はてなキーワード: 視覚とは
集団ストーカーとは、ギャング・ストーカー行為、原因ストーカー行為、組織化された自警団ストーカー行為、代理人によるストーカー行為、地域に根ざした嫌がらせ、隠密戦争などとも呼ばれ、基本的にはターゲットとなる個人に対して行われる嫌がらせや信用失墜キャンペーンです。 市民や隣人が参加するように勧誘され、多くは過激派グループやカルトからですが、従業員の中からも参加することがあります。被害者を実質的に無力化し、破壊するために、あらゆる経歴や職業の人々が嫌がらせを行い、24時間365日追跡し、時には致命的な自動車事故、毒物混入、電子的嫌がらせ、家宅侵入/財産の破壊を組織し、不正な、あるいは無知な医師の診断により、被害者を妄想、偏執病、統合失調症などのインチキ精神病と決めつけるなどの攻撃を行います。すべては秘密裏に行われ、犯罪者たちの嫌がらせや攻撃を組織するために、高度なリアルタイムの派遣システムが使われています。犯罪者たちが仕事や買い物、通勤、レジャーなどの通常の日常生活を送っている間に、常に数百から数千人の犯罪者たちが協調した暴徒として参加しており、移動する足や車の監視技術、コンピュータ、携帯電話、言葉や視覚的な合図、その他考えられるあらゆる種類の通信手段が使われています。
YouTubeで釣りとか車とかの見てると、女性YouTuberが胸とか尻とかを強調したサムネイルの動画がおすすめに上がってくる。
そりゃあ俺も胸とか尻とか見たいよ。
でもそれって頭で考えて見たいと思ってるんじゃなくて、視覚情報が性欲を刺激してるだけ。
俺の人間性とか関係なしに男の性(Saga)をツンツン突かれて、動画見たら広告料がGoogleから女性YouTuberに支払われるだけ。
めちゃくちゃ悔しい。
けど見たい。
いや、俺はもっと硬派な、その道のプロが教えてくれるみたいな動画が見たいんだ。
でも胸とか尻とかも見たい。
俺が高校生の時、マックにいったらパートの4、50代のおばちゃんが制服のボタンの隙間からブラチラしてたわけ。
そんなのいくら高校生男子だって見たくないよ。あちらも見られたくないだろうけどさ。
俺の暮らしている家には洗濯機がないので、浴槽を選択用の桶に転用して、休日になるとぬるま湯を張って布類と洗剤をぶっこんでいる。当然、脱水も手作業だ。何が言いたいかというと、洗濯そのものは俺にとって苦行でしかなく、バスタオルやシーツ類を手絞りでギリギリやりながら風呂場で荒い息を吐いていると、俺は何をやってるんだろう、という気になる。指の皮とかがよく剥ける。
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一方で、干し終わったあとの洗濯物を眺めること、これは好き。大好きと言っていい。
理由はまったくわからないんだけども、竿に吊るされたシーツとかハンガーに下がった大小の衣類が風に揺られているのを見ていると、ものすごく満ち足りた気持ちになる。洗濯物のそれぞれによっても風を受けたときの反応が違っていて、ハンカチだとか靴下なんかはささいなそよ風でも大きくひるがえるし、バスタオルなんかはかなりどっしりしていて、ちょっとやそっとの風では動かなかったりする(何しろ手で絞っているので水が抜けきっていないだけの可能性もあるが)。
…
洗濯物が干されている光景というものの何がそんなにいいのか、あらためて考えてみると、例えば自然界にf分の1ゆらぎという概念があって、あるいはそれに近いんじゃねえか、と思ったりする。
wikipediaでの説明は正直ちんぷんかんぷんだが(https://ja.wikipedia.org/wiki/1/f%E3%82%86%E3%82%89%E3%81%8E)、一般的には「規則性と不規則性とが適度に混成された現象」と説明されることが多い。視覚における例ではろうそくのゆらめき、聴覚ではさざなみ等が例に挙がる。
言ったもん勝ちじゃねえの? という気もするが、実際、俺は火を見ているのも(焚き火のASMRとかあるのだ)波音を聴いているのも好きなので、洗濯物もあるいはそういう類かもしれないと思う。
風という、本来は不可視のものが、それを受ける対象によって見えるようになっている、とかそういうことだ。まあそれらしい説明はなんとでもつく。
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ただ、もう一つの理由としてさらに漠然と感じるものがあって、俺は洗濯物ってなんだか人に似ているな、と思うんだよな。
風にいくつもの洗濯物が揺れているのをぼんやり見ていると、頭に浮かぶ表現が、「幸せそう」というものだ。洗濯物を見ていると幸せそうだと思ってしまう。
何かの小説や歌詞でそういう言い回しに触れたのかもしれないが、ググってみても見つからなかった。
洗濯物の大きさによって風にあおられたときの反応は違うが、強く吹かれた際は、みんな同じでばたばたはためく。それは家族って感じの一つの集合に見えなくもないし、はしゃいで遊んでるみたいだな、とも思う。
俺は脱水作業のあとで疲労しているところで、もしかすると、これを1万倍ぐらい強めると、子供のいる親が車で行楽地にお子さん連れていって、到着した先で娘や息子が駆け回ってるの見るときとか、しんどさも誇らしさも近いのかもしれねえな、と考えるが、子育てをナメるなよ、と言われたらぐうの音も出ないので、まあ洗濯物ってなんか家族っぽいよな、ってぐらいに留めておく。これなら主観なので言い訳も立つ。
…
ちなみに、はじめてお子さんが生まれてから最初の乳児衣類の洗濯を、「世界一幸せな洗濯」と呼ぶそうだ。「洗濯物 幸せそう」で検索したらこればかり出てきた。俺には嫁も子供もいないし、干してあるのはおっさんの肌着であって、浴槽に漬けると台風の後の川みたいな泥水が出てくる。
読者がどういう空想するのか漠然とした状態の文章で小説家はどうやって面白さをコントロールしてるんだって感じなんだよな。
自分だったらくどいぐらいに自分の視覚的イメージと読み手のイメージが一致するように書き込まずにはいられない。
文章で不十分だったら躊躇なく図示。読み手からしたらむしろ興を削ぐような行いなのかもしれないけれど、たとえ独りよがりの満足でも作品の解釈が自分のコントロール内に収まってないと気がすまないというか。漫画は少なくとも視覚面については描いた通りに見られるからそのとき描いたものと読者の反応を結びつけてフィードバックさせやすく読者の感じ方を支配しやすいのが利点だろう。
具体的に言えばロミオとジュリエットは文学なのにフジテレビの月9は文学じゃない
この差はなんなのだろうか?どちらも脚本を演じるという点では同じだ
個人的には脚本が読み物として成立してるのが文学で、成立しないものが文学から除外されているということだと思う
戯曲は誰が脚本通りに演じれば役者のルックス不問で面白いものになるが、ドラマは魅力的な俳優に演じられることによって、つまり視覚的な情報に頼ることによってはじめて娯楽として成立するという違いではないか
ガスにせよ電気にせよ
なおMSがやってる HoloLens (MR)は労働者の視覚を共有し指示を出す(必ずしも熟練の技術者じゃなくても作業を可能にする)みたいな未来をイメージして設計されてる
違うよ、全然違うよ。
米国西海岸を支配しているのはリベラリズムなんてチャチなもんじゃない。もっと過激な左派思想だよ。
ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(Social Justice Warrior)、ウォーキズム(Wokeism)、文化的マルクス主義(Cultural Marxism)、批判的人種理論(Critical Race Theory)等、色んな名前で呼ばれてるよ。
まず、以下の画像を見てほしい。
https://texashousers.org/wp-content/uploads/2019/02/img_1088.png
平等性(Equality)、つまり皆を平等に扱うと、能力や境遇の有無で格差が生まれ、逆に公平性(Equity)の下では、この格差をベースに権利や境遇が配布され、皆が同じラインの上に立てる、という考えだ。
今ではこの画像が学校の教材として使われるくらい広く浸透してる考えとなっている。
一見とても理にかなってるように見えるけど、この思想には大きな問題がある。「格差」の基準は何なのか。誰がどうやって決めるのか。
画像だと身長という視覚的に分かりやすい格差として表現されてるけど、現実だとそうはいかない。各個人で抱えている境遇は多種多様で、誰がどれだけの社会的恩恵を受ければいいのかを決めるのはとても難しい。
はずだった。
でも連中はその基準を単純化するために、露骨な差別主義に走った。
まず大前提として「社会はシス白人男性が作り上げたものであり、彼らが有利になるようになっている」という考えがある。
これをアーキタイプとし、「女性」「LGBT」「マイノリティ」等の属性が付け加えられる事で、その人の社会的格差が決定される。そして社会的格差が大きい人ほど社会における発言権も強いとされる。
シス白人男性よりもLGBTの白人男性の方が発言権が強いし、LGBTの白人男性よりもLGBTの黒人男性、LGBTの黒人男性よりもLGBTの黒人女性、といった具合だ。
この中でもとりわけ「人種」に対する考えが過激で、まず最初に「白人は生まれながらにしてレイシストであり、これを撤廃する事はできない」とされている。その扱いはキリスト教における「原罪」に近いと言える。
そして黒人等のマイノリティはこのレイシストな白人どものための社会に生きているため、普通に暮らしていると絶対に成功する事はできない。だから彼らが人並みの暮らしができるよう全力で支援する事がレイシストである白人の「義務」とされる。
また、白人を基準とした文化は社会の隅々まで浸透しており、これらを「ホワイトネス」と定め、社会悪としている。白人であるという事は肌の色だけではなく、その人の考え方や心のあり方にまで現れると言うのである。
アメリカの国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館は、ホワイトネスを下記のように定めている:
https://twitter.com/ByronYork/status/1283372233730203651
「個人主義」「核家族」「科学的方法」「偏った歴史観」「努力主義」「キリスト教基準の宗教観」「財産に重みを置く」「未来・将来を重要視する」「時間やスケジュールを大事にする」
ここで違和感を覚えないだろうか。
時間にマメで、努力をする……そういった事すら「白人の文化」だとぬかしているのである。
じゃあ何か?時間にルーズで怠惰でいる事を推奨するのか?と言いたくなるが、ほぼ推奨してると言っても過言ではない。
だからこそ彼らは「努力してアメリカンドリームを掴み取る」という価値観を真っ向から否定する。ベーシックインカムみたいな破綻必至な制度を推し進めようとする。
今アメリカではバイデン政権による太っ腹すぎる失業保険のため労働者不足が深刻な社会問題になっている。下手にマクドナルドなんかで働くより失業保険をもらっていた方がずっと収入が多いのだ。そんな状態で職に付こうだなんて大抵の人は思わないだろう。
もちろんこの失業保険の資金源も無限ではなく、いずれ膨大なインフレや恐慌等といった形で跳ね返ってくる。しかし連中は国家を打ち出の小槌か何かと勘違いしているのか、国からあれやこれやと要求しまくる。
これらを推奨してるのは何も貧困層だけじゃない。むしろ西海岸の富裕層なんかは大抵この思想にどっぷりだ。
貧困層が成功を求めて努力するのをやめ、国からの施物に頼りっきりになって、一番得をするのは誰か。すでに成功している富裕層だ。
誰もが成功できるという事は、自分の地位や権力が常に脅かされているという事でもある。自分が競争で勝ち取った地位を堅固にするために、競争主義そのものを打ち壊すという訳だ。
そのために連中は人種差別的思想にまで手を出しているのだからたちが悪いどころの話ではない。
米国西海岸の左翼文化において「自己研鑽」や「マッチョイズム」は白人至上主義と関連付けられ、むしろ社会悪として認識されている。
そしてホームレスは「自己研鑽を辞めた者」ではなく「どうしようもない環境のせいでそうなってしまった者」扱いだ。
現にサンフランシスコではホームレスによる路上脱糞を完全に放置しており、路上の人糞を回収・処理する「うんこパトロール」というものに人件費を回している。冗談なんかではない。
最近フロリダ州では学校で批判的人種理論(Critical Race Theory)を教える事を知事が禁止したが、それに対する批判の中に「そんな理論は存在しない」としらを切る連中がいた。
連中は狡猾で、自分たちの思想が明るみに出されたらそれは差別的で悪である事がバレてしまうのを理解しているため、徹底的に隠そうとする。
名前を与えず、さもそれがずっと前から存在していたかのように、さり気なく提示する事で社会に浸透させようとする。だからこそ悪質極まりない。
今思えば、告白して付き合ったことなどなかった。中高大と、向こうから「付き合って欲しい」と告げられて、断る理由もなく、むしろ大抵は少しは相手のことを好ましいと思って了承していた。
しかし初めて性行為に至ったのは、それこそ3人目の彼氏、大学の先輩だった。それまで「なんとなく」嫌で避け続けていたのだが、周りの女友達も次々卒業していくなかで、そろそろ潮時だと思ったのだ。
別に今まで相手が嫌いだったわけでもなければ、相手が求めてこなかったわけでもなかった。でも、正直自分より大きなゴツゴツした手を握っても、父のような安心感はあってもときめきや興奮はなかった。それが更にデリケートゾーンに及ぶと思うと、守られる安心をすり抜けて侵害される恐怖だった。
中高くらいまでは私が初めての彼女、みたいな相手しかいなかったので、「したくない」といえばそれでも年単位で関係が続いたが、自分も成人し、それを押し通すのが相手に失礼というのが段々理解出来てきたのだ。
結論から言うと、直後吐いた。相手は私が泣くのを処女だからだと思ったらしく、途中で中断してはくれなかった。「いずれは通る道だから」とでも言いたげだった。乾燥した指が腹の肌を行ったり来たりするのが気持ち悪くて仕方がなかった。どうしようもなく、私は男の体に性的魅力を感じなかった。微塵も気持ちよくなかった。きっとあの時行為を最後まで続行させたのは、私が濡れたからではなく、がっつり流血したからだと思う(気持ちくなくても濡れると聞くから、多少はあったかもだけれど)。
その後その彼氏とは別れ、2人ほど異性と付き合った。「前の相手が合っていなかっただけ」だと思おうとし、出来るだけ見目の良い、「いいな」と自分も思える相手を選んだ。それでもやっぱり、私は男体が好きになれなかった。さっぱり濡れず、どうしてもそういう行為が避けられそうにもない日は潤滑ゼリーをしこんだ。
最後の彼氏と別れたあと、それなりに悩んだ。最近流行りのアセクシャルというやつだろうかと考えた。それならまぁ納得する。多分性欲は薄い方だろうとも思ってたし。
最後の確認と思って、レズ風俗を頼んでみた(当時はコロナ前だった)。そしてわかったのだ。私は確かに性欲が薄いが、それ以前に同性愛者だった。
柔らかい肌に、肉に、その他諸々にきちんと性的興奮を覚えた。今まで更衣室や女風呂で見た女体に視覚的に興奮することはなかったが、それもやはり性欲の薄さがなせる技だったらしい。肌と肌の触れ合いがこんなにしっくり来るのは初めてだった。
その後紆余曲折あり、今は同性の恋人と付き合ってる。月に2〜3回はそういう行為もする。そこに不満はない。
しかし今考えても、今までの彼氏に恋愛感情がなかったわけではないと思う。なんていうか、「バイロマンスでホモセクシャル」ってことなんじゃないか?と最近定義してる(恋人は生粋のレズビアンで男性をちょっと嫌悪してるから、こんなこと言えないけど)。
もしかしたら、性欲のない男性と恋に落ちたら案外上手くいくのかもしれない。今のところ出会えていないが、成人してから自分の性欲に向き合えたわけだし、これからも十分、「可能性」とやらは開かれている気がする。