はてなキーワード: 帰依とは
Appleの囲い込み戦略に言及している人が少ないのは何でやねん。
スマホはiPhoneでPCはMacbook、タブレットはiPadで、イヤホンはAirPods Pro、
もちろんデータはiCloudに保存してるし、音楽を聴くときはApple Musicやし、Apple TV+はまったく見てない。
その状況でAndroidに移行するなんてありえへんわけよな。
もともと移行する気なんてないけど。
信者でなくてもiPhoneとAirPodsをセットで使ってるとか、
iPhoneとiPadと連携してるとかApple Musicも使ってるとかいう人は多いやろうし、
そうなると「スマホだけAndroidに移行」なんて中途半端になるだけやん。
動作はスペック以上に安定して速いし、そらどんどん囲い込まれていくよ。
各社が個別に機能を実装して「後は知らん」じゃ普及せえへんわけで、
iTunes StoreやApple Payのように業界と話をつけて社会的な利用環境を整えたり、
そういうことを総合的にやってくれるから安心のAppleやねんな。
結局はAppleが道を拓かへんとみんなが使えへんのよ。
私は神奈川県内で自営業を営む、しがないIT屋である。過去にはオウム真理教(現アレフ)の事件を追う無名のフリーライターとして糊口をしのいでいた時期もある。
以下は、今年7月に私の身に起こった出来事の記録と、国家権力の象徴である警視庁と公安調査庁の手により、かつて未曽有の化学テロを起こしたカルト宗教団体オウム真理教の後継団体として公安調査庁の監視対象となっている宗教団体「ひかりの輪」に罪なき一般市民である私の個人情報がリークされた問題に関する告発である。
オウム真理教は麻原彰晃(松本智津夫)によって設立された新興宗教団体である。設立当初はヨガを中心とした修行による神秘体験の会得を目標とする比較的穏当な宗教団体であったが、1989年に教団施設内で発生した信者殺害事件とその隠ぺい工作をきっかけに急速に犯罪傾向を強め、以後、坂本堤弁護士一家殺害事件をはじめとする凶悪事件に手を染めていく。
1990年には真理党を結党して衆議院議員総選挙に出馬するが全員落選、教団はこれを国家による陰謀と考え、無差別テロに傾倒していく。上九一色村の教団施設であるサティアン群は毒ガス工場に改造され、サリン・VXガスなどの化学兵器の製造のための研究が進められた。ちなみにサリン製造プラントの初代責任者は上祐史浩である。
教団は95年の地下鉄サリン事件後、教団の拠点である上九一色村のサティアン群に警視庁による強制捜査が行われ、教祖である麻原彰晃(松本智津夫)を始めとする教団幹部の逮捕によって壊滅した。その後2000年には後継団体アレフ(現Aleph)が発足するも、麻原への帰依を続ける主流派と旧オウム真理教からの脱却を図る代表派の対立が勃発し、上祐史浩率いる後者(代表派)はアレフを脱退し、新団体「ひかりの輪」を結成した。
今なお信徒数約1,650人、拠点施設32か所、資産約12億9,100万円(2019年(令和元年)10月末時点)*1の勢力を誇るアレフに対し、上祐史浩代表率いるひかりの輪は信徒数約150人、拠点9か所、資産約700万円*2と非常に貧弱であり、表面上は国家や市民への脅威は全くないように思える。しかし「旧オウム真理教のシヴァ信仰から完全に脱却する」という上祐史浩代表の宣言とは裏腹に、今なお「オウム真理教の修行体系の最も本質的な部分を継承」*3している団体として、団体規制法に基づく公安調査庁の観察処分対象となっている。
今年7月某日、私はひかりの輪が拠点を構える世田谷区南烏山のマンションのエントランス前に立っていた。アレフ信者13人がこのマンションの2階に続々と入居し、事実上の拠点としたのは2000年12月のことである。以降、2007年の教団の分裂騒動以後は上祐史浩代表率いる「ひかりの輪」の拠点としてオウム真理教の残党はマンションの2階に居座り続け、3階より上の住人や烏山地区の近隣住民から強い警戒心をもって監視されている。
彼らの突然の入居から20年余り、近隣住民によって結成された対策協議会*4による戦いもむなしく追放に至っていないオウム真理教後継団体「ひかりの輪」の現状はどうなっているのか、かつて匿名でネット上に記事を書き散らしていた私の血は密かにたぎり、その足は知らず知らず私の体をこの地にいざなったのだ。
建物の前は、いくつかの鋼鉄製の小さなバリケードと警察の詰所があること以外はただの砂利敷きの駐車場と変わらない。どんよりと曇った平日の昼下がり、監視小屋に人の気配はなく、しかし敷地に足を踏み入れると砂利がかすかに音を立てて緊張感が走る。
エントランスのガラス窓には「関係者以外立入禁止」という、どのマンションにもある注意書きが貼ってある。これを無視してエントランス内に一歩でも立ち入れば、住居侵入罪として罪に問うことができるというものである。実際オウム真理教の信者や左翼団体のメンバーなどがこの微罪で逮捕された例は枚挙にいとまがない。じゃあ不動産屋やらピザ屋の広告のポスティングはどうなのかという疑問は持ってはいけないらしい。
私は開け放たれているドアを通ってエントランス内に足を踏み入れた。マンション内では多くの猫が放し飼いにされているようで、集合ポストの下にはエサ皿が置かれ、猫の尿のにおいが鼻を突く。集合ポストの最上段には、「201 上祐・水野 ひかりの輪」と書かれたボックスがあり、確かにここが「ひかりの輪」の本拠地であることがわかる。2階の他の部屋のボックスは「空室」と書かれたガムテープでふさがれていた。
集合ポストの写真を撮り、長居は無用ときびすを返しかけたその時、黒いシャツを着た短髪の男がエントランスにやってくるのがちらりと見えた。男は無線機のようなものを所持しており、一目で私服の警察官であることが分かった。このマンションの住人でもひかりの輪のメンバーでもない私を訝しんで職務質問をしようと接近してきたのは明白であった。
このとき私はたまたまダイソー千歳烏山クレア店にて500円で購入した水鉄砲「アクアレーザー」(未開封)を所持しており*5、そのことが警察官との喜劇的ひと悶着に発展していく。
商品番号:4549131780017
https://jp.daisonet.com/collections/party0105/products/4549131780017
「何の用ですか?ここの住人じゃないですよね?」
どうしたものかと考えるより早く私服の警察官は話しかけてきた。とりあえずお約束の「任意ですか?」という挨拶をしてみたものの相手が引き下がる気配はみじんもない。「いやその」「とりあえず身分証見せて」「はい」変に事を荒立てても仕方がないと思い、素直に財布から運転免許証を取り出して男に手渡す。男は無線に向かって免許証に書かれた名前を読み上げ、やがて近くの交番からやってきたと思しき警察官たちが集まってくる。これは困ったことになった、今日はこれから仕事の打ち合わせがあるのに、と困惑しつつもなぜか冷静になりあたりを見回してみる。既にパトカーまでやってきており、さながら何か大きな事件の現場の様相を呈しているが、GSハイムの一般住戸はおろか向かいの戸建てからも野次馬の気配は全くない。つまりここではこの程度のことは日常茶飯事なのだと合点しながら警察官からの質問に答える。そのうち彼は私のぶら下げているダイソーのレジ袋に気付いた。
「その袋の中身を見せてください」
しぶしぶ袋の中に入っていた未開封の水鉄砲(500円)を取り出して警察官に見せると、彼の目つきが一変した。「これを何に使うつもりだったの?」「いえ何にも」「そんなわけがないでしょう」「いや本当に何でもないんです」といった不毛な押し問答が始まった。折しも水戸で聖火ランナーに水鉄砲を発射した女性が逮捕された事件があったばかりだ、警察官のテンションが上がるのも無理はないだろう。そのうち「こんなところで水鉄砲持ってて何にも使わないわけがないでしょう!」と、いくらか統を失したような状態になっている警察官を私が必死でなだめるような展開になっていった。
そのうち雨が降り始め、一人の警察官が詰所からビニール傘を持ってきて、職務質問に当たっている警察官に手渡した。私を都会の酸性雨から守ってくれるというのである。素直にしている限り警察官というのは案外親切なものだと思った。やがて聴取の算段が付いたらしく、私は促されてパトカーの後部座席に乗り込んだ。
警察署に着くまでの間が、この事件における私にとって最も苦痛に満ちた時間となった。同乗した警察官にとっては私が他人の住居に侵入を図ったことよりもダイソーの水鉄砲(500円)を所持していたことの方が重大だったらしく、いつまでも「その水鉄砲でひかりの輪を襲撃するつもりだったんだろう」と因縁をつけられ続けた。当然私にそんな意図は露ほどもなく、ただダイソーで見かけた500円のポンプアクション水鉄砲に感心し(トイザらスなら同等品が3000円は下らないはずだ)、自宅に帰ってからその威力を試してみたかっただけだったのだ。頼むから信じてくれ。しかし、降り際に言われた「刑事には嘘をつくんじゃないぞ。嘘はあとで全部わかるからね」という一言は、この難局を切り抜けるための示唆を多く含んでいた。
成城警察署4階の取調室に着いた私は、徹底的に所持品の検査を受けることになった。カバンの中身は言うまでもなくポケットの中身(尻ポケットを裏返せとまで言われた。構造的に無理である)やズボンの裾の裏までひっくり返させつつ、「こちらもケガはしたくないからね」などと物騒なことを言う。靴を脱ぎながら「中敷きがあるので調べてください」と言ってみたが、そこは調べられなかった。くそっ、俺の足の臭いを警察官に嗅がせるチャンスだったのに、と思いながらも無言で靴を履き直して促されるまま椅子に腰掛けた。
やってきた刑事は眼光鋭く「どうしてこんなことをしたんだ」と切り出してきた。そんなことを言われても単に興味本位だったとしか答えようがないのでその通りに答えるが全く納得してくれる気配はない。次第に調子に乗って「我々は地域住民に委任されて地域の平和を守る義務があるんだ、外部の者が不穏を与えることは許さない、わかるか」などということを演説し始める。(テロ組織の残党と20年以上も慣れ合ってきてその体たらくは何だ)と喉元まで出そうになるがぐっとこらえつつ、話せることだけ話してあとは黙り込む。後になって気付いたが、彼らは私のことを極左テロ集団と関係のある何者かと思っていたらしい。こちらには検挙歴も何もないものだから彼らが私について知っていることは当然何もなく、必死になって思想的背景を聞き出そうとしていたのだ。
やがて私が極左でもオウム真理教関係者でも何でもなく、ただ興味本位でGSハイムを覗きに来たことが明らかになってくると、急に刑事たちのテンションが下がってくるのを感じた。取り調べの前に預けた所持品の返却願いを次々と書かされ、左の人差し指で拇印を押し、返却された品々をカバンやポケットに詰め込むと、まるで放り出されるように成城警察署を後にした。
事件後しばらくして、オウム真理教ウォッチャーの友人のもとにひかりの輪広報のツイッターアカウントからダイレクトメッセージが届いた。そのメッセージには、上述の侵入事件に対する不満とともに、警察署での事情聴取の際に明かした私の本名が、名字だけではあったが記されていた。
これは一体どういうことだ。
当然、私はGSハイムに立ち入ることを誰にも予告していないし、事件後にも一切そのことは話さなかった。それにこの事件に関して私は厳重注意を受けただけで、逮捕もされていないし、この事件があったこと自体マスコミに公表されてもいない。にもかかわらずひかりの輪の広報が私の名前を知っているというのだ。
私がGSハイムのエントランスに立ち入ったことを知っているのは、成城警察署の警察官や刑事、それにそこから連絡が行っているであろう公安調査庁だけだ。
つまり、「犯罪を犯したわけでもない一般人である私の氏名(もしかしたら住所も)を、警察がひかりの輪にリークした」以外の可能性が考えられないのである。
上述の通り、宗教団体「ひかりの輪」は、かつて一般人に対する殺人やテロ行為を繰り返してきたオウム真理教の元幹部である上祐史浩を代表とする、「テロ組織オウム真理教の後継団体」である。その規模はかつての全盛期に比べれば見る影もないとはいえ、その強い反社会性を懸念して公安調査庁の監視対象ともなっているわけである。
かつてオウム真理教は、TBSテレビ「3時にあいましょう」のスタッフから「オウム真理教被害者の会」の代表を務めていた坂本堤弁護士に関する情報を提供され、同弁護士を家族もろとも殺害し山中に埋めた*6前科を持つ。今回のリーク事件に関して、そのような組織の後継団体に教団に批判的な行動を行った一個人の個人情報を与えることがどのような危険をもたらすかを、警察は全く理解していないと言わざるを得ない。
もし、現在でもひかりの輪に殺人などの実行部隊が存在し、彼らが私を拉致し、あるいは殺害して山中に埋めるようなことがあったとして、日本国警察は一体どうやってその責任が取れるというのだろうか。そういったことが皆無であると、彼らを長年監視してきた警察は断言することができるのだろうか。
警察と公安のひかりの輪への監視活動も近年はマンネリ化し、ひかりの輪スタッフと警察官の間での立ち話も見られるという。そういったたるんだ状況の中、「警察によるテロ組織の後継団体への個人情報のリーク」という一大不祥事が発生した。警察には事態の重大さを認識するとともに猛省を促したい。
*1 国際テロリズム要覧2020 http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ES_E-asia_oce/aum.html
*2 日本経済新聞2019年2月28日付 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41879540Y9A220C1CR8000/
*3 産経新聞2021年5月19日付 https://www.sankei.com/affairs/news/210519/afr2105190020-n1.html
*4 烏山地域オウム真理教対策住民協議会 http://www.kyogikai.jp/
*5 この事件の少し前に聖火ランナー水鉄砲襲撃事件が発生していることとは全く無関係である。
*6 TBSビデオ問題 https://ja.wikipedia.org/wiki/TBS%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E5%95%8F%E9%A1%8C
首無しエヴァの群れやアヤナミ神が視聴者さまファンさまのありようでしたって言われたら目線的にそんなに没入できないかな
ガンダムがウルトラマンだったらってやつ作ってみよといわれて、カラータイマーきれたらマジ地球外生命体にもどっちゃうところからのやっぱイデみたいに魂に帰依しようぜってなって懺悔こそ真ってしたけどヲタク諸兄が共感して痛いっていうのやばいから人造人間でぜんぶ解決だってところで、二重らせんで自分の人生観のせちゃおこれなんか半生記みたいじゃんってなって槍ってカタチの科学の力で世界を変える希望の治療がうちら夫婦には尽きたけどやりたいことと経済活動の二本柱で世界ってひらけるんだぜむかし仕事上で言い寄った女も直接的なファンの支えも届いてないけど私は元気ですって共感できるのだいぶ観客目線から離れてるよね
そこがねじれている部分で、基本的には責任編集(?)だかなんだかの町山も含めて、形式的にはポリコレ万歳!意識高いの最高!ネトウヨとオタクには死の報いを!という、フェミニストと同じ歩調なんだよね。だから敵の敵は味方的な意味では、彼らは仲間同士であるんだよ普段は。
そもそものこのDM受信者にして被害者は「韓国映画特集なのに、映画秘宝から来たのが男のライター二人っておかしくない?」という疑問を書いたけど、別にメンションでもなければ注目も浴びてないんだから、黙殺で良かったんだよ。そこが病んでると思われている部分かな。
編集長あたりも含めて、本質的には普段の建前と本音が違っているんじゃないか?だから、寄越すライターも二人とも男なんじゃないか?と、フェミニストに帰依を試されているんだと思う。「これからの特集で二人のライターを寄越す時は必ず男女半々にします」とかもっとお土産持ってこい!と詰められているんだと。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
個で孤立することを自由と言って認めるかのように選択させることは宗教のそれと大きく外れます。
教えを乞い救いを求めてなにかしらの集まりに加わらないことは罪です。
罪とはもちろん宗教の定義する摂理に基づいてそれから逸脱したものの事です。
無宗教からすると宗教に属せずとも得られるもののことを権利と読んだり自然から受ける偏差的な不利益を罰としたりするかもしれませんが、善行や徳を定義するからこそ罪や悪が存在します。
自由という名で罪や悪を打ち消せば自然と善も徳も消滅します。それくらいは当然知っていることでしょう。光無ければ影がないのは言葉にするまでもありません。
罪が生きていけないほどの罰を与えるのか、罪だとしてこちらの領域に参加することを諭すのかといった定義は宗教宗派のそれぞれです。
破戒僧が人の自由を良いものとして宗教を破壊するのにあたって宗派を名乗るのは、問題がありませんか?
浄土真宗がそれを自由と呼び良いものとしているとするならばよいのでしょう。
人が一人になっていくことがいかに弱く脆く救いがたい事か教え広め、集まり助け合うことが宗教のあるべきとしない事はもはや宗教のいう所の悪です。
野生の動物も孤立したものから襲い、襲われていきます。組織から分断された部位から人の体も壊死していきます。
色々なところからそれぞれの情報を自由に得てしまうと体の部位でさえ抑えることままなりません。
ご自身の成されていることが実際に言葉にしているそれならば、今一度改めてもらいたいものです。
ただ自説にそれを許容することは、自説を崩壊させています。その砕けた言葉の徒然に人を迷いへ落とし込むその姿はどの宗教からみても悪でしかありません。
何かを重ねて見知ったような物言いですが
・言い換えてみた
・価値観は人それぞれ
・事を知れ
発言した委細を言葉として取り合うために話すことではないので文中にあるとかないとかで言った言わないは勘弁してください
まず最初に名乗りをあげている身上ですが、これは何か必要あることでしょうか
何教徒のどんな立場であるかを相手に告げて言説になにかの意味を含ませようとするのはその言葉が立場によっては意味がない言葉であるということでしょうか
乞食に化けた聖人は乞食が行ったことであるので聖人のそれとは関係がないはずだとするならばそれはその価値観をお持ちであることについて理解できます
物乞いに施しをする姿をみて聖人がとされない理由は何でしょうか
次に事例を引用するにあたって出典を前述の教養からとしやすくしただけであれば自ずと宗教関係の事例を挙げてこられると思います
過去の事例からして正しい行いをしたと評価してあげるために何かしら評価にまつわる根拠のない話をいくつかされていますが意味があるというその意味が何であるか宗教を出した上でされているのだからご自身の範疇でその評価をしてさしあげるのが道理ではないでしょうか
それぞれ個人の何か大切なものを見つけていけるし見つけていってください と突き放すのではそれを支えるべく教えを用意しているはずの宗教の救済の意味がすべて喪失していませんか
当人個人の判断で自身を救えるのならば初めからそんな長い話を聞かせて要点が何点ありどうすべきで基準のそれを「基準」と呼んでいるそれは何なのかひけらかす必要はないでしょう
相手に情報を押し付けることについてのみ思考されているため視点が抜けているように見えます
相手に選択肢の存在を示すのであれば自らの身上を述べ参考にしてもらうだけで充分ではないでしょうか 自分が信じているものや自分を信じてもらえたら出来ること等あるはずです
最後にいろんな方の心の内を勝手に想定してイタコをされていますがどのような宗教でどんな戒律があればそのような事が行えるのでしょうか
生きている人の本音を霊体を呼び寄せて聞くという宗教もあるかもしれませんがそれでしょうか
少なくとも浄土真宗は死者の例を呼び寄せ思考を読み代弁できるという能力が存在したという話はないと思いますがこれはもの知らずの浅知恵でしたでしょうか
仏教というものに僅かでも関わり僧侶という立場にあるのだとしたら頭をまるめ結婚をせず肉食を控え私財を蓄えず物を乞うて生きるの意味くらいは深くご理解があるかと思います
そもそもそのための組織といっても過言ではないしその意義によって成り立っている組織ですよね
坊主になるのは個を無くすため ファッションや外見的特徴で教えの元にある者を区別しない 僧侶の格好をしていればみな同じ教えの元に対応ができることを示す
どの坊主が良いとか悪いとか誰のせいだとかどんな格好をしているから偉いとかありません 皆が同じ仏の教えの元に集っているのです
至らぬ者があればほかの同門がそれを補う 個人で新しく独自路線を開拓したわけではない 常に仏に帰依する現実的なスタンスが外見的特徴の喪失ですよね
髪の毛はやしてますか? ファッションに気を付けてますか? アクセサリーとかつけてますか?
結婚せず肉食をせず肉食を控え私財を蓄えず物を乞う
人の里にあって人の営みをするものと離れて生活します 里の人と同じ世界という規模で共存するにあたってそれらを得るという選択肢を無くします
もし僧侶と娘が結婚したら 人の里において娘と結婚する人が一人減ります 私財を蓄えるとその取引によって人の里から失われるものがあります
営利目的で僧侶をやっていいなら営利団体が宗教的なものを発布してもよいはずです 従業員がまるで宗教のような企業に労働を強いられていることもあると思いますが宗教となれば「その労働者の家族も含め」となります
価値があるものとしてその知識を村や人が保有するために支払うコストが必要ならばそれは村や人が金庫にいれたり資産を投じて運用すべきです
そうすると運営元が恣意的に内容や情報を変更する可能性があります 伝承や歴史が歪められる可能性があります
できるかぎり中立で正確な情報を残していくため それを得ることができるようにするのには公平で自由に接することができなくてはなりません
だれかの資産で運営するわけにはいかないのです だれか一人のトップ僧侶の能力で人の判断を歪めてはいけないのです 独立した公平な組織となるためにはその戒律が必要なのです
肉食は生物を殺さないという根源的な保証のために行っているものです 実際にはどうのという話ではなくただのタンパク質ならどうなのかという話でもなくだれも殺さない むしろ殺すくらいなら死ぬというものであることの証明のためです
これらをこなしたうえで極楽浄土がある 死後に苦しむことになるので現世での苦しみを耐えよの言葉に意味がでてくるわけなので 意味のない言葉を聞きかじったままに伝播するのでなければ当然されているかと思います
ご自身が常に戒律によって自覚しているあたりまえの日常の最低限の事ではあるでしょうけれども 人に道を示すのにこれだけしておかなければ中立であると言えない 恣意的に利己的に利益を求めて助言をしていると言われないようにできないですよね
名乗られている浄土真宗はそんなものではなく営利目的の団体で 顧客獲得のためのセールス手段の一つをここでお話させてもらうと良い話なので是非聞いてくださいというのならば納得もします
あくまで浄土真宗の何派かわかりませんが宗教にあって僧侶をされている方の立場と名誉について 今一度そんなに金がほしいのか人に知がありと説いて健やかなれと願っているのかお聞かせいただきたい
なぜ一人を救うのに何人も汚名の淵に蹴落とさなければならなかったのか その判断は公平で平等に判断したその何かにおいて当然だったのか
じゃあ帰依したいとかで一丁
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/onoholiday/n/n8f5f7130ef61
「無思想」はよくない、思想を持ちましょう、名前を付けて自覚して帰依しましょうってのはいいけどさ、じゃあわが日本でそれはどーやるの?
国家神道か? 葬式仏教か? 極左ゲバ棒妄想か? キリスト教か?
欧米式に言えばジャップはまだ宗教にすら目覚めてない劣等人種であり、それに逆らって言えばこっちは2600年以上こうやってきて神道と仏教という立派な宗教があり何の問題もないんだよ。
だからシヴィライゼーション張りに「宗教を創始しましょう!」と言われても戸惑いしかない。パンテオン信仰でいいです。いいのか?