はてなキーワード: ピタゴラスの定理とは
君たちの文章はね、なんというか、政治厨の延長線なんだよ。なぜって?それはね、本質的に数学とは相容れない思考回路で成り立っているからさ。
数学では、厳密な定義と論理的な証明に基づいて真理を追求する。感情や主観は完全に排除されるんだ。例えば、ピタゴラスの定理は、誰が言おうと、どんな時代でも普遍的に成り立つ。
一方で、君たちの議論は、まさにその対極にある。客観的な事実よりも、主観的な解釈や感情に重きを置いている。「正しい」「間違っている」という判断も、論理的な証明ではなく、個人の価値観や信念に基づいているんだ。
さらに、数学では問題を単純化し、本質を見抜くことが重要だ。でも、君たちは逆に、単純な問題を複雑化し、本質から外れた議論を好む傾向がある。例えば、純粋に経済的な問題を、イデオロギーや歴史観と絡めて語りたがる。
そして何より、君たちは「議論すること自体」を楽しんでいるように見える。数学者にとって、議論は真理を見出すための手段に過ぎない。しかし君たちは、議論そのものを目的化し、勝ち負けにこだわる。これこそが政治厨の本質なんだ。
結局のところ、君たちの思考様式は、数学的な厳密さや客観性とは相容れないものなんだよ。そして、そういった議論を好むこと自体が、まさに政治厨そのものなんだ。
数学者の目から見れば、君たちの議論は感情的で主観的で、真理の追求からはかけ離れている。それが「政治厨の延長線」と言わざるを得ない理由さ。
「まぁ、ピタゴラスの定理なんて、あれはもう初歩の話よね。確かに、a² + b² = c² は中学生レベルでも理解できるけれど、そこに潜む深い代数的構造や、ユークリッド幾何学との関連性を本当に理解しているのかしら?あの定理の背後には、単なる平面上の直角三角形の話じゃなくて、リーマン幾何学や複素数平面を通じたさらに高度な次元の世界が見えてくるのよ。それに、ピタゴラスの定理を特別な場合とする円錐曲線や、楕円関数論まで考え始めると、幾何学の美しさっていうものがもっと深く見えてくるわけ。」
「それと、黄金比ね。もちろん、あのφ(ファイ)がどれだけ重要か、理解してる?単に無理数というだけじゃなく、数論的にも代数的にも特異な数なのよ。フィボナッチ数列との関係も美しいけど、そもそもあの比が自然界で頻繁に現れるのは、単なる偶然じゃないわ。代数的無理数としての特性と、対数螺旋やアファイン変換を通じた変換不変性が絡んでいるのよね。そういった数学的背景を理解せずに、ただ黄金比が「美しい」ってだけで済ませるのはちょっと浅はかだと思うわ。」
「あと、パルテノン神殿の話だけど、そもそも古代の建築家たちが黄金比だけでなく、より複雑なフラクタル幾何学や対称群に基づいた設計をしていたってことは、あまり知られてないのよね。建築の対称性は、単なる視覚的な美しさじゃなくて、群論や代数的トポロジーに深く結びついているわ。あなたが好きな絵画も、ただの黄金比じゃなく、もっと深い数学的な構造に従っているのよ。わかるかしら?」
街コンに行くと、いつも何を話すべきか迷う。
人が集まる場だし、みんな軽い話題で盛り上がってるんだろうけど、俺はいつも違う。
女性たちは不思議そうな顔をしていたけど、そんなのはお構いなしだ。
だって、これは美の根本に関わる話なんだから。誰でも分かるだろう。いや、分からなきゃおかしい。
「たとえば、ピタゴラスの定理。a² + b² = c² なんて、中学生でも知ってるでしょ?でも、あの定理が持つ幾何学的な美しさ、理解してます?ただの数式じゃないんですよ、これは宇宙の秩序そのものを象徴してるんです。直角三角形の辺の比が、どうしてあんなに完璧に収まるのか、その背後にあるシンメトリーとバランス、これはただの計算じゃ説明できないんです。幾何学は、自然界に隠された美を可視化する手段なんです。あなたの顔のすべてのパーツはそれを示しています。もしかしてお気づきになっていませんか?」
女性たちは相変わらずポカンとしていたが、そんなことは全く気にしない。
「それに、円と黄金比ですよ。黄金比の美しさって聞いたことありますよね? φ(ファイ)という無理数、1:1.618...っていうあの比率は、自然界でも至るところに現れるんです。貝殻の螺旋や、ヒマワリの種の配置、果てはギリシャのパルテノン神殿まで。これらすべてが、幾何学的な美しさの証明なんですよ。建築家や芸術家たちは、何千年も前からこの黄金比に魅せられてきたんです。それが美の基準なんです。たとえば、あなたが好きな絵画も、おそらく黄金比に従って構図が決まっているはずですよ。あなたのお顔もまさにそのとおりで、僕はあなたが数学的に美しいことを証明できます。」
ここまで来ると、女性の一人が「えぇ〜?本当ですかぁ〜?」と、曖昧な笑みを浮かべているのが目に入る。
だが、その目に理解の色はない。いや、むしろ遠ざかっているかもしれない。
それでも俺は一歩も引かない。だって、幾何学は俺の人生そのものなのだから。
「次はもっと複雑な話をしましょうか?ユークリッドの『原論』はご存知ですか?あれは古代ギリシャで書かれた数学書で、数千年の間、数学の基礎として使われてきたんです。『原論』の最初の定義は、点は幅を持たないもの、線は幅を持たず長さを持つもの。これをもとに、無限に広がる空間の中で幾何学的な図形を描くんです。そして、その空間の中に、あらゆる美が存在するんです。アポロニウスの円錐曲線における楕円の美しさなんか、誰でも感動するはずです。見てください!ほらあなたの腕はアポロニウスと言えるし、あなたの全身は原論の誕生にすら資するべき存在と言えるでしょう」
彼女たちは完全に引いていたが、そんなことはもう気にしない。
「俺にとって幾何学は、ただの学問じゃないんです。これは美を追求する哲学であり、生き方なんです。人々がモナ・リザやアフロディーテ像に美を見出すように、俺はピタゴラスやユークリッドにその美を見出しているんです」
幾何学の美しさを語り終えた頃、ようやくふと我に返り、周囲の反応を確認してみた。
皆、頬に赤みを浮かべているが、目は明らかに遠く、何か別の世界に意識を飛ばしているかのようだった。
ひとりは下半身をチラッと確認し、もうひとりは、首元の鎖骨の付け根あたりをいじっている。
こちらを見ている女性もいたが、彼女の表情はどう見ても「本当にこの人何を言っているの…」という困惑そのものだった。
「ええ、そうですね……幾何学って、すごいですね……」と、一人がようやく口を開いたが、その声には熱意も、理解も、ましてや感銘など微塵も感じられない。
表面的に場を繋ごうとするその言葉は、俺が夢中で語っていた美の真髄が、まるで真空の中に吸い込まれたかのように、何も響いていないのをはっきりと感じさせた。
もう一人が、さらに微妙な笑みを浮かべ、「あ、そうなんですか……それで、その定理って、なんでしたっけ……?」と、曖昧に質問してくる。
しかし、それは好奇心ではなく、ただ適当に話を引き延ばすための、無理やりな興味に過ぎないことは明白だった。
俺はその瞬間、すべてを理解した。
ああ、やっぱりこうなるのか、と。彼女たちの心を動かすことは簡単でも、幾何学的美しさを彼女たちに理解してもらうことはできないんだと。
俺の語るピタゴラスの定理も、黄金比の神秘も、彼女たちにとってはただの退屈な講義に過ぎない。
彼女たちは、たぶん俺の年収や、俺の背景、俺の地位の話を楽しみにしていたのだろう。それが街コンで求められる「会話」なのだ。
「まあ、こういう話、ちょっと難しいですかね……」と自分から話を切り上げるが、内心、虚しさと諦念がこみ上げてくる。
俺は分かっているんだ。結局、幾何学の美を理解できる人間は、ここにはいない。
諦めが胸に染み渡り、俺はふと目の前のグラスを手に取る。
冷たい水が喉を通り、ほんの一瞬だけ現実感を取り戻すが、同時に心の中でつぶやいた。
俺は幾何学を愛している。それだけで十分だ。理解されなくてもいい。これが俺の誇りなのだから。
女性たちがどれだけ俺に興味を持ったかなんて、もうどうでもよかった。
最終的に、女性たちがどれだけ幾何学に興味を持ったかは知らない。
だが、俺の中では確信がある。
幾何学こそが、真の美であり、それを理解しない者は本当の美を知らないのだと。
彼女たちには理解できない美が、俺の中にある。それだけで、俺は満たされているんだ。
俺は腰を振りながらそう思った。
街コンに行くと、いつも何を話すべきか迷う。
人が集まる場だし、みんな軽い話題で盛り上がってるんだろうけど、俺はいつも違う。
女性たちは不思議そうな顔をしていたけど、そんなのはお構いなしだ。
だって、これは美の根本に関わる話なんだから。誰でも分かるだろう。いや、分からなきゃおかしい。
「たとえば、ピタゴラスの定理。a² + b² = c² なんて、中学生でも知ってるでしょ?でも、あの定理が持つ幾何学的な美しさ、理解してます?ただの数式じゃないんですよ、これは宇宙の秩序そのものを象徴してるんです。直角三角形の辺の比が、どうしてあんなに完璧に収まるのか、その背後にあるシンメトリーとバランス、これはただの計算じゃ説明できないんです。幾何学は、自然界に隠された美を可視化する手段なんです」
女性たちは相変わらずポカンとしていたが、そんなことは全く気にしない。
「それに、円と黄金比ですよ。黄金比の美しさって聞いたことありますよね? φ(ファイ)という無理数、1:1.618...っていうあの比率は、自然界でも至るところに現れるんです。貝殻の螺旋や、ヒマワリの種の配置、果てはギリシャのパルテノン神殿まで。これらすべてが、幾何学的な美しさの証明なんですよ。建築家や芸術家たちは、何千年も前からこの黄金比に魅せられてきたんです。それが美の基準なんです。たとえば、あなたが好きな絵画も、おそらく黄金比に従って構図が決まっているはずですよ」
ここまで来ると、女性の一人が「へぇ〜、すごいですね…」と、曖昧な笑みを浮かべているのが目に入る。
だが、その目に理解の色はない。いや、むしろ遠ざかっているかもしれない。
それでも俺は一歩も引かない。だって、幾何学は俺の人生そのものなのだから。
「次はもっと複雑な話をしましょうか?ユークリッドの『原論』はご存知ですか?あれは古代ギリシャで書かれた数学書で、数千年の間、数学の基礎として使われてきたんです。『原論』の最初の定義は、点は幅を持たないもの、線は幅を持たず長さを持つもの。これをもとに、無限に広がる空間の中で幾何学的な図形を描くんです。そして、その空間の中に、あらゆる美が存在するんです。アポロニウスの円錐曲線における楕円の美しさなんか、誰でも感動するはずです」
彼女たちは完全に引いていたが、そんなことはもう気にしない。
「俺にとって幾何学は、ただの学問じゃないんです。これは美を追求する哲学であり、生き方なんです。人々がモナ・リザやアフロディーテ像に美を見出すように、俺はピタゴラスやユークリッドにその美を見出しているんです」
幾何学の美しさを語り終えた頃、ようやくふと我に返り、周囲の反応を確認してみた。
皆、頬に作り笑いを浮かべているが、目は明らかに遠く、何か別の世界に意識を飛ばしているかのようだった。
ひとりはスマホをチラッと確認し、もうひとりは、手元のグラスに注がれた水をいじっている。
こちらを見ている女性もいたが、彼女の表情はどう見ても「本当にこの人何を言っているの?」という困惑そのものだった。
「ええ、そうですね……幾何学って、すごいですね……」と、一人がようやく口を開いたが、その声には熱意も、理解も、ましてや感銘など微塵も感じられない。
表面的に場を繋ごうとするその言葉は、俺が夢中で語っていた美の真髄が、まるで真空の中に吸い込まれたかのように、何も響いていないのをはっきりと感じさせた。
もう一人が、さらに微妙な笑みを浮かべ、「あ、そうなんですか……それで、その定理って、なんでしたっけ……?」と、曖昧に質問してくる。
しかし、それは好奇心ではなく、ただ適当に話を引き延ばすための、無理やりな興味に過ぎないことは明白だった。
俺はその瞬間、すべてを理解した。
ああ、やっぱりこうなるのか、と。幾何学的美しさを解くことで、彼女たちの心を動かすことはできないんだと。
俺の語るピタゴラスの定理も、黄金比の神秘も、彼女たちにとってはただの退屈な講義に過ぎない。
彼女たちは、たぶん映画の話や、食べ物、旅行の話を楽しみにしていたのだろう。それが街コンで求められる「会話」なのだ。
「まあ、こういう話、ちょっと難しいですかね……」と自分から話を切り上げるが、内心、虚しさと諦念がこみ上げてくる。
俺は分かっているんだ。結局、幾何学の美を理解できる人間は、ここにはいない。
諦めが胸に染み渡り、俺はふと目の前のグラスを手に取る。
冷たい水が喉を通り、ほんの一瞬だけ現実感を取り戻すが、同時に心の中でつぶやいた。
俺は幾何学を愛している。それだけで十分だ。理解されなくてもいい。これが俺の誇りなのだから。
女性たちがどれだけ俺に興味を持ったかなんて、もうどうでもよかった。
最終的に、女性たちがどれだけ幾何学に興味を持ったかは知らない。
だが、俺の中では確信がある。
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
量子力学における観測者問題についてはよく知られるように、人間の主観性が量子実験の結果に重要な役割を果たしている。
ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。
「私たちが観察するのは現実そのものではなく、私たちの質問の方法にさらされた現実です。」
例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。
したがって実験プロトコルの選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点が物理学の不可欠な部分になる。
さて、数学にも一人称視点の余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。
ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性と真実の模範」のようである。
それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。
ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理を発見しただろう。
さらに定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教、性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。
さて、ピタゴラスの定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学的声明である。しかし、ピタゴラスの定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。
何が起こっているのか?
この質問に答えるには、数学的定理を証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。
定理は真空中には存在しない。数学者が正式なシステムと呼ぶものに存在する。正式なシステムには、独自の正式な言語が付属している。
つまり、アルファベットと単語、文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。
その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。
次に正式なシステムのすべての文のうち、有効または真実であると規定した文を区別する。これらは定理である。
それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初の定理、証明なしで有効であると宣言する定理を選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。
公理からの演繹は、すべての数学がコンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。
公理が選択されると、正式なシステムで定理を構成するものに曖昧さがないのは事実である。
これは実際にコンピュータでプログラムできる客観的な部分である。
例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである。
しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。
ユークリッド幾何学の定理は、非ユークリッド幾何学の定理ではなく、その逆も同様。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の場合、答えは明確である。これは、単に説明したいものに対応している。
数学は広大であり、どのように公理を選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。
すべての数学的オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。
たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。
集合論は特定の正式なシステムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択の公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。
今日の数学者は、すべての数学を支える集合論の正式なシステムとしてZFCを受け入れている。
彼らは、無限の公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。
言い換えれば、有限主義者の正式なシステムは、無限の公理のないZFCである。
無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である。
有限主義者は、自然数のリストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。
彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。
この公理を取り除くと、有限主義者が証明できる定理はかなり少なくなる。
正式なシステムを判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的な基準...なんてものはない。
「時間と空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。
ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式なシステム(ZFC等)は、自身の一貫性を証明することができないと述べている。
数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。
そしておそらく、決して知ることはない。
なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式なシステムにおけるZFCの一貫性を証明することしかできなかったから。
一貫性を証明する唯一の方法は、さらに大きな正式なシステムを作成することだけだ。
数学を行うためにどの公理を選択すべきかについて、実際には客観的な基準がないことを示唆している。
要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである。自由意志に任せて。
公理のための主観的な基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。
これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。
特定の公理のセットを選択する行為は、量子物理学の特定の実験を設定する行為に似ている。
それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。
書き換えたブコメと内容被るので身元ばれるだろうけどかなり感動した。大学受験のみならず、大学に入ってからもある種の積分をやるのにt=tanαとおいて置換するとうまくいくって習った人多いと思う。通常はピタゴラスの定理から出るcos^2θ+sin^2θ=1を用いてcos2α=(1-t^2)/(1+t^2)、sin2α=2t/(1+t^2)を証明するんだけど、今回の若い人たちは逆にこうなること(cos2α、sin2αがtを用いて書けること)を別口で証明して、あとは単に計算すりゃ確かにcos^2+sin^2=1ですなあ、でQ.E.D.ってお話。なお、誰でも気づくと思うが、この証明法は元が直角二等辺三角形の場合破綻するので、それから逆に従来の方法とは異なる、と推測できる。なお、無限級数の和は1+r+r^2+...=xと置けば1+rx=xからxが求められることと同じになり、それを図形で表せば単なる相似問題に帰着するのでこれが美しくないと思う人はそうするだけでよい。
引用のサイトの図でいうAがその結果2tc/(1-t^2)(この段階では分母が1-t^2なのがまた憎い)であることが純粋な相似図形による比例計算(この部分が無限級数バイパス)から示せ、C=tA=2t^2c/(1-t^2)がわかる。証明者に従ってC+1を計算する(!!!)と、C+1=(1+t^2)c/(1-t^2)、よってsin2α=A/(1+C)=2t/(1+t^2)、cos2α=c/(1+C)=(1-t^2)/(1+t^2)、と懐かしい形に。ちょうびっくり!!!!!!!!
私は数学愛好家であって生まれ持ったセンスがあるわけではない(悲しいけど)ので、今回の証明法がそれなりに新しい発展をもたらすのかどうかは全然わからないが、素直にビビるほど感動した。
画家や建築家などを挙げている辺り、研究者についてはどうでもいいかもしれないけど一分野についてだけ説明しておくね
物理学など他の学問ではどうなるかは面倒くさいので言及しないとして…
数学の研究をする際には歴史については自然と覚えてしまう程度の知識さえあればいいと思う
具体的にはピタゴラスの定理は千年単位のオーダーの大昔に証明されたとか
数百年前には今のような集合論に基づいて数学理論を一から組み立てていく形式は無かった…みたいな基本的な常識があればいいし
それと論文を書く際に論文に関わる狭い分野内で既に何が証明されてるかを把握して説明を出来ればいい
前者は数学の教科書を読んでいる内にいつの間にか知っているし、後者は研究集会に出るだけで自然と把握出来るので
これ以上の勉強が数学者になるための必要条件に入っているかと言うと、全く無い
たとえば線形代数の理論も分からないような人間が数学の研究をするのは極めて難しいが
線形代数の理論がどうやって出来たかの歴史なんて知らなくても一切問題ないし知らない数学者も多いだろう
行列式が行列より先に扱われていた事なんて雑談に使える豆知識にしかならんし
matrixがラテン語の子宮から来てる事はジェンダーの研究者とかの方が知ってると役にたつ事柄なんじゃないかな…
という風に数学者にとっては極めて重要な理論であっても歴史は知らなくても問題ない理論がかなりある訳だ
これは別の分野の研究者でも成り立つ事なのかもしれないが面倒くさいのでここでお終いにする
数学って紀元前からずーーーっとずっとずっと絶え間なく発展し続けて来てて、他の学問やらアートやらとはもう一線を画してるよね。
例えば物理学とか化学なんかいいとこ300年間くらいしか歴史がないわけですよね。西洋美術はフランス革命後からの歴史だし、西洋音楽は前世紀までに終了してるよね。言語だってガンガン様変わりしてて、江戸時代の言葉は訓練しないとわからんと思うのよ。
そこを行くと数学はすごすぎて学者でさえ全貌を掴みきれない程だし、並程度の天才の頭脳では一生を費やしても最先端の問題にとりかかることさえかなわないわけですよ。数学は発達しすぎて平均的な人類には難しくなりすぎたんだと思う。
だから数学ができるかどうかっていう議論をするなら、どの程度数学が人類向けのレベルだと思っているのか教えてくれませんか。
おれは中学レベルの数学を知ってれば、人類としては及第点じゃねえかと思います。ゼロが分かってて、確率の概念を理解できて、四則演算ができて、ピタゴラスの定理を証明できたらもう知的には充分成熟してると思います。
子供に勉強やらせると、高校物理の数学以外の部分は全部わかるし、高校生物はふーんって感じで全部受け入れるし、化学はまあ厳しいけどイオンさえわかれば電池まではわかるみたいです。ただ、数学が難しいようです。おれが子供の頃を思い出しても、数学だけが難しいんですよ。あとは記憶力だけの勝負みたいなところあると思います。あと練習。
それまで勉強しなかったせいで、
不利益をこうむった人。
勉強なんかという人は、
そんな気がする。
必要と思った勉強はちゃんとやればいいような気がする。
文系の人が、
意味のないように思える。
小説の文章が会話に出てくるわけないっしょ。
きっと、文系の人たちだからそう思うんだ。きっとそうだ。
でも、特に関係なさそうな事が、いいアイディアになったりするから、
世の中わからない。
コンピューターの回路の作り方のヒントが、写真の焼き付けの技術だったりするし、
昔、勉強の何が役に立つって、
考え方を広げるって意味があるって言われた。
お馬鹿だからよくわからないけど、無理に考えてみる。
たとえば国語からは、文章の力を伸ばすとともに、自国の文化や思想を学ぶとか、(わーん、文系じゃないから考えるの難しい;;)
数学からは、事務処理に必要な数学力を身につけるとともに、理論的な考え方を育てるとか?。(証明なんてそんなかんじ?)
難しい。