はてなキーワード: コンピュータとは
ゆる言語学ラジオから入り、ゆるコンピュータ学とゆる学徒ハウスも続けて追っていた。
その中でゆる天文学ラジオの越山とゆる書道学ラジオ夏生という男女コンビは稀有な存在だった。
書道に関した仕事で生きてきた夏生と、TRPGの方がメインで天文学は趣味としている越山。
その割にバランスもよく、夏生のイジリをおいしく乗りこなす越山、越山の神話系の話に上手く乗る夏生のトークはずば抜けて良かった。
ここまではいい。
収録を重ねて成長していた学徒に比べてトークの受け方もこなれていないし、知識情報の浅さが垣間見える。
そもそも教養としてあるべき知識がなさそうな、笑うだけや「アー、はいはい」等のはぐらかし方も多い。
そして何より結婚しているのだ。男女の仲だ。
夏生の態度にも出ているし、こっちは求めてもいない新婚さんの日常生活の話など聞きたくない。
床だのティーポットだの何だの、それは本人たちは楽しかろうよ。
しかしこちらが求めているのは他人様の前戯の囁きではないのだ。カメラの他所でやれ。
更に、レオが聞き手として力不足であるのにもうゆる学徒ヅラであることも腹が立つ。
選考によってゆる学徒となった人達と同じレベルでの堀元水野へのイジリは不要どころか不遜である。
それを止めずにキャッキャしている夏生のこともどんどん嫌いになる。
万が一レオがゆる物理学ラジオを始めるのならゆるゆる道鏡学徒として自認してほしい。
越山くんは新しい相方と楽しそうで大変良い。
数学の書籍には、幾つかの類型が存在すると思考の深淵に耽る。まず、教育を志向したものがあり、確実にステップを踏みながら数学の底力を身につけることができると謳われている。次に、辞書的な性格を帯び、数学者自身が自らの難問の鍵を求めるために、特定の定理や概念を参照するのに重宝される。最後に、最先端のトピックを瞬時に理解するためのもので、その要点を端的に把握することが狙いとなる。従って、私はどのような目的で数学の書に触れるのか、自己を問い詰めずにはおれない。
おそらく、私は最新の知識を迅速に吸収したいと願っているのだろう。しかしながら、そのために必要とされる前提知識は、敷居が高くなることがしばしばある。このようなとき、インターネットの広がる海を航海すべきか、精緻な教材と向き合うべきか、迷いに迷うのである。
一般人でありながら、高度な数学の概念を理解するための近道、それはいったい何か。私は、フレンケル教授のような説明術が、多岐にわたるトピックに適用されることを夢見ているのかもしれない。プリンストン数学大全という書物が私の手元にあるが、これは数学の骨子を簡潔に把握するには素晴らしい資源であると感じている。しかし、定理は単なる暗記ではなく、数学を生きた魂とするためには、他の科学的領域との接点が必要不可欠だと考える。審美的な要素だけではなく、科学的な実験と理論を結びつけるのである。
確率論の領域において、私はゲームを編み出し、コンピュータを用いてそのシミュレーションを行う方法を通じて、実験を行うことが可能だと思っている。テキサスホールデムポーカーの最適戦略が解明されたように、理論的な興味に基づいてゲームを選択し、コンピュータによるシミュレーションを行うのである。経済における金融商品市場は、まさにそのようなゲームの一つだが、私は残念ながら、実際にお金を投資することには興味を持たない。もし実際にそのような分野で実験を行うのであれば、利益と損失のリスクを冒すことなく、安全なサンドボックス環境を用意するだろう。私の心の深奥に築きたいのは、理論的モデルを探求し、それをシミュレーションする世界なのだ。
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今宵は確立過程の闇に心を奪われておりました。広がる闇に、数学の実応用が果たす役割を疑念の火で照らしました。
数学が現実に繋がることこそが、私にとっての心の闇でございます。確率論を学ぶ度に、それが金融に用いられるという言葉に、リーマンショックの影を見るのです。金融市場は決してブラウン運動ではなく、その不確かさゆえに、勝利の果てに待つ利益は、危険と釣り合うほどのものでなければなりません。
不透明な情報の中で、隠れた策略を巡らせる者たちが利益を築く、これが現代経済の真実かと、私は疑念を募らせております。信用創造の背後には、貨幣の価値が他者の債務に裏付けられている事実が潜むのです。
私は虚構のギャンブルを想像し、コンピュータによって模擬することに魅力を感じており、それは数学の研究の一部であると思っておりました。しかしながら、その虚構が実際の金融の舞台に持ち込まれる瞬間、危険なるゲームの渦に巻き込まれることへの不安が、私を襲い立てるのです。
数学は、基本的な法則を美しさの中に見出すことが可能な芸術でありながら、金銭的利益の最大化という領域に足を踏み入れると、その美しさは消え失せてしまいます。私はプログラマーがアルゴリズムを創出する世界ではなく、発見の魔法に心魅かれているのです。
そう、私が追求したいのは、発明の道ではなく、探求の途であります。この日、私の中で、やりたいことへの純度が高まった気がしました。私は発明者ではなく、探求者であることを選びました。
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「三体」のダメなところは智子の設定に集約されている。
智子というのは三体人が地球の技術的発展をかく乱するために送り込んだ陽子一つ分のコンピュータなのだが、これの製造過程の描写に素人でも一瞬で分かる大嘘が書いてある。
三体人は粒子の次元を操作することが可能らしく(この理論的根拠は全く描写がない)、次元の数を増やしたり減らしたりして、内部に回路を作る(劇中では核力を整形してエッチングするというような説明がある)が、2次元展開した陽子が三体世界を包み込んだとき、全体が鏡面になって惑星自体を映し出す場面がある。
自分は反射の核物理的な原理を詳しく知らない。おそらく電場や磁界が電磁波の進行方向を曲げるのだと思うが、陽子一つ分のエネルギーで惑星全体を映し出す電磁波を同時に偏光させることが出来るはずがない。一つ一つの光子のエネルギーに対応するだけの電場あるいば磁界を形作る必要があるが、もし出来るのだとしたら、それはエネルギー保存則に反している。六次元空間から三次元に投影された智子に国家元首が触れると「空気抵抗」を感じるが、これも同様の理由により間違っている。
明らかに劉慈欣は次元のコントロールによって空間と共にエネルギーの総量もコントロールされうるという混淆を侵している。この混淆を取り払ってみれば、そもそも陽子一つのエネルギーで計算機を構成するというのもまず不可能な相談であるということが分かる。核力によって形作られた回路には、電子の代わりに情報を媒介する何らかの量子が必要だが、必要とされる量子、あるいは回路を構成するエネルギーは軽く陽子一つ分を超えてしまうだろう。現代では情報を伝達するには相応のエネルギーが必要なことが分かっており、実験で確かめられてさえいる。
(ついでに言うと量子もつれによってスピン状態を検知して、智子をコントロールするという話も出てくるが、もちろんこれも間違っている。量子もつれによる同期は情報を伝達しないことが分かっているのだ。もしも情報を伝達するならそれは光速度不変則に反することになる)
この事実は本作が一見論理的に見えて、その実極度に倒錯的な性質を表している。なにしろ、質量の関係から智子(陽子一つ分)を送り込む必要性をあらかじめ説いたのは劉慈欣自身なのだ。質量の問題を回避するために作り出した智子の設定の方が盛大にエネルギー保存則を破っているというのは一体どんな種類の皮肉なのだろうか。無論劉自身がそのような皮肉を意図した形跡もなく、センスが悪いとか荒削りとかいうレベルをさらに下回っているとしか言いようがない。自分の課したルールを自分で破る作品に、まともな完成度を認めないのは、自分には正常な判断に思える。
この本の最大の皮肉は、馬鹿げているのに面白いジョークでもない物語が、英米SFがつまらなくなった状況(その他の国に面白い作品があるわけでもない)がゆえに耳目を集め、あまつさえ世界的なヒットになってしまったことではないか。このあたりが古いSFファンが見向きもせず(最もまともに作品を批評できる連中は残っていないのかもしれない)、根強く批判が消えない理由だと思うのだが。
← そうかぁ? お前の周りがそうだというだけなんじゃねえの? 類友と言うやつでは?
俺は子供のころ一時新幹線とかが大好きだったけど、幼稚園に入る前にはクルマに興味が移ってて、クーペとかが好きだった。
その後は飛行機が好きになって、そのうち電気関係のことが好きになって理科少年になって、10代では音楽とコンピュータに落ち着いたが、周りを見渡してもスポーツ大好きなやつはゴロゴロいても鉄道に興味を持つやつは限られていたように思うぞ。だって鉄道ってあまりにも身近すぎるじゃん。バスやタクシーと変わらん。
今更言うまでもなく、心霊写真というものの大半はフェイク、勘違い、撮影ミス、カメラの故障、その他自然現象、などと考えられる。当然ながら、心霊写真の全てがニセモノかどうかは分からない。コストがかかりすぎて誰も検証できないからだ。
1. オーブ
2. 手足など、体の一部の欠損
3. 手足が増えている
7. あり得ないものが写っている
パッと思いつく感じだとこのぐらいだろうか。
1のオーブは有名だろう。画面に薄透明な白丸が映る現象のことである。大体が空気中の埃だったり水蒸気がフラッシュに反射して写るものと解釈されている。たまに5との合わせ技で赤く色のついたオーブなどもある。心霊映像界隈では赤い色というのは霊が怒っているとされて最高に危険な状態らしい。危険な色があるなら安全な色やハイになる色やエッチな色もあるはずだけど、そこのところは知らない。
心霊写真だけではなく、心霊映像の世界でもオーブは活躍する。それも光に当たった埃などと言われているが、事故物件住みます芸人の松原タニシが初めて住んだ事故物件を撮影した時のオーブは面白い。大量のオーブが意思を持っているように動いて、明らかに埃ではなく、なんらかの生き物のように見えるのだ。気になる人は探してみるといい。
2の手足の欠損も定番だ。頭の欠損などもたまに見かける。鑑定した霊能者が欠損した部分は怪我に気をつけた方がいいなどと言うタイプのアレである。特定の部位の怪我に気をつけるって、どうやってやるんだろうね。
このタイプの心霊写真は本物でないとするなら、どうやってできるんだろう。考えられるのは写真加工であるけど、体の一部が隠せるようなトリックがあるのかもしれない。マジシャンの人ならそういうのは得意そうだ。
3、4、7は大体同じ現象と考えられる。体の一部にしろ、全体にしろ、物にしろ、そこには存在しなかったものが写真に写っているということだ。これは撮影前に密かに持ち込まれたフェイクであるか、コンピュータで加工したものと考えられ、最も定番のありがちな心霊写真である。その辺の人が思いつきで作ると、写真の隅っこに髪の長い白い服の貞子みたいな女が半透明で映ることになる。分かりやすい故に量産されてしまう退屈な写真だ。
6のわけのわからない理解不能なバグり方というのは、簡単に言葉で表すと、ゲームのバグみたいな写真ということになるだろうか。とにかく意味がわからない。なんでこんな風になるかわからない。そんな写真。多分カメラが壊れたかバグったかだとは思うけど、その原因が機械的なものなのか、それとも幽霊パワーによるものなのかということだろう。
カメラが発明されて長い時間が経ったが、携帯端末にカメラが搭載され誰もが心霊写真を撮れるようになった。加工も簡単になり心霊写真は日夜量産されていることだろう。人はなぜ心霊写真を作るのか。それは簡単に自分の側に非日常を、異界を作り出すことができるのではないか。なんて言ってみる。
C/C++で仕事のコードを書くといったような直接的な有益さよりも、アルゴリズムだのアーキテクチャだのと言ったコンピュータの基礎をC/C++のプログラミングを通してしっかり身に付けられるという利点の方が大きいと思うぞ。
インターネットとこの社会のクソさに対する所感について。雑記すぎて全然整理していない
小学生の頃はほぼ毎回のテストが100点で、学級委員やボランティアのリーダーに選ばれるような、ザ優等生だった。授業中は程よく挙手して、勉強がわからない子には教えてあげた。授業はクソつまらないし、自由に勉強することが許されていない憤りみたいなものはあったけど、表立って抗議はせずに普通に友達も多かった。いろんな経緯でメンタル崩壊した時に知能検査を受けたら、凹凸の少ない発達障害ではないただの高IQだった。
最近、ギフテッドがよく話題になる。確かに、空気を読めたり人に合わせられれば、学校で迫害されるとは限らないというのは同意する。でも個人的な経験としては、学校で表面上では人に合わせ続けていても、教育システムがオワコンすぎる事やこの社会全体に対する失望が積み重なっていくばかりなので、一人で海外脱出への準備を進めるだけだった。まあ色々あって村社会に忠誠を誓っていないのがバレて潰されて失敗したんだが。しくった。まあこれは私がうまく実行しきらなかったのが悪いので特にいうことはない。
最近のインターネット上では、歪んだ正義感の暴走による炎上で人の人生が大きく変わってしまったり、訳のわからない権利を主張しても世論が大きく動くということが頻発している。その多くが、確かに文字の読み方を知っているが文章は読めていないなかったり、社会の流れや進むべき方向が考えられていないと思わされるようなものばかり。
クソつまらない授業に耐えて、自分の好きな勉強を捨てて、識字率向上に協力した結果が、これ?この畜群大暴走?
あと、日本のITの弱さ。これは社会を全然知らない学生が勝手に抱いているイメージで実際を知りたいんだけど。
ITが弱すぎて生産性が低いのが停滞要因に見えるんだが、何で自動化したりソフトウェアをうまく使わずに、マンパワーでこなせるか否かを社会性と呼んでるの?
ミスをしない人間より、ミスを検知するツールを使いこなせる人間の方が強いし、せいぜい人間の認知能力で分単位刻みで動いてミスなくこなせることってコンピュータにやらせた方がいいんじゃないのかな。まあ導入コストがまわせないらしいんだけど。
コンピュータの方が得意な作業を人間がやり続けて生産性が上がらず他の先進国においていかれるのを嘆いているのが、竹槍作戦にしか見えない。戦争の時、竹槍戦争を批判した人は非国民だと言われたらしいんだけど、令和では竹槍をうまく使えないぐらいのことを発達障害と呼んでいるように見える。マンパワーが足りない人間が無能で社会のお荷物になっているというより、それで回そうとして自動化を阻む人間が多すぎることが悪いんでは、?この国のクソ教育に合わせるとこれに巻き込まれる。
最近の発達障害のレッテル貼り、有害すぎる。平均的知能の定型発達なんて、管理しやすい人間の性質にしか見えないのに、それが多くの人に正常(定型)になることを意識させるし、それによってさらに社会全体の同調圧力と同質性が高まって全体主義的傾向が強まる。この流れと、AIの進化と昨今の国際情勢のうごきの組み合わせ、ちょっと絶望的な未来しか見えない。
適当に「人の気持ちがわからない人」とレッテルを貼ることが、その人の社会からの扱われ方にどれだけの破壊的な影響を与えるかすら想像できない人間のいう「人の気持ちがわかる」って何?
同質性が高い人間同士だから気持ちがわかるだけで、ほとんどの人間は同質性が低い人に対しては気持ちを想像できていないと思う。実際、全然違う属性やバックグランドの人間は気持ちがわからない/読めないので、排除する。村社会♪ こんなのに「人を見下すな」とかいわれても無理がある。
実際、定型発達が私の気持ちに理解を示してくれていると思うことは年齢を重ねるごとに少なくなった。カウンセラーには分かってもらえると思うことが多いんだけど、それって結構高度な技術が必要だよなと思わされる。
高知能でも社会適応できないなら無能とか言われるんだけど、過去に村社会リンチにあってちょっとトラウマになったこともあって、このクソ社会に適応せずに済むことを目標にして生きることになってしまった。既存レール上で認められるような努力をしても、感情的豊かさも経済的豊かさも望めないどころか、その要因になっていそうな構造を批判するとリンチにあうリスクがある。付き合っていられない。労働力を提供するためだけの社会性なんて持ちたくない。
高知能で集団を組めるなら、多分人やクソシステムに合わせすぎないようにするとか、空気を読みすぎないようにするとか、程よくASD/ADHD感を持てる方が良い気がする。
ボコされて躁鬱になってから、最近は落ち着いているもののまだリスクがあるかなと思っているので、しばらくは海外移住はできない。でも最近アメリカの会社でフルリモートのインターンを見つけられた。時給約40ドル。この調子で頑張りたい。学校で身につけるべきらしい"人に合わせる能力”をこのクソ社会で発揮することはない。
要点を言いましょう。
2. チューリングテストでコンピュータを人間と見分けられなくすることはおそらく可能。
ファミリーコンピュータをコンピュータと略すようなもので、完全な間違いとはいえないが、WikipediaをWikiと呼ぶのはやっぱり変でしょ。