はてなキーワード: レントゲンとは
このツケは大きい。
https://twitter.com/2019nCoV3/status/1229789504275283969?s=19
大阪府民です。娘がネフローゼ症候群の既往歴があり、咳、発熱、倦怠感がすでに6日目です。
肺炎にならないと検査はできないと保健所に言われました。毎日レントゲンを撮りに行けと言う事ですか?
https://twitter.com/vs_miho/status/1230785667778498560?s=19
大阪府:66件
和歌山県:238件
https://twitter.com/ChangetheFutur5/status/1230607045935546368?s=19
拡散してください。
私は、国が定める基準に当てはまり、父親も肺炎で入院していたので心配になり保健所に電話したがたらい回し。やっと繋がると、肺炎になるまでは検査できないと
今回の新型コロナウイルス騒動で思い出したのだが、両親がダイヤモンド・プリンセスに乗船した事があり、その際に父がたちの悪い風邪を貰った事があった。
確か季節は8月の末頃で、韓国まで行って帰ってくるだけの短いツアーだったと思う。
ツアーそのものは楽しかったらしく、両親共に帰宅直後は妙なハイテンションになっていた。
そして帰宅して2日くらいに経って父が40℃を超える熱を出した。
母はまだ存命だった母方の祖母が検査入院する為の準備で忙しく、病院への付添いは俺がやる事になった。
当時は豚インフルが流行っていたので、それかなと思ったのだが診てもらったところインフルではないという事だった。
ではなにが原因なんだろうという話になり、医者と一緒に父の話を聞くと船内で風邪が流行っていたという事だった。
「多分、それだろうね。船の中は換気が悪くなりがちだから、病気が蔓延しやすいからね」と医者が言って、父も俺もおそらくそうだろうという結論に至った。
とりあえず一通り検査を受け、肺炎などの兆候は無いと確認されたので、薬を処方して貰い自宅で療養すれば大丈夫だろうという事になった。
父はせっかくの旅行にケチがついたとぶつぶつ言うのを宥めつつ、自宅に戻り父を自室に押し込めておいた。
それで一件落着すればよかったのだが、翌々日になって今度は俺が熱を出した。
父よりはマシだったが、それでも40℃近い高熱で意識が朦朧とし足元がふらついた。
数時間おきに吐き気があり、トイレでゲーゲーしていたら胃液しか出なくなった。
不幸中の幸いといえるのか、ノロウイルスの様に下痢をする事は無かった。
父はある程度熱が下がっていたがそれでもまだ微熱はあり、母は依然祖母を迎える為の準備で忙しい。
仕方ないのでフラフラしながら近所(1kmほど)の病院まで一人で歩いて向かった。
今思えばタクシーを使うべきだったのだが、熱にやられた脳ではその程度の考えも浮かばなかった。
その癖、病院には予め電話をかけて、高熱が出る上、かなりうつりやすい風邪だという事を伝える事は忘れていなかった。
我ながらチグハグだとは思うのだが、当時の俺は他人にこの風邪をうつさない様にする事を重視していた様だ。
マスクと手袋を装備し、夏なのに寒気がするからとコートを着込み、平日だったので人の少ないであろう午前中にフラフラと家を出た。
客観的に見れば明らかに不審者だったと思う。通報されずに済んでよかった。
いつもの三倍ほどの時間を掛けて病院にたどり着くと、受付を経由せずに裏口の様なルートで診察室へ向かった。
子供の頃からの掛かりつけの病院なので、こういう時は阿吽の呼吸的に事が進んだ。
こういう時に掛かりつけの病院のありがたみを実感する。
手早く診察をうけ、念の為レントゲンも取ってもらい肺炎で無い事が確認できたので処方箋を書いてもらい薬局に向かう事になった。
薬局にも事前に連絡がいっていたらしく、パーティションを使って他の客とは隔離される形で薬を受け取る事ができた。
この様な対応は当時、豚インフルが流行っていた事も関係していたのだと思う。
病院から帰る途中は吐き気も加わって、数回道端に蹲る羽目になった。
一度は道端で戻しそうになり、なんとか気合で飲み込んだ。
胃液が食道を通ってカーッとなるあの感覚は思い出すだけで嫌な気分になる。
そうしてヘロヘロになりながら、なんとか自宅に戻り部屋に引きこもってセルフ隔離に移行した。
祖母の世話をしなくてはならない母に万が一にうつったら大惨事だからだ。
この際、吐き気のせいで食欲が湧かなかった事が幸いした。
とりあえず飲み物さえあれば、トイレ以外では部屋の外に出なくて済む。
トイレに行く際は自分の歩いた跡にアルコールスプレーを振り、クイックルワイパーで拭き取って置いた。
3日ほどその様な状態が続いたが、薬の効果もあって徐々に体調は回復し、一週間もすると完調といえる状態まで回復した。
逆に言えば完治まで一週間もかかったとも言える。
一週間も仕事を休む羽目になったので、その後しばらく酷い目にあった。
長々と書いてきたがこの個人的な経験から一つ、今回の新型コロナウイルス騒動について言える事がある。
当たり前といえば当たり前なのだが、病気になった人間は判断力が著しく低下するという事だ。
俺は俺なりに自分がかかった風邪を他人に移さない様に努力したつもりだった。
だが後から振り返ってみれば、とてもじゃないが適切とは言えない行動を取っている。
そもそも父をタクシーに乗せて繁華街に向かった時点でアウトだったと思う。
おそらく、これまでもこれからも新型コロナウイルスに感染した人が、明らかにウイルスを蔓延させる様な行動を取る事例が出てくるだろう。
しかし高熱や肺炎といった症状に侵された人に、感染を拡大させない為の適切な行動を取るよう求めるのはかなり酷な事だと思う。
相当強靭な精神力と、高い判断力、本人の体力、病気そのものへの知識など、余程の好条件が整っていない限り実現は難しい。
行政や医療機関に限らず民間レベルにおいても、感染者がウイルスを蔓延させる様な行動を取る事を前提にして対策を練る必要があるのではないかと思う。
たまたま先日大腸カメラを初体験したタイミングで胃カメラ日記を読んだので、私も書きたくなった。
軽い気持ちで受診した大腸肛門科のレントゲンで、下行結腸が細くなっていると指摘され、カメラをやることになった。
前日用に朝昼晩のレトルト検査食セットを処方された。普通のレトルト食品と変わらない味で量も十分だった。
前日用の下剤がよく効き、深夜のうちに数回下した。
当日午前中、2リットルの下剤を飲む。コップ1杯の下剤を10分かけて飲む、もう1杯、10分かけて飲む、水を1杯、5分かけて飲む、でワンセット。これを5セット繰り返す。
寝不足のせいかなかなか効き目が現れず、ラジオ体操したりお腹をさすったりして忙しい。クリニックがポケモンジムなのにレイドに参加する暇はなかった。
13時に、尻に穴の開いた紙パンツに着替え、点滴を入れて狭い検査室に通された。血圧計や心拍計に繋がれ、横向きになってドクターを待った。
ナースが私の腰と肩に優しく手をのせて、ぼうっとする薬を点滴しているから眠くなったら寝てていいですよ、と声をかけてくれた。私もそのつもりだった。
経験したことのある友人たちからも、変な感じはするけど痛くはないと聞いていた。
ドクターは、強い近視の私には顔は確認できなかったが、声が優しく穏やかな雰囲気だった。
いよいよ始まった。
器具が肛門を通る瞬間は気持ち悪かったけど、そういうものだと思っていたので緊張もなく乗り越えられた。
そして、カメラが奥に入って、入って……?
「痛ーーあーー!」
「痛いよね、ごめんね」とドクター。
私の呼吸はハッハッと短くなり、手の先が痺れ、口はカラカラになった。目も開けていられなくて、ドクターとナースの会話だけが耳から入ってくる。
「ドキドキしてるね」「すごくドキドキしてますね」「増田さん、深呼吸して」
痛みがマシな隙にフウフウと深呼吸する。ああこの感じ、遥か昔経験したことあるわ。陣痛だ。ヒッヒッフーとかやるべきかな。それどころじゃねえわ。
「あー、これはすごいね。グニグニに曲がってる。ヨッと。うーん、進まないねー。増田さん、体勢反対向きに変えられる?」
術着がはだけるけどもそんなことを気にする余裕はなく言われた通りに体を動かす。ドクターの指示でナースが私のお腹を上へ下へ右へ左へと引っ張る。
お腹の中にカメラの存在感を強烈に感じる。痛い!痛い!力が入ると余計痛いだろうから叫んだりはしない。吐く息とともに「いたたたたたた」となんども漏らす。
お腹の中のものを早く出したい!もう産ませてくれ!やっぱり陣痛か!
痛い箇所があって、そこを過ぎれば痛くないんじゃないか、もうすぐ痛くなくなるんじゃないか、そうあってくれと祈ったが無駄だった。
ドクターが休み休みやってくれてたんだと思う。カメラが移動しないときは多少楽になる。でも、奥まで入れないわけにはいかない。
最後は仰向けにさせられて、腹を中から突き破られるような痛みと圧迫感に血の気が引くのを感じながら、ドクターの腸内実況を聞いていた。
「もう一回入れろって言われても俺ムリだわー」
おそらく本気ではなくて、痛みに共感を示してくれているのだと口調でわかった。
で、奥に到達して終わりではなくて、戻りつつ中の様子を診察するのだ。
上行結腸、横行結腸、下行結腸はスムーズに進むが、S字結腸に入ると、カメラの前をすぐに壁が塞いでしまう。
腸をまっすぐに伸ばしながらでないと、カメラに何も映らないのだ。
検査後、処置室のベッドでガスを出しながらうとうとした。腹の中のものを産ませろって気持ちが強く、ガスの大きな音も全く恥ずかしくない。
ちょっと意外なくらい、丁寧に説明してくれた。腸のことに詳しくなった。
私は子宮がない。とある病気で全摘した。その病気に関連して内膜症がびっしりとできていたため、摘出手術のときに腸側もだいぶ焼いたと聞いている。
子宮があった空間には、S字結腸が降りてきて収まる。そして癒着する。
どんな形で癒着するかは運任せで、私の場合、折り畳まれたような状態でくっついてしまった。
ほとんど完全に塞がれたようになる人に比べると運がいい方だけど、構造的に非常に便秘になりやすい。あと、腸カメラが痛い。
レントゲンに下行結腸が細く写っていたのは、S字結腸が下に溜まって引っ張られていたから。
腸の中は何も異常なくきれい。
私は以前に過敏性腸症候群の便秘型と診断されたことがあったが、今回否定的という結果が出た。こういうこともカメラで分かるとは知らなかった。
腸カメラは痛くないものと考えて、ほとんどの人は問題ないと思う。でも、何らかのお腹の手術を受けたことのある人は、私みたいな目に遭うこともあるので担当医とよく相談した方がいい。
検査結果の紙に、
3年に一度程度大腸内視鏡検査を受けることを勧めます。癒着があることを伝え、上手な先生にしてもらう事。
とメモがあった。
レントゲンってそこまで分かるの?
この子は命日が決まってるんだな。
安楽死を決めた時、私はそう思った。
疲労と虚しさMAXだった若かりし頃、実家の犬を恋しがる私に知人が囁いた。
「猫なら手がかからないよ」
あれこれ言い返したと思う。それでも知人は言葉巧みに猫の良さを吹き込み続けた。
結果、私は一度でいいから飼ってみたい、とメインクーンを選んだ。
いい子が安く買えるかも、と安易な思いつきでネットを検索し、ブリーダーからそれはそれはかわいいブラウンクラシックタビーの男の子を譲ってもらった。
買い手がつかず生後半年のその子は、7万円で我が家にやってきた。
残念なことに重度の食物アレルギーを持っていたその子は、メインクーンとしてはあまり大きくなれなかった。
メインクーンの成長が止まるまで三年ほど。その間、血便を伴う下痢を何度もくり返し、体質に合う処方食が見つかるまで一年かかった。
ベスト体重は6.4kgの、男の子にしては小さなメインクーンになった。
ただ、私の猫はとても朗らかだった。
と積極的に会いに来てくれる人もいた。
7歳の時にアレルギーが改善したのは幸いだったと思う。アレルゲンの除去療法に成功したのだと思うけれど、詳細は医学系の情報をあたっていただきたい。
10年生きればいい、と言われた猫は、13歳になった。免疫力が落ちてきたのか、鼻炎で鼻水を垂らすようになったけれど、月に一回の通院で点鼻治療を続けた。獣医が言うには加齢によるものだから、対症療法しかないとのことだった。
13歳になったある夜のこと、帰宅すると猫が倒れていた。体温が下がり、呼吸は荒く、今にもしんでしまいそうな様子だった。
近所のかかりつけ医に連れて行くか、救急病院に連れて行くか、それとも家でこのまま看取るか、悩んだのは10分くらいのことだった。
私は猫をキャリーバッグに詰め込んで、タクシーに飛び乗っていた。
朝まで元気だった。食事を少し残したことが気になったけれど、それだけだ。わけもわからず失いたくなかった。
向かったのは、夜間診療もしている以前のかかりつけ医だった。引っ越しして何年も経つが、カルテが残っていた。
タクシーの中から電話をしたので、急患として即座に処置を行ってくれた。電話を聞いて急いでくれたタクシーの運転手さんにも、病院スタッフの皆さんにも、その間待ってくださった他の患畜の皆さんにも、感謝している。
原因はわからないが肺に水が溜まっている、無気肺を起こしている、心臓が肥大している、明日はないかもしれない、そのようなことを言われた。
今夜が峠ですってやつだな、と頭のどこかで考えていた。原因がわからない以上、治療のしようもなく、とにかく今晩頼んで帰宅した。
妹猫が、不安そうに待っていた。抱きしめて泣いた。
ほとんど眠ることができず、翌朝病院が開くのと同時に向かった。酸素ハウスの中で猫は、ぐったりと寝ていた。声をかけて触ると、目だけでこちらを見た。
猫は三日間何も口にせず、病院に許可を取って自宅からフードを持参した。四日目の朝だ。朝ごはんを完食したとうれしそうに看護師さんが教えてくれた。猫は酸素ハウスの中で座って、帰りたいと鳴いた。
どこかで見た記憶を頼りに、ペット用の酸素ハウスをレンタルして、自宅で看取ると連れて帰った。猫はなかなか酸素ハウスに入ってくれなかったけれど、その間は酸素マスクをそばに置いた。明日にもしぬかもしれない猫を、無理矢理ハウスに入れるつもりはなかった。
毎日好きなものを食べさせた。後にいうちゅ~る食べ放題まつりだ。
内服薬だけはと飲ませながら、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。酸素ハウスを返却した。猫は普通に歩いていた。
猫の中で何がおこっているんだろうと、もう一度病院へ連れて行った。色々と再検査をし、二回目のCTを撮った。前回の入院で右の肺は半分ほど潰れてしまっており、心臓が肥大していた。
「あのあと他の先生たちにも聞いてみたんです。猫ちゃんは重症喘息による無気肺です。あの時は肺炎が合併してああなったんでしょう。また繰り返す可能性はあります」
うちの猫が喘息だったなんて、全く気づかなかった。鼻水を垂らしてくしゃみをしている、と思ったのは咳だった。それと知ってから注意して見ると、くしゃみをする時と、咳をする時があった。喘息の治療をすべきだったのに放置していたことを、深く後悔した。
近所のかかりつけ医は信用できないと、遠くの病院まで月に一回ほど通うことになった。そんな生活を7ヶ月ほど続けた。
ある時、帰りのタクシーの中で猫が粗相をしてしまった。ペットシーツのおかげで大事には至らなかったが、粗相するほど我慢させたことが申し訳なくて、近所に開院した別の病院に連れて行った。
その頃猫はまた鼻水を垂らすようになっていた。それから右目だけ瞬膜が出るようになっていた。年を取ると瞬膜が出っぱなしになりやすいというが、右目だけ? と少し気になっていた。
これまでの経過を聞いた先生も、それが気になると言っていた。ひとまず二週間分の喘息の薬をもらって、信頼できそうな先生だと安心した。
二週間後、先生が言った。
「顔の右側が腫れてきている。鼻の悪性リンパ腫の可能性があります」
そうか、と思った。ショックもあったが、もしかしたら、と思っていたからだ。
「すごく腫れます。ぼこぉって変形してくると思います。最後は悪液質で亡くなることになります」
私の猫は片肺の13歳だ。抗がん剤の治療には耐えられないと判断して、ステロイドによる治療を選択した。
けれど腫瘍を抑えることはできなかった。ステロイドを増やしても、どんどん腫れるばかりだった。
25mg/日を10日間内服させて、それでも腫れが進行していた。鼻血と浸出液で、可愛かった顔は汚れるばかり。けれど拭かせてくれなかった。
ステロイド25mgは5錠になる。朝3錠、夜2錠。追加して抗生剤が半錠ずつ。
苦しみながら飲む猫に、私は治療の中止を選択した。自己満足にしか思えなかった。
薬剤性の高血糖で血糖測定やインスリンもしていたが、全てやめた。
ごはんを食べて、寝る。そんな穏やかな生活は、5日しか続かなかった。
鼻からは鼻血、口からはよだれが大量に出るようになり、ペットシーツが欠かせなくなった。それでも気を抜けば部屋のどこかが血だらけになっていた。
カリカリを食べなくなった。ウェットなら食べてくれたのも2日ほどだった。それからはちゅ~るしか受け付けなくなり、ちゅ~るさえ食べない日もあった。
視神経が圧迫されたのか、目が見えなくなった。突然の全盲であちこちぶつかりながら、恐恐歩くのが可哀想でベッドの上を区切ったらそこで眠るようになった。
トイレにいけなくなった。連れて行くとおしっこはするときもあったが、どんなに踏ん張ってもうんちは出せないようだった。
2週間が経った。
ちゅ~るも食べなくなった。食べられなくなった。
最初は食べようとしたけれど、ひどくむせて鼻からも口からも出血する。鼻と口が繋がってしまったようだった。そのうち猫は食べることを諦めた。
当然水も受け付けない。脱水がひどくなり、あれほど出ていた鼻血も浸出液もピタリと止まった。
このまま家で見ていても、数日で亡くなるだろうと思った。
けれど、体の置き場がないとフラフラになりながら寝返りする姿や、一箇所でぐるぐると回る姿、とうとうベッドの上でおもらしして自分でショックを受けている姿を見て、安楽死を考えるようになった。
別れたくない。悲しい。寂しい。
それと同じくらい、楽にしてあげたい。
戻れないことはわかっていた。朗らかで、やんちゃで、甘えて鳴いてばかりのあの子はもう戻ってこない。
自分だったらどうだろう。ガンの痛みに苛まれて、目が見えなくなって、鼻からも口からも色々な体液が出て、お腹が空いても食べることができなくて、そして今は脱水症状に苦しんでいる。
動物病院に状況を報告した。安楽死も選択のひとつだと思うと先生は言った。
苦しみの合間、眠っている猫を見て思った。
この子は命日が決まってるんだな。
苦しんで鳴く猫を撫でて、体をトントンして、そうすると猫は15分くらい寝る。それからまた起きて苦しむ。
愛しさと諦めが交互にやってきた。
行きたくないと言って泣いた。ずっと一緒にいたい。家で最期まで看取りたい。
猫は眠る時間が少し長くなったように思った。昏睡に近かったのだと思う。
やっぱりやめようか、と言ったのは予約時間5分前だ。
猫は起きて、苦しそうに叫んだ。
看取りたいというのは自分のエゴだと思った。泣きながら猫をキャリーに入れて、病院へ連れて行った。
病院は昼休みだった。着いたときから先生も看護師さんも泣いていた。おとなしい猫のことを、かわいいかわいいと言って撫でてくれた人たち。
点滴の針を刺す。処置室へ移動する。気が済むまで二人で、と先生たちは出て行った。たくさん話しかけてあげて、と。
けれど、声を出したら号泣してしまいそうで、やっぱりやめると言ってしまいそうで、囁くように「いいこ」「ありがとう」とくり返していた。
猫はぐったり寝ていたけれど、起きて、また鳴いた。苦しい、と。
顔を出した先生に、私は言った。
「お願いします」
病院がきらいな子ではなかったけれど、一番好きなのは家に決まっている。
最初に繋がれたのは麻酔薬だった。プロポフォールだと思う。しみる薬剤だから、薬が入る時、猫は苦しそうに泣いた。前投薬をお願いしなかった私のミスだ。
数十秒で猫は眠って、呼吸が浅くなった。
そのあとに二種類入ったけれど、そちらが何だったのかはわからない。猫は呼吸が止まり、心拍が止まった。
二人とも号泣しながら、とりとめもなく話をした。
先生は、前は安楽死に反対していたけれど、自分の猫の時に限界まで頑張らせてしまって、後悔してからは賛成していると言っていた。
「やさしい選択をなさいましたね。いいおねえちゃんでよかったね」
先生は私も、猫も褒めてくれた。
帰ったらお風呂に入れてあげるといいと言われて、本当はもう何も本人の嫌なことはしたくなかったけれど、少し悩んで体を洗った。
たっぷりとシャンプー、リンスを使って、血の塊やこびりついていたおしっこを全部洗い流した。
体を拭いて一番涼しい部屋に連れて行くと、留守番していた妹猫が不安そうにしていた。
帰ってきた兄猫、もう呼吸の止まっている兄猫、私を見て、鳴いた。
「どうして」
体を乾かして、耳や口に脱脂綿を詰める姿を妹猫はじっと見ていた。
すべての処置が終わって、ダンボールに入った兄猫のところにもう一度行って、悲しそうに見ていた。
猫が"死"を理解しているのかはわからないけれど、どんどん具合が悪くなる兄猫が妹猫の相手をしなくなって、苦しそうにしている姿をずっと見ていた。
「もう大丈夫だよ」
妹猫を撫でて、一緒に寝た。兄猫のように朝まで一緒にはいてくれなかった。
猫が生きている間に葬儀社を見繕ったり、アイスノンの用意をしたり、体が収まるサイズのダンボール箱を用意したりするのはつらかった。
でも、しておいてよかったと思う。きちんと見送ってあげることができたから。
鼻血や浸出液の塊を洗い落とした猫の顔は、やっぱり私にとって世界一かわいかったけれど、同時に諦めがつくほどに哀れだった。
大きくなった腫瘍が鼻の穴を塞ぎ、裂いて、口の中まで入り込んでいた。
処置をしなくてもあと2~3日だっただろう。
けれど、その2~3日あとには更に腫瘍が広がっていただろう。
どれほど頑張ってくれたのかわかって、うれしかったし、ありがたかった。
姉が言った。
「いっぱい愛してもらったね」
そう。猫に愛されていたのは、私だった。
安楽死を悩んだ時、はてな匿名ダイアリーの記事がとても参考になった。
自分のペットに対して安楽死を選択したことは、あまり口にできないことだと思う。
それから、鼻腔内腫瘍、鼻の悪性リンパ腫の転機についても可能な限り詳細に記した。
目に見える病気はつらい。これからどうなるんだろう、最後はどうなるんだろう。調べてもわからなかった。
もちろん、早期から悪液質になり、眠るように息を引き取る子もいるとは思う。
ただ、私にはそういう例が見つけられなかった。
ペットロスに関しても、亡くなる前の方がキツかった。
対処法を調べても亡くなったあとのことばかりで、毎日毎分生きてるか不安に思いながら涙する感情に対処する方法は見つからなかった。
結論から言うと、どうにもならない。だからどこにも書いていないのかもしれない。
とりあえずいつでも仕事をやめられるように貯蓄に励むといいと思う。かけられる人は不労保険とかもかけたらいいんじゃないかな。
自分に関して言えば、家で付き添うようになってからの方が不安は少なかった。
4日間の入院で15万円ほどかかった。
薬代が月に1.5万円~3.5万円。
CTが4万円。
もっともこれはミニマムな治療だった。良心的な動物病院だった。
抗がん剤を使っていたら、入院が長期に渡っていたら、考えるとキリがない。
これはもう、べきとか、なるべくとかではなく、事実として。
最低賃金上がればいいのに。
いつかどこかの誰かと猫の、役に立ちますように。
「twitterで感想を見かけたよ」と友達が教えてくれたので、検索して全部読んだ。
自己満足と、もし検索に引っかかればって気持ちで書いた乱文に、たくさんの言葉をありがとう。とてもうれしかった。
今でも歩いている時に何の前触れもなく涙が出たりするけれど、愛の量だと思ってる。
安心してるんだ。もう苦しんでいないって。
でも、私の帰りを待っていることはないって、それがどうしようもなく悲しいんだ。
話が複雑になるので詳細は省いたけれど、妹猫の話を少ししようと思う。
今回記事に書いたメインクーンが超絶寂しがり屋で、一頭飼いしてたら精神的におかしくなってしまったので、保護猫だった年上の女の子に来てもらったのが最初(便宜上姉猫)。
姉猫は10歳で先立ってしまった。その時も色々あったけれど、今回は触れない。
姉猫が亡くなってしばらくはメインクーン一頭飼いだったけど、やっぱり寂しかったみたいで、妹猫に来てもらった。
飼いたくてメインクーンを選んだけれど、飼ってみたらあんまりに愛しくて、猫のことを色々調べるようになって、保護猫問題やペットショップの不適切販売を知ったんだよね。
私は安易に猫を飼いはじめてしまったけれど、だからこそ2匹目は保護猫って決めてた。
妹猫は兄としてメインクーンを慕ってくれて、本当に仲が良くて、その姿は癒やしだった。
その時に弟猫だったメインクーンは、兄猫になったんだ。
妹猫は寂しそうだし、悲しそうにしてる。人間と同じように、悲しみを抱いて生きてくんだと思う。
「別れがつらいから二度と飼えない」って人に伝えたいことがあるんだ。
姉猫が逝った時、もういいかなって私も思った。兄猫が寂しがらなかったら、妹猫は来てなかった。
それは、亡くなったあとも、思い出が増えていくってこと。
妹猫を見て、姉猫はああだったな、こうだったな、って思い出すことが増えた。
最初はちょっとつらかったり、姉猫と妹猫を比べるようで申し訳なくなったりしたんだけど、すぐに違うなって気付いた。
妹猫を通じて、姉猫の思い出がどんどんやさしいものに変わっていった。当たり前だった記憶のひとつひとつが、キラキラ色づくようだった。
亡くなったあとも姉猫を愛しく思う気持ちはずっと続いていた。
兄猫がさみしがらなければ、妹猫が来てくれなければ、知らなかったこと。
きっとこれは、新しい子を迎えるつもりはなかったのに迎えることになったから気付けたことだったので、共有しとく。
別れはつらいけれど、悲しいし寂しいけれど、次の出会いを恐れる必要はないと思うよ。
いつかあなたが、愛し愛される家族とまた暮らすことができますように。
世界一をひとつしか持っちゃいけないって誰が決めたんだ。少なくとも私の辞書にはないな。
生きててくれるだけでよかった。逝ってしまっても愛してる。
あとな、創作って言ってた人な。
創作だったらいいな。
そしたらきっと今頃、どの子もうちで伸び伸び寝てて、パソコンに向かってる私のところに兄猫あたりが飛び込んでくる。
ずっとずっと愛してるよ。
ところでなんで増田なのか(あとでぐぐっとく)