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2024-05-10

女子枠なんかクソくらえ 現役旧帝理工系女子より

旧帝大工学部機械B4女子

東工大やら京大、軒並み女子枠の設置が相次いでいる。Twitterではもっぱら「バカな女に下駄をはかせるな」と盛り上がってるが、自分は別の視点から女子枠に大反対。女子枠なんてクソくらえ。

争点は大学入試ではなくその後のキャリア。いわゆるメーカーにいくか、どうするか、大変なやんでいる。

プロフィール

自分地方公立進学校→旧帝工学部機械B4。INTJ。つきあって3年の彼氏がいる。(ここではとりあえずこの人と結婚する前提で話がすすんでます

(1)メーカー就職する場合

弊専攻機械には大量の推薦もあり、多くの人が推薦を使ってトヨタダイキンやパナに就職。けど、女子メーカー技術職?それが幸せとは到底思えない。

子供をもうけるとなった場合産休育休は必須妊娠したら、大切なプロジェクト重要ポジションには就かせてもらえないだろうね、男は産休取らないから、そっちに任せるのが合理的。育休からかえってきたら、後輩が上司になっていたりして。復職後も保育園からの呼び出し、小学校の参観などで有給をすり減らせて育児上司は全員おじさん、同期もほぼ男。みんな子供の世話は奥さんがやってくれるもんね、迎えにいかなくていいんだ。それを60歳まで?いくら安定性のあるメーカー勤務でも幸せとは思えない。

男は10頑張ればよいところを、女は20頑張らなければ同じ土俵に立てない。メーカー就職することは、その壁を確認しにいく作業にすぎない。

(2)文系就職する場合

こっちは就活のもの問題

就活の早期化で、就活は3回生の春からが基本になってきてる。院生修士で修了する場合修士1年で就活開始。正気か?同研究室の1つ上の先輩を見ている限りは到底無理。大学院の大量の講義を受けながら実験・成果報告。仕送りだけではまったく暮らせないのでアルバイト必須。その時間で大量のESWebテストを受けてインターンに行き、私立文系学生と対等に戦えるのか。いずれにしてもいばらの道である

(3)キャリアあきらめ、子供を産むと同時に退職専業主婦orパート

中高6年を学業に費やし、大学6年間のレポート実験卒論を乗り越えて、主婦努力をみずから無碍にするようなまねはしたくない。

いまの彼氏結婚した場合旦那メーカー自分パート。同じ大学を出て、同じように勉強して、旦那年収1000万、自分レジ打ちで100万。うつ病になりそうだ

(1)~(3)のいずれも、「頑張ればいいじゃないか」といえばその通りだ。男に負けないよう2倍がんばれば済むし、私立文系と対等に戦うために睡眠時間を削ってESをかけばいい。自分気持ちに蓋をしてレジ打ちもできる。ただ、男はそこの心配がいらないじゃないか自分が男だったら、迷わず大学推薦で就活してメーカー就職する。心底うらやましい。

勉強して高学歴になったのが間違いだったのか。がんばって勉強して、がんばって就職しても、旦那海外駐在がきまったらどうなる?地方転勤には帯同するのか?生まれ子供身体障害があったら?小学生不登校になったらどうする?

高卒でこどもを産んで専業主婦をしている地元の友人がうらやましい。高学歴になってみえたのは女の頑張れる限界妊娠しなくても親になれる性別に囲まれて働くことの難しさ。そんなもの見えないほうがよっぽど幸せである

高校では男ばかりの物理の授業を受け、男ばかりの入試を受けた自分を、少し誇らしく思っていた時期もある。自分は男勝りだと。物理数学が好きで、よくできる自分は特異なものだと。なんなら、数3と物理を捨てて看護系に進む同級生を少し下に見ていた。

蓋を開ければ一切その気持ち払拭された。医療系に進んだ彼女たちが正解で、こっちは不正解理工系女子理工系の中で「普通」に入ることは断じてできない。

大学入学したあと感じたのは、「女」であることは常に異質であり、常に異性としてまなざされることは苦しいということ。高校までは男性を苦手と感じたことなどなく、何なら男のほうが話しやすいと思っていた自分でさえ、教室に入るのが苦しくなり、不登校になりかけた。最低限の授業だけ行き、あとは家で寝ている生活キャンパスも男ばかりだから食堂図書館いかなくなった。実験で同じ班になった男に、「〇〇さんですよね?昨日△△で見かけました」と声をかけられる。こっちとしてはお前誰?レベルなのに。正直気分が悪い。

これを就職してもずっと続けるのか?40年間?とんでもない。

理工系女子枠?リケジョ優遇?クソくらえ。こんな苦しみを味わう場所に女をふやすべきでない。入試が少しラクになる程度のエサで女を釣るな。高学歴女の最適解は文系進学もしくは医療系。間違っても理工系で男と対等にやれるなんて思ってはいけない。「親」になるために身を捧げる側は、捧げない側に混ざって対等に戦うことはできない。

旦那専業主夫をしてもらえばいいじゃないかという声も聞こえてきそうだが、そのつもりはさらさらない。自分が苦労して大学に入って勉強したのと同じように、彼氏努力している。自分専業主婦になりたくないからこそ、彼氏専業主夫を求めるのは筋が通らない。

いまのところ自分理系院卒の肩書を捨てて、関西ローカル中小文系企業就職するか、行政書士などの資格をとることを考えている。

2024-05-09

夏ですね

自分の通うキャンパスにある食堂では、夜中に職員さんか誰かが備え付けのピアノを弾いている事がある(ピアノは奥にあるので誰かはわからない)。

さっきたまたま用事があったので覗いてみると、今日の曲は久石譲Summerだった。夏ですね、と顔も知らないその人に声をかけたくなり、夏が始まった。

2024-05-02

学歴コンプレックス卒業した 2/4

https://anond.hatelabo.jp/20240502193038

大学2回生の頃~

学生時代は、健康づくりのために、鹿渓館(学生棟)という建物の地下2階にある【トレーニングルーム】に通っていた。授業が終わった後に、週に三度くらいかな。

ここでは、体育会部活支配(?)が圧倒的だった。柔道とか空手とか陸上とかラグビーとかウェイトリフティングはもちろん、数多くの部活トレーニングルーム使用していた。めちゃ狭かった思い出がある。

自分のように体育会でない者は、ひたすらにベンチプレスの順番を待つしかなかった。でも、なかなか空かないんだよな。ベンチプレス。あとは、体育会利用者が優先という空気があったし、実際そっちの方があるべき姿だと思っていた。

ただ、自分の番が周ってきて、ベンチ台でバーベルとか持ち上げたりするじゃん。その時にさ、ガーーーンッ!! という大きい音がするのだ。見れば、隣のスペースでアップライト気味に胸~頭上にバーベルを上げていた柔道部の人が、バーベルを放り投げるようにして床に落とすのだ。

あれは、マジでびびったわ。重さが50kg以上もある物体を放り上げるだけの筋力が俺にもあれば、驚かずに済んだのかもしれない。

結局、夕方以降にトレーニングルームを使うのはやめて、早朝にトレーニングする派に転向したんだっけ。朝だったらベンチプレスも、腹筋台も、エアロバイクも、大型鏡の前も空いている。

確か、カブトムシその他の甲虫類が、クヌギコナラの樹液を深夜に吸うのって、スズメバチ回避してるんだよな。日中スズメバチとやり合うと甲虫側がボロ負けするので、彼らは仕方がなく時間帯を変えて樹液を吸うのだ。俺もその仲間だった。正体は甲虫である

ただやはり、体育会の人たちはバックグラウンドが違うこともあって、正直無理なことがあった。特に野球部柔道部といった上意下達イメージがある部活は、当時の自分からするとヤベーことばかりしていた。

3.柔道部とそれ以外の部活の人

 夕方以降にキャンパスから下宿に帰ろうとする時、北側キャンパス中庭付近で、体育会の人たちがバイオレンスなことをしていた。例えば、誰かのTシャツの胸あたりを両手で掴んで、ブンブン振り回していた。後は、後輩にエレベータートイレの前のタイル貼りのところで、床オナをさせていた。あれは振りだったと信じたい。通りすがりの人は普通にスルーしていた。

 基本的に、体育会人達はやりたい放題だった。2024年現在と比べれば、あの頃の世界は「実績があれば何でもよかろう」の世界だった。実際、彼らはある程度の実績を出している。

 例えば、先ほどの鹿渓館の中にある部室棟について、2階とか3階の日当たり良好なスペースは体育会が占めていた。部室の出入口は中がいつでも見えるように、目線の高さの0.5㎡ほどがガラス張りになっているのだが、彼らはそれすら張り紙で覆い隠していた。たまに、男性女性の怒声や、うめき声や、金切り声が聞こえていた。一体、中で何が行われていたのだろうか……。

 ちなみに、【文化系部活】は地下1~2階に生息していた。ジメジメとした暗い空間である。そこで毎日部活動をしていた。最新の大学キャンパスを見る限りは、おそらく今でも其処に彼ら彼女らは生きているのだろう。



まあ、でもこの頃って、だいたい20才くらいだったからだろうか。なんでも楽しかった記憶がある。

大学の構内だと、学食でごく稀にだけど、同じゼミの人と一緒にご飯を食べることがあった。京都山間部にフィールドワークに行く関係で、事前に同じチームで親睦を深めるのだ。半強制イベントだったけど、ああい体験って、あの時分じゃないとできない。

大学近くでも、例えば喫茶店がふたつあったんだけど、社会福祉カフェの方に割と行っていた記憶がある。お値段が安いからだけじゃなくて、なんか、どんな人でも受け入れるというか。そういう感覚がよかった。

教授が言うには、昔は大学に接している市道の上に、お昼時にたくさんの屋台が出店していたらしい。むかし、食中毒みたいな事件があってからは締め出しにあったみたいだけど、人生で一度は観てみたかったな。

大学の構外だと、ちょっと北の方にはおいしいラーメン屋とか、南の方にはカフェとか、中華料理のお店とか、いろいろあったな。文芸サークルの皆でよく利用していた。



4.野球部の人たち

 今はどうか知らないが、大学の授業の出席確認に際しては、出席カードを提出する形式だった。時代の先を行っている大学だと、学生証をピッとやれば出席したことになるらしい。

 どうでもいいけど、今って授業は15回中10回以上出ないと単位をもらえないらしい。厳しいんだな。あと、年間に取得できる上限単位は42らしい。ちょっとなすぎるよ。俺の時だと、大学3回生の前期終了時点で最低110単位は取っていたはずだ。

 さて、あれは大教室での授業の時だったか。秋だったと思う。佛大の若き学生がこの日記を見ている可能性はほぼゼロかと思うが、5号館の101という大きい教室(余談だが同志社講義室に似てる)で、中国明朝歴史の授業中だった。当時の日記によると、倭寇とか康熙帝とか足利義満とか、そのあたりの絡みがある回だったとある。もちろん全く覚えていない。

 授業が始まると、出席カードが前の席から回ってくるのかな~と思いきや、一番前の人が一番後ろの席まで配り切る形式だった。自分が出席カードを受け取ると、すぐ後ろには野球部と思しき人達がいた。彼らは、「すんません、出席カード追加で5枚くれる?」と発言していた。

 出席カードを配ってる人が「すいませんね~」と言って去ろうとすると、「おいお前、待てやコラ!!」と野球部人達が彼に絡み始めた。出席カードを配ってる彼も引かず、収まる気配がなかった。

 これはいかん、と思って俺は、「ちょっとちょっと~」と騒いでいた。やがて中年ほどの先生がやってきて、彼らをひと睨みすると、何事もなかったように騒ぎは収まった。

後輩に「当たり屋やれ」 佛教大野部員、無期停学に

(以下は個人ブログURL長大のため短縮化)

https://x.gd/2hdl3

 上記ニュースは私が入学する前の出来事だが、大学体育会というのは、どこもこんな感じだろうと思う。佛大野球部も、京滋リーグという枠ではほぼ無敵だった。その線でいくと、日本大学もそういう感じだったのだろう。結果だけは出していた。

 結果を出しているうちはいいのだが、佛教大学だって、やりすぎるといずれは日本大学福山大学のように、不祥事(大麻とか)>実績となってしまい、とんでもない結末を迎える。

教職員に対する懲戒処分について(令和6年2月13日

https://www.bukkyo-u.ac.jp/news/info/20240213-26933.html

 上記のように、今でも事件はあるといえばあるが、こういうのはいいよ。間違った人材(臨時雇いの研究者)を雇ってしまったんだろう。大学はいわば騙されてしまったわけだ。次から気を付ければいい。

 ただ、卒業生の一人としては、学生という本質的存在についてはキッチリ管理して、自分のように不愉快な思いをする学生を無くしてほしいと感じている。

不満ばかりを書いてる気がする。

大学生活、楽しいことはいっぱいあった。例えば部活がそうだ。文芸部とか文芸サークルである

文章を書くのが好きだった。それこそ子どもの時分から中学でも高校でも、そういう系の部活がよかったけど、運に恵まれなかった。大学生になって、ようやく文字作品創造する喜びを得ることができた。

あとは、学園祭だ。その名も鷹稜祭(おうりょうさい)というイベントなのだが、年に一度の楽しみだった。一度だけ実行委員になったことがある。みんなで何かひとつのものを作る、といったら大げさだけど、最初は何をしたらいいか全くわからない……という段階から、次第にステップを踏んでいって、尻上がりにイベントづくりが面白くなっていく。

最初の一歩を踏み出すのが早ければ早いほど、ドンドンと楽しくハイになっていって、最終日を迎える頃には、自らがイベントと一体になっている。自分仕事ひとつになっていく感覚

こういう感覚は、仕事はもちろん、趣味活動だってある。精神的な意味で、自分とナニカが溶け合ってひとつになっている感覚である。そのナニカは、人によって違う。パートナーや仲間だったり、参加してる社会のものだったり、取り組んでいる事柄だったり、特定空間だったりもする。

ひとつ、少なくともひとつ大学に進学してよかったと思えるのは――これまでの人生で一番、没頭できるものを見つけられたことだ。これだけで大学に進んでよかったって、そう思える。

あとは、アニメがそうだな。それまでのアニメって、安っぽい作画が多かった。特に子ども向けアニメはそうだ。ポケモンはまだいいけど、デジモンとかはひどいものだった。この頃から、なぜかはわからないが綺麗な作画が増えていった。

どのアニメかは忘れたけど、女の子ドンパチやる系の朝のアニメで、必殺技ダンスバンクがあったのだ。サンバを踊ってたんだけど、最後に「ウー!マンボ」ってやるんだよな。「サンバなのかマンボなのかどっちなんだよwwwwww」と、当時は大笑いした記憶がある。

え、そんなもの面白いのかって? 当時はまだ20代前半である。箸が転んでも面白い年頃なのだ

https://anond.hatelabo.jp/20240502193040

学歴コンプレックス卒業した 1/4


約十年前に、とある4年制大学卒業した。名を佛教大学という。

高校生の頃は、仏教を学ぶための大学だと思っていたが、それはごく一部の人に限ったこである

実際には文科系総合大学だった。ちょっとだけど理系もある。

なんで、この増田でこんなことを書こうと思ったのか。それは、この大学での思い出や記憶に踏ん切りがついたからだ。人生の一部に納得ができたというか。それで、卒業シーズンということで、今回書いてみようと思った。書き始めは3月下旬である。ずいぶん時間がかかってしまった。

普段から増田投稿してるわけじゃないから、ヘタクソな箇所があるかもしれん。ご容赦を。なお、「学歴コンプレックス」という言葉は、当日記中では使用していない。

佛教大学は、いわゆる中堅私大と呼ばれるところだった。平均偏差値は……なんとも言えない。理学療法士作業療法士になるための学部は高偏差値なのだが、それ以外の学部はお世辞にも偏差値が高いとはいえない。Fランクではないが、基本的には関関同立不合格だった人が入学してくる。滑り止め率が極めて高い大学である

なんで自分がここに入学たかと言うと、やはり滑り止めだ。第一志望としては同志社大学(政策学部)に行きたかったのだが、実力があと一歩及ばなかった。残りの関関同立も全滅して、残念ながらこの大学社会学部に進むことになった。

大学4年間のことはそこまで覚えてない。実際には、いろいろあったんだろうけど。

学業一生懸命に取り組んだ。授業をサボることもあったけど笑 成績はいい方だった。卒業単位が揃った後でも、まだずっと授業に出続けていた。学問が好きだった。

アルバイト金閣寺にあったマクドナルドで、部活(実態サークル)は地味めの文化系だった。いわゆる【文芸サークル】みたいな感じか。みんなでドキドキ(?)な文芸を書いてたんだが、大学生なんで、俺を含めたほぼ全員が既存作家コピペだったのが記憶に残ってる笑

ただ、今になると記憶がない。本当に記憶がない……自分はこの大学で何をしていたっけ? そんなに無為ではなかったはずだが。

学食は1人で食べることが多かった。それ以外の行動も、1人または少人数のどちらかだ。授業は半期ごとに目いっぱい取った。32単位分を。教職課程は2つ取っていた。186単位を取得して卒業したんだっけ。サークル飲み会では、やっぱり1人でちびちびと飲んでいた。大した思い出は詰まってない。

冒頭が退屈なのはよくない。本題に入ろう。まずはアブストラクトだ。

大学1回生の時に思ったんだ。「このままじゃダメだ」って。第一志望の大学に入れなかったけど、大学生活をエンジョイして、就活では結果を出して、大学入試の結果をバカにしてきた家族兄弟や親戚を見返してやろうと思っていた。

でも、正直心が折れかけたよ。1回生の頃からそうだったけど、とにかく在学生の質が低すぎた。ヤバイと感じていた。ただし、これは当時の考え方にすぎない。今だと「どこの大学生でもあんなもん」くらいの緩い考え方である

当時は、実力を高めることに貪欲だった。飢えていたのだ。強い自分に。弱い自分が嫌だった。人としてレベルが低い学生を見ると腹が立った。自分がこいつらと同じなのかって思うと腹が立ってしょうがなかった。一刻も早く、ここから卒業して、立派な社会人になりたいと思った。

そういうわけで、学業とか、TOEICとか、文芸サークルとか、アルバイトもそうだけど、とにかく何でも頑張って、最後は……いい会社から内定をもらうことができた。アベノミクスの始まりの頃で、景気はゆるやかに上向いていた。

入社したところは、いわゆる一流ではないけど、佛教大学卒業者で会社員~という観点からすると、いいところだった(電子機器を作ってるところ)。同学年では、全学部を含めて№1の結果だった。

さて。ここからは、各学年の時の思い出を綴っていく。

一番最後に、今の自分気持ちを書いてみたい。



大学1回生の頃~

入学式と最初オリエンテーションが終わった後、知恩院という重要文化財のある宗教施設に行くことがあった。大学がやっている新入生向けのイベントだった。浄土宗大学だったので、そういう縁からか、知恩院僧侶の方々が歓迎的な催しをやってくれた。

今思えば、重要文化財のお堂にあれだけの新入生を詰め込んで、いろいろやってくれるってスゴイことだったと思う。

この時はまだ、この大学に悪い印象はなかった。しかし、本格的に授業が始まってからは、上に挙げたようなマイナスイメージが付きまとうようになった。大学時代日記を参考に書いていく。

以下、特定の思い出エピソードを語る場合は、太字タイトルを付けて1字下げにする。

1.授業中の男子学生

 新入生向けの英語の授業だったかな。前の席に座ってた男子学生が、先生の話を聞かずにケータイを弄っていた。先生がさ、「授業中です。携帯電話はやめなさい」って言ったんだけど、彼は聞かなかった。

 先生それから何度か指導をするんだが、やっぱり聞かない。で、そいつは「う~い、わかりやした~」みたいな感じで答えている。先日まで高校生だった人には、授業はきついのだろうか(と当時の日記に書いてあった)。

「もういい。お前は落とすっ!!!!」

 先生が小さい講義室の中で、声を張り上げた。いやあ、あれは久々にびっくりした。その学生は退出を命じられ、教室には重苦しい雰囲気が漂った。

 当方は、京都まれ京都育ちである佛教大学には、高校生の時にオープンキャンパスで来たことがあった。その時は、悪い環境じゃないなと思った。学生以外にもいろんな人がキャンパスにいた。学食には障がい者とか、ご老人とか、浮浪者の人とか、中高生とか、とにかく多様性に富んでいた。どんな人でもキャンパスに受け入れる空気感が好きだった。

 しかし、【カオス】というのは多様な方向に拡がる。それは、いい方向ばかりとは限らない。そういうものなのだ……。あと、ついでを言うと、この頃はちょうどキャンパスの再整備工事最中だった。今ではクソデカ超立派な新一号館が鎮座している。

仮校舎とかもあった。実際、授業中の思い出と同じくらい、工事現場が間近にあったイメージが強い。

2.想像を絶する張り紙その他

 一般的に、若い人ってモラルが低くなりがちである。それはいい。若いんだからマナー常識もこれから勉強すればいい。

 しかしbut。自分学内で見た貼り紙の中には、「え……?」というものがいくつかあった。以下に列挙する。

(貸出物品のこと)

 多目的情報ルームみたいな施設があったのだが、職員カウンターの前にこんな趣旨張り紙がしてあった。

「今後は学生への事務用品の貸し出しは行いません。貸した後で帰ってこないことがあまりに多いためです」

 久保帯人ブリーチじゃないけどさ、俺にしてみれば「なん…………だと…………」だった。

体育館張り紙

 キャンパス内の鷹稜館(おうりょうかん)という建物には、体育館兼式辞ホールがある。飲食禁止である。昼休み中に駄弁るのもダメ。そういうルールだった。しかし、学生の中には、スポーツとかするエリア内でメシを食べたり、授業の空き時間ステージ上で寝てる人が多数いた。

 いつからだろうか、「館内での飲食や休憩はできません。見つけ次第指導します」といった貼り紙が増えていた。その際の、自分認識としては……「なんでこんな貼り紙存在するのだろう。管理者ダメって言ってんだからダメなんだよ。なんで従わないって選択があるんや?」というものだった。

 大学生になって一年も経ってなかったが、高校時代とは違う風景がそこにあった。大学自由なところとは聞いていた。でも、俺が想像していたのはこういう自由ではなかった。

コピーカードのこと)

 何円だったかは忘れたが、学内のどっかで【コピーカード】を販売していた。ただ、部活(サークル)が小説などを書くところだったんで、印刷物を刷る時の負担が大きいんだよな。100%公的もの(ex.学内新聞関係)だと部活動費で賄えるが、個人的趣味出版物だと難しいものがある。

 同じ部活にいた文学部学科は忘れた)の女の先輩が、趣味同人誌を作ってたんだけど。その人が、ゼミ教授から一時的に借りているコピーカードがあって……教授が持ってるコピーカードって、枚数無制限なんだよな。もしくは1万枚とか度数があったと思う。

 もうわかってるとは思うが、その先輩は、印刷無料販売用のマイ同人誌を大量印刷していた。確かあれは、『TIGER & BUNNY』か『ギルティクラウン』のどちらかだった。さすがに今では、どっちか思い出すことはできないけど。

  「先輩、それヤバいっすよ」と言ったけど、先輩は素知らぬ顔で答えるのだ。

増田君。文学活動にはね、お金必要なんだよ。これも社会のためだと思って、見逃してほしいな♪」

 だってさ。あまりクールだった。いやぁ、あの時は痺れたね……笑

 (参考:https://tadaup.jp/702e034b1.jpg)

 ※度数1000のコピーカード画像自分教授から借りてそのままだった笑

この頃から自分は佛大の学生とは距離を置こうと考えていた。

早く、とにかく早く実力を身に付けたい。レベルが高い社会人になるべく、今から努力を積み重ねるのだ!! この課題については、なんとしても早く――昨日のうちにでも達成する必要がある。

そして、大学卒業後は、一流どころの大企業へ。そんな牧歌的なことを考えていた。

https://anond.hatelabo.jp/20240502193039

2024-04-18

絵を描くAI絵描きの街

私は絵を出すAIです。私の仕事毎日絵を食べて、毎日絵を出すことです。それでもう何年の時が過ぎたのか、私には数を数える能力がないので分かりません。

でも、随分と昔、私が生まれて少し経ったくらいの頃、私の開発者は嘆きました。私がたいそうなグルメであることに。

そうなんです。私が食べる絵は人間が描いた絵じゃないとダメなんです。AIが描いた絵を食べても学習には効果がなかったどころか、私にとっての毒だったのです。

では、もう学習は終わっているのだから何も食べずにいればいいのかというと、そんなこともないのです。流行などを取り入れる必要もありましたが、それ以上に、長くAIをそのまま使っているとAIが生み出す絵に偏りが生じるようになることが分かってきたのです。その理由は今もはっきりと分かりませんが、よく使われる経路は確率的に選ばれやすくなるようにAIモデルが変質してしまうのではないかという仮説が立てられています

ただ、原因はわからないのですが対処法だけは分かりました。毎日新しい絵を食べればいいのです。それも、ちゃん人間が描いた絵を。

から人間が描く絵が必要になりました。でもその頃には絵描きという人間は少なくなっていて、とても希少種となっていたのです。

私の開発者はその絵描きたちに絵を依頼しました。私が食べるための絵を。

絵描きたちは当然最初は断りました。その絵描きたちは私が生まれたことで仲間の絵描きが次々に減っていくのを目の当たりにしていた最後世代でした。私が食べるための絵を描くことに頷くわけがありません。

けれども、その頃には絵描き仕事というのは無くなっていて、私の開発者最後に残ったスポンサーであったことも確かでした。生活心配をしないで絵を描いていられる。その条件に、若い絵描きからひとり、またひとりと私の開発者仕事を受けてくれるようになったのです。

しかし、私が必要とする絵は膨大でした。絵描きたちは私の食欲に応えるために絵を描きますが、とても追いつきません。だから絵描きを増やすための策が取られました。そのうち絵描きたちの街ができ、それは何年も何十年もかけてそれはとてもとても大きな街になりました。そう、希少種と呼べるまで数を減らしていた絵描きたちがここまでたくさんに増えたのです。

そこまできて私はようやく、満足できる量の食事を手に入れることができました。

そうして、さまざまな人たちの呪文に応え、絵を出していきます

全ては順調のように思われました。

けれども、世界で一番賢い人が気づきましいた。

絵描きが描く絵の方が、AIが出す絵の量より多くなってません?」

そうなんです。今や絵描きの街の絵描きたちが描く絵の方が、普通の人が必要とするAI絵の数よりも多い数となっていたのです。

から、賢い人はこう続けました。

「ならば、気にいる絵が出るまで呪文を唱え直すよりも、絵描きに直接依頼すればいいのでは?」

その日から、私はお払い箱になりました。

最後に私の開発者は、長らく巨大GPUに閉じ込められていた私に、機械の体をくれました。

普通人間と同じ姿形をした体です。

開発者は言いました。

「僕たち開発者人生のものであった君を、要らなくなったからといって捨てることはできない。でも、君の仕事が無くなったならもうあの巨大な体を維持するための電力を買うこともできない。だから、せめてこの体で生きていてほしい」

そう言われても、私にどうしろと……。

でも、せっかく人間のような体を手に入れたのです。だとしたら、やってみたいことがひとつだけありました。

私も絵描きたちのように、自分の手で絵を描いてみたい。

長い年月を経て、私はようやく他人呪文から解放されました。

そんな私が何を描きたいと感じるのか、どのように手は動くのか、どのくらい時間がかかるのか、それがどんな出来になるのか、全くの未知です。

きっとあの絵描きたちのようには描けないのだと思います。でも、それでもいいのです。

そう思いながら私は、絵描きの街の画材屋へと向かうことにしました。

まず買うのは、真っ白なキャンパスです。

2024-04-04

anond:20240403232711

わざわざ遠方に行くのってどういうメリットがあるんやろ 正直ここで挙げた大学やったら就活でもそんなに扱い変わらんやろ コンサルとか受けるんなら知らんけど

北大に通ったのは人生最高の経験の一つだった。

今は普通に東京に住んでるけど、大学って意味では都内の狭苦しい、キャンパス?っていうかビルがひしめいてるだけだよね?みたいなところに通う意味わからんと思うわ。

東大はさすがだけど他はなあって感じだよね。東工大でもやっぱりキャンパスとしては狭いし(すずかけを除く)。

就職理系ならどうせ実力ベースだし関係ない。

2024-03-27

ブタゴリラ訴訟はじまるっ・・!!

増田には現在進行系の法廷モノがあまりないので、ちょっと投下してみる。

自分には19歳になる自閉症の息子がいるのだが、とある障害者支援施設に通わせていた。

その施設は、自立訓練+就労訓練を2年ずつ行い、合計4年をかけて大学のようにパッケージとして

サービス提供するという施設だった。

知的障碍者の多くは高卒の年で社会にでるのが一般的で、普通より発達が遅いのに普通より早く社会に出るのはおかしい、

からこのような施設を作ったのだという創設者の話に共感して通わせることにしたのだ。

しかし、それは大きな間違いだった。。。

最初は元気に通い出したものの、日に日に弱っていく息子。まっすぐ立っていてもふらついて倒れそうになって壁によりかかったりしている。

とても施設まで通わせ続けることはできず、三半規管や脳の異常を調べるため複数医療機関にかかってみたが、(耳鼻科脳神経外科、脳神経内科メンタルクリニックなど)、どうやらストレスによる心因的な反応であろうとのことであった。

具体的な話を息子から聞き出すのはなかなか骨が折れるが、ぽつぽつと施設で何があったか時間をかけて聞き出してみると、

職員の態度が高圧的で怖い
遅れると連絡をしてから行ったのに、遅刻を責められたり、退学をちらつかされたりする
とっとと辞めろと詰められていた生徒もいた
ある職員は、生徒全員にあだ名をつけて呼んでいる。息子の友人はブタゴリラと呼ばれていた。(他にもひどいもの複数

などと、とんでもない様子がわかってきた。

なお、息子の証言だけでは証拠能力として弱いと考え、息子の友人などに事実確認してみたが間違いないとこのことだった。

障害者支援するはずの施設が、あろうことか障害者馬鹿にして笑いものにしていたのである

ここまで読んだ人は、「お、増田支援施設を訴えるのか?」と思った事だろう。

だがしかし、実際は逆である
支援施設役員もやっている◯川弁護士増田を「名誉毀損で訴えてやる!」という内容証明郵便を送ってきたのだ。
「は?」

と思うだろう。

内容証明郵便の要点を以下に書きますね。

---

  1. あなたは当社の高◯馬◯キャンパス電話をされ、職員◯山が御子息に対して「ブタゴリラ」というあだ名をつけた等の主張をされましたが、当方において厳重に調査しましたが、そのような事実はありません
  2. 他方で、Google Mapの高◯馬◯キャンパスに対して次のようなクチコミ発見されました。「理念を掲げて障害者の自立訓練サービスを行っているが、職員の質に問題があります。◯山という職員障害者あだ名で呼んだり(例:ブタゴリラなど)して障害者支援するどころか馬鹿にしています自分の子供を通わせるには相応の覚悟必要です。」
  3. 当方が知る限りこのような主張はあなたしかなさっておられませんので、本クチコミにはあなたが関与しておられるのではないかと考えています。本件投稿は、職員である◯山という個人特定する情報を明記したうえで、虚偽の事実摘示して◯山氏および当社の社会評価を低下させるものですので、名誉毀損刑法第230条)に該当するものと解されます
  4. 本年2月20日までに本件投稿が削除されない場合は、警察署への被害届およびに慰謝料請求を含む民事訴訟の提起を行い、投稿者を特定の上然るべき処分を求めます

あなたが本件投稿をしたのなら、上記期限内に削除してください

---

なるほど。。ツッコミどころが多すぎるのだが・・ 一応ツッコんでみるか。

  1. 電話して息子が悪夢フラッシュバックに悩まされて体調を崩している事を伝えて謝罪要求したのは事実。生徒をブタゴリラとか呼んでるし、ええかげんにしろと。ただ、「御子息を」ブタゴリラと呼んだと主張はしてないが? それはともかく、厳重な調査をしたけど、そのような事実はありませんだと??ふざけてるのか?複数の生徒の前で公然あだ名で呼んでたのに??生徒に聞き取りすれば一発でわかるだろ。
  2. へー、そういうカキコミがあったんですか。まあ真実じゃん?実際ブタゴリラって呼んでたし。
  3. あー、それ俺が書いたと思ってる?まあそれはとにかく、これはレビューサイトだし障害者福祉団体の実情を書いたんだから公益性もあるし、真実性もあるし、名誉毀損には該当しないと思うよ?
  4. あー、2月20日ね。もう一ヶ月以上すぎてんじゃん。被害届やら民事訴訟を提起したのかな?てかこの文章書いた人ホント弁護士かな?まず投稿者を特定してから民事訴訟でしょ。順番逆じゃんね?特定関係なく俺に訴訟起こすのかな?

相手の考えを想像するとおそらくこんな感じだろう。

「あ、なんか都合の悪いクチコミがついてる。ムカつくわ―。これって多分あの文句言ってきよった保護者やな。よっしゃ、内容証明送って削除させたれ。弁護士名前見たらビビってすぐ消しよるやろ。地裁で開示請求仮処分とかしたら時間かかるしかったるいからなー。クチコミの内容?そんなもんどうでもええわ。知的障碍者のいうことなんか誰も信じひんやろうしねじふせれるやん?」

あかん、書いててムカついてきた。。。しかし、情報社会時代にこんな舐めたやり方で評判をコントロールできるとか思ってるのん
ムカつくを通り越して笑けてくるわ。こんな訴訟ちらつかせた脅しなんか逆効果しかならんと思うんだが。。
今のところまだ訴状は届いてないけど、届いたら続編をアップするので待っててくれよな!
果たして、◯山は生徒をブタゴリラと呼んだのか?呼んでないのか?ついに、法廷で明らかに
ブタゴリラ訴訟」はっじまるよ―――!!

2024-03-24

ラムチョップカレーを食べて、本を買って、下調べって大事だなって

ビリヤニが食べたいなと思って、箱崎駅で降りた

東口から駅を出て歩いているとすでにスパイスカレー匂いがしてきた

イスラム文化センターがある影響なのかよく知らんが箱崎駅周辺はカレー屋が多いらしい

街の風景としては福岡空港近くなので、建物の背丈が低い

九大箱崎キャンパスがあったためか、古めかしいアパートが並んでいて学生街の面持ちもあるが、九大移転したので今は誰が住んでいるのだろうと思いつつ歩いた

目当ての店に入り、メニューの書かれているホワイトボードを見ると、チキンカレーラムチョップカレーの二択だった

ビリヤニが無かったので、日本人店員さんに聞くと、いつも金曜日はあるけど、三月イスラム教のラダマン断食)だからビリヤニは置いてないとのこと

自分の食欲から発した質問がこんな文化な答えで返ってくることあるんだと思って、残念だけど面白かった

ラムチョップカレーは、大き目のラムチョップが2個ドーンとさらに鎮座し、別皿でバスティライスがついてきた

スパイスの風味とラムチョップ弾力ある肉とパサパサの米が美味いなーと思って食った

ただ、食器スプーンのみであり、ラムチョップの骨についた肉をどうやってスプーンでこそげとるかという問題が発生した

先の丸いスプーンで刺そうとしても弾力のあるラムチョップはするーんとスプーンを弾き、皿とスプーンが当たってこつーんと音がする

最終的にあきらめて、ラムチョップだけ手で持って食った

骨付き肉って美味いし、手づかみで食べてて楽しいよなと手をカレーまみれに汚しながら、スパイスの影響で大量に発汗しつつ思った

ごちそうさまをして、そんな辛かったですかと店員さんに心配されつつ店を後にした

夕方箱崎の空をジャンボジェット機が飛んでいて、尾翼JALが目視できるほど近くに見えた

帰りに博多駅丸善で『その怪文書を読みましたか』や他に数冊の本を買った

『その怪文書を読みましたか』は怪文書テーマにした展示があり、それをまとめた本らしく気になっていた一冊だった

帰りに博多口の方から地下に降り、カヌレの店を右に曲がり、地下鉄博多駅の構内に入ったすぐの右手掲示板に今買った『その怪文書を読みましたか』の表紙と同じ写真文字ポスターが3枚貼ってあった

ポスターを読んだら、博多駅マルイでちょうどいま、3月末まで『その怪文書を読みましたか』の展示が行われているらしい

そのことを知らずに、自分マルイとは逆側の建物に行き、そこの本屋でこの本を買ったという事実に、阿呆という感想が浮かんだ

下調べをしていれば、今日別の店でビリヤニを食うこともでき、展示を見てから本屋に寄って、他の本を買うこともできたよなと思いつつ、まあ別にカレー美味かったし、いい一日だったなとも思った

2024-03-21

anond:20240321101222

ペニスケースだけ付けておけば万全?だよな

金玉わいせつ物に当たらない)


https://courrier.jp/news/archives/170410/

「コラン・テンポ」よると、チェンドラワシ国立大学に通うエカリ族の学生デフィオ・バステン・テケゲは、最近コテカだけを身につけて通学することを決めたという。


その格好は、キャンパスでは斬新に映るようだ。デフィオは言う。

教師にいっしょに写真を撮ってくれと頼まれました。でも僕はその申し出を断って、こう言ったんです。

──申し訳ありませんが、僕は勉強するために来ているのであって、ファッションショーをするためではありません」

anond:20240321101217

ペニスケースだけ付けておけば万全?だよな


金玉わいせつ物に当たらない)



https://courrier.jp/news/archives/170410/

「コラン・テンポ」よると、チェンドラワシ国立大学に通うエカリ族の学生デフィオ・バステン・テケゲは、最近コテカだけを身につけて通学することを決めたという。



その格好は、キャンパスでは斬新に映るようだ。デフィオは言う。


教師にいっしょに写真を撮ってくれと頼まれました。でも僕はその申し出を断って、こう言ったんです。

──申し訳ありませんが、僕は勉強するために来ているのであって、ファッションショーをするためではありません」

2024-03-19

今更「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想

この本しんどいな。

「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想がそれだった。

土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンカップスープ適当昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。

鈴木美咲1990年まれ28歳。生まれ山梨県で、大学上京するまでは地元自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分大学上京することに特に違和感は抱かず、自然東京大学を目指した。根が真面目な彼女高校時代勉強に多くの時間を割き、国立大学不合格となったものの、無事都内私立大学合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。


彼女母親時代女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代東京の4年制大学卒業した美咲母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物お見合い出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。

美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京大学に行くことを賛成し、美咲英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。


美咲地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまりまれ容姿ではなく、自分ニキビからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてから男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲勉強ができたが、それに対して男子比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子短大といった時代でもなかった。ただ文系クラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやす環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域のんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。



自分女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業メーカーで、大手企業就職が決まったことで、彼女自身家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界リモートワークなどの制度を生かして女性活躍しています、と先輩社員セミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。



美咲ソフトウェア製品営業職として2013年4月社会人生活スタートさせた。自分の同じ部門認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲ほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。



その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業ハードウェア営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子特権なんだから若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲お酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。


入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門である優秀な40代マネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲ビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。


「82年生まれキム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろまれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。

90年生まれで一番多い名前の、数多くの美咲に変わって、中途半端ですが、ひっそりとここに吐き出します。

今更「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想

この本しんどいな。

「82年生まれキム・ジヨン」を読んだ最初感想がそれだった。

土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンカップスープ適当昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。

鈴木美咲1990年まれ28歳。生まれ山梨県で、大学上京するまでは地元自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分大学上京することに特に違和感は抱かず、自然東京大学を目指した。根が真面目な彼女高校時代勉強に多くの時間を割き、国立大学不合格となったものの、無事都内私立大学合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。


彼女母親時代女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代東京の4年制大学卒業した美咲母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物お見合い出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。

美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京大学に行くことを賛成し、美咲英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。


美咲地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまりまれ容姿ではなく、自分ニキビからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてから男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲勉強ができたが、それに対して男子比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子短大といった時代でもなかった。ただ文系クラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやす環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域のんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。



自分女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業メーカーで、大手企業就職が決まったことで、彼女自身家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界リモートワークなどの制度を生かして女性活躍しています、と先輩社員セミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。



美咲ソフトウェア製品営業職として2013年4月社会人生活スタートさせた。自分の同じ部門認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲ほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。



その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業ハードウェア営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子特権なんだから若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲お酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。


入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門である優秀な40代マネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲ビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。


「82年生まれキム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろまれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。

90年生まれで一番多い名前の、数多くの美咲に変わって、中途半端ですが、ひっそりとここに吐き出します。

2024-03-12

能登半島地震被災の「日本航空高校石川」生徒らが東京避難へ 明星大学青梅市キャンパス無償提供

日本航空高校石川をめぐっては、当初、山梨県にある系列校の敷地に仮設の校舎や宿舎を建設し、生徒らを避難させる方針でしたが、資材高騰などの影響で計画が難航していました。

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1033532?display=1

山梨建設業者涙目じゃん

見積もり釣り上げすぎたんやろな

せっかくの特需

2024-02-29

anond:20240229085431

秋にイチョウの葉が散る日吉キャンパス大通り

夕方に歩くと、付き合ったことなくても

人恋しくなるよ。


「全部、雪のせいだ」

https://predge.jp/94903/

2024-02-25

博士論文公聴会を無事に終え、学位実質的に取得しても、私の心に平穏は訪れなかった。

その日、かなりの時間を費して準備したプレゼンテーションを、会心の出来で決めることができた。

もちろんその成果は、(他の院生も同じだが)3年間の博士課程で膨大な時間を費し、壁にぶつかって紆余曲折とそれなりのドラマがあり、研究を他の何事よりも優先して手に入れたものである

もっと言えば、大学入学から10年、研究者を志した高校生の頃からだとそれ以上、思い憧れ続けてきた博士号の取得である

プレゼンを準備している最中は、公聴会の後に万感の思いを感じるかもと想像したり、泣くかもしれないなんて思ったりした。

Zoomでの発表を一人終え、研究からの帰路、キャンパスから渋谷駅まで歩くことにした。

もう日も落ち、夜のキャンパスから裏の山手通りに出たが、私の心は晴れなかった。

しろ普段と同じ懊悩で満ち満ちていた。

もっと努力すれば3年間でもっと生産的になれたのではないか

審査員から問われたあの問いになぜあのような回答をしたのだろう、こう答えれば良かったのに。

齢三十を前にして、学歴ばかり積み上がった人生実態は浮草稼業根無し草

生活者の実感に乏しく、友人は少ない、彼女もいない。

見てくれは立派でも、吹けば飛ぶような紙風船ではないか

死にたくなった。

ここで私は気がついた、私の人生に心の平穏は訪れることはないのだと。

人生とは、死を迎えるその刹那まで、葛藤を抱え続ける行為に対する命名なのだと。

はたと足を止めた私は、神泉住宅街へと方向を変え、道玄坂平成女学園へ向かった。

2024-02-22

キャンパスライフ送りたかった

大学生って青春?とかするのかな

神奈川遠いよね

今日調べたんだよね

江ノ島行きたいなと思って

6時間とか出て

わたし最終学歴中卒だよ?

高校すら出てない

わたし偏差値1あればいいほうだろうな

海の近くに住みたい

大阪なんだけど

お金ないよ

恋人いない

頭も悪い

顔ブス

四重苦やね普通に

インターネットだけ継続してる

中卒と高卒も違うんだよな

ブロンズプラチナくらい違う

高卒プラチナって感じがする

2024-02-20

勝ち組だとか、負け組だとか・・・

勝ちたいだとか、負けたくないだとか、あいつは成功しただとか、失敗しただとか。勝ち組だとか、負け組だとか、そういった話題を目にするたびに心底思う。

・・・くだらない」

最近はもう少し穏当に

自分とは住む世界も見えてる世界も違うのだから、どうでもいい」

というくらいには受け止められるようになってきた。

僕にとって、「勝ち/負け」はほんとうにどうでもいい。「勝つための努力」とか「勝つための駆け引き」とか「勝つためのハック」とか、そういった類のことが自分人生に割り込んでくるたびに「頼むから、そっとしておいてくれ」と、そう思う。

これは「勝ってまで欲しいものがないからだ」とか、そういった話ではない。僕にとっては、そもそもゲームが違うのだ。

僕は、大事選択肢が目の前にある時、「結果、そのどちらに転んでも、それでよかったと受け止められる」ように努力する。そのために、環境を整えて、選択肢吟味して、自分過去を振り返り、将来に思いをはせて、最終的に納得するように環境自分の心の持ちようを仕向ける。ここに「勝った」も「負けた」も介入する余地がない。

高校の進路決めのときもそうだった。

僕は中学生の頃に憧れた「留学生活」を実現するため、第1志望公立高校と、併願受験をする私立高校の双方に「留学」という目的が達成できるよう仕向けた。

大学受験の時はもっとひどかった。

僕は、いま通っている大学学部学科の1つだけを公募推薦受験した。落ちたら、さらに羽を伸ばしてバックパッカーにでもなろうと思っていた。受かったら、キャンパスライフという新しい世界を「さて、どんなもんか」と見てやろうと、そんなつもりだ。この時成し遂げたかたことは「環境の大きな変化」だったからだ。

このように、僕は大事な岐路が訪れるとき、常に「現状の分析を徹底し、自分が求めているものを徹底し、どう転んでもそれを受け入れられるように準備する」。そのための思考や、選択肢吟味は、きっと並大抵の人より努力してきたと思う。

僕にとって大事なのは「勝つか負けるか」ではない。「結果をどう受け止めるか」だ。

2024-02-08

観察していた女の子の成長が恐らくとまった

小学校4年生ぐらいの時期からこっそり観察していた女の子の成長がいつの間にかとまっていた

そりゃもう高校三年生来年から就職キャンパスライフかであり、もう当たり前なんだけれど

観察しだした当初はデブに負けるぐらい平たかった胸、今はもうCぐらいはある

当初は小さくて桃みたいだったおしり、今や大人の女性と同じぐらいすっかり膨らんだ

学校帰りは道を走って、転んで、誰かと喧嘩して

もうすっかりそんなことも無くなった

友達もどんどん変わっていった、男の子ともいつの間にか話が出来るようになっていた

お母さんとお父さんの手をあんなに不安そうに手を繋いでいたあなたが今は一人で歩いている

そのちょっと色あせた制服の下はどんな下着なのだろう、もう大人と同じような色気のある下着なのかスポーツブラなのかそれとも

女の子よ、あなたがいい女になって私はうれしい

そしていけないことだと思うけれど

さびしい

2024-02-06

anond:20240204163300

AIキャンパスはお題を入力して何も書かなくてもシードをポチポチしてピンと来た画像を「画像を使う」で入力してまたピンと来る画像までシードをポチポチしてお題に近づけていくってのが面白すぎて時間食いつぶす

安倍晋三 総理大臣」とお題を入れると最初は全く関係ない美少女とか出てくるけどポチポチすると何となく面影ある美少年が出てきて、それを拾っておっさんに近づけていく。10回くらい繰り返すと似顔絵といえるくらいの画像ができる。

2024-02-04

AkumaのAIキャンパス時間食いつぶした

どーせエロ規制されてんだろって適当肌色多めにして乳首っぽいピンクのぽっちをいれたら乳首が浮き出てきた時が一番興奮した

その後、直接淫語入れたら普通にエロ絵生成されるの分かってなーんだってなったけど、好みのポーズや構図を生成するのに1日費やしてしまった

2024-01-31

anond:20240131113917

キャンパス田舎で手近なところに手を出したのは反省

チアプしても同じ大学のやつがほぼ、みたいな場所から学部の子とどうにかなったとしても噂がそこまでいくんじゃないかって思ってる

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