はてなキーワード: 被爆者とは
お墓は段原の方にあって、盆の時期は墓参りにいつも行くのですが
墓石の下には、当時中学生で学徒労働で働いていた先の工場で被爆して
やはり、祖父母の口は割と固くて増田のようなエピソードも碌に聞くことはなかったのですが
それでも忘れなれない話がいくつもあります。
先の大叔父がお手伝いさんの大八車で大洲の別宅に運ばれた先で息を引き取ったときの状況
爆風で校舎の窓ガラスが割れてしまったので座布団を廊下に敷いて歩いた話、
避難者の母親の背中からハサミで亡くなった赤ちゃんが皮膚に癒着していたので切り離した話……
そう聞くと、増田さんのように哀愁が入り混じった8/6になるのでしょうが
俗っぽい話もその陰で聞けたのが自分の幸いでしょうか。
大祖父が囲っていたお妾さんの家族ごと広島駅裏の家からいなくなったので
兄弟が多々いて一波乱あってもおかしくなかった財産の相続がすんなりいったことだったり、
戦後の混乱をボンボンとして過ごした祖父は、そのまま学友として遊びたかったので
広島大学の大学院を復興するために生徒が欲しかった先生等と裏で手を組んで
家業を継ぐこともなく、まだ暫くは遊んでいた話とか……
(その学遊が仕事にやがて繋がったらしいですけど。。)
逞しく生き抜いていった人たちのことも同様に語られるべきですよね。
それでは黙祷を。
そして当時中学生だった祖父は、6日から1週間の内に広島市へ入市した。
これは父から聞いた話であり、私が祖父から直接聞いたのは「広島の原爆で二次被曝したから手帳を持ってるよ」だけだった。
多分子供に話す内容ではないと思ったのだろうが、祖父の死後、やはりどうだったのか気になった私は父親に聞いた。
1945年8月6日、広島県にある祖父の通っていた中学校(中心部のでは無いらしいが調べてみても分からなかった)の校長・教職員・生徒は、
陸軍学校の掃除という事で集合し、広島の中心地へ向かった。だが、9人だけは違った。
そこには祖父も含まれていた。祖父はその時、何らかの事情で行く事が出来なかった。
他にもスイカを食べ過ぎてお腹を壊した生徒や、寝坊した生徒など祖父を含めて9人が行かなければいけない大切な仕事を休んでしまった。学校側もお怒りだったらしい。
だが結局、その9人を置いて広島市内に向かった全員が原爆によって亡くなった。生き残ったのは事情で行けなかった9人だけだった。
広島市に爆弾が投下され多数の負傷者が発生したという話を聞いたのは8月6日の夕方だったらしく、中心部から来た宅配屋(?)の話を聞いたそうだ。
祖父は学校の生徒の事が気になってか、ただ興味本位だったのか、とにかく原爆投下から一週間以内には、自転車で中心部へ向かった。
広島市中心部に入った時、目の前の水平線に敵戦闘機による掃射の様な光景が広がっていたのを見て祖父は危険を感じた。
だが、敵戦闘機のエンジン音や、近くに居る人達に緊迫感が無かったのを見て不思議に感じた祖父がよーく見てみると、
それがいつもは見えなかった広島湾だった事が分かった。陽光を受けてキラキラ光る海面が、
建物が消えた広島市内のずっと先に写り、それが敵戦闘機の掃射と似ていただけだった。
どこまでも続く荒野と、その先に見える広島湾に驚いた祖父は自転車を走らせた。
中心部に近づくにつれ、路肩にまとめられていた遺体が道の真中で放置されている状態を目撃した。
祖父はその遺体に近づくと、カエル達がその遺体に這っている所だった。(食べていたのかは分からない)
遺体に群がるカエルを取り除く事しか出来なかった祖父は、とにかくそのカエルを潰したり引っぺがしたりして少しでも供養になればと
遺体を見つける度にやっていたそうだ。が、自転車を走らせても走らせてもその光景が海の方まで続いていたそうだ。
祖父にとっては原爆はピカドンではなく、カエルだった。実際の原爆の炸裂の瞬間は見ていない祖父は、原爆はどうだったのかと聞かれても
このカエルの話しか出来なかった。更に原爆を目撃していないんだから被曝はしていないという感覚だったのか、40歳半ばまで被曝手帳をもらう事は無かったそうだ。
生き残った9人の同窓会の時に二次被曝してるんじゃないかという話になり、被曝手帳をもらえるのではないかという事で診断した所、
二次被曝している事が分かり、被曝手帳を正式にもらったそうだ。
そしてこの他8人はどうなっていたのかというと、特に強烈なのがその内の1人が暴力団系に進んでしまっていたという話だ。
というのも同窓会に現れたその1人は、黒い車のドアを部下に開けさせ降りてくる所を目撃し、言われなくても分かってしまったという。
祖父はその人にこう話しかけたそうだ。
祖父『せっかく原爆から生き残ったのになぜそんな道に進んでしまったのか』
その人『そうするしか無かった、俺にはこの道しか残ってない。』
祖父『まだやり直せる。亡くなった彼らの事を考えて道を歩もう。』
その人『いや無理だ。もうこれでしか生きていくことは出来ない。すまん。』
そのまま同窓会のこの会話を最後に何年も顔を見せる事が無かったそうだが、ある日の新聞で、その人が暴力団同士の抗争のさなか
殺されたという記事を見て、父が「これはその人なんじゃないか」と指摘した時、祖父は頷くも無言でやりきれない顔をしていたそうだ。
祖父の話はこれぐらいで、他に強烈だったのは祖父の親戚の乗っていた漁船が爆風の直撃を受けて船長の体にガラスが突き刺さりまくって亡くなったという話で、
その後漁船で広島まで帰ってくると突然真っ黒焦げた人達の中から名前を呼ばれ、気付くとそれが親戚だったり、また近所の人だったりと
祖父の親戚は広島に集中していたので親戚の間ではこんな話をいつもしていたそうだ。
孫の私にこういった話をされる事は無かったが、話を聞いてみて、同じ級友含め学校生徒のほとんどがが犠牲になった中で
生き抜くという事は非常に辛かった事だろうと思う。でもそれでもやりたかった職に付いていたそうだし、こういった話をする事もなく、
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150803/k10010176121000.html
これは非常に興味深い。
特にこの部分
『「アメリカが原爆を投下したことについて現在、どう考えていますか」と聞いたところ、
「今でも許せない」と答えた人は、広島で43%、長崎で46%、全国で49%でした。
一方、「やむを得なかった」と答えた人は、広島で44%、長崎で41%、全国で40%で、
広島では、ごく僅かですが、数字の上では「やむを得なかった」と答えた人が、「許せない」と答えた人を上回りました。』
小学生まで広島にいて、中学生から関西の進学校に通った個人的な経験から思うことを書いてみる。
(僕の小学校だけではなく広島がそんな感じだった、のを前提とする。経験からおそらく正しい)
まず、中学生の時に驚いたのは、同級生が原爆が落ちた日を知らなかったことだ。
もちろん全く知らないわけじゃなかったが、知ってる人でも、笑いながらあれ広島9日だったっけ?
というようなレベルだった。
広島の公立の小学校では、ほとんど全員知っていたし、知らなかったとしてもそれが何か恥ずかしいことである、という雰囲気があった。
それが、知的レベルが相当高いはずの進学校でこんな感じなのか、というのは、良い悪いではなく、単純に驚いた。
広島で原爆が落ちた日、というのを他のことで例えるなら、たとえば、阪神大震災が起こった日、東日本大震災が起こった日。
それが近いと思う。その地方にいた人はおそらく起こった時間まで覚えているだろう。
それと同じ。広島では小学生でも、原爆が落ちた時間まで覚えている。
広島では小学生はどんな感じだったかといえば、ことあるごとに原爆の話を聞くし、戦争についての話も聞くことが多い。
それは、反戦教育、という言い方になるのかもしれないが、小学生からしたら客観視はできないし当たり前のことのようにその中で育った。
中でも、僕の小学校では、僕が3年生の時から「平和集会」というイベントが1年に1回開催された。
それまでは学年ごちゃ混ぜの運動会みたいなものが開催されていたのだが。
平和集会というのは、各クラスで、平和に関するプレゼンをしあうものだ。歌や劇や朗読や方法は自由。
その結果、僕はどうなったか。
ほんとうにうんざりした。
それは小学校6年生の作文に書いてあったのをこの前見つけた。(写真で出しても良いぐらいだ)
何年も続けてやってたら、同じ話ばかりだしプレゼン作るのもうんざりする。
おそらくこれは僕だけではなかったと思う。
一つの例として、小学校6年生の時に、湾岸戦争が始まったのだが、その時クラスの男子何人かは「やったー」と叫んでいた。
僕は叫ばなかった。そして、女子はもちろんたしなめたが。
それは単純に幼さとも言えるが、その背景に平和教育への反発があった気がしてならない。
やりすぎは良くないのではないか、と思っていた。
原爆に関しても、そんな感じだった。
原爆原爆うるさいよ、と。そんなに言ったって、落とされる方にも問題はあっただろ、と。
そんな気持ちになっていた。
で、このアンケートの結果。
もしかしたら、そういうことなんじゃないか、という気がしてしまうのだ。
原爆落とされた日はもちろんおぼえているけど、だからって今でも許せないとは言い切れない。そんな空気を感じてしまう。
一応、これでは終わらない。終われない(笑)
中学生ぐらいまでは、そんな風に、今言われているのとは違う意味での「自虐史観」のようなものを持っていた。
僕が大学に入った頃、98年ぐらいから右傾化ブームが訪れる。きっかけはおそらく小林よしのりの「戦争論」だろう。
僕もなんとなく読んだし、そんな雰囲気が自分にも周りにもあった気がする。京都大学でも。
そうすると、だんだん核武装論みたいなことをいう人も出てきて、口に出してもおかしくない雰囲気が出来てきた。
それはおそらく今にまで続いているだろう。
たとえば、石原慎太郎なんかが言ったりする。
ところがだ。
核武装については完全に反対だ。
よく言われるのは、持っても誰も使えないんだから大丈夫、国際的な地位を高めるためだけだ、という理屈。
でもそれは明らかにおかしい。本当に使えないなら初めから核の脅威などない。本当に使えないなら持つ意味もない。
で、持ったとして、もしも打たれたら打ち返すのか。ちょっと待ってくれ、と思う。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑の碑文がある。
時に右寄りの人から、これは我々は被害者であり自虐史観だ、という意見を聞くことがある。
それは違うと思う。
原爆というのは、誰がやったとか、誰が被害者だとか、そういうレベルの話ではないのだ。もう絶対的な破滅的な悲劇なのであって、その点において人類全員の罪なのだ。
そういう発想なのだと思う。って今調べたら、広島市のホームページにもそう書いてあった。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1137568968454/index.html
ということは、だ。これは、仮にもう一度原爆を落とされたとしても、自分たちが打ち返す、なんてことはありえない、という意味であるはずだ。
誰が落とすとかではなく、もう一度原爆が落ちる、ということ自体を否定する、そういう気持ちを表しているはずだ。
なんなら、どこかの国がどうしてもどこかに落とすというのなら、それならもう一度ここに落としてくれ、と。そんな気持ちにすらなる。
もう一度、原爆が落とされるような世界なら、もうここにはいたくない。そんな気持ちにもなる。
で、ここが重要なところ。
僕がこんなことを思えるのは、おそらく、本当にうんざりするほど、勢い余って落とされても仕方なかったんじゃないか、と思ってしまうほどに、
原爆について、その悲惨、ありえなさ、どうしようもなさ、を叩き込まれたからではなかろうか。
体験こそもちろんしてはいないが、理屈ではなく、肌感覚としてそれを学んだからではなかろうか、と。
そんな気がするのである。
実は僕は自衛隊を持つことには一概に反対はしない。だが、核武装は絶対反対だ。
これを説明するには、たぶん刷り込まれた肌感覚としか言いようがない気がする。
ということで、この理論を裏付けるための一つの予言をしてみよう。
おそらくかなりの数、下回ると思う。
被爆の実態を国内外に伝え続けた半生だった。元原爆資料館長の高橋昭博さんが2日、亡くなった。「原爆犠牲者の声なき声を後世に伝えるのが生き残った者の責務」。最後に取材した3月、言葉は途切れ途切れながら強い意志を感じさせた。病が進み証言活動が困難になっても、核兵器廃絶への執念が衰えることはなかった。
あの日、爆心地から1.4キロで被爆し、生死をさまよった。戦後、広島市役所に勤めながら被爆者運動に心血を注いだ。
原爆被害の非道を訴える一方、対話を重んじた。1980年、原爆投下機エノラ・ゲイの元機長ポール・チベッツ氏に米国で面会。「いまさら恨みつらみを言うつもりはない」と握手を求め、文通につなげた。「核兵器なき世界」を唱え就任したオバマ米大統領には広島訪問を要請する書簡を何度も送った。
オバマ大統領が被爆地を訪問する際に謝罪するべきかと問うたことがある。高橋さんは「謝罪というハードルを突き付けるばかりでは廃絶へ進まない。ずっと同じ場所にとどまるのは未来志向ではない」と答えた。
だが、別れ際に「昔は謝罪するべきだと思った。本当は今でも原爆を落としたアメリカが憎いですよ」と苦渋の表情も浮かべた。長年、核兵器廃絶を訴えた理想と非人道兵器による惨劇を忘れられない内面との葛藤を垣間見た思いがした。
長年苦しんだ末にたどり着いた「和解」の訴えは重く、高橋さんが目指したゴールははるか遠い。その遺志をどう引き継ぐのか、被爆地に問われている。(金崎由美)
(2011年11月3日朝刊掲載)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20111104131802632_ja
まあ複雑ってことで
昭和20年8月6日。祖父は戦争に行っていてもおかしくない年齢だったが、子どもの頃の怪我の後遺症で戦争には行けない身体だったため広島市内の工場で働いていた。
その日その時間に祖父がいたのは広島市の外れの方だったので原爆で目に見える被害はなかったそうだ。
原爆投下から数日後に爆心地付近に行き何日か人探しをしたと聞いている。
戦争が終わると祖父は生まれ故郷の青森に戻り、昭和47年に亡くなった。
祖父は私が生まれる前に亡くなってしまったため祖母や父から聞いた話になるが、病気がちでいろいろと苦労したらしい。
今日は原爆が何なのかを少し理解できるようになった娘と一緒に平和記念式典の中継を見ていた。
「入っていないよ」
「ひいおじいちゃんは入れてもらえないの?」
私は原爆死没者として慰霊碑に奉納されているのは原爆により直接亡くなった方、あるいは被爆者健康手帳を持っていた方だけで
被爆者健康手帳を持っていなかった祖父は、原爆死没者として認定されないと思っていた。
しかし、娘の言葉を受けて調べてみたところ、原爆死没者名簿に登載されるには被爆者健康手帳の有無は問わないそうだ。
ではどのような人が原爆死没者名簿に登載されるのか。広島市のホームページによると
被爆者健康手帳交付の資格があれば原爆死没者名簿に登載してもらえるということだろう。
1 直接被爆者
(1) 広島市内
ア 戸坂村のうち、狐爪木
2 入市者
原子爆弾が投下されたあと、昭和20年8月20日までに爆心地からおおむね2キロメートルの区域内に立ち入った方
3 身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者
(1) 15人以上(病室などの閉鎖された空間の場合は5人以上)の被爆して負傷した者が収容されている収容施設等におおむね2日間以上とどまった人
(2) 被爆して負傷した者5人以上(1日当たり)と接触した人
(3) (1)、(2)には該当しないが、それらに相当する被爆事実が認められる人
4 胎児
私は原爆症と認定されたら手帳が交付されると思いこんでいたが、被爆者健康手帳を持っている人が発病したときに、その疾病が原爆に起因するのかどうかが判断されるということなのだろう。
原爆投下時に広島市内にいた祖父は被爆者健康手帳の交付の資格があったし、原爆死没者名簿に登載の資格もあると思われる。
今年は5507人の方の名前が新たに慰霊碑に納められ、原爆死没者は29万2325人となったという。
40年前に亡くなっている祖父を今更新規に名簿に加えてもらえるかはわからないが、そのうち広島市に問い合わせてみようと思う(今の時期は広島市の担当の方も忙しいだろうし)
今朝のニュースに被爆者の方が出ていて、最近の語り部活動の上手くいかなさ、聞き手の変化についての苦労について語っていた。
その中で、ある被爆者が「最近は小中学校から呼ばれることがめっきり減った。悲しい」ということを言っていた。
それ聞いて、ついね、つい、「なんで自分からアプローチしないの??」と思ってしまったの。
聞き手の変化についても同様で、最近の中高生はリアクションが悪いって話について、「じゃあ語る切り口を変えようとかは考えないの??」と思ってしまったの。
いやみなさん70~80代とご高齢だし、辛い体験を語ってくれているわけで、こんなことを言うのは酷なんだろうけどさ。
ただ語り手の中には勤め人だった人もきっと多くいるはずで、そういう「営業努力」に意識が向かないのはなんでなんだろう、と。
今朝のニュースで見る限り、戦争体験を聞く会のフォーマットって昔からほとんど変わってないんじゃないかなーという印象を持った。
雑にまとめてしまえば、現地を案内してもらいつつ(あるいは写真などを交えて)お話を聞いて、感想文を書いて、「こんな酷い戦争は二度としちゃいけないと思いました」、でおしまい。
「体験者から実際に話を聞く」というところに重きを置きすぎというか、それによる効果に期待しすぎなんじゃないかと思うの。
自分がいま学生だったら、例えば「現在の広島市街に原爆が落とされたら」っていうシミュレーションCGの方がインパクトある気がするもの。
なんとなく、体験者によるお話は不可侵というか、とても貴重なことというのが先に立ちすぎてて(貴重な機会なのは実際そうだと思うけど)違和感を覚えた。
自分が知らないだけで、広島や長崎の関係者の方々は、今の中高生に響くようにいろいろと工夫されてるのかもしれないけど。
どんなに大事なことであっても見せ方の「賞味期限切れ」ってのはあるのだな、と思った8月6日でございます。
(追)
あー、別にいまの時点で、被爆者や戦争体験者自身がイシキタカイタカイ((c)トラバ)必要はないわ。
被爆者や戦争体験者の話を若い世代に聞かせたいと思っている人たちが、今の聞き手に合わせてもっと見せ方を考えればいいじゃんって話ですね。すません。
出生前診断が気持ち悪い
人工中絶が気持ち悪い
臓器移植が気持ち悪い
脳死は人の死が気持ち悪い
年の差婚が気持ち悪い
事実婚が気持ち悪い
不倫が気持ち悪い
マザコンが気持ち悪い
ファザコンが気持ち悪い
童貞が気持ち悪い
処女が気持ち悪い
身体障害者が気持ち悪い
精神障害者が気持ち悪い
知的障害者が気持ち悪い
被爆者が気持ち悪い
デブが気持ち悪い
チビが気持ち悪い
ハゲが気持ち悪い
加齢臭が気持ち悪い
ロリコンが気持ち悪い
ショタコンが気持ち悪い
オタクが気持ち悪い
ゲイが気持ち悪い
レズが気持ち悪い
性同一性障害が気持ち悪い
風俗嬢が気持ち悪い
AV男優が気持ち悪い
中国人が気持ち悪い
韓国人が気持ち悪い
黒人が気持ち悪い
白人が気持ち悪い
○○出身者が気持ち悪い
犯罪者が気持ち悪い
前科者が気持ち悪い
中卒が気持ち悪い
高卒が気持ち悪い
浪人が気持ち悪い
留年が気持ち悪い
Fランが気持ち悪い
ポスドクが気持ち悪い
認知症が気持ち悪い
徘徊老人が気持ち悪い
リストラ男が気持ち悪い
ホームレスが気持ち悪い
ヤニ中が気持ち悪い
アル中が気持ち悪い
シャブ中が気持ち悪い
DV男が気持ち悪い
ストーカー女が気持ち悪い
クレーマーが気持ち悪い
団塊が気持ち悪い
ゆとりが気持ち悪い
痴漢が気持ち悪い
女性専用車両が気持ち悪い
女が気持ち悪い
男が気持ち悪い
こんなことを書き連ねる自分が一番気持ち悪い
気持ち悪い
気持ち悪い
それにしても都議会でヒドい野次があったもんだ
しかしヒドい野次は議会では日常茶飯事なので、ヒドい野次があったくらいで報道されることは普通ない。
そこに何か強い意志や意味がある。それは一体なんなのか?と考えている。
どうしてマスコミはこれを取り上げたのか?
はっきり言うがマスコミは都議会に常に常駐してるわけじゃない。行くのは特別な何かがあると予想されるときだけだ。
ネタは誰かがマスコミに提供している。それをもとに取材をし記事を書いている。
しかし一個人がFAXしたとてそれをマスコミはいちいち取り上げない。記事にしてもらうには何かの力が必要だ。
ちょっと前に、駅で白杖が足に当たったと因縁をつけ盲人を殴った男というニュースがあった。
残念ながらこんなクソ野郎は世の中に五万といる。駅でのトラブルも日常茶飯事だ。
多分オレが殴られたとしてもニュースにはならない。
じゃぁなんで記事になったのか?
盲人団体から事件の提供があったからだ。盲人を殴るクソは吊るし上げろ!そういうことだ。
長崎で被爆者の体験談話中に暴言を吐いた中学生がニュースになった。
いじめで生徒を死なせるとかならともかく、通常この程度のことではニュースにならない。
何故記事になったのか?なんか胡散臭そうな団体がその裏にあったからだ。
さてこの野次の事件のケース。一体その力はなんだろうか?
普通、年長者に対して敬うという精神すなわち孝道が根付かなかったのは学校というよりはむしろ親に責任があると思う。
親のしつけが悪いから中学生が暴言を吐いてしまうし、何よりも課外活動で勝手な行動を取った行為に対してのみ学校側に責任があると感じる。
問題は、被爆者への配慮が十分になされていなかった学校側の責任であるし、生徒自身が負わなければならない義務であった事。
特に後者の場合、課外活動に参加する意思を持たなかったにも拘らず逆恨みから被爆者の講和会場に勝手に入場して身勝手にも騒ぎ立てた悪逆非道の行為を
見咎めて注意したというだけで、暴言を吐いた事。
これは悪鬼のする事だ。
こういうのは同じ日本人として認められない。
「このサンプル数では疫学的に影響は見られない」という表現を見たときに、「もっと多くサンプルを取れば疫学的に影響が見られるんでしょう?どうせやってないんでしょう?」というのを感じ取った。些細なことだけど、これがものすごく嫌。動物実験のくだりもだけど、この人の発言からは科学者蔑視を感じる。
いや、100mSvの根拠が原爆被爆者調査だってのはこの手の話では前提でしょう。サンプル増やせないのは承知で生身の人間での調査の限界ってことで言ってると思う。
低線量被曝については原発労働者を対象としたもっと大規模な調査があって、100mSv以下でも有意差出たって論文はある。数十mSv単位だっけな。でもまだ定説にはなってない。
その先を疫学的に調べて閾値見つけるのは現時点では難しいってことは、飯田氏も計量経済学で専門的に統計やってる人だからわかってると思う。
中西氏の動物実験の話は、安全科学では閾値が想定できる毒性でも動物実験で毒性が出たら人間への影響は安全係数かけて(100倍とか)安全側に寄せて規制するから、安全科学の専門家としては当然の物言いだと思う。
いくつか記事見たりはてブ見ても「誰?」って反応なかったから驚いたのね。
やっぱはてなに寄り付く人たちってスノッブ気質の人が多いんだなーと思ったわ。
現代音楽とかクラシック界とかまったくわからんし、お偉いらしい先生様とか登場人物誰も知らないしな。あ、キダタロー氏は知ってた。
大勢の人を騙したなー! 被爆者/障碍者という神聖にして侵すべからずな存在を騙ったなー!(建前)
この純粋で凡百とは違うきらめく感性を持った俺様が認めてやった美しい幻想を打ち砕いて恥をかかせやがったなー!(本音)
って、「一杯のかけそば」だな。
まあ汚い手法だったとは思うけど、かんたんに付け込んでがっぽり儲かる入れ食いの生簀があったから網突っ込んだってだけの話だもんね。