気になってること自体、
支援をしようとする気持ちのある人間のモチベーションを削ぎ、あたかも何もしない私が正しいと言いたげなまとめ。
これは、本当に震災を思っての書き込みやまとめなんでしょうか?
クズのコミュニティが自己肯定に躍起になってるようにしかみえないのですよ。
「藁人形」?本当にこれが詭弁であるならば、そんなに必死に反論もせずに、勝手に言ってろと意に返さないのでは?
やらない言い訳や、やってる人を批判する方が、遥かに簡単な行為であり、
そんな簡単な行為を、ドヤ顔でやられても…不快なだけで、何も共感できないんですよ。
友人が震災要因のドル円の流れを読み、稼がせてもらった恩返しだと熊本に資材をもってボランティアに出かけました。
勿論、知り合いがいるからと言う理由もあり、避難所に詰めている友人の手伝いをするためでもありました。
その友人が被災地でみた光景は、よく働くおじさんとおばさん…空気を読んで働かない若者だったそうです。
この現状をネットに書いてやろうと思ったそうですが、搬入の労働の疲れでそれどころでないそうです。
資材が来たとアナウンスがあっても、スマフォをポチポチして手伝おうともしない、炊き出しの手伝いもしない、
友人は、「どうしたの?一緒にやらないの?みんな大変みたいだよ?」と問うてみたそうなんですが。
「僕が動くと迷惑だから」「私は役に立たないから」と動こうともしないそうです。
多分、こういう事実がまとまると、今度は、こうやって動かなかった若者を切り分けて、
最低だのなんだのネット上ではまた始まる訳ですが、その原因をつくってるのもネットであり、
そういう情報を発信した人間が全く責任を負わなくていい、現状はいかがなものかとうんざりしていました。
私は、手伝いに行っていない人間なんで、結構ショックでしたね。
そういう事実を知ると、togetterのこのまとめが如何に害悪かと感じるわけですよ。
twitterで、こんなクズなやり取りを「共通認識」としてる時点で、だいぶ終わってるわけで、
事実ともかけ離れてるし、結局、ネット上に転がってるネガティブな情報をつかって、
自己正当化したいだけの集団でしかないことが、わかるわけですよ。
これは、最近の若者の問題というより、こういう若者を教育してこなかった親世代の問題でもあると思います。
そういう社会の闇的なものがこういう所に可視化される恐怖感って、みなさんにはわかりますかね?
「千羽鶴をおくるなボケ」と主張する人間がどんな職業でどんな境遇にあるか?とか考えた事ありますか?
世に出していい人間じゃない人も、死ぬほど論理武装して、こうやって発言するわけで、
対象が多すぎて難しすぎ
ここ数日間、些細なストレスが重なり、気晴らしに夜な夜なネットを徘徊していたら、
寝つきが悪くなり寝坊。風邪を偽り会社をズル休みしてしまった。
・その飲み会で地震の支援物資に千羽鶴を贈るのは迷惑だと言ったら嫌な奴だと本気で説教された
・終電逃した同僚がアポなしで俺の家に泊まって行った。なのにお礼の一言すらない。
・大して仲の良くない同僚の結婚式に呼ばれた。同期はみんな行くみたいなので義理で参加。出費がかさむ。
千羽鶴、「何も出来ないけど何かしたい」人には有効だという意見を見たけど、自分の人生を日々大切に過ごすだけじゃダメなのかな。
逆になぜ折らずに過ごさないといけないのかわからない。折っても折らなくてもいいとは言えるだろう。
「千羽鶴や古着を被災地に送ることはやめよう」というのは、あなたの善意を否定しているのではなく「善意を千羽鶴や古着を送るという形にしても伝わらない」という話なのだ、ということはもっときちんと理解してもらう必要があると思う。
あなたは「伝わらない」と思ってるだけに過ぎない。
千羽鶴はある程度縁のある相手に対して送るのはわかるが、知りもしない相手にそれを送っても、処分に困るゴミとしか思われないでしょ
あなたが「思われない」と思ってるだけに過ぎない。
千羽鶴は現地に送るからマズイのであって「地元の神社で焼却すれば天に願い事が届く」とかいう設定にすればいいのでは。「何も出来ないけど何かしたい」という人に鶴折らせとくという発想自体はわりと合理的だ
千羽鶴が実際に被災地の物流を逼迫させているという事実はあるのだろうか。