はてなキーワード: 食器とは
そういえばハチミツ精液混入男の事件で思い出した、「食器に放尿するのは器物損壊罪」の判例だけどさ
明治時代の古い判例だし自分はこの部分しか知らなくて、単にこの行為だけやったものとしか思っていなかったんだけど
検索してみるとこの犯人、どうも強姦もやってるな…?旧字体なのでよく読めないけれど、「強姦」「猥褻 」「傷害」の文字が見られ、徳田蓮を想起させる
どうも前後関係がよく分からないんだが、この犯人は徳利とすき焼き鍋に放尿し、飲食店でそこにいた女性の首を締めて股間に手を入れ押し倒した、らしい。
単に嫌がらせや愉快犯かのように思われた行為に性的な意図が含まれていて、長らく罪名が不適切だった可能性。
食器に放尿はそれ単品でも十分悪質なんだけど、やはり性犯罪とは切り離せないのでは?
この事件の場合、強姦罪・強制わいせつ罪でも起訴されているようだから、器物損壊罪での起訴は徳田蓮の場合よりは適切だったのかもしれないが。
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/hanrei/docs/keiroku_15-0452
はてブで見かけた高級インド料理店のクッション風のお皿は、ほぼほぼ間違いなくボーンチャイナという磁器の一種です
ボーンチャイナは磁器の一種であって、磁器には他にもあるのだけど、他の磁器だとあれを作るのはかなり難しい
絶対に作れないとは言わないけど、かなり難しい
陶器にしろ磁器にしろ、焼くと縮むし柔らかくなって変形しますが、ボーンチャイナだけはへんてこな形も作りやすいので、メーカーが作るとすればボーンチャイナ一択となります
どうして問題になると考えられるのかは陶器と磁器の違いを検索してください
ただ、食器に関しては適当な知識がネット上に流布されているので注意してください
ネットでは陶芸家ですら間違った知識を開陳しているので、焼き物に関するインターネットは本当にきつい
お知り合いの陶芸家がいたら、あれがどうしてボーンチャイナ以外はあり得ないのか聞いてみてください
あれがボーンチャイナ以外にあり得ないという知識があったところで活用する機会など存在しません、せいぜい食器メーカーの中の人くらいです
町を歩いていて理不尽なことで怒鳴られることがあると思う。目線があったとか、自転車通行の邪魔になったとかそんな理由で怖い人に怒鳴られると、納得するまで理由を訊いてしまう癖がある。
なんでそんな危ないことをしてしまうのか自分でも分からなかったけど、今日ふと気づいてしまった。
増田はすでに親元を離れて一人暮らしをしているが、増田父に怒られたことを今でも思い出すたびフラッシュバックというか汗かいたり動悸が止まらなくなる。年に何回か夢に見て、荒れた息と自分の大声で目が覚めることもある。
増田父は気分屋なので、たまに食器の並べ方みたいな些細なことをそのときの気分で怒鳴る人だった。それでいて普段は調子屋というか、くだらない冗談をいうような人だ。
だけど、あとになって気分の良いときに謝ろうとしたり、なんで怒ったのか訊こうとすると更に不機嫌になって逃げられたり、「そんなことは言ってない」と出来事自体を否定される。そうして謝ることができないまま増田の中で不満が蓄積していた。
増田母などは、「ああいう性格なのだから怒られたことは忘れなさい」と諦めて折り合って生きているし、それが正しいのだろう。けれど増田は今も無自覚の恐怖としてずっと残っているのだと、今になって分かった。この文章を書いている今も汗がたくさん出ているほどで、これがトラウマというやつなのだろうかと思った。
高齢の父に過去の話をぶり返したり、トラウマになってるとかいきなり持ち出したりしたら怒られそうで言えないけど、存命のうちに一言でいいので許しがほしい。
あるいはこういうのってカウンセリングでどうにかする類の話なんだろうか。
中高の美術部や美大や美術系専門学校の1〜2年生の作品には掃いて捨てるほどあるコンセプトなんだよね
あの発想もあれが刺さるのも多数派だと思う
ただ、絵じゃなくて、食器にして醤油入れて撮影してSNSに流す、は思い付いても実際にやる人は少ないから話題になったんだろうけど
で「社会的に正しくない」「作るのやめろ」とかいう、作者の創作や公開の権利を剥奪すべきと主張してる人ってまじで見当たらないんだよね
うちの母方の家は商売やってて忙しく、手が空いてる人が家事しなければならんかった
一方、中年〜初老のうちの兄弟は中学生の頃からいわゆる「パソコンの大先生」だし私立校でしっかり家庭科教育をうけているが、食べるものはコンビニかほぼレンチン、たまに肉を焼くために台所を使ってもコンロ周りを掃除する概念がない
脂っこい食器を洗って汚れたシンクの掃除もしない(洗ったつもりらしい食器もベタベタ)風呂掃除もしない洗濯すらまともにできないから臭いし10代からずっと汚部屋住人
何でこうなったかというと「男の子に家事をやらせてはだめ」と母(故人)がアタオカな教育方針を打ち出したため(当時信仰していたカルトの洗脳)
家事を押しつけて好きなだけ遊ぶ兄弟を許せないのと、当時母が予後の悪い病で早死するのが見えてたから、視界に奴が居るときは呼びつけて家事を教えながら手伝わせた…が、アタオカ母を味方につけたり、帰宅後に即出かけるなどして家事を回避しまくった
翻って、家庭科教育を受けなかった高齢男性についてだが、一人暮らし用の易しい家事指南書はなんぼでもあるし、新聞にも初心者や知識が古い人向けの家事のコツは頻回で載ってるし、レシピも手軽・時短の特集はよく組まれてる
気づいたらYouTube見てるのなんで
甘えてるんだろうな
どうやったら治るんだ
どうやったら治せるんだ
そこそこ偏差値ある大学にいるから周りに明らかにADHDだろって人間は山ほどいる。
風呂入ったほうがいい、料理作ったほうがいい、早寝早起きしたほうがいい。そんなの全部わかってる。
毎日思ってる。
気づいたら誘惑に負けたり、やるべきことをすっかり忘れたりしてる自分が大嫌い。
全部わかってるはずなのに。
なんかどうでもいいような気がしてやってない。
気が付いたら時間が過ぎてる。
ああ、信用と時間を失ったな、というバカみたいに他人事な感想が降ってきて、自己嫌悪が始まって、周りの人間の目が怖くなって、知っている人間に会えなくなる。
少人数の授業に出られない。
卒論のための演習授業に出られない。(もう3週間も自分の発表順から逃げ続けて周りに迷惑かけてる。最悪)
全部先送りにしてる。
就活も先送りにし続けて今更やってる。
燃えるごみはもう1か月くらい捨て忘れて蛆が湧いて、部屋にでっかいハエが出た。ゴミの日は明日。
冷蔵庫にはぶよぶよになったミニトマトが数個と消費期限が1か月切れた食パンが置いてある。
先週の日曜に面接で使って洗おうと思っていたスーツはまだ部屋の床に落ちてる。
私の体も昨日は洗ってないよな。
寝汗がすごいんだけど、スーツを最後に洗ったのはいつだったかな。
もうやめたい。
生活を一人でできる人間が普通なんだよな、じゃあ私はなんなんだ。ナマケモノ、まあそうか。
でも怠け癖があるだけだって言われたくない。
どうか何かの病気であって、薬でさあ、なんだかやらなきゃいけないような気分にならせてください。
お願いです。お願いします。
The Sneaky Relationship Ploy That's Screwing Over Women
https://www.instyle.com/lifestyle/weaponized-incompetence-defined
「 DE&I に関する 有毒なポジティブ思考 には賛成できない 」 : 有色人種のPRプロフェッショナルが告白
「無能を武器」にして家事をやらない。そんなパートナーへの不満が爆発「食器をしまう場所はわからないと言うのに…」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/weaponized-incompetence_jp_649a362ee4b09fcde59d7004
旦那がありえない方法で洗濯物を干してる。もう家事を任せられない……→それって「無能の武器化」なのでは?と指摘される
https://togetter.com/li/2393087
定量的な評価ってより結局自分がどこまで求めるかだと思うんだけどな。
複数人で自宅行くと割とわかりそうじゃない?
家庭的な人なら家が片付いていてホコリ溜まってないしゆかもベタベタしてないし、窓もサッシも水周り綺麗だし、自炊すんなら食器や調理器具が揃ってたりするはずだよね。掃除のズボラさは掃除機かけたくらいでは歯が立たないから割と自宅行けばどんだけ家事力あるかは分かりそう。
育児に協力的かはやってみるまで分からんな。泥臭いことできるのかどうかである程度判断できそうだけどね。何かあった時に自分が泥被ってでも庇ってくれるか見てみるといいかもね。こっちに擦ってくれるやつはダメ。
イレギュラーな対応をサービス提供側に要求したい場面で、内心で「面倒な客になりたくない」という思いがあるのか、つい気後れしてしまう。
どうしてもそうせざるを得ない場面なら最終的には要求するのだが、自分のなかでは結構ハードルが高い。
(例:飲み屋の予約のリスケや人数変更、飲食店で子供用の食器提供、アレルギー対応など)
特に、提供側がまぁサービスの範囲として織り込み済みだろう、という対応ならまだいいのだが、「断られて元々」みたいな交渉は、なかなかできない。
(例:値切り行為、有料オプションを無料で付けてもらおうとする、確認段階での仕様の追加、
しかし、えてしてそういう交渉(ぶっちゃけ無茶ぶり)を臆面もなくもちかけることができる人が大きな仕事を成し遂げていく。
そういう人は、断られても冗談冗談、とか言って笑って済ませるコミュ力があるから、無茶ぶりしても無礼にならないんだよな。
羨ましい。
まず自分に問うてみるのだ
② 一人でいる事は楽しいか
③ 他人の都合を優先できるか
④ 他人の行動を許容できるか
②は絶対に必要で、これがない人間が他人と一緒にいると言うのは単なる依存
この辺をはき違える人が結婚すると
距離感を間違える
③は②とは違って、スケジュールや意見がぶつかったりしたときに
他人を優先できるか
釣った後でも、相手の都合をどの程度優先できそうか
これを家族(両親等)を想定して考えてみると良い
厳しすぎる他人や、緩すぎる他人との共同生活は結構苦痛なものだ
やはりこれも家族(両親等)を想定して考えてみると良い
食器を水に付けなさい、なんでごみを放置するの、靴下は裏返せって言ったよね
結婚したら許せるかな?
私は①で終了だ
さてみんなはどうだい?
新婚ってブーストもなくなって
先日友人の結婚式に参加した。
移動の費用やらを考えると、それなりの金額を支払って、出席することになる。
ただ、全然出せないことはないし、むしろ大人の余裕で前後泊しちゃう?という矛盾の塊のような結論を出し、二泊三日の一大旅行となった。
旅行もそれなりに楽しめて、旅先の工程も満足行くものではあったのではあるが、結婚式に出るたびに毎回首をもたげる、「あれ、結婚式出て、意味あった?私の人形そこに置いといたのと何も変わらんくね?」という思いがが今回はより、私の胸の中にのしかかった。
パートナーにその旨を告げると、出たことに意味があると、お嫁さんの晴れの姿を生で見れたことに意味があるのだと。
確かにそれはそうかもしれないが、約二週間たった今も、胸の引っ掛かりは取れない。
それはそれで気持ちが悪く、そして私自身その気持ち悪さをきっちりと言語化できたときの気持ち良さを知り得ているので、いつまでも目をそらし続けることはできない。
今までよりも強い違和感は、以下の背景に起因するものであろう。
今まで出たどの結婚式よりもお家柄色が強く、異物感を感じざるを得なかったこと。
そういうわけで人数も全体としてかなり多く、ひな壇に気軽に行けるような感じでもなかったこと。
少なからず自分が世界の主人公だと思ってしまっており、どうしてもその幻想は、私が私で生きている以上拭い去れないこと。
その勘違いが、自分にはもっと何かできると、鬱陶しいほどに心臓に早鐘を打たせること。
また、それなりのお金を支払って行っていると言う事実も、なんらかしらの手段でこの感情を顕現させたいことに拍車をかける。
しかし、直接本人に言うのは、流石に自己満足の押し付けが過ぎ、幸せ絶頂の花嫁に水を指すのもいかがなものか。
上記理由から、皆様のお目を汚すような個人的な感情をここに書くに至った。
さて、私がいかに面倒な人間かわかって頂いたところで本題である。
彼女とかかわり合いになったのは、大学のサークルの内のことで、たった3年間のことであった。ただしそのサークル内でも何かしら一緒の活動を行うということはなかった。しかしながら、部と学科が同じということで、授業の話をしたりだとか、自分が読んで来た本の話しなどもしたような記憶がある。
私自身高校生活から大学生になるにあたって、非常に鬱屈とした学生生活を送っており、端的に言えばなかなか人とうまくはなせずにいた。
そこからサークルという否応なしに共通の目的やら問題やらに向かえる集団に所属したことで、元来人が持つコミュニーケーションを取りたいという欲を取り戻した。
そんな最中サークル終わりの飲み会で、彼女と横並びに座敷の壁に寄りかかりながら、なんとなく高校の頃の話を聞いたような思い出がある。
ぼんやりとうすボケたような記憶なので、話の内容も対して覚えておらず、自分もなんと返答したのか全く思い出せないが、人間関係の話で、今まで仲の良かった人がいたけれど、あるなにかの事件がきっかけとなって、疎遠にむしろやっかみを受けるようになり、その時から人との関係がよくわからないというような話だった気がする。
以前の記事私がどういったふうに答えていたか相変わらず覚えていないが、今の私であったらこう答えていたと思う。
何も気にすんな。人との関係性は、相手じゃなくて自分で決めるものって考えたら楽んなる。相手がどんなにこちらを嫌っていたとしても、仲良くしたいと思えば、何でもいいから話しかけにいけば良いし何か違ったなと思ったら、話しかけずにいれば良い。
こっちが友達だと思ったら友達だし、時と場合によって今日はご飯食べに行きたいと思ったやつとご飯食べれば良い。
思えば色々と感化されやすい性格だったように思う。私がこうした方がいいのでは?と言えばそれに素直に従い直したし、私のつまらない話にもよく笑ってくれた。
そして感情が豊かで感受性も高かったように思う。友人といざこざがあればすぐ顔に出たし、義理が果たされないようなことには、怒りを顕にした。
そんな人間が、私からのそんな話を聞いてどうなったかといえば、本当に何も気にしなくなった。今までは自分の発言で傷つく人がいるのではないかと考え、うまく言葉を紡げなかった彼女は、傷ついたなら傷ついたで仕方ない、と思い直し自分の考えを堂々と言うようになった。あるいは、間違えたらどうしようと、行動が起こせなかったことも、今考えた限りはこれしかないのだから、やってしまおうと、行動に移すようになった。
そうして、間違ったことも、壊してしまったことも、傷つけたことも、そして、それらが元に戻らなかったとしても、それはそれとして、前に進んだことの確かな証拠だということに気づいていったのだと思う。
見ようによってはヤケになってしまったようにも見えるけど、それは確かな一歩である。
私から見たあなたは、そんな風に歩んでいったのではないかと思う。
私があなたと会わなくなってから、かなりの空白があるわけで、先のことも遠くの記憶であるからにして、真実かどうかもわからず、もうもはや事実とは異なる空想めいたものかもしれない。
私があなたに言える確実的なことは、私が過ごしたここ最近の数年のことであるから、そのことをひっそりとお話して、この文書を閉じたく思う。
ひとえに、気の置けない人がいるというものは素晴らしいことであると思う。
自分一人では、私は到底私らしく人生を生きて来れなかったと思う。料理を作って美味しいと言ってもらえること。そうでなくとも、この間のあじつけの方が好きと一刀両断されること。
服の干し方で一々文句を言われること、食器の洗う順番にとやかく言われること、穴の空いた靴を履いているとこそからくすぐしてくること。自分一人でいたら、どうでもよく、そのまま過ぎ去ってしまう一つ一つの生活が、パートナーがいるというだけで、数倍は人生が伸ばさせれるように思う。
洗濯機の液体洗剤のいれるタイミングがどうしてもわからなかったり、大きななべを洗うのが億劫であったり、キッチンの排水口の掃除がどうしても受け付けなかったり、りんごを剥くとたまに芯が残ってしまっていたり。自分が凸で、相手の凹を埋めるときもあれば。
朝はどうしても起きれなかったり、休日の過ごし方のプランを立ててもらったり、バスタオルを一週間に一回洗ったり、部屋の片付けを率先してやってくれたり。自分の凹を相手の凸が埋めてくれることも勿論ある。
人生なんて所詮、この地球上の一生命体が生まれてから、終わるまでのお話であるから、結局のところ意味なんてなくて、でも、それでも、
一緒に足りない何かを補ったり、補われて、そこにちょっとした温かさを感じて。
それは意識されないまでも、どこか自分の根底にそれはあって、それを抱えたまま眠りにつく。それが自分がどんな状況であろうと、立場であろうと、確固たる標として、自分の中に位置づけられる。自分として戻って来られる。
あなたはどうであるか、そもそも私自身あなたの相手のことすらも知らぬわけであるから、もうただ同じ感覚を持っていることを祈るばかりである。