はてなキーワード: 仕業とは
当初「全然別物になっていた」と映画の大ヒットを喜んでいた和田氏が、なぜ今になって「原作となった舞台のタイトルと劇団名をクレジットに記載しろ」と言い出したのかがみんな訳分からんと思っているところだと思うが、ずる賢い弁護士にそそのかされた(あるいは洗脳された)からだと考えれば、いろいろ説明がつく気がする。
「和田さんの Facebook の投稿見ましたよ!『カメラを止めるな!』の原作者だったんですね!正直、かなり潤ってるんでしょ?w」
「え、一銭も入ってきてない?嘘でしょ?原作者なのに?」
「え、それどころか原案となった舞台も劇団名もクレジットにない…そんなの、おかしくないですか?!」
「世間の人はみんなあれが上田監督のアイデアだと思って、ここ10年の最高傑作だの天才が現れただの絶賛していますけど、本当の天才は和田さんじゃないですか!」
「『全然別物だから』って、そんなのおかしいですよ。だってストーリーの構造とか台詞回しとか、全て和田さんのアイデアなしにはありえないんですよ!!」
「一応法律で飯を食っている人間として言います。これ、もし出るところに出れば和田さん勝てる案件ですよ…」
「いえ、間違いありません、和田さんはこの映画の大ヒットに対して相応の報酬を得るべき方です」
「『お金の問題じゃない』?でも、和田さんの才能を無礼な若者に横取りされた挙げ句、映画化にあたってお礼どころか何の連絡もない、そんなことがあっていいんですか!!!」
「和田さんに対してだけじゃありません。元劇団員の皆さん、劇団を応援してくださった皆さん、彼らの気持ちをも踏みにじるあまりに失礼な態度じゃないですか!!!!」
「よく考えてみてください。あの映画の本当の原作はこの舞台だと主張するのはどう考えても正当な行為ですよ」
「しかし、映画関係者がだんまりを決め込んでいる今、その主張ができるのは和田さん、あなたしかいません」
「和田さんのお金は欲しくないというお気持ちは尊重しましょう。でも私は弁護士として、和田さんやその周りの方々がこんな理不尽な状況にあることには我慢がならない!!!」
「和田さん、これは和田さんだけの戦いではありません。この世に生きる全てのクリエイターにとっての戦いです」
「クリエイターが胸を張って自分の作品を自分のものだと主張できる、そんな当たり前のことができない世の中を、我々の手で変えていこうじゃありませんか」
「『とりあえず映画のヒットが落ち着いてから』?何をおっしゃるんですか、それでは遅いです。むしろ映画の名と内容が広く知れ渡った今こそが、和田さんたちの劇団の名誉を回復する唯一のチャンスです」
こんな感じなんじゃないの。
ああいう作品に大体いる科学特捜隊とかって不思議な現象が起きて怪獣とか宇宙人の仕業ではないか?ってなった時に「まさか?そんなことあり得ませんよw」ってヘラヘラ笑ってることがあるじゃん。
ららマジというコンテンツがある。「キミと奏でる、音と魔法の学園RPG。」だそうだ。こんなこと言ってる時点でもう丸わかりだが、完全なる未プレイのままこれを書いている
そして自己紹介をすると、クラシックオタである。オタクと言ってもどれくらいかという話だが、バッハからギリギリウェーベルンまでと言った感じである
(ルネサンスの完全ポリフォニー音楽は正直よくわからんし、ウェーベルンで十二音音楽がギリギリって程度で、ベルクとか分からんし、セリエル音楽とか完全にダメである)
まあ要はクラシックオタとしては及第点ぐらいなのではないかという感じだ。自分で思っているだけだが、流石に新ウィーン楽派必修はキツすぎるしこんなもんだろう
そして、ららマジの存在は知っているのだが、それ故に全く手を付ける気になれない
要はミリヲタが艦これに文句つけてるアレである。知ってるとどうしたってアラが見えてしまうのだ
というわけで以降アラをあげつらう。ただ、最初に書いておくが、クラシックを題材に据えてくれたことそれ自体には感謝したい。大概な過疎界隈なので…
まず最初に引っかかったのがこれである。ワグナーチューバ専がいたのだ。おそらく人類初のワグナーチューバ専の演奏者ではないか?
どういうことか説明する。ワグナーチューバとかその名の通りリヒャルト・ワグナーが導入した楽器である
問題はその役割である。ワグナーチューバというのは、端的に言うとホルン奏者が持ち替えで吹くチューバ、要は補助楽器なのである
まず楽曲に登場する際もその様な管弦合奏の中での役割しか無い。無論ワグナーチューバの独奏曲なるものも地上には殆ど存在していないと思われる
ワグナーチューバ専の彼女が何の為に生きているか深刻に謎なのだ。もっと彼女の存在意義を明らかにして欲しい
単にワグナーチューバがちょっと奇を衒ったチョイスだと思ってこんなことをしたのなら…正直それは最もオタクが憎むところである
さっきの発想を拡大していけば自然とこういう結論が導き出されるのだ
まず編成が滅茶苦茶である。ワグナーチューバは勿論だが、なぜか胡弓がいる。譚盾でもやるのか?
ピッコロ・フルート奏者と、ファゴット・コントラファゴット奏者とそれぞれ別々ににいるし、オーボエもいないのになぜかイングリッシュホルンがいる
というか弦楽合奏の縁の下の力持ち、ヴィオラがいない。クラシックやる気ねえだろお前
まず、各楽器一人づつしかいないのが致命的におかしい。これで合奏なんかできるわけないじゃないか
一応確認してみたが、弦楽合奏はヴィオラが居ないのでまずどの編成も無理だし、金管五重奏をやるにはチューバがいないし
オーボエも居ないので木管五重奏も出来ない(イングリッシュホルンの奴を強制的にオーボエに持ち替えさせればイケなくはないが)
率直に言ってこの部活、端から演奏活動をする気があるとは思えないのである。演奏活動をしない音楽部ってなんだ?
まだ楽器弾けないクラシックオタが放課後に集まって一緒にクラシック聞く方がよほど真面目に部活動してると言えそうである
まず何のチューナーなのかが全く聞こえてこない。そこ、いちばん重要な情報である
…が、状況を見れば十中八九ピアノの調律師であろう。そうすると次の問題が出てきて、器楽部なんかで遊ばずにピアノ調律師の専門学校へ行けということだ
ピアノの「チューニング」自体は、実は器具さえあればクソ簡単である。あれは打弦楽器であり、本質的にギターのチューニングと同じなんだから当然だ
ピアノ「調律」のミソはピアノ全体の調整、とりわけハンマーの調整である。逆にここは素人が立ち入れるところでは全く無い
というかピアノ調律師は国家資格なのである。苟もこんな場所で遊んでいる暇などないはずなのだ
(ただ、ピアノ調律師なのではないかという推測は、チューナーくんがあれほどモテモテな事実への一つの根拠となる気がしている
ピアノ調律師はピアノ全体の調整をやらなきゃいけない都合上、一定程度のピアノ演奏の腕を持っていると考えていい
…そうピアノ奏者である。室内楽をやりたい器楽部に致命的に欠けていたピアノ奏者がここにいるのだ
ピアノとの二重奏による室内楽ソナタというのは各楽器に果てしなくあり、というかほぼその楽器の独奏曲レパートリーと言っていい
ピアノ演奏ができる、そして部員としてそれぐらいしかすることのないチューナーくんは引っ張りだこになること請け合いなのである)
ここまではららマジの方に100%非があることだと思っているが、これはららマジの方の非が50%、この増田の方の非が50%ぐらいだと思う
その前置きをした上で言うが、ららマジの曲チョイスはクラシックへの愛が欠片も感じられず、はっきり言って嫌悪感がするのである
Act 1「いばら姫」:バレエ音楽「眠れる森の美女」(チャイコフスキー)
Act 3「どうにもとまらない」:「どうにもとまらない」(山本リンダ)
Act 4「マイフェアレディ」:ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(フレデリック・ロウ)
Act 5「ある晴れた日に」:歌劇「蝶々夫人」(プッチーニ)
Act 7「マランドリーノ」:喜歌劇「怪盗団/山賊の仕業」(スッペ)
Act 9「美しく蒼きドナウ」:「美しく青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス2世)
Act 11「ハッピーアンバースデイソング」:映画「ふしぎの国のアリス」(オリバー・ウォレス)
Act 12「カノホナピリカイ」:フラソング「カノホナピリカイ」(ケアリィ・レイシェル編曲)
クラシック好きと言うのはガチの選民思想的なところがあり、こういう事をされると相当カチンと来るのである
そんなPOPなチョイスしたいなら吉松隆でも選べばいいじゃないか
数少ないクラシックのチョイスにしても、スッペの怪盗団を選んだ所以外全く評価できるところがない
24の前奏曲から第15番を選び、更にそれに「雨だれ」の題名を冠するのとか最悪である
今どきベト5を「運命が扉を叩く音」と言い出すぐらい古臭い最低なセンスである
音楽を、ただ音楽それ自体を聴いてくれ。エピソードはそれをやったもののみが語るべき要素である
これは、何かレトリック(言葉のあや)として云うのではありません。
また、「1995年のオウム問題以来の、いわゆる『刹那的な社会』に、我々は巻き込まれ、事実上参加しているに等しい」などと云っているのでもありません。私の認識は、そんな寝ぼけた老害のようなものとは違います。
いま起きている気味悪い殺伐事件は、本物のテロではないことはもちろん、誰かの仕業でもないのです。
では、いったい何が起きているのか?
本当は分断が起きているのです。
これは、私の独自の見解ではなく、欧米の一部の学者たちの見解に私も賛同しているだけですが、彼らの文章は私ですらコムズカシくて一般の人にはとても読めたものではありませんから、私なりにかみくだいて説明すると、現在おこなわれている分断は、かつてのような目に見えるものではなく、社会の内側での左派対右派の分断であるということです。
今日の混乱(分断)は、最初は「社会の貧困」を口実として始められますが、その構図は当初の「経済的な貧富」からどんどん拡大し、最終的には社会に属する人間すべてが個人単位にまで分断されます。
これは現在、世界のあらゆる国で程度の差はあれ進んでいる傾向で、実はアメリカの「トランプショック」の本質もここにあります(その証拠に、トランプ政権では白人のフラストレーションがクローズアップされていますが、アメリカは極端な個人主義に分断が進んでいます)。
我が国の分断では、それは最初、1992年に貧困階層の可視化として始まりましたが、やはりその後、なし崩し的にその対象を拡大し、今や、かつては「弱者」ではあっても「被差別階層」ではなかった行為さえもが分断抗争によって次々と差別されています。偏った娯楽性の高い趣味(現在では「オタク」とか「娯楽廃人」とか呼ばれます)や、重労働者に対するレッテルなどはその典型ですし、また、私たち差別階層が作っている社会のひずみが原因であるに決まっている地下社会のモンスター化や極端な治安の悪化に対し、その原因を反省し改善する努力をまったく放棄して、ただ揉み消しで対応しようという方針もその一環です。
好景気や愛国心をも疑う安倍批判論者ではありませんが、社会のこうした風潮を、「いかがなものか」と憂えているのは私一人ではないはずです。もしかすると、これを読んでいるあなたも同じ気持ちでいるかもしれません。しかし、残念ながらあなたは、つまり私たちは現在、圧倒的な極左ないし極右であります。しかも、その問題意識をいいかげんなところでアイマイにせず、よーく突き詰めてみればやがて気づくと思いますが、もはやこの社会の左派ないし右派にとっては、そんな問題意識を持ってしまう私たちのような存在自体が、何やら不気味で恐ろしい「敵」なのです。奴らは、私たちに対して混乱を仕掛けてきているのです。
我が国における(他の国でも同じですが)国民同士の対立は、すでに戦争(内戦)の域にまで達しているのです。
私は、この期に及んで「反戦」を訴えるような非現実的な夢想家ではありません。奴らは、不安が高じてヒステリー状態になっていて、もはや説得に耳を貸さないことが明らかであるからです。この内戦は、私たちが一人残らず消えていなくなる(何か口実をもうけて「アウトロー」とされて社会的に抹殺されるか、それを恐れて完全に沈黙するか)まで終わりません。
また、私はもともとリベラルであり、景気拡大には反対しない立場です。例えばカジノや欧米型のリベラルビジネスなどとはむしろ推進すべきだと思っています。私たちにとって、現在もっとも憂えるべきは左翼の拡大ではなく右翼の拡大です。従来の寝ぼけた老害の「反戦派」は、ここのところがまったく分かっておりません。むしろ寝ぼけた老害階層は、そのお家芸である「単純で分かりやすい理屈」を掲げ、右翼力の拡大を率先して推し進めているようなありさまです(秋葉系的サブカルオタクそのものの抹殺を要求する保守階層や、ゲームそのものの撲滅を要求する似非リベラルなどがその代表です)。
私は、現在のさまざまの不気味な犯罪や精神的貧困者増加の背景には、共同体や進歩的社会の崩壊があると考えています。「問題解決」のためには、奴らが推進する文化の弾圧のような対症療法ではダメで(そのような弾圧化は、ますます人々の心にストレスを生み、結局はさらなる問題の悪化を招きます)、共同体や進歩的社会を再建する粘り強い努力が必要です(「公共交通の全否定」「高校生オートバイ推進」「自転車たたき」「IT拒絶」などはこれに反する破壊行為です)。このあたり、私の見解はむしろ保守に近いのですが、残念ながらほとんどの保守は、考えが浅いのか、「問題解決」には弾圧を、というヒステリーに同調しています。
私は、奴らから「社会の敵」「未来の敵」のように見なされているみなさんに、団結を呼びかけます。
奴らの勢いは、とどまるところを知りません。もはや「話し合い」は不可能です。
何度も云うように、私は「反戦派」ではありません。私たちに残されたただ一つの選択は、団結して「応戦」することです。
現段階では、まず団結し、私たちの側の隊列をととのえることです。
ネットでのゲリラ的工作活動は、何よりも私たちに共感するみなさんに、このような形で大々的に団結を呼びかけるための手段です。
私の見解に「なるほどそのとおりかもしれん」と思う方、まずは行動しましょう。ネットでの宣伝やビラ配りやポスティングです。奴らに反撃していくための、行動を始めようではありませんか。もちろん外国人や、未成年者やノンポリも大歓迎です。
何しろ奴らは圧倒的多数派であり、私たちは圧倒的少数派ですから、今回の行動で、成功する可能性は、完全にゼロであると自信を持っています。
むしろ何かの間違いで成功しちゃうと私自身がビビってしまいますが、まあそのようなリスクは覚悟の上での呼びかけです。
私に共感される人間が多ければ多いほど、私ですらビビってしまうのですから、奴らはなおのこと恐怖のズンドコに突き落とされるのは間違いありません。あなたが実行して成功するかしないかは二の次です。たとえ成功しなくても、一人でも声が多ければ、奴らはそのぶんだけ慌てふためくのです。私たちの存在を、目に見える形で奴らの前に突きつけてやることには、これから反撃を開始するにあたって、大きな意味があります。
そもそも奴らのために存在する、私たちにとってはバカバカしいかぎりの民主主義という社会(デモでも選挙でも勝負にならないほど不利です)において、「一声の重み」など嘘八百もいいとこです。誰がどうしようが、奴らの支配はこれっぽっちも揺るがないからです。しかし、今回の私のような人間の登場となると話は変わってきます。成功しようがしまいが、その一票は奴らを心の底から動揺させる「重み」を持ってしまうのです。ざまあみろであります。
どうせ何もしないでは何も変わらないのです。
民主主義ではとりあえず奴らに一泡ふかせておいて、私たちは、民主主義などというクソみたいなもんの外で団結を開始し、奴らを本格的にギャフンと云わせる、大革命の恐ろしい陰謀を、着々と進めていこうではありませんか。
インビジブルとかいう映画みたいに、身体のありとあらゆるパーツが無色になるタイプ。
まぶたも無色なので目を閉じても暗くない。
服は透過しないので大体は服を着たり、マスクをかぶるやつ。細かくは忘れたけど香取慎吾がやってたドラマの透明人間のタイプもたしかこれ。
多分、一番謎が多いタイプ。うんこが多分宙に浮くか、自分の体液と混ざれば無色で排出されるタイプ。
光学迷彩を用いて表面上そこだけ透過しているかのように見えるタイプ。
つまり人間の皮膚が有機ELパネルみたいに発色が変えれてその結果、透明になるタイプ。
存在感がなくなって石ころのように気にされなく成るタイプ。透明人間がどうかは怪しい。
でもこのタイプが一番便利ではないかと思う(解除可能であれば)。
あと、能力者バトルなんかでもタイプ1や2よりもこっちのほうが多いかもしれない。(影に忍び込むとか、殺気を消すとか)
タイプ1のようなまぶたが透明で見られないデメリットもないし。
(追記)
無敵化(矢や銃弾などが当たらないタイプ)みたいなのもここに含んでいいのでは。
物理法則の世界に身体を持たないが、物理法則の世界を覗ける。物理法則に干渉できるかどうかは関係なしとして。
多分、能力バトルだと油断しないと倒されないタイプ(そもそも、姿を全く表さずに暗殺すればいいのにわざわざ相手に自己紹介ぐらいまでするのは流石に傲慢)か、無敵すぎる能力ゆえに何か欠点や法則があってそこをつかれて負けるタイプ。
本人が存在を認知されないことが透明人間だとすれば、これも有りかもしれない。
他人の目や、カメラ映像などをジャック(ハッキング)して、その場所に存在しないのに情報を取得するタイプ。
現実寄りのミステリー作品で透明人間の仕業だってなったときの落とし所としてはあるのか…?
煙みたいにすーっと消えて人間の目には見れない大きさに飛散や希釈されて透明になる能力。