はてなキーワード: 様式美とは
原文:The Un-Internet by Dave Winer
こう書くのは初めてじゃない……
毎回全部書き下ろす必要はないわけで、
もはや様式美になってきた感がある。
何回繰りかえしたかとかは置いておいて、
さあ、もう一回はじめようか。
問題は「コントロール」、これに尽きる。
どういうわけか、IT企業の重役はこれを欲しがるんだけれども、
1994年、この繰り返す世界の年代記を書き始めたばかりの私はこう言った。
「私たちよりもユーザーがまた一枚上手だった。
この業界ではだいたい15年周期くらいでこういうことが起こる。
私たちが足元を見失って、ユーザーが反乱して、新しいソフトウェアビジネスが降臨する。」
そこではこうも言っている。
「ユーザーは一度コントロールを手にしたら、二度と返してくれない」。
御存じの通り、いまそれがTwitterコミュニティで起こっている。
コントロールを欲しがるというのは、別にああいった企業の重役の倫理観のせいじゃない。
短期的にはそれが最善のやりかただからだ。
ありうる道は、ユーザーに手綱をうまくかけられるか、競争に負けるかしかない。
若いころの起業家としての私であれば、そのくらいのことはわかっていたんだろうと言われるかもしれないけれども、そうじゃなかった。
簡単にコピーできるものをどうやって商売にしていいか、分からなかった。
だから、詳しくない人にはコピーできないようにするためのコントロールの方法を編み出した。
すると、私たちのソフトウェアをコピーするためのソフトウェアの市場ができあがった。
けっきょくの問題は、ユーザーは私たちの意図に反することをやろうとする人なのかどうか、ということだった。
ユーザーの皆さんは誇りのある人たちだった。
だから私もするだろうことをした。
200ドルはするそのディスクをハサミで真っ二つにしたものを入れた封筒が、次々に送られてきた。
そうやって欲しいものを手に入れた。
私はようやく、いつもこうなるんだということを思い知らされた。
今回は、Appleがユーザーをコントロールしようとする勢力の親分だ。
ユーザーを守るというAppleの説明は、ある程度までは正しい。
iPadにソフトウェアをダウンロードするとき、害が起こさないということはかなりの程度、信頼できる。
そこまでで済むんだったら、私は何も言わない。
済むはずがない。
相手には、どのソフトウェアが自分のプラットフォームで出まわってもいいかを決める権力がある。
そうなれば、言論も規制されるのは避けようがない。
その意味で、iPadプラットフォームはディズニーランドのようなものじゃないだろうか。
ディズニーランドやPixarの映画にないようなものは、そこにもない。
悲しいのは、Appleが若い世代に対する悪い見本になってしまっていることだ。
若い世代というのは、Appleみたいに「ユーザーエクスペリエンス」をコントロールしたがってそうな、
TwitterやTumblrといった、比較的小さな会社のことだ。
彼らは、自由市場の不確実さよりも自分たちの品質管理のセンスのほうが優れていると思っている。
Twitterでは、Twitterがパートナーとして指定したところのコンテンツしか表示できない。
誰にも見えないようにされている。
Tumblrはあるブラウザアドオンをおすすめしないと言い出した。
これを問題にするのはきっと、それなりの数のユーザーが使いたがったからこそだろう。
この決定は開発者だけじゃなくてユーザーまでも巻き込むことになる。
ユーザーを「教育」しなければならなくなる、というのが問題だと彼らは認めた。
あれ? これって聞き覚えがあるような………
ということで、最後には逆の結果に落ち着くだろう。
そうならなきゃならない、
ということを、インターネットが教えてくれた。
1970年代、それはまだインターネットとは呼ばれていなかった。
その単純さと、コントロールされていないところが好きだった。
あれを載せてはいけない、これは載せてもいい、と命令する人はいなかった。
インターネットが育った周りの環境、つまりメインフレームの世界では、壁はものすごく大きかった。
個人はコンピュータを持てない。
それからループが回るたび、IT業界が持ってくるコントロールを解毒するというのが、インターネットの役割だった。
でも最後には、私たちは壁を乗り越える。
そうするとまた次の壁がやってくる。
成り上がったプラットフォームが数の力で支配しようとする。
そしてまた、おなじ過ちを犯す。
そして、おそらくいつも、インターネットが勝つ。
正月に久々に会う親戚に挨拶がわりに学業や職業を聞かれてニートが答えに詰まるというアレである。
いっそ自室に籠城して小便すらペットボトルで済ませるぞとかいう笑い話まである。
まあ、あくまで笑い話なんだが。
諸兄姉にも経験がおありかもしれない。
挨拶がわりに学業や職業を聞かれて答えると、場の空気を冷却してしまう、あの感じ。
大学入学の年には「うちの家系からそんな天才が出るなんてホンマに誰に似たんかしら」と言われ
4年間あるいは6年間たっぷり天才(笑)呼ばわりされて歯がゆい思いをし
就活の年には「そんな大企業へ決まらはったん!?超一流やないの~やっぱりええ大学は違うんやね」と大げさに祝われ
勤め始めてからは「天下の○○の社員さんと貧乏人のウチが同じ鍋つついとるなんておかしいなァw」と意味不明なジョークを言われる。
そしてお決まりのように、卑屈な笑いを浮かべて、しなくていいのにわざわざ対比して我が子をこき下ろす親戚。
「うちのバカなんてカス高校のくせにロクに通いもせんと・・あいついっぺんタカシ君の爪の垢飲ましたってくれ」
「タカシ君が立派にお勤めしとるいうのにあーの馬鹿息子はまーだフラフラしよってからにしょーもない・・」
そしてタカシ君は居心地の悪い謙遜を強いられ、
ついでにクズでカスのしょーもない従兄弟をやんわりと擁護させられるのである。
「いやぁ僕なんてガリ勉なだけがとりえで・・・カズオ君は昔から活発な人でしたから」
とかなんとか言って。
心にもない賞賛と心にもない謙遜。
いい加減めんどくさいのでやめたい。
「そうですね僕は着々と努力してきましたから、今のところお陰様で目標通り人生が進んでますね。
でもこれからどうなるかはわかりませんけどね、このご時世だれだって先行きはわからないものですもんね。
カズオ君もカズオ君なりの考えがあるんでしょうし、彼の人生ですから、フリーターもいいんじゃないですか、ある意味では。
今の時代はフリーターだからといって世間様に恥ずかしいってことはないでしょうし。」
とか言ってみたい。
向こうだって本当に思ってること言えばいいのに。
ここで日記を書くという行為になにを求めてるかって言うのは人それぞれなんだろうけど、暇な時にぼーっと眺めると面白い。
ちゃんと書かれてる記事に文章力がないとか釣りだろ、とか書き込む人がどんな気持ちなのか自分には未だにわからない。
あからさまに釣り臭いとそれは釣り乙、とか、釣りって分かってるけど、とかっていう返しまでが様式美なんだろうけど。
どこかからのコピペだろなんて決め付けて得意げな顔してる(だろう)人の気持ちなんて全然理解できそうにない。
自分にとって文章を書いたりすることが発散することであるように、そういう人たちにとって
「こいつの日記何?釣り?文章力無い、小学生以下、バカ」そんな風に求められてもいないトラバをすることも発散なんだろうか。
そりゃどんなトラバしようが自由なんだけど。
でも、「釣り臭い」と「文章力の足りないガチ話」の間みたいな雰囲気を醸し出す日記と、それにつく叩きを見ると、変な気持ちを未だに味わっている時がある。
ブクマとトラバの数のギャップを見て、関心の対象に分断があるというよりは、ブクマをみて増田に書き込みをわざわざするという新規参入組というのは基本的に少ないんだろう。
となるとトラバの数は、増田に常駐している人の数に比例することになるのだが、それにしてはトラバの茂り方に偏りがある。内容、分量、時間帯とも。
議論というのは二人以上でするのが普通なのだが、偶然?同じタイミングで対話の形にみせかけた議論が行われたりするw
なので、異端者がたまたま入り交じったときには、議論の進め方に顕著な違いをみることができ、常駐者のイライラ感を見て取ることができるのだが、まあそんなことは稀だ。基本的に。
そういう意味で、増田に常駐している人は、関心の対象(直近ではhttp://anond.hatelabo.jp/20110812151413、http://anond.hatelabo.jp/20110812145633)にかなり偏りがある。
本人は気がついていないのかもしれないけど。
活動例
大体問答はテンプレみたいなものであり、一定の様式美に則って行われていることがわかる。
目的を達成すると速やかに遁走するので、余分なトラバがつかないことも特徴の一つである。
話題をそらすために行っていることもあり、論点をずらす手法には特定の傾向を見て取ることができる。
なにより、短時間に短文のトラバをつけるところに、心理の一端を見て取ることができる。
特定の内容の時だけ使用する文体が出現する。そしてそいつが複数出現するも、内容は同じ。
Togetter - 「カオスラウンジ騒動に対する、東浩紀と村上隆の対話。」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/151267(はてブ)
この梅ラボ関連の話題は、東浩紀の言うように、かなりめんどくさい。でも、思ったことをまとめていこうと思う。
なんというか、周期関数かとツッコミを入れたくなるぐらい同じ話題が繰り返されているような気がしますが、こういう創作に関しては、原則として「やっていけないものはない」という前提があります。
極端な例示をするなら、「無差別殺人をしてその血をテンペラ画のように塗りたくって、最後にその包丁を突きつけなければ作品が完成しない」として、じゃあ人を殺してはいけないか、ケチャップじゃいけませんか、というとそうじゃない。
人を殺した代償として裁かれるのであって、人を殺していけないわけではない。
つまり、量刑と藝術を天秤に掛けて、藝術の方に重きがあるなら殺しても仕方がないでしょう、殺された人には気の毒ですが。やっぱり刑は嫌だな、となれば別な作品を探すしかないでしょう。
つまり、何次創作を作るにせよ、著作権なんて屁じゃねーよ!っていう無敵の人にとっては「著作権違反だ!」も「愛がない!」も説得力ゼロなわけです。まあ私自身も、ああいう手法を以て「誠意がない」とか言う批判は正直アホだと思ってます。
繰り返しますが、著作権は明らかに違反していますよ。あとは訴えられるかどうかです。そして、その訴えられたかどうか、刑に処されたかどうかというのは、作品評価の是々非々とは一切無縁だということです。
むしろこの騒動自体は、騒げば騒ぐだけ大成功ということになりますし、私はもう成功したとみなしています。ふたばがどうだ4chがどうだというキメこな起源の文脈はあまり本質ではありません。
たとえば、まあこういうところで引き合いに出されるだろうものとしてマルセル・デュシャンの「泉」があるでしょう。男性用小便器に署名だけして出品したあれです。
今同様のことをするなら、それに小水でも引っ掛けて署名の代わりとし出品するでしょうか、もうされたかな?
作品に関して端的な説明とデュシャンの人となりはここが短くて分かりやすいかと思いますのでどうぞ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakaoku(06-7-31))←括弧付き年月日までURL
そしてもう一人、アンディ・ウォーホルも取り上げるべきでしょう。Togetterまとめの中では、鶉アイコンが今作とウォーホルとを態度の違いで「同列には語れない」などとアホ臭いことを語っておりますが全身全霊をもってスルーしてあげてください。(ウォーホルの言う「表だけを見てください」というのは、裏がないことを意味しない。逆もしかり)
今回の騒動は明らかにこういった系譜の延長上にあります。ゆえに、「もう面白くない」というのはまっとうな言い分であると私も思います。デュシャン以降、何が独創性たりうるのかという問題を突きつけられた芸術家達は、常にデュシャンを意識せざるをえないのです。あの藝大アカデミズムからの反動ガチ保守な村上隆さえも。
このキメこな騒動(そもそもキメこなが使われてるのは一部なんですが)以前にも、近い話題としてChim↑Pomのいわゆる岡本太郎の絵画に添えつけた「原発アート」の話題がありました。
これも同じく私は成功したとしている(というか基本こういうやり方もある、という人が界隈では多いのですが、社会との関わりもあって留保的な回答にせざるを得ない)のですが、権威を借りただけだどうだといろいろな反響がありました。
しかしながら、こうもたてつづけに同じような反応を見ていると、何かを感ぜずにはいられません。
藝術と法律というのは別レイヤーで処理されるべきものであり、例えば貨幣偽造にしても千円札裁判のようなものは、法律で裁かれるのはともかく、「裁かれたのだからこれは藝術ではない」と看做している人が一定数存在するような気がしてならないのです(すなわち、同じレイヤーとして法律>藝術という階層がある)
そして著作権違反だという申告をする人々らは、おそらくその人が裁判にかけられるということそれよりも、「こんな表現が藝術として認められるわけがないから、法律で裁いて非芸術にしろ」という動きのようにも見えるのです。
それ自体はひとつのリアクションなので、どうということはないのですが、様式美にハマっているような気がしないでもないです。
(まとめ中で村上隆が「赤瀬川原平との呼応は矮小化だ」とこきおろしてますが、彼は矮小化の意味をわかっていないのではないでしょうか?あるいは、本質であるところを意図的にずらして矮小化を捏造しているのだろうか?もっとも、彼の態度は藝術と非藝術は明確な区切りがあると考える立場だと察するので、何か藝術階層から退けられる言葉があれば何でも良かったのかもしれませんが)
まあ僕の意見としては、こうして日本にも藝術が浸透していくのは大変喜ばしいことであり、みなさんどんどん騒いでください、というぐらいの感想です。
ちょっとないくらい太ももが好きなのだ。ぼくは。ぼくは、太ももが好きなのだ。
最近、そういうファッションが流行っているのだろうが、ショートパンツにオーバーニーソックスという組み合わせをよく見るようになった。大変なことになった、と思う。きみたちにも、朝のつらい電車の中で、やっとの思いで座席を確保して、そして幸せな気持ちでうつらうつらと舟を漕ぐことがあるだろう。そしてなんとなく覚醒して、これはいけないぞ、乗り過ごしたか、と思って、はっと駅名表示を見ようと思うだろう。だけどそのとき、ショートパンツとオーバーニーソックスの隙間から見える太ももが眼前いっぱいにあったとしたら、どうだろうか?
もはや駅名どころではなかったのだ。ガン、と見た。むしろ、太ももが目をそらすことを許さなかった。世界に、ぼくと、そして太ももしかないかと思われた。とにかく、ぼくは太ももの放つ妖しいなめらかさと、血管に心奪われて、我に返ったとき、つまるところ、太ももが電車を降りたときには、目的の駅をだいぶ過ぎたあとだったのだ。きみたちにも、そんな体験がありはしないだろうか?
だいいち、あのファッションはよくないのだ。しわになりがちな膝だとか、上のほう部分を隠しつつ、大事な太ももだけを、いかにもここが大事なのですよ、どうぞご査収ください、以上宜しくお願いいたします、といわんばかりに公開するという手だ。けしからん、と思う。よくない、と思う。肝心な部分というのは、そうでないたくさんのものに囲まれているからこそ、美しい輝きを放つのだ。ぼくはDVDが好きで、よく見るのだけど、新作となると必ずといっていいほど冒頭に「初体験は何歳?」「今まで何人と経験した?」などというインタビューが入るのだ。バカモン、と思う。こんなのいるか、と思う。そんなインタビューより大事なものは、たくさんあるのだ。だけれども、そういうつまらない部分を始めから切り捨ててしまえば、それはヴェテランの出演している作品と見わけがつかなくなってしまう。ヴェテランの作品というのは、安定感があって、それはそれでよいのだけれども、いくつもDVDを見ていると、その安定感が物足りなくなってくることもあるだろう。そういうときに、新作を見るのだ。新作には新作のよさ、そして何よりも様式美があって、だから一見つまらないものに見えるインタビューは、意味があるものなのだ。だからぼくは、きちんとインタビューを見ることにしている。それが。それがあのファッションは。あのファッションはなんだ。
でも、と思う。でも、あのファッションをするほうの気持ちも考えよう。考えるべきだ。ぼくもドンキでオーバーニーソックスを買ってきて、履いて考えてみた。ショートパンツは恥ずかしい、でも、履きたい、履きまくりたい、DAITANになりたい、と思っている女性はいるだろう。でも足をさらけ出すのには抵抗がある。そこでだ。そこで、上からの丈が短いのならば、下からの丈で補おう、という合理的なものなのだ。誰もが生足魅惑のマーメイドではないのだ。だいいち、生足魅惑のマーメイドということは、上半身のほう魚だということで、一言で言えば、それはタンノ君だ、ということになる。誰だってタンノ君にはなりたくない。しかしオーバーニーソックスを履けば、足の大部分は隠しているということになる。しかも、すらりとしたシルエットまで浮かび出てくる。軽い締め付けによって、血管、太もものなめらかさ、アンニュイな感じ、血管、絶妙なむっちりぐあい、撫でてよし叩いてよしの万能さ、そして血管たちが、重要なリアルとして立ち上がってくる。一石万鳥の効果だ。合理的だ、と思う。
ぼくは、目が覚めた。悟りを開いたなどという大それたものではないけれど、とにかく、これで全てがわかった。ファッションは移ろうものだし、太ももと、そして太ももを取り巻くたくさんのものは、これから変わり続けていくけれど、僕と太ももとの関係だけは、変わらないでいて欲しいと思うのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110312095407
http://anond.hatelabo.jp/20110313093908
http://anond.hatelabo.jp/20110313105827
http://anond.hatelabo.jp/20110315235842
http://anond.hatelabo.jp/20110320182154
http://anond.hatelabo.jp/20110322001634
http://anond.hatelabo.jp/20110326133235
一日中薄暗い部屋の隅で背中を丸めてディスプレイに向かい、ひたすら増田をチェックし続けてサヨクをたたき続ける様を想像すると涙を禁じえないよな…。
きっと母親が死んだ魚のような目をして作った食事がドアの前に置かれていて、夜中にのそっと部屋に引き入れて食べるんだぜ。
たまにドアをノックされると机を蹴ったりモノ投げたりして、親は泣きながらドアの前を後にするんだろうな。
定年も間近に迫り、景気は悪く実は家の財政は昔ほど良くないが、息子はそんなことには気づかない。
親は泣く泣く老後の蓄えを切り崩して息子を食べさせている。
実は母親は癌の疑いが見つかっていて、近く病院で精密検査をすることになっているかもしれない。
そんなことすら息子は知る由も無いんだろう。
そう、kanoseにも「いつづけているひと」と称されるちんけで無残な人。おそらくサヨクから哀れみの目で見られることがつらいのだろう…。でなければ、これだけの長文を度々書かないものだ…。
丁度タイムリーな記事見つけたので貼っておく
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20101102/216933/
↑にしろ元増田にしろ、ちょい昔から居る所にはどこにでも居る女性だと思うけど
(ガールズトーク(笑)だとそのうち「ゲイ男性と偽装結婚したい」と続くのがいつものパターンであり最早様式美。
しかしゲイ男性もどうせ偽装結婚するならレズビアン女性の方がいいだろう)
↑の日経BPの米欄でフィクションだと言い張ってる人達の存在が気になる。
なんでみんなスルーしないんだって、そりゃ相手を罵倒するのが楽しいからだよね。
まさか本当に「彼を更正させよう」とか、「後からきた人が感化されないようにがんばる!」じゃないでしょ。
ヨゴレを明言して、芸能人でいえばイジリー岡田みたいな人に対しては、おもしろ半分に罵倒するのは当然だよね、安心して罵倒できるし。
後、内容が単純であることも重要。
彼は過激でおかしいって意見もあるけど、思想はネット上においては普通というか、2chにかいてあるような事だし、文章の構成は「世の中こう言うけど、俺はこう思う!」っていう感想でゴリ押しが基本だから「それお前の主観だろ」とか「過激な事言えばいいの?」って言うだけで気軽に否定できて、つまり罵倒内容が作りやすいんだよね。
安心して、楽に、楽しい罵倒ができるから、そりゃみんな罵倒するよなーっていう。集団リンチたのしいです、って感じ。
もちろんリンチされる側は、そこはえがちゃんですから全然意に介しませんよ。だから良心すら痛まなくていいね。
ここまで彼の話に限定しちゃったけど、大抵の炎上記事は「こんな過激なこと言い放つ俺かっこいい!」と、「お前過激きどってるけどうすっぺらいよ」みたいな感じで相互に言い合って相互が気持ちよくなってる感じ。もう様式美というか、プロレスだよね。
以前から言われてるけど、炎上ポストってのはそういう意味でWin-Winっぽい。だからなくならないんじゃないかなー。
本気の人もいるかもしれないけど、冷やかしとか便乗が8割以上じゃないのかな。
話題を変えちゃうけど、彼がああいうコメントを、ブクマとかTwitterとかだけで放言してるなら、こんな話題にならないよね。
つまり実名ブログはそれなりに露出力、影響力があるんだなー。だから炎上ネタは自分のブログでやるべきですね。
さらに話変えちゃうけど、そんな影響力もあるえがちゃんは、最近感想文しか書いて無くて、残念。
彼が流行った08年頃の記事は支持もあったけど、去年や今年は炎上記事ばっかりだし。
(http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=count&url=http://blog.livedoor.jp/ikiradio/)
罵倒・炎上でネット芸人ブロガーとして食ってくなら、これはこれでいいとは思うけど、違うらしいし。
当初彼が支持されていた部分はすっかり見えなくて、非モテ管理人以外の肩書きが増える事もなく、彼のエネルギー?に当時ちょっと期待したのになー。
ファミリーだか弟子だかチームだかも1〜2年立っても誰も表だってでてこないし(一回悪い意味でニュースになったけど)どうなってんだろ。あと会社はうまくいってるのかなあ。
一応外野きどりという事は、今は嵐かエイトあたりに降りてるのかな?(なんとなく)
キンキに限らず、ジャニヲタにはこれぐらいイっちゃってる人は結構いる。
特に2chばっか見てるか、同担(同じ人のファン)のブログしか見ないおばさんに多い。
メンバー(或いは共演者など)のせいで、自分の贔屓の頑張りが台無しじゃない!とか、
あいつと組んでるとあの子は輝けないのよ!可哀想に!とか、モンペア化しちゃうんだね。
ブクマでも言われてるが、「ジャニの様式美を守って努力する」という事が、必ずしも
一般的に通用する「正義」ではないっていう事に、この人は気付いていない。
「ジュニアでコツコツ頑張って来た子をさしおいて、下積みないのにゴリプされやがって」
ジャニーさんに贔屓されるのも一つの才能だし、そういう運みたいなものも、芸能人としては
大切な事のような気がする。
高評価だと聞いて発売日に買ったんだけど、未だにクリアできていない。
私がSRPG苦手だってのもあるかもしれない。けれど、攻撃力をガツガツあげていけば敵を即死させられるし難易度普通を選んでるからスパロボに比べればかなりのヌルゲー。事実、レベル上げも楽しいし、ハクオロさんの防御力すでにカンストしちゃってるよ。
キャラも生き生きしてるし燃えも萌えもあるし、笑えるし、ほのぼのできるし確かに良ゲーだと評価されるワケも分かる。
けれどなんだ、この言いしれぬ不快感は。
私の嗜好にあっていないんだろうな。なんでこんなにイライラしながらゲームしてんの?馬鹿じゃないの?って気持ちでプレイしてる。でも、そのワガママな気持ちが湧き上がってくるのは時々なんだよ。大半は笑いながらプレイしてるんだよ。でも、ここが嫌だなぁ、じゃあどんなところが嫌なの?って気持ちに探りを入れると、よけいにイライラしちゃうんだよね。自らストレスに突進すんな自分。死ね。
“残してきた想い”までプレイしたけど、思い出す限りイライラしたところ書いてみる。
1)エルルゥ、ハクオロさんに惚れるの早すぎ。いくら可愛くて性格も良い娘でも、いきなり女房面されると引くわ。これは私がエルルゥに嫉妬してるのか?それともハクオロさんに嫉妬しているのか?とりあえずヒロインが恋に悩んだり嫉妬したりするのをみせて萌えさせておこうという制作側のあざとさに過剰反応してるのか?
2)最初はエルルゥの対応にイライラしてたけど、話が進むにつれて影が薄くなり、とってつけたようなハクオロさんとの絡みがあり(ていうか、ハクオロさんはいつエルルゥを女性と意識し、愛するようになったんだ?)、エルルゥのハクオロさんに対する愛情が一方通行すぎてむしろ泣けてくるし、最近では応援する始末。むしろ煮え切らないハクオロさんの態度にイライラする始末。あまりの報われなさに様式美すら感じてくる。それをコメディタッチに書いているからよけいにイライラする。乙女の純情を玩んでるんじゃねー!最初は私も「エルルゥ可愛いよ」なんて思ってたけどさ!
3)最初は格好良かったハクオロさんが、今ではギャルゲ定番のヘタレ八方美人に成り下がった。ハーレムは摂取しすぎるとウザイだけ。一人くらい険悪な女キャラがいてほしい。そしてそのキャラをゆっくりと落としていってほしい。むしろ最後まで「私はお前を認めん!」な態度であったらもっといい。
4)オボロが弄られすぎて可哀想すぎる。いや、この落差があるからこそ、きちんと決めてくれたときの展開に熱くなれると分かっているんだ。けれど私はオボロが大好きなんだ!好きなキャラが毎回毎回、貧乏クジひいてるのを見ると怒りを通り越して悲しくなってくるよ!最初は「そんなオボロだからこそ…」とか思ってたけど物には限度ってもんがあるんだよ!
5)カルラ関連のイベントには物申したい。私が思うに、カルラは相当プライドが高く、己の本心を語るのは最大の恥辱、弱みなんて一欠片も見せたくない、そんな女性だ。その気位の高い女の弱みをにぎっているのに、どうしてハクオロは徹底的に弄らないんだ!?カルラの口から直接、はっきりと、嫌悪感たっぷりの表情で、あるいは恥ずかしがりながら本心を言わせてこそ男ってもんだろうが!そして吐露させたあと「よく言ってくれたな」とさりげないアフターケアをするまでのイベントを私は見たかったんだよ!…ハクオロさんの性格上、どだい無理だって分かっているから、私は妄想するしかない。
つーか、最初は最強主人公っぽいハクオロさんが好きだったのに、話が進むにつれて光の速さで敵味方、老若男女関係なくモテるところとか、浅はかで事なかれ主義な性格にイライラしているよ。私はそんな彼を羨んでいるのか?まぁ、このゲームのターゲット層を考えれば仕方のない流れとは思うんだが…。
この後の展開は、ハクオロさんの正体が分かって内部分裂が起こるんだろうなぁ。ハクオロさんは最終ボス的な扱いで、自分を責めたり自暴自棄になったり、鬱展開が繰り広げられたり、ベナウィに殺されそうになったり、そんなハクオロさんをエルルゥが全力で受けとめ、盾となり、「殺すなら私を殺してからにしなさい!」とか叫んだりするのかなぁ。正体が分かってもアルルゥは最後までハクオロさんを「おとーさん」なんて呼んだりとか…。
この手のジャンルに共通の、ある種の様式美とかファンタジー感じてて、それがめっぽう好き。
とても褒められた趣味じゃないので、嫁にも隠してるけど
パソコンの中はそういったものでいっぱいです。
でまあ、生身で体験したいかって言われたら絶対NOですね。
私も女だが、陵辱、輪姦、触手が大好きです。
この手のジャンルに共通の、ある種の様式美とかファンタジー感じてて、それがめっぽう好き。
とても褒められた趣味じゃないので、旦那にも隠してるけど
パソコンの中はそういったものでいっぱいです。
でまあ、生身で体験したいかって言われたら絶対NOですね。
当たり前、とか言えるのかわかんないけど、
別にね、こういうのが嫌いだって言う人は男女関係なく多いと思うし、
理解して欲しいとも思わない。
だから、その手の愛好者は見たくもない人の目に付かぬよう極力配慮する義務はあると思う。
そして理解できない人に無理に理解を求めてはいけない。
その結果が「なぜ女がレイプエロゲをするのか」程度なのだから。
見えないところで、ひっそりやっているのだから、どうかその存在だけは許容して下さいと。
そもそも、「自分の理解の範疇を超えた存在があるべきではない」という
理屈がまかり通っている点に、はなはだ疑問を感じます。
見たくないものは、見なければいい。
でもそれを見たい人の邪魔をしないで。