はてなキーワード: 体重とは
倫理観を全部捨てて出生時性が女性の私が子供を産んでもいいと思う条件を考えてみた。
尚、私は以下のような考えなので自分は子供を持たないということを前提に人生選択をしており、自分の人生に満足している。
少子化対策の話に関与してはいけない人材なのは百も承知だが、ほこたて的な思考実験をしてみたくなったから書いた。
二度言っておくがマジで倫理観が0なので、ただの思考実験として捉えることが出来ない人は読まないで欲しい。
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子供を産むと育てるという過程がついてくるが、現代社会で子育てにかかる時間やコストは膨大すぎる。
そもそも血の繋がった子供だろうが結局は他人だし、他人の人生に自分の時間や金といったリソースを膨大に介入させることで、思い通りにならないことを受け入れたり対価を求めたくならない自信がない。
つわりを始めとした体調の変化、腹が膨らんで体重が増えて動きにくくなるのも嫌だ。
それが数日ではなく10ヶ月間も続くなら今までのような働き方は難しいだろう。働き方が変われば当然得られる対価も変わるだろうし、生活も厳しくなる。
それに、自分は技術職に就いているが、10ヶ月間のブランクを取り返すにはそれなりの労力がいると思われる。
それらを乗り越えても得られる何かがないと厳しい。
上述の通り、自分は産んだあとの過程に関与したくないので産んだあとに得られるメリットは一切ない。
せめて妊娠期間中の報酬は欲しいし、さらに言えば仕事の感覚を取り戻すまで追加報酬が欲しい。
というか妊娠によって起こる体調の変化が10ヶ月後に完全に元通りなわけがなさそうだし読めなさすぎる。
産み育てる工程を全てアウトソースすると、残るは性行為から着床までになるが、それもアセクシャル気味な自分としてはなるべくしたくない。
なので「自分」が子供を産むのに関与してもいいと思える過程は卵子提供までだろうか。
提供した卵子から遺伝子情報を分析し、適宜条件に合う精子とマッチングし試験管内で人為的に着床、その後人工母体内で成長させ出生。
同じような境遇で生まれた子どもたちが集まり、教育を施す役職の者がいる保育所のような場所で共同生活を送りながら過ごす……。
この流れを一体に請け負う「子供培養教育機関」なるものを政府が運用するとしよう。
思う存分自分語りしても身バレしないし、本音を書けるのがいい。というわけで赤裸々に自分語りと2022年の振り返りをする。
高校卒業して、しばらくプー太郎して、一念発起して大学入って、またプー太郎して中退した。これが2022年の3月。
最終学歴高卒、今年30歳になるのにまともな職歴もなく5月に学生アルバイターからフリーターに転身した。
そこから毎月13万円貯金して、15万円でやりくりして生きてみた。
家賃光熱費などの固定費6.5万、食費1.5万、美容費が2万、現金貯金1.5万、自由に使える現金3.5万
たまに足も出るけど、でも貯金を大きく崩すことはなく、それでいて友達と遊んだり楽しめた
大学を卒業した段階で趣味のウェイトが軽くなったので、趣味の出費がなくなったのは大きいかもしれない
(単純に大学生の頃より労働時間が増えて、趣味に費やす時間と体力が減った)
2022年の12月31日の貯金額は157万円。一年間で73万貯められた。現金貯金はほとんど手をつけなかったので10万ほど溜まった。
大きな出費もあったなかでよう頑張った方だと思う。
趣味で得たスキルを活かした副業も始めたので、今年は200万貯めるのを目標にしようと思う。
それと、自分の将来についてちゃんと考えよう。この働き方もあと10年が限界だろうし、何か正社員になれる仕事を探さなければ・・・。
もうひとつ、体のこと。
大学を中退したのは鬱になって外に出られなくなってしまったからなのだけど、思いっきり休んで少なくとも鬱は寛解した。
ただ長いこと引きこもりをしていたせいで、体重が55→90になってしまった。(身長160cm)
(この一年で、でなく大学に入って途中で鬱になり、頑張る時期と引きこもる時期を交互に繰り返し、数年単位で太った)
自宅のトイレの便座がバキッッ!!!っと音を立てたのをきっかけに痩せようと思いダイエットをスタートした。
結婚願望はない。なぜなら20の時に結婚してすぐに離婚したから。幸いにも子供はいない。
多分一生一人だし、自分のケツを拭えるくらいの貯蓄はあるといいな、と思う。
結婚に焦らないのはメンタルにもいいな。バツイチで結婚は経験しているし、憧れもない。
まとめ
一年間で頑張りたいこと
・もう少し将来のことを考える
(たくさん休んだらまた大学に入ってもいいような気はしてきた)
覚えてたら1月の振り返りもする がんばれ自分!
結婚し家庭のある友人が羨ましくなったので、一念発起して活動していました。
こういう増田とその反応には勇気をもらっていたので、自分の体験談もまとめます。
成果なし
参考にならなくてごめんなさい
タイトルそのままの内容なので閲覧には注意されたい。一部の人にはつらい記憶を思い出させてしまうかもしれない。女性視点の体験記は数多くある一方で、男性視点のものは少ない。妻が妊娠すると男性も覚悟を決める。しかし、(過去の自分も含めて)何が起こり得るかはぼんやりとしか想像できない。稚拙ながらも自分の体験と後悔を書き残しておけば、その解像度が上がるかもしれない。そう思い投稿する。
分娩室。妻につながれた医療モニタが歪なサインカーブを描いていた。正確にはサイン波の絶対値のような概形でゼロ区間が長い。波形がピークに近づくにつれて妻のうめき声が大きくなる。これが陣痛発作だ。間欠的な小休止を挟みつつ、数分おきに発作が起こる。モニタの値が妻の痛みを表している。全力で妻をサポートしたいなら、助産師の動きを脳裏に焼き付けて、完全に模倣すればよい。一挙手一投足に意味がある。プロの動きを邪魔しないように、分娩室の俯瞰映像を想像して立ち振る舞う。男性は手が大きいので、より効果的にさすることができる。胎児の心臓が止まっていると分かったのは、6時間前のことだった。
妻がついに妊娠した。待望の我が子で、出産月のコントロールなどとうに諦めていた。妊娠後の検査は全て正常、胎児の推定体重は発育曲線のど真ん中。妊娠週数を横軸としたグラフに推定体重を書き込み、発育曲線なる2本の曲線の間にあれば正常とされる。何も定量的な説明はなかったが、胎児の体重はおそらく正規分布に従うので、上下の発育曲線は平均±数σを表しているのだろう。曲線の離れ具合から、発育が進むにつれて分散が大きくなると読み取れる。ちょうどそのど真ん中で、初めての我が子は順調に育っていた。早々に名前をつけて、膨れ上がった妻のお腹に毎日のように話しかけた。
無痛分娩に興味があった。背骨と脊髄の間にあるわずかな空間に麻酔薬を注入して分娩にともなう母体の苦痛を軽減する。一定のリスクはあるが、メリットが大きく上回る。無痛分娩のためには麻酔科医の予定を抑える必要がある(※後で知ったがこれは産院によるらしい)。出産予定日は3月末だった。つまり、無痛分娩を選択することで子の早生まれが確定する。ひょっとしたら4月生まれになる可能性もある。そんな淡い期待を胸に、私たちは自然分娩を選択した。
私は3月生まれであることがずっとコンプレックスだった。早産の早生まれ、背の順は常に先頭、鬼ごっこではいつも鬼、50m走のタイムは肥満児より遅く、ドッジボールではただの的、組体操のピラミッドでは頂上から落ちて何度も死ぬ思い。身体的・精神的な発達の遅れに由来する傾向は「相対年齢効果」と呼ばれ、特に男子の場合は生涯賃金の観点で一生の足枷となる。これは歴然たる統計的事実として知られている(ちなみに、女子もしくは学力上位の男子ならばこの呪いの例外となる。興味があればGoogle Scholarで検索してみてほしい)。子の幸せを願う親として、自分と同じ思いをさせてはならないという使命感が、自然分娩の選択を後押しした。
出産予定日に陣痛が起こり、病院に着いてから胎児の心臓が止まっていると分かった。1週間前の検診では何も異常がなかったため、その間のどこかで突然死したことになる。我が子の突然死。目の前の現実を受け入れられず、ただただ夫婦二人でむせび泣いた。
分娩室。妻から我が子が押し出されてきて、一瞬の静寂が広がる。子はすぐに医師がどこかに連れて行ってしまった。分娩室は静まりかえっている。蘇生の可能性はゼロ。突然、遠くから赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえてきた。我が子の声ではない。不快な、怒りに近い感情が湧き上がる。元気な泣き声がナイフのように心に突き刺さる。どうしてうちの子は。心に深い闇が広がる。妻の一言で、自分が強い嫉妬の感情を抱いていることに気づかされた。「向こうの子は無事に生まれて良かったね」妻はいつの間にか、すべてを受け入れていた。
妻と私、そして布で丁寧に包まれた我が子。一晩を一緒に過ごすことになった。「かわいいお顔を見せてくれてありがとう」口ではそう言いつつ、顔が明らかに赤黒く変色し、傷ついた皮膚から血が流れているのに言葉を失った。病室に来る助産師達はしきりにスキンシップや沐浴を勧めてくる。私はこれが全く理解できなかった。腐敗防止のために徹底的に冷やされている我が子を触り、その金属的な冷たさを感じるだけで心が締め付けられる。おくるみの下にはきっとドライアイスがあるのだろう。定期的に交換してくれている。なぜ進んで苦しい思いをする必要があるのか。言語化できない恐怖感があった。あまりにも触らないためか、助産師が手形と足形を取ってくださった。このとき抱いていたのは恐怖感ではなく、エゴ由来のただの現実逃避であったと後に気づく。
役所での手続きは事務的には簡単で、精神的には苦痛でしかない。病院で受け取った死産届に記入し、役所に提出すると火葬許可証が発行される。予め出生届の記入方法を調べていた。死産届の様式が出生届とほぼ同じであるのに気づき、スムーズに記入できたが、子の名前を書く欄はない。様式からも現実を突き付けられた。火葬業者によっては、代理で届けを出してくれるらしい。
火葬場では地獄のような時間を過ごした。大人と違って赤ちゃんの棺はとても小さい。100サイズの段ボール箱とちょうど同じくらいの大きさだ。棺は私が運んだ。今でも100サイズの同じくらいの重さの段ボール箱を持つと当時の記憶がフラッシュバックして涙が出る。火葬後のお骨上げはただただ拷問のようだった。赤ちゃんの骨は割り箸のように細く脆い。頭蓋骨は割れたプラスチックの破片のようだ。「産道を通るために赤ちゃんの頭は形が変わるようになっている」という知識が目の前の現実と急に結びつく。赤ちゃん用の骨壺はすぐには入手できない。仕方なく、急ぎホームセンターで入れ物を購入した。「こんなのでごめんね」
我が国における年間の自然死産数は約8000程度で推移している。その他、新生児死亡や乳児死亡も含めると、毎年約1万人を超える赤ちゃんが旅立っている。これほどまでにつらく悲しいことがあるのかと、絶望に打ちひしがれていたが、同様の絶望は人知れずそこら中で起こり、大きな悲しみを背負っている人達がたくさんいることを知った。死産を繰り返した人、出産で妻と子を同時に失った人。つらい経験をした家族達が集まって語り合う自助グループが数多くあり、「グリーフケア」という名称で様々な取り組みやビジネスがなされている。関連書籍も多く(「産声のない天使たち」「誕生死」等)、図書館には必ずあるだろう。供養の方法は複数あり、水子供養の場合はずらりと並んだ小さな骨壷を目にすることになる。「天国で友達たくさんできるかな?」
ポジティブに捉えると、妻と一緒に同じ苦難を乗り越えたことで、お互いの心の結びつきが一層強くなったように思う。妻との関係性が、これまでにない、かけがえのないものに変化した。妻の人柄や屈強なメンタルに、改めて敬意を抱いた。
後悔は二つある。
第一に、無痛分娩を選ぶべきだった。出産が遅れるほど分娩リスクは高くなる。無痛分娩であれば、出産予定日よりも前に強制的に分娩させられるため、リスクが相対的に低いのではないか(正確には医師に相談されたい)。本事例では、出産予定日の1週間前には無事であったため、無痛分娩であれば死産を避けられていた可能性がある。「4月生まれになるかも」などという勝手なわがままで我が子を間接的に殺したのでは、という自責の念に駆られている。
第二に、我が子ともっと向き合うべきだった。完全に冷え切った子に触れるのには勇気がいる。スキンシップや沐浴を勧めてくる助産師がサイコパスのようにさえ思えた。これは完全に誤りである。夫婦水入らずで、最後の姿をまともに見られるのは、このタイミングしか残されていない。火葬したら骨になってしまう。家族写真・手形・足形・遺骨だけでいいのか。せめてスキンシップだけでも、精一杯向き合って、家族の思い出を作るべきだった。
皆さん、心優しいコメントをどうもありがとうございます。お察しのとおり、子が旅立ったのはコロナ禍前です。ちゃんと言葉にできるようになるまで、事実を客観視できるようになるまで約2年半かかり、同時に、受容が進むにつれて記憶が薄れるのに気づき、一気に書き出しました。的確なご指摘が多く、勉強になると同時に、自分自身の認知の歪みにも気づかされ、励まされました。
本記事へのトップコメントはこちらからご覧になれます。つらい思いをしている方が、少しでも前向きに、励まされることを願っています。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221225220743