はてなキーワード: スポイルとは
契約してる保険の担当女性が気に入らないらしく、会った後になって家族に延々文句言ってるんだけど、
そんなに気にくわないなら保険会社に電話して担当変えろと言えと何度言っても、モゴモゴと言い訳して行動しない
父親の認知がおかしいのか、その担当者がおかしいのか、それはどっちだって良い事で保険の窓口なんて気に食わないからチェンジで別に何も困りはしない
典型的な内弁慶なので、家族以外の人間に会うとへえへえと何でも言う事を聞いてしまい、振り回されてるのに全然自己主張をしない
この人って人生のいろんな場面でこんな調子だったんだろうなあ、ずーっと不平不満を溜め込んで生きてきたから人間性が歪んでしまったのだろうなあと納得させられる
まあ理解できる部分もなくはない
診断を受けていないだけで、普段の会話や行動から観察すると軽い知的障害があると思う
本人も周囲も自覚がなく、世の中の様々な対人関係の対処方法を知らずわからず、凹まされるような経験ばっかしてきているので、
自然と自己主張をする、自分の考えに従って行動するという自主性をスポイルされてしまったのだろう
既に定年を迎えて、今更自分が知的障害持ちのポンコツだなどと自認して生きていくの辛かろうし、面倒でもあろう
世の中にはもっとマシな対人関係のやり方、ストレスのない生き方もあるのだということすら、知らずに死ぬのもマシな最後かもしれんね
そのせいで 人のこころがわからない サイコパスのような暴君になったのだと
何となれば 現実的に 世の中を見回して
特に 自分の身内を観察して 要するに一言で言えば 貧乏出の 団塊世代の自分の両親が
正直な話安倍晋三にそっくりな傲慢さを 疑う余地なく持ち合わせているからである
金持ち故の慢心と 団塊世代特有の「今だけ 金だけ 俺たちだけ」という視野狭窄の
団塊の世代と見比べたときに 非常に似通った性質を持ち合わせていることから
そういう世代的な影響を受けていると考えて さしつかえないと思う
子だくさんの家庭で 兄弟が5人も6人もいることが珍しくもなく
つまり 細やかな躾など受けられず 犬猫のように わちゃわちゃと育った世代のことである
それ故に 団塊老人は 挨拶ができないくらいのできそこないが山ほどいる
正確には それが仕事となれば へりくだって挨拶でも何でもするが
日常生活で 他人に敬意を示すという発想がなく 家族や 街で接する見知らぬ他人には
適切な礼儀をもって振舞うということが全く出来ない老人が うちの両親含め山ほどいる
自分は 普段 世代間闘争みたいなことは 下品であまり良くない発想だと考えている
「老人笑うな行く道だ」と 基本的には今でも思っている
団塊老人は それを 「自分たちがいちばん頑張ったから」だと思い込んでいるが 本当にそうだろうか
その稼ぎが増えるというのは 本当に 本人が頑張ったかどうかで主に決まるのだろうか?
単純に 「自分より上の世代に 給料を上げてもらった」のが団塊であり
それなのに 「自分より下の世代の給料は上げようとしなかった」のが団塊だっただけではないのだろうか
うちの親は 池田勇人の「所得倍増」で 平の地方公務員のくせに 1000万近い年収を 貰っていたのである
本人は 「公務員になったときに馬鹿にした連中が 自分ほど給料が増えなくていい気味だ」なんて
平然と勝ち誇るのであるが なんだかただうまく波に乗っただけで
これを頑張った結果みたいに言い張るのは腑に落ちない
現実の結果だけ見れば 団塊は 高度成長で増えた日本の富を ただ吸い付くし 食らい尽くして
滅びようとしているだけの世代で 日本のために何の役にも立っていない
日本全体の富を増やすことを 団塊が日本の主役だった時代には一切行っていない
パイを増やさず 奪い合うだけで 自分は頑張ったと主張しているだけである
それが 一言でいえば 失われた三十年 と言うものの実態であろう
かなり前の話なのでうろ覚えだ。
埜川さんを含め、いつものメンツ数人で飲んでいた。昔テレビ放映された、猟奇犯罪洋画の話になった。
そこに至る最初のきっかけは思い出せない。さかのぼれるところまでさかのぼると、牛タンの話だったと思う。ただ、埜川さんと焼肉屋に行ったことはないので、どこからその話になったかは分からない。
食材として置かれたスライスされる前の牛タンのかたまりをみて、その映画みたいだと話しかけたら「グロい画を思い出させやがって、食えなくなるところじゃないかこの野郎!」と怒られたというエピソードだ。
怒られたのは埜川さんだったと思うが定かではない。何しろ、埜川さんは身近な出来事や見た映画や読んだ小説のことを面白おかしくあるいは鋭い切り口で話してくれるキャラクターだったのだ。もしかしたら怒ったのが奥さんで、怒られたのが職場の上司だったかもしれない。
流れで、その映画の話になった。
「ただ?」
「名前もないようなチョイ役として出てきたやつが、意外にも真犯人だった、と判明して・・・という筋書きなんだけど」
誰でも知ってるような大御所の名を挙げて、その声を当ててたのよ、と埜川さん。
「こいつただの通りすがりの脇役じゃない、ってバレバレ。サプライズ展開がぶち壊しなの。それがね・・・」
何年も会っていない埜川さんのことを思い出したのは、配信サービスでその映画を見つけたからだ。
どれが真犯人なのか、無意識にモブを判定していた。こいつか?こいつは違う。こいつか?・・・と。
・・・なるほど。
こいつか。
「最初に何げない様子で姿を見せて実は」という展開を知っているだけで、吹き替えの声を聴かなくてもわかってしまった。
真犯人が判明してからの方がむしろ本題ともいうべきストーリーだったので、広い意味ではネタバレだったが、スポイルされることもなく満足だった。
名作と呼ばれるだけのことはあった。
やっと、(一時的に)主役になれそうだよな。
以下、ほかに書くところがないから、ここに書くわ。自分の気持ちの整理のため。
そもそも森友問題とか桜を見る会自体はまあよくある利益誘導の類いだと思うんだけど、あれの酷いところは公文書改竄・公文書破棄だよな。
後ろ暗いことやってないならそのまま出せばいいのに、官僚の人たち変に隠すよね。こういう政治問題化した案件は、良し悪しの判断は官僚自身がする必要はなくて、出すだけ出して国民の判断に委ねればいいのに、それをしない。
どうでもいいと思われているのかな、僕らこと。
検事総長の人事に介入して圧をかけるのもどうかと思うし、元法相が選挙買収で実刑もなかなかのパワーワード。「反社会的勢力の定義は困難」って閣議決定するもの、ウルトラCだよね。その発想はなかったわ。すごい!
僕らは普段、ルールをみんなで守ることが社会にとっていいことだし、大半の人は守ってくれる、少なくともルールを作る側の人は守ってくれると思っていて、「だから、自分もルールを守ろう」と考えるわけだけど、ここのところ自分の想像力の貧困に気付かされて、圧倒されぱなしだったよ。
僕らが間違っていたのかな。
ろくに説明しないで「具体的には答えられないが、俺は賢くて上手くやってるから大丈夫」みたいなアレ、一体なんだったんだろうな。
コロナで失ったものって、みんなどれくらいある?いつものお店・思い出の場所・憩いの場……。僕は結構いろいろあって、数えるのももうやめてしまった。
「光が見えてきた」って自分一人で見てどうすんだよ、自分じゃなく国民に光を見せるのが総理大臣の仕事なんじゃないの。
コロナで苦しんでいるのは誰もが同じで、完璧な対策なんてないとわかっているけど、だからこそ、「最善を尽くしてもこれなんだから、仕方ない。〇〇までは頑張ろう」って思いたいよね。思わせてほしいよね。でも、こちらに対して全然説得しようとしてくれなかった。
関係のない部外者だとか、馬鹿だとか思われているのかな、僕らのこと。
総裁選になってやっと感じが変わってきたよね。内容の良し悪し・賛否はともかく、どの候補も説明しようという意欲はあった。
当選した岸田さんも受け答えの態度も悪くないし、なんと驚くべきことに質問と答えがしっかりかみ合っていたよね。すごい偉業だと思う。信じられない。
やっと、見てもらえるようになったのかな、僕らのこと。(最近、ちょっと目が泳いでいるけど。)
まじめな話、そもそも菅おろしの背景には、8月中旬に行った自民党独自の衆院選情勢調査があったと言われている。その内容は、議席数が60±10減で、場合によっては自公で過半数が危ういという衝撃的なもので、その危機感から自民党内部の各所で強烈な不満が噴出したとのことである。
総裁選候補もこれをわかっているから、衆院選を意識し、自民党議員や自民党員というよりは、広く国民を意識したアピール活動を行ったわけである。(厳密に言うと、自民党議員に対して「私は選挙の顔として役に立ちますよ」とアピールしているのではあるが。)
なにが言いたいかというと、やっぱり選挙で意思表示しないと、我々は無視されるんだなー、ということ。いくら憲法で民主主義だ国民主権だと書かれていても、任せきりで放っておいたら平気でスポイルされるんだね。しみじみ実感したよ。
人って、ごくごく無邪気に身内をえこひいきするし、身内でない人に対しては公平でない。それは国家レベルでも一緒で、権力者の人たちも悪気なく同じようなことをやっている。
そろそろいい加減にしてほしい。あるいは、いい加減にしたい。
素朴な正義感情や信頼が踏みにじられても、訳もわからずコロナで多くのものを失っても、若い親子の乗った自転車が老人の乗ったプリウスに真っ二つに引き裂かれても、それでも一部だけの人のための社会のままなのか。
それでも我々は変われないのか。
そうは思いたくない。我々は変われるはずだと僕は信じる。
なんか誰かと最近考えていること、思ったこと、見たもの、読んだものなどなどばーーっと話したい。そういう友達とか、コミュニティとか欲しかった。。。今も昔もそんなのは自分にはなかったな。。
twitterがそういう空間だった時もあった。でも最近はてきとーにTL眺めてるだけ。。。誰の、、なんのコミュニティにも属さず漫然と生きてきたな。悲しい。寂しい。
ずっと一人で仕事しつつ(リモートという意味)、スーパーとか生活のための買い物だけの静かな生活。全然それでいいんだけど、たまには本屋とか服屋とかにも行きたいような。クラブとかライブとかもたまーに行きたいような。カフェで読書なんかもしていないなあ。
もう出かけると疲れちゃうんだよね。おしゃれ着だと肩凝っちゃう。昔からだけど今は特にそう。痩せてきて体力もだいぶ落ちたから、ふらふら散歩しながらウィンドウショッピングなんかもうできないんじゃないかな。
静かで老人のような生活だ。それでいい。でももう少し世界と関わっている感覚があってもいいんじゃないかという気がする。昔は音楽のトレンドおったり、情勢を眺めたりしていた(とはいえtwitterメインで誰かのフィルターを通してだけど。)ニュースとかも見ないもんなあ。なんだか一人ぽつねんと向いていない仕事に奮闘していて逃げ場がない。
目標、ないなあ。成長したいという欲求もあまりない、少なくとも仕事においては。楽になりたい、とだけ思う。。ほんとは成長とかしたかったんだけど、ずっと挫かれてきた。これが挫折か。。?成長意欲は仕事とは違う方向に向いているんだ。芸術・学問、なんでもいいけど。なんだかビジネスは心が萎縮してしまう。競争とか。競争苦手だなあ。
サイレントテロ。何も欲さず静かに死んでいくというそのコンセプトに惹かれる。けど、いそいそと心を削りつつ仕事をしている。静かに死んでいきたい。悲しいけれど。
今思い出したけど、なんかいろいろやりたいこととかあったんじゃないかな。。高校生のころ学部を卒業したら芸大とかにいけたらなって一瞬思った。結局なんの努力もせず今ここにいる。自分のやりたいことを誰にも話してこなかった。それがいけなかったのかもしれない。うーん。芸術に憧れたり、脳科学?神経科学に憧れたり。そういうのはあったけど。。誰にも相談しなかった。する相手もいなかったし。
アイデンティティが壊れ続けるこの数年間。かつてアイデンティティが確立されたことがあっただろうか。そんなこと気に止めたこともなかったか。俺は何がしたくて何を選択してきたんだろう。。仕事していると打ちのめされる。楽しく仕事している人を見ると羨ましさと恨めしさどちらも感じる。俺はあまりこういう世界で生きていくのは向いていない。でも他の世界を知らない。世界はどんどん狭くなり、行き場をなくし、想像力が奪われ、静かに死んでいくのを待つだけになる。
このまま人生を進めていって何か「喜び」があるのだろうか、と思う。誰かがラジオで、「喜びや恐怖」は「予感」だって言ってたけど、けだし名言だと思う。「予感」がない、のである。
政治に文句があるなら政治家になればいいみたいなことを言うでない。
批評というのは、それが批判的なものであろうとも、人の手で創られた以上決して完全ではありえない「作品」を十全にするための試みであり、協力関係にあると考えられないだろうか。作品なくして批評はないので、一方的なものにはなるが。
ところで「差別を助長するのでああいう描写はするべきではない」と言ってる人、そんなにいるかね?
なにもかも「差別を助長するのでああいう描写はするべきではない」とか「偏見を生まないためなら、あらゆる物語を殺して回るべきだ」という意見に見えていないだろうか?
「あなたの好きな作品も含めたあらゆる物語を殺し尽くすだけの覚悟があってその批判を行っている」とか「表現への殺意の表明」とか妙に肩に力の入った書きぶり。批判的意見が何もかも表現を殺す悪い意見のような言いぐさ。
因果関係が全く逆。
オスは、甘やかされていたり、性的コンテンツを見るから、粗暴だったり、屈辱的に感じられるポルノのように振る舞うのではない。
オスが、粗暴性や競争志向、セルフネグレクト、強制的な方法でも性向を求めるような精神的傾向を進化で獲得した(そういう傾向の遺伝子が多く残った)から、屈辱的な性的コンテンツを必死になって見ようとしたり、暴れまわったりするし、そして保護者や教師、社会は諦めている。
もちろん、元増田が保護者になり、男児を育てることになったら、徹底的にオスの精神的傾向を抑圧することはできる。