はてなキーワード: 火種とは
日本はアジアの平和を守るため、アジアの迷惑者である中国共産党を倒すことを国是として掲げるべき
そもそも中国共産党の存在理由は、先の戦争で日本に勝つことで自国民を守ったことにあり、彼らは自らの一党独裁の正当性を主張し続けるため、反日を掲げ続けなければならないことになっている。もしこの体制が今後も続くことになれば、日中の無用な火種が今後もくすぶり続けることとなるため、日本政府はできるだけ早く共産党を倒す必要がある
更に近年、共産党はネパール国境への侵攻、南シナ海域での領海侵犯など周辺国への領土侵犯を繰り返しており、彼らが更なる領土拡大を目論んでいることは明白である。日本のみならず国際社会は連携して彼らの軍国主義の野望を摘まなければならない。ここで間違えて欲しくないのは、私は開戦主義者ではないということである。あくまでも元凶は共産党の存在とその存続理由であり、中国の国民は全く悪くないと考えている、できれば武力で争うことなく無血開城という形での政権態勢の交代を望みたい。
そこで私はない頭を使って少しだけ考えてみた。
原則、こちら側から共産党に的を絞って、多方面の無血的な攻撃を仕掛けること。
現在、中国共産党が占領している領土が広すぎるため、彼らの影響力低下を図るため、大きすぎる領土を削ることから始める
具体的には、戦後、不運にも共産党に併合されてしまった、チベット、ウイグルを独立国家として承認すること。これは東京に大使館を作って大使を招くだけでできる
できれば同時にチベット、ウイグルに彼らを守るため、自衛隊の駐留を行いたい
共産党は内政干渉だと主張するだろが、そもそもチベット、ウイグルは漢民族の領土ではないので、内政などではないと異論を突っ返せばいい
チベット、ウイグルに関しては、漢民族の支配に抵抗する現地民族を数世代かけてジェノサイドを進め、名実ともに漢民族の領土にしようとする魂胆が見え見えで気持ち悪い
次に共産党の後継政権については、やはり国民党を筆頭とした台湾政界が魅力的である。彼らなら自国民と周辺国のために民主的な政策を立案することができる
ここは中国国民の反発を避け、同じ漢民族が錦の御旗を掲げることによって、逆に彼らを味方につけることを図るため、日本だけが政権交代の表に立つことは控えるべきである。
もし台湾政界への政権交代を後ろから支え、史実を歪曲する反日独裁政権を駆逐することに成功すれば、中国から軍国主義は消え、アジアは平和を取り戻し、日本及び国際社会は中国国民に自由を与えた救世主として扱われることになる。
そもそも中国人の民度の低さが嫌いな人は多いと思うが、ここで考えて頂きたい。
中国国民の他人のことを顧みない社会性のない民度の低さは、独裁政権の政治腐敗が生み出す、正しいことをしていても報われない法的判断の不平等が、その根底にあると考えられる。例えば、もし家族を誰かに殺されても相手が金持ちなら無罪放免されるような、法の下の平等を信じられない社会が原因であり、これでは他人のためを考えることが自分のためになるという普通の社会人の考えが浸透するべくもないのである。国民の民度の向上を抑圧しているのも独裁政権の所業なのである。
https://twitter.com/nnnn330/status/423953954267856897
あまりにも誤解を招きやすい言い回しだったのが炎上の火種でしょうねコレ。本人のいうとおり、言い方が本当によくない。どこをどうみても上から目線がちらつきます。とにかく本質的にイラってなる文面ですが、それについて本人がまったく無自覚なのがもうヤバイです。物書きとしてのセンスに少々難を抱えているのやもしれません……。
「パッと見では底辺っぽい人ほどご馳走様と良い添えてから牛丼屋を出てゆく。サービス的には本来そんな礼儀は必要はないのに。興味深い現象だ」とでも言っておけば……………いや、やっぱダメだこれ。これでも誤解招くわ…。140文字じゃこれ伝えられん。
こいつの主張そのものはこの際どうでもいいんす。問題はそのあとで、『ぼっくんがこんなに誤解されているのは、お、おまいらの読解力がノミにも劣るからでしゅ!ツイッター民は脊髄反射ばかりで救いようがないでしゅね!ぷんすこりん!』とでも言わんばかりにツイッターとブログをフル活用してぶーたれているという点です。いいね……実にいい。この自意識、この逆切れ感! 胸が踊ります。じゃ何でわざわざツイッターでパナしたのというツッコミが速やかに脳裏をよぎります。このまま炉端で天日干しにしたらいい味の珍味になりそうですね。
――ていうか、そこまで珍妙な主張でも無いですよね。高収入っぽいヤツほどなんか飯屋でエラそうだしね! なのでまあこの人も「自分も言い方が悪かったっすわ!めんごめんご!」とでもしておけば、やがては鎮火する程度のボヤ騒ぎだったと思います。しかしながら7,000フォロワーに裏打ちされてお餅のごとく膨れ上がったプライドが邪魔でもしたのでしょうか、「これはツイッター特有の脊髄反射・ディスコミュ・炎上である。くりかえす。脊髄反射、ディスコミュ、炎上である。ぼっくんは悪くない」という文脈に位置づけてみのまもりを固め、賛同意見ばかりを矢倉囲いのようにRTしまくるなどなど、まぁド定番もいいところの展開を見せており、興味深いです。個人的には牛丼屋の消費者層よりよほど興味深いです。もちろん反対意見にまったく耳を貸しません。まるでゲンロン界(笑)の英傑めいた高邁さであります。わざわざツイートについての解説エントリーを立ち上げて、なんでぼっくん炎上してるの?おしえてインターネット!と自分から尋ねておきながら「身なりで他人の属性を判断すんな」だとか「挨拶が本来不必要だというのはおかしい」などのまっとうな指摘を200%ガン無視してますからねえ。そんなブルドーザーのごとき氏のご活躍に今後とも期待してゆきたいです。ええ。
https://twitter.com/nnnn330/status/424050279617544192
オチ。安い挑発にのっかって自らの価値を急速に貶めていくスタイル。
どうやらブログを非公開設定にした模様です。意味がわかりません。「責められるようなことはなにひとつ言ってないと自負」しているのならブログを閉める必要なんてないのでは? おそらく応対が面倒になったから元を断ったんでしょうけど……。しょせんコイツのことばの重みなんてこの程度だと、言うだけ言ってみるけども炎上したなら消しちまえと、そういう性根であったということか。俺も面倒になってきたからひとまずそういうことでケリをつけるといたします。お疲れ様でした。
先日ネット上にて、星海社から発売された『ロジック・ロック・フェスティバル』が古野まほろの『天帝のはしたなき果実』の盗作であるという疑惑が生じ話題となった。
そして、その『ロジック・ロック・フェスティバル』が本日、晴れて全文公開された。
http://sai-zen-sen.jp/awards/logic-lock-festival/
そういうわけで今日は本作が本当に盗作であるかというかのを考えていきたいのだが、その前提として知っておかなければならない事実として、「盗作」とは何かということである。
ここで日本で盗作について一番詳しく書いている栗原裕一郎の『〈盗作〉の文学史』から一部引用させていただこう。
本文に先立ち、何を「盗作」と呼んでいるかをはっきりさせておく必要があるだろう。
「盗作」にしろ「剽窃」にしろ、いずれも俗語だから、明確な定義は持っていない。
したがって、「盗作」であるか否かを区別する客観的基準というものも――明白な著作権侵害である場合を除いて――存在しない(中略)「影響」も「模倣」と捉えれば、広義には「盗作」と呼べないこともない。
つまり何かが盗作であると断ずるには、著作権侵害レベルの一致がない限り難しいのである。そして、肝心の版元である星海社は盗作の件について
と、はっきりと否定。また、盗作された側である古野まほろもtwitterで
本歌取りは日本の伝統、本格の伝統です。だから、もし本歌取りを「盗作」などと貶めるなら、それはとんでもない侮辱で冤罪です。私は、元の和歌が分かるマナーのある本歌取りなら、むしろ嬉しく思います。逆なら悲しい。私は、話もせず真実も知らず、人を断罪することは、不正義だと考えます(古野)
と言っており、両者の意見が「盗作ではない」と一致しており、晴れて『ロジック・ロック・フェスティバル』が盗作ではないことが確定したのである。パチパチパチ。
しかし、それでは面白くない両者の意見をよく較べてみると、あらゆる面で一致しているわけではない。
古野側は
ですから「類似点が多い」のはどうしてか。そして、これまで古野について一切、どこかで語ったり、書かれたりしていないのは何故なのか。これらがハッキリすれば、何の問題もないと思います。「盗作」は考えにくいから。もし本格の後継者でいらっしゃるのなら、古野とは仲間だから(島津)
という具合に、盗作とは言わないが、こんだけ類似点が多いのは偶然で済ませられないだろと主張しているのに対し、星海社側はあくまで、
本作『ロジック・ロック・フェスティバル』においては小説を構成する主要素であるところのテーマ・プロット・キャラクターにおいて、先行作品との「盗作」に該当する類似点は一切ございません。
と類似点なんてねーよと全ツッパ。
ここで難しいのは、先ほども書いたように、「盗作」というものの定義がはっきりしていないため、星海社のいう『「盗作」に該当する類似点』というものがどういったものかわからないのである。
どこまでが、『「盗作」に該当しない類似点」であり、どこからが『「盗作」に該当する類似点』というのを言ってくれないと判断に困る。
しかし、言ってくれないものは仕方ないので、こちらで勝手に検証していく。
さて、ではここで問題となっている両作品の類似点とはどういったものなのか。
まず、読者の印象に大きく残る点として、全体のストーリーの流れが挙げられるだろう。
・天帝のはしたなき果実
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事件が発覚すると大会が台無しになる、多数決でこれからどうするか決める
↓
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↓
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事件が発覚すると文化祭が台無しになる、多数決でこれからどうするか決める
↓
↓
↓
2chからのコピペだが、両者を読み比べた自分から見ても、この通りの展開が書かれていたし、印象もだいぶ似ていた。
これに対して星海社は、
たとえば本作『ロジック・ロック・フェスティバル』にてテーマとなっている「学園での殺人事件」につきましてはミステリーを描く上では一大ジャンルを成すポピュラーなテーマであり、ご承知の通り、先行作品を枚挙することに暇はありません。また、文化祭で殺人が起こり、その発覚によって学園祭が中止してしまうことを恐れて生徒達が独自に行動する、という本作のプロットには先行作品としてはたとえば『前夜祭』(角川書店刊/芦辺拓・西澤保彦・伊井圭、柴田よしき、愛川晶、北森鴻氏らによるリレー小説)の存在を指摘することができると思いますが、こちらの作品に関しても前段となる殺人の状況と、後段となる推理と解決へと至るプロットには、本作との密接な類似点を見出すことはできません。
そして、「特殊な場所への警察権力の介入を防ぐために居合わせた人間が素人探偵となって活躍する」といった本作のプロットに関してはたとえば『水の迷宮』(光文社刊/石持浅海)などの優れた先行作品を指摘することができると思いますが、こういったプロットに関してもまたミステリー界においては極めてポピュラーなものであると言えるでしょう。 キャラクターに関しても、学園の生徒会やその周辺の個性にあふれた生徒たちが登場し、事件を解決するのはいわゆる「学園ミステリー」ものの常であります。
この理屈がありならば、「少年漫画において、探偵が主人公というのは一大ジャンルを成すポピュラーなテーマであり、大人だった主人公が子供になるという設定も手塚治虫の『ふしぎなメルモ』など枚挙に暇がなく、また主人公が知り合いの博士におもしろグッズを作ってもらうのも、偽名に古今東西の有名人の名前を使うのも決して珍しいケースではないので、本作『名探偵ドイル』は完全なオリジナル作品なのです!」などという無茶苦茶な理屈もありになってしまう。
問題となっているのは、別個であるはずの2つの作品でこれだけ似通った要素が複数に渡って存在してる点なのに、それを因数分解のようにバラバラにして、よくあるケースだと主張するのはいささか無理がある。
もっともミステリなんてのは、『名探偵、皆を集めて「さて…」と言い』という言葉があるぐらい、ある種の流れが決まっているジャンルだし、このぐらいのストーリーの類似はよくあることかもしれない。だがそれ以外でも古野側が、
私はこれまで徹底して、著者の方の名誉と将来のため、具体的指摘を避けていました。また性善説に基づき、盗作説を断固否定した上で、類似点の多さを悲しみました。それすら非のない方への中傷と言われれば、非は私にあることになる。ならば、相当数あるうちの1つだけ、まずお示ししましょう(古野)
鷹松学園と勁草館高校。学校の設定を比較対照してみて下さい。 やや時間を置いた上で、その具体的指摘も行います。 できればこれに止めたいですが、私に非があるとされている間は、二の矢三の矢を射ちます。極めて不本意です。私はこの段階でも、平和裡に解決することを強く、強く希望します(古野)
と主張しているように設定面においても、両校の舞台が「藩校を前身とする名門校であり、地下に軍事施設がある」という一致を見せている。
普通、ここまでの一致はなかなか見られまい。
また『ロジック・ロック・フェスティバル』の応募時キャッチコピーが「学園ミステリーは青春に捧げる供物である」というものだったのに対し、『天帝のはしたなき果実』に対する、ミステリ作家・有栖川有栖氏の推薦文が「これこそ、虚無なる青春への供物。真正の本格にして破格のミステリ」となかなかどうして似通っている。
それ以外にも両作品の最後の一文も綺麗に対称関係となっている。
このまま順調にいけば、古野によって二の矢三の矢が射たれるはずなので、今後の展開を楽しみにしておきたい。
ただ、個人的な意見を言わせてもらえば、『ロジック・ロック・フェスティバル』において、軍事施設の設定は必ずしも必要なものではなく別の設定でも代替可能だったはずである。だから、もし作者に本当に盗作をする気があるならば、こうした部分は真っ先に変更したはずである。それにもかかわらず、このような明白な形で残っているのだから、この一致は作者によるオマージュやリスペクトの一種とみなした方がいいだろう。
しかし、オマージュであれ、リスペクトであれ、このような類似点が多数ある以上、星海社側の「完全な事実無根」や「なぜ火のないところに煙の立つような今回の「盗作」疑惑が起こってしまったのか」という発言はいささか苦しい。少なくとも根や葉や火種はあったわけなのだから。
『ロジック・ロック・フェスティバル』のあとがきによれば、本作は作者が初めて書いた小説らしい。
その点を考えれば、こうした部分はむしろ若気の至りや遊び心と言えるし、前途ある新人に対して執拗に非難するべきではあるまい。
本作を受賞させるにあたって、星海社の太田副社長は座談会でこのようなことを言っている。
この人、ミステリーの手つきが本当にいいわけ。小ネタから大ネタまで、80点以上のミステリーが次々とやってくるって感じ。飲茶のおいしい料理が次々やってくる感じなわけね。しかもなおかつ、法月綸太郎的、佐藤友哉的な青春の痛みがしっかりとあるのよ。だけど生々しく「法月綸太郎が」とか「佐藤友哉が」みたいな感じでは出さないようにしてるんですね。
また、さらにこのようなことも言っている。
うん、この人は新本格ミステリーの正統後継者だと思うよ。あの世にいる宇山さんにも読ませたいよね。そういう意味で言うと、「ありそうでなかった」っていう感じがする作品なんだよね。新本格はその誕生以来ずっと奇形化が進んでいったわけだけど、正統的な先祖返りというか……この人の作品は音楽で言うと「黒いジョン・レノン」と呼ばれたデビュー当時のレニー・クラヴィッツみたいな感じなんだよね。あるいは、とかくビートルズと対比されたデビュー当時のオアシスとか。とにかく、これまでにありそうでなかった青春ミステリーの最前線、みたいなわくわくする感じがこの作品にはあるような気がするんです。
ここで太田が読ませたいと言っている、宇山氏が生前最後に送り出した作家・古野まほろをまたしてもガン無視である。「ありそうでなかった」人扱いである。まほろの存在が歴史から抹消されている。預言書が燃やされたのだろうか?
それとも『天帝のはしたなき果実』の文庫版が講談社からではなく、幻冬舎から出ていることと何か関係しているのだろうか?
そして受賞作の発売に寄せてこのようなことも言っている。
……というわけでぜひみなさん、『ロジック・ロック・フェスティバル』を読んでください。綾辻行人さんや法月綸太郎さん、有栖川有栖さんたち、かつての「新本格」推理小説ムーブメントは終わっていなかった、それが見事に証明される一作です。学園祭の密室の妙に酔いな……!
そりゃまほろも怒る。
明らかに古野まほろの影響を受けている作品に対して、他の作家の名前をガンガン引き合いに出してるのに、肝心のまほろを無視しているんだからそりゃ激おこにもなるだろう。
この場合考えられるケースは4つ。
1.選考に関わった全員が『天帝のはしたなき果実』を読んでいないor内容を忘れていた。
2.色々類似点があると気づいていたが、この程度大した類似ではないと考えた。
3.色々類似点があると気づいていたが、読者は類似に気づかないと考えた。
イラストに大御所CLAMPを使っている時点で4番は無いだろう。考えられる可能性は残りの3つ。外野である我々にはどれが真実なのかを判別する術はない。
ただ、やっぱり上に挙げた類似点を考えれば、作者が古野まほろを全く知らなかったというのだけは考えられない。
そして星海社は普段から新人賞の選考においてオリジナリティを重要視しており、以前の座談会ではこのようなことを言っている。
次は岡村さんが担当した『MV ―Meteddo Vevaea―』。これは高校生?
そうですね、高校生でこの枚数書けるのは素直にすごいです。
何枚くらい?
400枚以上ありました。
おお、それは確かに頑張ったね。
ただ、肝心の内容がまんま『IS〈インフィニット・ストラトス〉』なんですよね……。
タイトルもそれっぽい!
岡村さんもさらっときついことを言うようになってきたねえ(笑)。
いやいや、でも本当にそうなんですよ。架空の兵器があって、それを使える男性は主人公だけ……という設定で、何から何まで『IS』を連想させてしまう内容でした。これをそのまま出版したら、ちょっとタダではすまないだろう、と(笑)。
大変なことになりそう(笑)。
似た例は僕のところにもあって、『コトホギ』ってのがそうなんですけど。
コトホギ……?
柿内
タイトルが既に不穏だなあ。
これ、舞台は大正二十年、帝都。女の子が悪魔に襲われているところに、書生姿の男が助けに入り……と、ほとんど『葛葉(くずのは)ライドウ』です(笑)。
一同
まんまじゃん!
電波塔がうんたらとか、もうほとんど二次創作でした(笑)。これでライドウを連想しない人はいないだろうと。
まだあんのかよ! いい加減にしてくれよ(笑)。
主人公が着物姿で武器は刀……式の性別を男にしただけ、まんま『空の境界』!
冒頭1ページ読んだだけでそれと分かる感じでしたね……。
よく星海社にこれを送ってきたな、という。度胸はあるのかもしれませんけど、酷い!
別に新人賞でオリジナリティを重視するのはかまわない。むしろ当然である。既に市場に似たような作品があるのならば、多くの読者は新人ではなく実績のある作家の作品を選ぶだろう。
だが、だとしたら『天帝のはしたなき果実』を連想させてしまう『ロジック・ロック・フェスティバル』を受賞させたのは失敗ではなかっただろうか?
普段の座談会で大上段から応募作を切り捨てているからこそ、受賞作にはそれ相応のクオリティが求められる。さらに帯に『まだあった「新本格」推理小説! 全ミステリファン注目の新人登場』なんて書いたらハードルの高さはそりゃもうウナギ登りでよっぽどの脚力が無い限り、足を引っ掛けて転倒は免れまい。
先程も書いたように、『ロジック・ロック・フェスティバル』の作者である中村あきにとって本作は初めて書いた作品である。
そうしたまだ若き作者に対して、これほど高い下駄を履かせるのはどうなのだろうか。
少なくとも「全ミステリファン注目」というのはいささか厳しすぎる。
そういう意味では、今回『ロジック・ロック・フェスティバル』が受賞してしまったことは決して幸運などではなく、むしろ運が悪かったのかもしれない。
身も蓋もない話、これが星海社からではなく別の出版社から刊行されていたら、ここまで話題になることもなかったと思うのだが……。
戦争について、学ぶことはなんの意味があるのだろうか。ふとそう思った。そして、それをいくつかの切り口に分けて考えてみた。
私が生まれたのは平成がはじまってすぐのこと、ちょうどソ連が崩壊した時期だ。
もちろん、私にとっての戦争は、まったくもって身近なものではない。
ただ、平和とか戦争について考えているうちに、あえて書いて、いまのところの自分の考えを残してみたくなった。
特にここでは、日本が直接関わった直近の戦争であり、当事者が生存している第二次世界大戦もしくは大東亜戦争について書きたい。
それでも、もう70年も昔のことだ。もう30年過ぎて、あっという間に終戦から100年くらい経ってしまうだろう。
戦地に赴かない限り、また時代を遡らない限り、戦争を経験するというのは不可能である。そこで、戦争とはなんだったのかというアプローチが一番初めにくる。その方法は、博物館に行く、写真をみるなどなど様々である。特に、昭和のひと桁年代に生まれた方々が生きている間は、彼らが直接経験したその記憶から学ぶという方法が可能だ。国民の高揚もしくは虚脱、戦争の残虐性を生の声で聞くことができる。ただ、これはあと10年もしたらほとんど不可能になってしまうかもしれない。
2) なぜ戦争が起こったのかを学ぶ
なぜ人は戦うのか、なぜ領土拡大を目指したのか、なぜ支那事変は起きたのか。戦争という歴史的事実の起点に対して、なんで、と問いかけてみるのは素朴ながら、ものすごく頭の回転を必要とする。当時の国際情勢はどうだったのか、リーダーたちはどのような野望と認識を持っていたのか、国民はそれにどのように反応したのか。様々な要素が重なりなって、奇襲や宣戦布告へと結びつく。今後、自分たちの国を戦争に巻き込まないためにも、なぜ戦争は始められたのかという視点は重要だ。
3) なぜ戦争に負けたのかを学ぶ
戦争は悪だという考えで、考えることそのものを停止するのは簡単だ。負けてしまった戦争の敗因を考えても仕方がない、という声もあるだろう。ただ、同じ過ちを繰り返さないという意味でも、その分析は意味を持つ。たとえば、地図をみながら、その伸びきった補給線に嘆息するのもそうだし、インパール作戦など、個別の作戦の是非を問うてみることもできる。ミッドウェー海戦をひとつの転機とするならば、ガダルカナルなどその後の日本軍の行動をチェックしてみるのもいい。失敗から学ぶ、その絶好の材料がここにあるはずだ。
4) 戦争のあとに何が起こったのかを学ぶ
玉音放送を流したのが8月15日、日本が降伏文書に調印したのは9月2日である。敗戦を迎えた日本はどのような戦後処理を受けたのか。それは戦争によって決められた勝者と敗者の間における、責任と今後の関係性の規定だ。東京裁判はじめ戦争犯罪人の断罪や、大日本帝国憲法の破棄と日本国憲法制定のプロセス、国体及び皇室制度と政治責任に関する議論など、その射程は広い。もちろんサンフランシスコ平和条約も外せない。戦争の前と後でどのような変化があったか。それまでの常識が非常識になり、非常識が常識になったその転換を捉えることは、私たちが生きる時代のはじまりを知ることができる。
5) 戦争の裏で何が起きていたのかを学ぶ
戦争から何十年も立ち、研究も進んだいま、私たちはひとつのできごとをいろんな視点から見ることができる。日本が必死になって戦争していた裏で、連合国はその後の戦後秩序についての議論を重ねていた。その反対側のやりとりを見ることは、面白くもあり、悲しくもある。例えばカイロ会談、テヘラン会談、ポツダム会談では、その後の大国による世界秩序の土台がどのように作られていったのかを知ることができる。往々にして、物事は知らないところで決定されているものだ。
6) その後の人びとは戦争をどのように捉えたのかを学ぶ
最後に、後世に生きる人びとはどのように戦争を捉えたのかを考えることは、非常に重要だ。戦争を知る世代はそれをどう形容したのか。戦後の歴史において、知識人や市民がもがきながらその形容詞を見つけていく過程から、戦争と日本、そして市民との関係を考える際のヒントが眠っている。もちろん、戦争そのものを完璧な見方で統一することは出来ないし、しなくてもいい。だけど、その議論をときに批判的に、ときに肯定的に見つめ直しつつ、あえて自由に考えてみよう。戦争の総括というものが不在だからこそ、自分で考えることが必要になる。
6つ項目をあげて書いてみた。もちろん諸外国からの視点、人道的な視点など、まだまだ様々な切り口がある。
平和な世界を希求する、実現するためにも、そうでなかった時代をもっともっと知っておいたほうがいい。
今まで書いてきたのは、全て日本の話だけ。あらゆるところで紛争は起きているし、その火種はどこにだってある。
このような問題に対して、目をそむけるのは簡単だけど、目を見開いて、向き合っていたい。
(問題提起)結婚以外にも再帰性という考え方が浸透しているのではないか?
第三節のなかに「再帰性」という言葉がある。本書によれば、再帰性とは「ある行為なり制度なりを『別なふうにもできるのではないか』という観点から眺める態度」と説明されている。この観点に通じるものとして、山田昌弘は結婚しない若者たちの現状を取り上げ、「もっといい人がいるかもしれない症候群」と名付けた。「この先もっとよい人があらわれるかもしれない」。現代において、現在の事柄はより見通しのよい未来を獲得するための手段にすぎないのである。「再帰性」という言葉は広い範囲で応用されうる、強力な思考である。山田昌弘は、現代の結婚観のなかに「再帰性」を見て取り、鮮やかに示してみせた。しかし、「この他によりよい未来が待っている」という、主体の今いる現状を顧みない、いわば運命に身を委ねるような考え方は、結婚に限らず恋愛において多分に散見される。<承けて繋げる>(結婚にかぎった話ではない。恋愛において、よく散見されるものである。)(たとえば、「告白」を考えてみよう……)(「告白」というテーマに照準を合わせたものの、上手い事例がでてこない。もう少しやりやすいものはないか?類似しているものはつぶしがきく。「別れる」という動作に着目してみよう。)(輪郭がぼんやり浮かんだ!!でも、書き出すとなると苦労する。それは往々にして範囲が広く、抽象的であり、実感しにくい事柄である場合である。だから範囲をしぼる。身近な例を思い浮かべ、それをそのまま書く。)
(検討)
『『『→たとえば、恋愛における「別れる」を考えてみよう。別れるという行為には、分かれるに足る決定的な理由が存在することが少なくない。しかし、時として、これとは異なる理由で別れることがある。順調に交際を重ねていけば、いつかはマンネリとなる。(マンネリになるよ!)二人が二人でいることに、慣れてしまう。(慣れてしまい停滞する。)(停滞している状態になる)(マンネリとは〜〜)停滞期には、些細な出来事が火種となる。(二人の関係が不安定なものになるとき、楽しかった思い出は、これまでとこれからを天秤にかけ、私たちに選択を迫る。<説明を加え過ぎ。抽象的な説明は2段階にとどめる。3つ目はくどい>)「このまま、関係を続けていって本当にいいのだろうか。」困難を見事乗り越えることができたならば、二人はめでたく、ーーおそらくは信頼が以前にも増して強固となってーー次の段階へ進んでいく。しかし、この問いに対して、「次へ」
(書くしかない!)』』』
(煮詰まっているときは一つの主題を掘り下げようとするあまり、論旨をどのように展開していくのか見失っている。文章を書き進めていくときは、水平性を意識して垂直に掘り下げる。ある思考にたいして、分析するさいは垂直方向だけ意識していればいいが、論文やレポートのような長文にたいして、同様な態度で臨むと、思考が煮詰まる。頭がぼんやりとして、手が動かない。捗らない。この状態は、集中力が途切れたのではなく、一つの物事に偏執して全体が見えていない状態である。いわば、過集中である。)
(主張)
ただ一緒にいれば楽しかった、順風満帆な時期は過ぎ、停滞期に入る。『これから二人の関係をどうしていこうか』と考える時期になる。(所詮は)他人である二人の人格の衝突を、乗り越えていけば、二人の関係は以前にも増して親密なものとなるだろう。しかし、厳しい状況を乗り越えていく気概が持てないことがある。「もっといい人を見つけよう」と早い段階で見切り、(何の確証もない)確証がない明るい未来に全身を賭ける。(安易に)現在の関係を断ち切り、次の交際相手を見つけることができれば、万事良しである。本当にそうだろうか。このような身のこなし(方)にはいくつか問題がある。
〜〜剥き出しの主張は過激で偏屈であるから(主張に至る経緯)(妥協)を鏤めて、なめらかにする。主張は正しいか誤りかで判断するのではない。より説得力を持った文章が、受け入れられるのである。〜〜
(検討&主張)
〜〜何をどのように書くか?テーマと意見の設定、検討-過程の設定〜〜
(テーマ)
恋愛における付き合う、付き合わない
(問い)
仲がよいのに、どうして付き合わないのか?
女はわかる、男は?