はてなキーワード: 朝鮮人とは
でもこんな屈辱的なCMに抗議の声一つ上がらない日本はどこまでも人が良く(鈍感なのか?)人種差別という「意識」がない国だと感じている。
ラッツ&スターとか外国に人は差別と言うけど日本人からすると黒人音楽に対するリスペクトだからね。
未だにみんな必死に肌焼くし。
不思議な国だね。
もうお腹いっぱいやわ。大坂ナオミもういいわ。
BLMにNIKEに、、、日本は黒人に寛容よ。日本ほど差別の少ない国はない。自身を育ててくれた日本に感謝するならわかるが
自ら政治アイコンとなって日本を貶め日本を混乱に陥れて何をしたい。 #私は大坂ナオミを支持出来ません #NIKE
だろうね、、、日本に差別が全く無いとは言わないが、世界中で日本程差別意識が低い国もなかなか無いと思いますよ、最近は朝鮮人嫌いだけど昔は特に意識してないしまして黒人なんか凄い人達だな➰と思ってたくらいだわ(^o^)
「バカでもチョンでも」という慣用表現における「チョン」とは「朝鮮人」を指す差別用語である――
という言説に対し、
――「バカでもチョンでも」における「チョン」は朝鮮人のことではない
とする反論がなされて、いまではそれが定着している。
頭が悪い人に対する「ちょん」という蔑称は江戸時代から存在しているので、朝鮮人に対する蔑称とは別物だ、というのがその主張である。
まず、その頭が悪いという意味での「ちょん」の語源はどう語られているのか、と調べてもはっきりしない。
拍子木の「ちょん」という音に由来する説と、「ゝ(ちょん)」という踊り字に由来する説とが一応あるが、それがどうやって「頭が悪い」という意味になったかの説明は曖昧である。
公益役職などにおける役務を帳票に記す際、筆頭名主は役職名と姓名を記したのに対して、筆頭以下の同役に対しては「以下同役」の意味で「ゝ(ちょん)」と略記したうえで姓名を記したことに由来し、「取るに足らない者・物」を意味した。
などとWikipediaに書かれていて多少の納得感があるが、これは定説にはなっていないようである。
一方で「ちょん」の最古の用例として挙げられるのが、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』である。
ちょん
[名]
4 俗に、頭の悪いこと。また、おろかなこと。
「ばかだの、―だの、野呂間だのと」〈魯文・西洋道中膝栗毛〉
しかし、「ちょん」の用例が、明治三年の『西洋道中膝栗毛』よりも遡らないのであれば、そもそも江戸時代からあったとする話は怪しいのではないか。
西洋道中膝栗毛での実際の表記は「馬鹿だの豚尾だの野呂間だの」で、「豚尾」に「ちょん」という読み仮名がついており、これは明らかに当て字である。
日清戦争(明治二十八年)の頃には、中国人の蔑称として「豚尾」「豚尾漢」などが使われていたらしい。
明治三年の時点で「豚尾」と「中国人」が結びついていたかは定かではないが、仮に「チョンは朝鮮人ではなく中国人の蔑称だった」なんてことになるとややこしさが極まってくる。
あるいは、「バカでもチョンでも」という表現は、明治や大正の頃でさえ広まっていなかったのではないか、という疑問もある。
調べてみても『西洋道中膝栗毛』の他に同時代の用例は出てこない。
Google Booksなどで検索してみても、どうも広く使われるようになったのは昭和に入ってからだという感じがする。
一方で、朝鮮人が「チョン」という蔑称で呼ばれるようになった時期はいつごろだろうか。
こちらの時期もはっきりとしないが、戦前に遡ることは確実である。
となると「バカでもチョンでも」が広まった時期と「朝鮮人=チョン」が広まった時期とが接近してくることになる。
朝鮮人のことを「朝公(あさこう)」と呼んでいたのが「チョン公」となり「チョン」となった、というのが一応の定説である。
が、頭が悪いという意味の「ちょん」と掛けて朝鮮人のことを「チョン」と言うようになったという説もある。
そうであれば無関係どころかがっつり関係している気がするが…。
1960年代に自動露出のコンパクトカメラが発売されて「バカチョンカメラ」と呼ばれるようになった(ただしこれはVacation Cameraの日本語読みという説もある)。
一種の流行語のように気軽に「バカチョン」と言われるようになったのはこれ以降である。
それから1975年には三笠宮崇仁親王が言った「バカチョンカメラ」が差別用語とみなされて抗議を受けたという。
以降、散発的に抗議が起こり、「バカでもチョンでも」は差別用語である、とする認識が1980年代に形成されていった。
「バカでもチョンでもは朝鮮人のことではない」といったカウンターが盛んに言われるようになったのは1990年代からか。
以上から、「バカでもチョンでも」のチョンはやはり朝鮮人のことであった…などと強弁するつもりは、もちろんない。
ここで言いたいのは「『ちょん』という蔑称は江戸時代から存在していて朝鮮人に対する蔑称とは別物だ」という主張は怪しいぞということだ。
「ウイグル」は民族名だ。地名じゃない。「新疆」とか「東トルキスタン」とか「ウイグリスタン」ってのが地名だ。
「ウイグルでひどいことが起きている」のように「ウイグル」を地名のように扱うのは見ていて恥ずかしいので即刻やめろ。何もわかっていないのが丸わかりだ。「ウイグル人にひどいことが行われている」のように民族名として扱え。
「アイヌ」と同じだ。「アイヌ」という民族はいるが「アイヌ」という土地はない。「北海道」や「アィヌモシㇼ」が地名であって、「アイヌ」は地名じゃない。
北海道でアイヌの伝統的なサケ漁が禁じられていることを「アイヌで漁を禁止された」と言ったらおかしいだろう? 「アィヌモシㇼで漁を禁止された」か「アイヌが漁を禁止された」と言うべきだ。
「チベット」や「モンゴル」は民族名でも地名でもある。「日本」や「朝鮮」と同じだな。「朝鮮で弾圧が起きた」でも「朝鮮人が弾圧された」でもOKなように、「チベットで弾圧が起きた」でも「チベット人が弾圧された」でもどっちでもよろしい。
話をウイグル人に戻すと、「新疆ウイグル自治区」ってのは「新疆」にある「ウイグル人の自治区」って意味だ。
中国は民族区域自治を採用しているから、少数民族が集まって住んでるところには「○○(地名)・××族自治州」みたいなのが設置されている。その一番でかいやつ(省と同格)が自治区だ。
だからたとえば、内モンゴル自治区の外にモンゴル人が大勢住んでいるところがあれば、そこは「○○・モンゴル族自治県」のような行政区域になる。
新疆ウイグル自治区にはウイグル人以外の少数民族もそれなりに住んでいるので、新疆ウイグル自治区の内側にはイリ・カザフ自治州があり、さらにその内側にはホボクサル・モンゴル自治県というのがある。これを「カザフ」や「モンゴル」とするのは間違いだ。それはあくまでも「イリにあるカザフ人の自治州」「ホボクサルにあるモンゴル人の自治県」であって、土地の名前は「新疆」にある「イリ」や「ホボクサル」だ。
仮にサンフランシスコの日本人が自治権を獲得して、「サンフランシスコ日本人自治区」ができたとして、それを「日本」と呼ぶのはどう考えてもおかしいだろう? 「新疆ウイグル自治区」を「ウイグル」と略すのも文法的にはそれと同じことだ(ウイグル人は日系アメリカ人と違って先住民族なので政治的には大違いなのだが、そこはひとまず措いておく)。
世界の国名の中には、「○○人の国」という意味の国名がいくつもある。英語で考えてみると、東欧のスロバキアはSlovakiaで、スロバキア人はSlovaksという。Slovakの国だからSlovakiaなのだ。Croatsの国だからCroatiaで、Scotsの国だからScotlandだ。これは、日本や朝鮮や琉球のように、「○○」という国がまずあって、そこの国民だから「○○人」、という名付け方とは真逆になる。
日本語ではそこを考えず「スロバキア人」「クロアチア人」「スコットランド人」としているわけだが、いくつかの民族については、日本語でも厳密に民族名と地名を区別している。
わかりやすい例を挙げると、「アラブ」がそれだ。「アラブ人」の土地だから「アラビア」なのであり、「アラブ諸国で」「アラビアで」とは言うが「アラブで」とは基本的に言わないはずだ(ところで、言語名が「アラビア語」なのはよくよく考えるとおかしいと思う。言語は土地じゃなくて民族にくっついてるんだから「アラブ語」だろうJK)。
そして、中央アジアでは、このへんきちんと区別されている。カザフスタンの基幹民族はカザフ人だ。民族名の「カザフ」に「~の土地」を意味する「~スタン」をつけて「カザフスタン」だ。同様に、トルクメン人の国だから「トルクメニスタン」で、ウズベク人の国だから「ウズベキスタン」で、歴史的にテュルク系民族がいっぱい住んでた土地だから「トルキスタン」なのだ。
「ウイグル」もこれに当てはまる。「ウイグル」は民族名であって、地名に使うのは間違いだ。「ウイグル人の土地」と言いたければ「ウイグリスタン」、中国語で「新しい土地」と言いたいなら「新疆」、「歴史的にトルキスタンと呼ばれてきた地域の東半分」と呼ぶのなら「東トルキスタン」だ。
ウイグル問題に関心を持つ人が大勢いるのはとても良いことだ。東トルキスタンで起きているジェノサイドは許されるべきではないし、中国政府の所業は大々的に糾弾されるに値する。だが、もうちょっと正確な語法を使ってもらえまいか。少し事情を知っている者からすれば、「ウイグルで弾圧が起きた」のような文章を見ると「書き手はウイグル問題の基礎知識を理解できていないのでは?」と不安になってしまうのだ。せめてそれが民族名であり、地名ではないことくらいは意識しておいてもらいたい。
自治州・自治県レベルだと新疆の外にウイグル人の自治領域はないっぽい。これはウイグル人が新疆に集住してるという事情があるからだと思う。ていうかウイグル人(テュルク系)が集住してるからトルキスタンっていうわけで。
回人の自治州が寧夏の外にもあちこちにあるのは、彼らが散らばって住んでるからだよね。モンゴル人自治州があちこちにあるのと同じ。この2民族は歴史的経緯から居住地が広範囲にわたっている。
チベット人自治州は青海省とかチベット自治区の周りに集中してるけど、これは自治区がチベット人の居住地に比べて狭すぎるからだよな。あのへん、前近代は清朝とガンデンポタンの勢力圏が重なり合う地域で、現在の中国の行政区画はそういう曖昧な領域の多くを自治区から外してるから、自治区の外にたくさんのチベット人地域が取り残された形になってる。
「おめーのほうが不細工だろ!?」って言う人もいるでしょう。そのとおりです。
だが世界基準では俺の方が不細工でも、日本基準では日本人の顔の方が安心感があって俺の方がマシ。
つまり人種がどうとかではなくて彼らは「異形の者」なんですよね。
だから近づきがたい気持ちも出てくるし、スポーツなどで派手に動き回っていたら不安で不快だ。
白人は美しいからセーフ。東南アジア人はなんかちょっと黒いしくさいからアウト。
別に人種で差別してるんじゃないよ。見た目で区別してるんだよ?
そういうことなんじゃないでしょうか??
NIKEの件というより、それに触発された人で「日本に差別はない」発言を見かけたことへの違和感。
古くはえた・ひにん、近代はアイヌ・琉球人、そして朝鮮人、在日。日本にはずっとわかりやすく現代まで続く差別があるのに、それを「日本に差別なんてない」って言ってる人がいるのは不思議で仕方ない。
日本に限らず世界中どこにでも差別があって、それが世の当たり前だったんだから、それが現在まで続くのはおかしいことではない。嘘つく必要ないでしょう。過去の価値観で行われていた差別に現代の価値観を当てはめても不毛。現在の価値観で過去を見るなら、現状をよくするための学びとして見る。差別は良くない、これが現在の価値観。その上で被差別者が声をあげているなら、話を聞いて冷静に考える。
まあでも、NIKEの件で自分が確認した限りでは、日本には差別があること、差別は良くないことは大体の人が当たり前にわかってる話し口に感じた。だからここで批判した「日本には差別ない発言」は僅かだと思ってる。多くの人はNIKEのCM内容に対して、差別のあるなしではなく、表現内容に関して論じていたと思う。しかしいわゆるリベラルの極端な人は「日本には差別ない発言」を謎に大きく取り上げている気がしてそこも違和感。
私は在日3世だけど、恋人以外25年間誰にも言わずに隠してるよ。
国籍?どっちだっていいでしょ。払う税金一緒だよ。(追記:国籍は日本です。だから何という話だけど)
正直ナイキがお金をかけて日本の人種差別について触れたプロモーションを作ったことに、私は、泣いちゃったんだよね。
なんだろね、普段考えないようにしてて、殺してた感情だけど、人種を理由に判断されるのっておかしいよね?これって問題だと思っていいんだよね?っていう気持ち。
知らずに「朝鮮人浄化しようぜw」ってブラックジョーク(笑)っぽく友達が言うの聞いちゃったりする。
生まれた国が日本で、日本の学校で育って、日本の大学入って、日系企業に入って、当たり前だけど税金納めて、今まで生きてきた。当たり前だけど日本語しか話せない。
親に言われなかったらふつーすぎて自分でも気付かなかったと思う。
当事者が言わないと「日本に差別はない」「日本を悪く描く反日企業」「ナイキもやりすぎだよね」ってなっちゃうから、こうやって文章で残します。
自称愛国の人たちが、「在日」を主語にネット上で言う「ゴキブリ以下」「日本から出ていけ」「生活保護不正受給する」こういう言葉全部、
ぜんぶぜんぶ!そんなことないのに、どうしてネットレベルのデマを盲信するのって思いながら、しっかり刺さってますから!
そしてこういう差別的言説を「ちょっと血の気の荒い人」みたいな感じで咎めない風潮そのものが差別だと思います。まぁ私も現実では抵抗出来ないからここに匿名で記してるんだけどね。
人種だけ、じゃなくて、
自分の努力では変えられないもので差別される人は存在しちゃいけないと思うんだ。
そういうことをきちんと伝えるってことにお金をかけて世に出してくれて、ありがとうと伝えたい。
ドキュメンタリーや政治家より、大きな仕事をしてくれたと思ってる。
私は自分から言わない限り日本人の在日韓国人です。ネットやテレビで見た虚像を相手に戦わないでください。あなたが思ってる以上に普通の生活を送っています。あなたが日本人だと思って接してる友達ももしかしたら普通に在日韓国人かもしれないです。
本当に不誠実だと思う。
性表現の規制をフェミニストは求めていない 堀あきこさんインタビュー
https://wezz-y.com/archives/74048
法的規制には反対だ、と言う一方で、その表現は性差別"的"だ、という批判を連発する。
何を言ってるんだろう?もしそれが明白な差別であるなら即、法で規制するしかない。
そこはリベラルの矜持があるので、性差別"的"などと言ってお茶を濁すのだが、
そもそもそれが性差別"的"であるという根拠すら極めて曖昧である。
その表現により「女性」が人権を侵害されている、と言うが、そんな主体なぞ成立するものか。
「韓国朝鮮人は目が細い/エラが張ってる」のように対象を明示すれば完全に差別だよ。
しかし、グラビアアイドルや二次元のキャラクターに対し、勝手に「女性」で括ることが、いかにご都合主義で、暴力的なことか。
だから性的消費とか搾取とか、さらに曖昧な言葉を使い煙に巻く。
「"女性性"が何か別のものに利用されている」という断定は、「女性」というフィクションを仮定した場合に「なんかそんな風に感じる」というレベルの話に過ぎない。
「女性」というフィクションから、何かを奪うことなど不可能だ。
それは、単にその表現に対する嫌悪感だよ。それ以上でもそれ以下でもない。それは決して差別ではない。
本来、その表現は不快です、ああ確かに公共の場では不快に感じる人が多いかも知れませんね、で終わる話である。
それを、「不法」のニュアンスを込め、強制力を得るべくマウントを取ろうとした結果ひねり出されたのが「性差別"的"」や「性的消費」という言葉だ。
あまりにも無理が多すぎる。
10代の頃はちょうど日本が中韓との関係が悪化しだしたころで、慰安婦問題竹島問題尖閣問題に怒りを感じて、右翼寄りだった。この頃が愛国心も一番強かった。日本は偉大な国だと本気で思ってたし、だからこそ技術力が年々落ちていくのに本気で怒りを感じてた。
ただ、高校の同級生の過激な言動(李って名前のやつの前で平気で朝鮮人がどうの言ったり)を見て引いてそこからノンポリ気味になった。
大学入って教養を深めていく中で、それこそ女性の権利やマイノリティの問題、移民問題とかの議論もしっかりできる程度には幅ができた。理系だが社会学や倫理学はかなり勉強したし、海外の友人もたくさんできて国際交流、国際協調の大切さも実感した。一方で、この頃は日本の人権意識の低さや労働生産性の低さを嘆いたりする、いわゆる海外かぶれと揶揄されるようなリベラルをやっていた気がする。
就職してエンジニアとして非常に恵まれた環境で働くようになってから、少なくとも自分の周囲は豊かで何不自由ない世界になってしまった。僕がさんざん共感していたはずの社会の生きにくさは途端に無関係なものになってしまい、大学時代あれほどさんざん議論した社会問題も一気にどうでも良くなってしまった。
これが高級フィルターバブルの内部だという事実は認識していて、Twitterなどで出来るだけ色んな声を聞こうと情報収集してたが、それも疲れてしまった。
正直、格差の向こう側の人々の暮らしを見聞きしてもどうとも思わなくなってしまった。
勿論、僕は技術にコミットしているし、世界をより良くすることに貢献をしている自負はある。
でも昔抱いていた「社会を変えるぞ」という熱量は薄れてしまった。
結婚、子育てとなったらまた見方が変わるのかもしれないが、所詮自分は豊かな環境を与えられた途端に自分本位になる程度の人間だった、というのは少し悲しい。大学生の時は、大学に通えてる時点で豊かでそれを認識してない奴が多すぎる、なんて嘆いてたのにね。
シリコンバレーの連中とかも同じような感じなんだろうな、きっと。