はてなキーワード: 霊魂とは
「世の中は常住なるものか。無常なるものか。世界に果てがあるのかないのか。霊魂と肉体は同一か別なのか。死後の世界は存在するのかしないのか。」との問題に悩みお釈迦様に解答を迫ったマールンクヤは、この答えを知りたくてたまりませんでした。 しかしお釈迦様は、それらの問いに一切答えられず、問いかけてもいつも黙したままでありました。
そこでお釈迦様は、ある喩えをもってマールンクヤにお説きになりました。「ある人が毒矢に射られたとする。すぐに治療しなければならないであろう。ところが矢を抜く前に、一体この毒矢を射たのは誰か。弓はどのようなものであるのか。 どんな鏃やじりがついていて、弦つるは何でできているのか。矢羽はどんな鳥の羽であるのかが分からないうちは、矢を抜くことはならぬと言っていたら死んでしまうであろう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。」
お釈迦様は静かに続けられました。「生があり、老いがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶え等、人生の苦しみを解決する道があるから私は説いている。毒の矢を抜き去るように苦を速やかに抜き去ることが、いちばん大事なことではないのか。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
ふと不思議に思ったのだが、
「地獄」って聞くと、あの血の池や針の山があって、鬼とか閻魔大王がいる「地獄」を思い浮かべるよな?
反対に「天国」って聞くと何を浮かべるかっていうと、赤ちゃんみたいな天使に連れられて、
そこには死んだ人(善人)がいて、みんな頭の上に輪っかがあって、幸せに暮らしてる、みたいなイメージじゃないか?
逆に仏教における天国ってのはないらしい(「極楽浄土」はまた「天国」とは違うらしい)し、
キリスト教における地獄がどんなものかはよくわからない(「地獄」と「冥府」は別らしい)し、
神道では「地獄」も「天国」なく「黄泉の国」だけど、これが一番しっくりくる気がする。
宗教ってやっぱり「死後」を考えるところから始まるんだろうなーと思うが、
逆に宗教にとって「死後」ってクリティカルすぎて、当たり前だけど答えはないし、宗派によって無限に説があって定まってない。
俺が中学校の多感な時期に考えていた設定で…
何故、人の魂はあるとされているのか?なぜ成仏とか言われるのか?という妄想が耐えなかった時期があった。
天国や地獄の様な死後の場所があったとしたら、人間の魂でごった返すんじゃないか?むしろ生命全てに霊魂があるのなら、虫などの極小生物の魂だらけになった地獄や天国なんじゃないのか?
と考えていた。そこで一つの仮説を立てた。そもそも虫と人との魂の形は同じではないのではないか?と。そして、魂とは一つの場所にとどまらずに輪廻転生の様に次から次へと移り変わるのではないか?と。その時にふと、その魂が器をなくした場合、一度一つに集まっているのではないか?という妄想も始まった。だから自分たちの中に前世は有名人であるという人が複数いるのではないか?と。一旦全てが一つになるから、他と共感性が生まれるのでは?と。
そして、その集まる場所は、当然多次元の、ここからは干渉できない場所であって、質量の問題も三次元的には考えられないことで、時間軸も一方方向ではないのではないか?と。
そんな結論に至ったあとに「人類は一つになるべきだ」みたいな人類補完計画を見たときは非常に興奮したものです。
あなたが必要なのは、親友作る作らないじゃなくて、情緒不安定になったら全てから離れて休む習慣でしょう。
どのみち友人も良し悪しはあるけど、頭が十分に休んでないと良し悪し判断できないから。
今回見る目がなかったね。一度休もう。
マインドフルネスや瞑想が良い。ただし、君みたいに弱まってるやつをかもにしようというやつがいるからセミナーじゃなくて、本、ネットで。かつ、霊魂、あの世、先祖、スピリチュアルを絡めてるのはまがい物だから本やネットでもだめ。
オンデマンドって単語を使うなら、それまで需要に応じず一方的に与えられるとか垂れ流されるような、自由に利用できない状況があった上で、その一方向性に対する問題意識が共有されてないとそういう表現は出てこないと思うが。
定量的な疲労度測定自体存在しないのだから自由に利用できない状況なんだが。だから、君が問題意識を持っていないことを除いたら、オンデマンドでも妥当だと思うが、それは置いとこう。
マインドフルネスなどは脳疲労をターゲットにしながらも定量的な疲労度測定がないから、ターゲットに対してどうかというのは測定しにくい。
そこで、疲れている人になんかいいぞということで弱まってるやつが近寄ってくるから、不安や恐怖を煽って疲労度を高めつつ依存させる霊感商法や悪質セミナーが跋扈する。
定量的で、望めばすぐ結果が出るような疲労度測定が実現すれば、まがい物は疲労度高めてるだろ!と指弾ができる。
いまは、疲労度を高めるようなまがい物に取り込まれないように本やネットで調べて、かつ霊魂やスピリチュアル周りが書かれているのは排除せよとしか言えないってこと。疲労度測定がない状態だから。
その外的権威は自分だ!だから自分のいうとおりにしろ!という人間が多くてねぇ。さらに、自分を外的権威とすることができて他人を騙して金をせびれるようになればそれで食っていける。
だからこそ、距離をおいて冷静に判断できる本やネットで学ぶべき。かつ、霊魂やスピリチュアルや先祖やあの世に絡めているのはまがい物だと述べてる。
無論マインドフルネス自体の科学的検証も色々されているが、根源的な脳の疲労がオンデマンドで測れない以上、ふわふわとした存在で有り続けるのは仕方ないなとも思う。それでもなんとか関連研究者は頑張ってるが。
脳の疲労を10秒ぐらいでオンデマンドで測れるようになれば、マインドフルネスと、それこそ心理学大きく変わるんじゃないかと思う。
自分の体内の感覚に集中させるものなのでスピリチュアルではないが。
昔宗教に結びついていたというのはそうかも知れないし、宗教知識は役立つものはある。
だが、こちらが言ってるのはマインドフルネスやヨガや瞑想を名乗るセミナーには悪徳業者が絡んでるものが多く、そして悪徳業者を排除する方法はないということ。
だから、本やネットだけで知識を得た方が良い。本やネットでも霊魂や先祖やあの世やスピリチュアルを絡めてるのは排除しろということ。スピリチュアルを絡めて、マインドフルネスや瞑想やヨガを悪徳セミナーの入り口にしようとしている連中がいるから。
まず科学というのは17世紀デカルトの明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられたものは正しいというところから始まってる。
逆にそれ以前のこれは正しそうだという知見は多かれ少なかれ、宗教に結びついている。そこも元を正せばブッダやイエスや禅僧など宗教者がこれが正しそうだという自分の経験をもとに正しそうだと言ったのだからね。
マインドフルネスがまだまだ霊魂やあの世やスピリチュアルに取り憑かれやすいのも、根源的な「脳の疲労」なるものを人類が直接観測できないからだ。それは仕方ない側面がある。
血流の中の疲労因子で見れそうというのはなんとかわかってきたものの、複雑な高分子がちょっと変わったみたいなものを、生きている体に対して直接簡単には測れない。
だけど、自分自身の「脳の疲労」なんだから、自分自身の体内の感覚に集中していれば薄っすらと感じられるもの。スピリチュアルとして外的存在に依存する意味はまったくない。
また、霊感商法やら自己啓発セミナーがだめなのは、セミナーに依存させようとするから。問題があって苦しいから瞑想やマインドフルネスやヨガを始めるのだろう。セミナーも商売なもので、問題解決したら飯の食い上げだ。
なので、常に不安を抱えたままで、セミナーに依存してくれる状態を作り上げる。そして、信教の自由があるから、そんなセミナーを潰そうとするやつはもういない。
あからさまに不幸に見えるのに、霊感商法や自己啓発セミナーの勧誘をするという怪しい人間は弱まっているときに、セミナーに引っかかって生まれてしまった。
残念だけど、弱まってるやつが関心を持っているというのは悪徳な人間には知れ渡っている。だから、セミナー関係で学ぶのは危険が大きい。
本やネットで学び、脳の疲労を取り、霊魂やスピリチュアルなど自らの感覚以外の者に結びつけようというやつはまがい物として排除しないとならない。
宗教知識も、今や本やネットで自分がたちが悪いやつと縁遠く明晰な判断ができる状態で身につけるべきもので、セミナーや宗教組織で学ぶべきではないよ。ましてや「キラキラ」なものを求める欲望こそが、悪徳な人間に引っかかる。