はてなキーワード: 共通語とは
見るからに肩肘張ってる文章書いてることが分かる人に対して皮肉混じりに誤用を突っ込むのはまだいい。
でもはなっから書き手自身の口でしゃべるときの言葉をそのまま文字に起こして書いてるような態度の人に対してまで誤用指摘するのは野暮臭い。
ネットには都市部だけでなくいろんな集落からもアクセスしてる人がいることを失念してるのだろうか。
日本語というものは共通語だけじゃなくてさまざまな方言も合わさって全体をなしているわけだから、
共通語の感覚から見て誤用と指摘したものが、ある地方では普通の表現ということがありえる。
ちゃんとした根拠を挙げずに誤用と決めつけるのって視野が狭い人に映ると思う(この際国語辞書は根拠にならない。国語辞書は共通語ベースで方言はあっても一部だけだから)。
たとえばこんなやりとりがあった。
297名無し象は鼻がウナギだ!2019/12/17(火) 11:13:08.990
愛知県に生まれ育った人にとっては「ら」抜き言葉も昔から正しい自然な日本語の一種。
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299名無し象は鼻がウナギだ!2019/12/17(火) 16:03:30.810
297
活用形にさえ地方により違いがあるなら、てにをはのような助詞の使い方にすら差異はあるものなのかもしれない(助詞(特に格助詞)に対する誤用の指摘が多いという皮肉だよ)。
誤用警察は共通語以外日本語と認めない排外(全体)主義者と見られるおそれもある。
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そうやってしゃべるような場合には多分注意されなかったものが、文章として提示されると書き言葉で書く人と区別せず注意されるようになるこの現象。
出川哲朗のセリフの文字起こしは、正書法や仮名遣いから見てかなり無理があったとしてもせいぜいネタとして消費されるだけだけど、
書き手がもし同じ内容を口頭で伝えるとしたら用いるであろう「話し言葉(言い回し、訛り)」を文字に表した文章には警察の目が光る。
このことから、話者(表現者)と文字起こしする人が一致した文章は書き言葉の評価軸で是非を問われるという法則らしいものは見えてくる(不思議な基準だと思う)。
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うん、国語のテストで点取れない奴でもだからといってコミュニケーションに障害を持ってるということはなかった。
というか障害児でもないかぎり日本で育てば日本語扱えるようになって当然なわけで、じゃあ国語って何を見てたのってことになる。
するとまずは共通語によるやり取りを覚えさせるということが考えられようか。家庭で学ぶ話し言葉と共通語にはどうしたってずれがあるから、共通語を理解したりできるかどうかを試してるのかもしれない。(識字率が極めて高い社会にいるとここらへんの感覚が麻痺する)
では問題のレベルが高くなるほど文意を答えさせたり要約させたりするようになるが、あれは何を試してたのか
文意なんて書いた人に直接聞けばいいんじゃん?てことは英語で言えばCan youに当たる疑問文の作り方さえ心得ていれば事足りる問題にも思える。
なぜわざわざ質問禁止とい縛りプレイで文意を導かせる能力を試すのか?それは通常のおしゃべりに要求される能力を大きく超えている。すでに「国語」という語感とのずれを感じられる。
…それは要領のいい人間を求めているということかもしれない。
何回も問答を繰り返えさないと言ってることが理解できないような人間は「使えない」ということかも。
また読解に際しての評価軸を統一する狙いもあるのかもしれない。
「こういう文章だったらこういう評価軸で評価する」という暗黙知のようなものを身につけてる人間がほしい。
評価軸の相違で水掛け論になってるはてブの論者を見れば分かるがああいう手合もまた人材として要領が悪いということだろう。
国語の成績が悪ければコミュ障で寡黙であるということは決してなく口から生まれたようによくしゃべりネットで自己主張するような人も大勢いる。
要領のいい文章を一発で書けて、それを一発で要領よく理解する力なのだろうと思う。
いちいち会って伝えて質問に答えてやらねばならないような人間は時間の無駄。リモートワークもない時からそういう意識が根底にあって国語の問題は作られてたのかもしれない。
https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=1232
英語圏でいえば「fuck」や「shit」のようなもので、人前で使うのを憚るべき単語でありながら、ネットではよく蔓延しています。
(中略)「ガイジ」は本来死語でした。とはいえ、一般的な死語と違い流行ではなく成長によって捨てられる単語です。
かろうじて中学生までで、大人になってまで言うのはごく少数でした。筆者の記憶でも最後に聞いたのは中学2年の時でした。
ある女子生徒が息を吐くように言い出し、先生に叱られるより早く隣の生徒が「お前最悪やな!」と言っていたのを憶えています。
人によっては、聞こえた瞬間学級会になったケースもあるようです。
雲行きが変わったのが2011年、Twitter内での「ガイジかな、あれ」から始まる書き込みでした。
単なる1ツイートなら流されて終わりでしたが、折悪しくも2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の「なんでも実況ジュピター板(通称なんJ)」に見つかってしまいます。
蔑称の創出とプロデュースに余念のない「なんJ民」(最近では「電子障害者手帳」まで言い出しました)のことです。「ガイジ」は瞬く間に大ブレイクしました。
スレッドタイトル(スレタイ)検索でも、例のツイートを境目に「ガイジ」でのヒットが千倍以上も膨れ上がったそうです。
それでもなお、2ちゃんでひっそり流行っているレベルに過ぎず、大多数の人は知らずに過ごしていました。
爆発的な広がりの決定打となったのは、2014年のマイナーYoutuber発掘ブームです。
詳細は割愛しますが、この中で発掘されたある一人のYoutuberが、ズレたセンスと過剰な自信などから茶化す分には面白い動画としてブレイクしました。
彼を罵倒する言葉に「ガイジ」が出るや否や、使いやすく強烈な侮蔑語として2ちゃんの外でも認知されるのでした。
現在のネットではいい大人も気軽に言うようになり、全国区で世代を問わずカジュアルに使われています。死語だったのが、高い汎用性を持った共通語として蘇りました。
とはいえ完全に市民権を得たわけではなく、「使うやつは人間性を疑う」という声も根強いです。もとが強烈な侮蔑語なので当然ですね。
3月末に、Twitterであぶくま君という人が「15才の時に東日本大震災で家族を亡くし、天涯孤独の身になり東京でホームレスになった話」というマンガを投稿して話題を集めた。今も更新され続けている。
自分は、震災描写への疑問と、それに反して「すごくリアル」という反応の多さに、その後もなんとなくモヤモヤしながら推移を見守っていた。ただ、はてぶでは実在を疑問視するコメントにスターが集まっていたのを見て、少しほっとした。
このモヤモヤはなんだろう、とずっと考えている。おそらく、自分にとってはまだ遠い歴史の一部と割り切れない東日本大震災が、地名も設定もあやふやなままに(※)、材料として使われて、実話っぽく描かれていること。それらが「涙が出てきます」「感動しました」というコメントを集めていること、つまりは感動ポルノのように扱われているあたりだろうか。あるいはこれがノンフィクションとして出版されたら、すごく細かい箇所で恐縮だけど、歴史改変っぽいことへの嫌悪感もあるかもしれない。
(そう言いながら、100%嘘だと言う自信と勇気はないので、100%実話なら申し訳ない。また少しずつフェイクを入れた実話だと言う可能性は否めないと思っている)
実話っぽく、と書いたのには理由がある。
肯定的なコメントをしている人たちの多くは、この物語を、「震災当時15歳の子供が家族を全員なくしてホームレスになったという実話」だと思ってコメントしているように思える。けれど、実は投稿者は一度も文字で「実話」とか「ノンフィクション」とは書いていないし、そう聞いてくるリプライにも頑なにノーコメントを貫いている。マンガの中で「これは中学生で孤児になった僕の物語だ」とは書いてあるけど、プロフィールには一つも「僕の体験」といったことは書いていない。つまり、マンガの最後に「これは実話に基づいたフィクション」と出てきたとしても言い逃れできる形になっている。
togetterだかのコメントに「こんなことがあったなんて信じられない、ってコメントしている人こそ、この物語を実話だと信じきってしまっている」というようなものがあったのが印象的だった。
震災をテーマにした創作物自体はいくつもある。あぶくま君が暮らしていたという南相馬市を舞台にしたものも読んだけど、それらに対してこんなモヤモヤはなかった(ついでに、方言もリアル)。震災を食い物にしていると感じることはあまりなかった。そもそもそれらはフィクションとして創作されているのだが。つまり、このモヤモヤはやはり実話の体をなしている(と思わせる)ことによるものなのだろう。
東日本大震災をネタにした、「これは本当の話です感動ポルノ」は何年も前からあった。Facebookで土砂に埋もれた親子の写真が「東日本大震災の感動実話」みたいにシェアされまくって、当時Hagexさんに「嘘を「真実」として紹介するのは大変悪質な行為」って突っ込まれていた。
でも、じゃあなぜ創作や震災ドキュメンタリーならよくて、実話「っぽく」描かれることにそこまでイライラするのかと言われたら。「創作だったらなんなんですか?」と擁護するファンに対しても、ここでも、うまく説明できる気がしない。しかも今回は一応、投稿者は一度も「本当の話です」とは言っていないし。
ちなみにTwitterではおそらく舞台の近隣住民だろうと思われるツイッタラーからのツッコミも入っているが、それに対して「黙って創作物として消費しろ」なんて返しているファンを見かけたこともある。今見たら当該ツイートは消えていた。
上手く言えないけれど、客観的に「これは本当にあった感動秘話」として消費できる者と、まだ震災を歴史として割り切れない自分との間に、決定的な温度差があるように思えてしまう。
これまでほとんど静観していたけれど、最近、そのマンガで福島への差別みたいな部分が取り上げられて再び話題になってたようなので書いた。「差別ひどい!放射能がうつるなんてバカなの!?」みたいなコメントを見ても、「問題はそんなにわかりやすい差別じゃなくて……」ってまた冷めた目で見てしまう自分がいる。福島の上辺だけを材料に使うことこそ、差別の一旦になるのに。
投稿者のアカウントには編集者と名乗る人たちもリプライを送っている。いつか、ノンフィクションの震災ドキュメンタリーとしてそのまま世に出てしまうのだろうか。
【追記】
あぶくま君のTwitterアカウントのヘッダー画像はおそらくこちらがオリジナルかと思われる。
https://blog.goo.ne.jp/scmsakou/e/f6876aae059d9b83a448c28d13b8989f
いわき市の様子とのこと。
※描写への疑問については、以下に矛盾がまとめられている。コメントも参考になる。
https://togetter.com/li/1693206
自分にとってはありがたいまとめなのだが、ただ「重箱の隅すぎるかも」という指摘もなくはなくて、擁護者からの攻撃の材料にされるのは少し悔しい。
でも、もしこれが本人の話であれば、地理的に震災描写の辻褄が合わないことが伝わるかと思う。
本人以外の取材対象の経験を描いた作品だというのであれば、事実確認に基づいた取材が行われていない可能性がある。
根拠はないんだけど、すべてが完全なフィクションというよりは、下敷きにした話はあってもおかしくないように思える。15歳で被災した人物、天涯孤独の身になった人物、東京でホームレスになった人物などが複数の人物のエピソードがあって(そして誰かは本当に福島の人かもしれない)、彼らの話を混ぜて1人の人物にしたといったあたりだろうか。
あるいは、単に辻褄が合わないのは地名が違うだけ、という可能性も捨てきれない。地名がおかしいのはフェイクだろうという擁護もあるけど、出された地域の人が怒ってるのだから実在の地名は避けるにこしたことはない。で、なんとなく、セリフを書いている人は福島の人じゃないのかな?って感じたことがある。セリフはあえて共通語にしているんだと好意的に見たとしても、一か所だけ方言にしようとして共通語でも福島でも使われない表現になっていると思われる箇所がある。
高校までの数学、物理、化学は役に立つし、英語が読み書きできないと本当につらい
でも、最近の中国では、英語はあんまり勉強せんでええで、という話になってる?らしく、
どうせ自動翻訳がやる、バンバン名著は中国語訳されるし国もバックアップする、
どうせ中国が世界征服したら英語より中国語の方が世界の共通語になるから、
みたいな話らしい
あと、ちゃんと日本語で思考できないと英語やっても無駄と同じで、
ちゃんと中国語で思考できないのに英語やっても国語力、読解力がなければ無駄、
ということでもあるのだろう
本当に要領がいい人はこだわりがなく、卒なく何でもこなすものである
寧ろ、学校の勉強ができない人の方がこだわりがある、ということの方が多いように思う
学校の勉強ができない人は、〜はできるが、学校の勉強はできない、とか、
なんかよくわからんが、自分は学校の勉強ができない、と思い込んでいる節がある
小手先のテクニックだけでも行けるところまで行けるのに、先入観があるからか気が付かないのである
安野モヨコ氏が庵野氏がズッキーニとか知らない食べ物を食べないとテレビで語っていたと思うのだけど、
こだわりが強いと、こだわっていることには強いが、
自分は学校の勉強ができない、と思っている人は、まずそれが思い込みでないか疑ってみることである
もしかしたら他人に、親に、教師にそう思い込まされてるのかもしれないし、
ちょっとでも疑問に思うことがあるとそこで止まってしまう、というのがある
というか、自分にもこの毛がある
要領のいい人は、その疑問をとりあえず飛ばして、これはこういうものだ、と理解するのではなく納得するに近い形でスルーする
スルーしないと先に進めない
なんかよー分からんが、えらい人がこれでオッケー言ってるんだからオッケーなんや、
と思って、細かい疑問は飛ばし、それを定着させる練習問題を多くこなすとか、とにかく先に進めることである
しかし、要領のいい「だけ」の人は、この自分で考えて疑問に思う、ということに無頓着であるため、
社会に出てから意外なことでトラブルを起こしてしまうこともあるように思う
上述のように、えらい人が言ってるのだから間違いない、というのが実際は罠であることが社会では往々にしてあるため、
要領がいい「だけ」の人は何の疑問も持たずにそれを信じ、結果としてトラブルに繋がってしまうのである
まず、いわゆる受験勉強、試験を突破するためには要領が良くなければ駄目である
学校の勉強を真面目に学問として考えすぎてしまうと、試験を突破できない
試験を突破するのは要領であり、テクニックの面が強いからである
しかし、要領がいい「だけ」の人には学問、学術的な思考ができないのである
そうでありながらも、詰め込み教育で英語や数式に慣れていなければ、学問や学術にも支障が出てしまう
詰め込み教育を否定しすぎても、結果的には学問や学術ができない人を生み出してしまうだけである
どうしても学校の勉強が自分はできない、苦手だと思う人は、ここまで述べてきたことを逆に考えるならば、
寧ろ何か学校の勉強以外にこだわりがあったり、特技がある可能性があるかもしれない
しかし、そのフィルターにはじかれたとしても、それはマイナスなことだけではないはずである
自分に向かないということが分かるだけでも、人生は前進したと考えるべきである
ワイぐらいになるともう受けられなくなるけどな。
外資で働いて早10年、社内公用語が英語だから英語は生きるために(文字通り)使わないといけない。
会議では当然英語で議論するし、社内でのやり取りも英文だ。上手なのか下手なのかは知らんが、とりあえず何とかやってる。
ここでTOEICなんか受けてみろよ、履歴書にTOEIC 何点って書かないといけなくなっちゃうだろ。
日常の業務が忙しい中、安易に受けて残念な点数でも取ってみなよ。
テストの点数がいいだけで英語が共通語となった世界でサバイバルしていない人が上に見えてしまう。
風のうわさにTOEICなんて韓国と日本くらいしか受ける人がいない国際試験の顔をした超ローカル試験と聞いたけれど、本当だろうか。
杉田智和が眩しい。
眩しすぎる。オタクとしてきつい時代をすごしながら、それでもきちんと好きなものをオタクとして堂々と語れる。
そして、部分的にでもこういう生き方をしない限り、オタクには卑屈な変態としての道しか残ってなかったのだということも悟った。
いま現在、オタクを熱烈にバッシングしているクラスター、中年以上のこじらせたオタクしかいない。
アイデンティティを身内のdisで差別化していたオタクがオタクを叩いてるという状況だ。
でも、この光景は残念ながら卑屈極まる。
当然だ。
FGOやアズレン、にじさんじが共通語になって、水樹奈々は紅白の常連、LiSAの曲が全国どこに行っても流れてレコード大賞とっている時代に、「キモオタ死ね」なんて言って、それで「そうだねーオタクってキモいよねーw 萌え絵とか描いてるやつってキショイよねー」なんて言いながら「でも、俺はキモいことが分かってるから。分かってるオタクだから。俺だけは別枠で扱ってね」なんてポジションが成立するわけがない。
オタクだと職場でカミングアウトしても「ふーん。どのアプリやってんの? 俺、これ。フレンド登録する?」ぐらいの重さしかない。
そんな時代に、フェミぶって「セルオタは周回遅れ」「萌え絵はセクハラ」「オタクはネトウヨ」なんて言っても「お前はバカか?」で終わってしまう。
せいぜい、ネトフェミぐらいしか「そうだ。オタク文化は頭がおかしくなる」と同意してくれる人はいないだろう。
結局は、斜に構えて仲間を売り渡し、「俺はキモオタじゃないから。キモオタじゃないけれどアニメやゲームが好きな普通のオタク。良いオタクだよ、あいつらキモいよね―」なんてやってるポジションは蝙蝠野郎として居場所がなくなってしまうのだよな。
世の中は真摯に戦い続けてきた奴らのほうが結局は強かったのだということを示している。
こんな時代が来るとわかっていたら、「俺はオタクじゃない。ただゲーム好きなだけだよ」とか逃げる必要はなかったのだ。
結局、物を作り、好きなものを好きだと言い、仲間をdisって売り渡したりせず、感動を分け合ってる人間のほうが強かったのだ。
好きなものを好きだと言ってる真摯なオタクが結局は強かったのだ。
たとえば「それおいくらですか?」は大阪弁だと「それなんぼでっか」になるよね。