はてなキーワード: アングロサクソンとは
語呂の良い呼び方。
1990年代を指す"90's"(ナインティーズ)や80年代のエイティーズ、70年代のセブンティーズ等は外来語化したと言えるほど日本でも馴染み深い。
はてな社は「テン年代」と称してるが、一般的ではないように思うし苦し紛れ感がある。
【テン年代総決算】オタク趣味、退職と転職、インターネットの歴史。2019年総合トップ100&過去10年間のランキング - 週刊はてなブログ
自分の知識が足らんだけで適した呼称があるのかな?日本で定着してないだけで英語ではあるのかな?とウィキペ眺めつつググりつつ。
上手くまとめられてる記事があった。
https://whitebear0930.net/archives/4403
書くときには、この10年は “2000s” や “00s” と表記することができる。
“2000s” を “two-thousands” と読むことから、この10年を単に “Two-Thousands” と呼ぶこともあるし、
“Twenty Hundreds” や “Twenty-ohs” と呼ぶこともある。
また “00s” を “Ohs” “Oh Ohs” “Double Ohs” “Ooze” と呼ぶ人もいれば、“Zeros” を使う人もいる。
10年の中のある1年を指すときには、2007年を “Oh-Seven” というように “Oh” を付けて呼ぶ。
2000年の1月1日に、BBCは来たるべき10年の呼称の候補として noughties を提案した。(これは多くの英語圏でゼロを意味する
“Two-Thousands”では2000年~2999年を指すのか2000年~2099年を指すのか2000年~2009年を指すのか、呼称だけでは判り辛い。
“Twenty Hundreds” や “Twenty-ohs”では2000年~2099年を指すのか2000年~2009年を指すのか、呼称だけでは判り辛い。
“noughties”が語呂も良いが、造語でありザッとググると普及度もいまいちらしい。
「2010年代」も
pronounced “twenty-tens” or “two thousand (and) tens”
と、スッキリしない。
語呂悪いからか。
20世紀の頃は邦楽だと ♪1993(ナインティナイスリー) 恋をした とか流行ったよね。
議論をすべきところはたぶんそのまとめてくれてる「背景となる事柄」最近よくいわれてる文脈とかだと思います
みためが外国人な人をまず在留許可は?から聞き始めることの是非とかそういう事
胸が大きな女性がそこにいるということを示したりそこに胸の大きな女性がいたら
そこに至るまでには様々な状況があったはずなのでそれを問うのかとかそういう事
その人は地元の日本人で人種としてはDNA的からしてアングロサクソンだが国籍は日本で日本語熟達した和ごころあふれる日本人かもしれないし
巨乳の女がそこに描かれていたとして何を理由にそこに上がってきたか情報を得ようとしたり理解しようとしたりすると
話はちがうかもしれない
宇崎さんというのが「うざキ」でいじられることやその苗字の人が二次被害をうけたりすることや「宇佐美」さんもまきぞえを食うかもしれないとか
実在の乳でか女性が延焼したり下世話な漫画を描いた作者あやまれからの巨乳アイドルの親は謝罪すべきとかいわれたり叶姉妹の親は反省すべきとかいわれるのか
アメリカ人はみな日本にくるときリメンバーパールハーバーと言っているのかというとそうではないのはコンテキスト不足なのかどうか
戦争の責任は孫の代が払えといってくる慰安婦問題はコンテキスト的にただしいのか
それが男性的女性的という局面だけで言うならばこのような絵をみてと脈絡のない絵で対比されたりもするわけで
アンパンマンが男性だと男性社会や暴力を肯定していると読み取るべきなのかとか
情報の取得度合いと見解の種類で人がそれぞれの階層にあつまるべきで
義務教育のグレードがそれぞれあるような形で混同しないようにすべきではないか
その混同しない理由は理解度やそれぞれのランクを差別する目的ではなく順序だてて理解をすするめるために経路をつくる目的で
理解度の位置をつけ区別することが目的でスタートとゴールが同じ位置でうごかずまわりから情報をただ与え続けられることではなく
自分の足であるいて位置情報を更新し理解をえたうえで方向性をきめてもらうために
その提示してもらったような情報をえたり、理解したり、理解した範囲で判断したり、判断したうえで行動したりすること
をよりわける必要がる
ということと そうじゃなくいきなり不快だという脊髄反射は生体反応なのでそれを行動に反映しろということについて
どちらかが死ぬまでつづけるべき議論という名の戦争なのか それぞれはちがうところにあるだけの同一の人間の反応の
今日、ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。
巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界の東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。
半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。
ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金の林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色いドラゴン。
(中略)
口から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。
と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。
何が出典なんだろ?
『ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。
『ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。
(中略)
その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。
ドラゴンになったのは後世。
プリニウスの著作で唯一現存しているのが、自然と芸術についての百科全書的な37巻の大著『博物誌』である。自然界の歴史を網羅する史上初の刊行物であった。
(中略)
プリニウスの『博物誌』10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。
また、『博物誌』11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊のサラマンダーはこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアー・ドレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。
『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述が存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。
第一部でベーオウルフは巨人(ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴンの約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。
スラヴ民族は文字を持たなかったため、伝えられた神話を民族独自に記録した資料は存在しない。スラヴ神話が存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみである。スラヴ神話は地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。
ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12の体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。
『アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記の集大成である。編纂は9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。
「火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアー・ドレイクが飛んでいるのだとされた。
隕石という説があるらしい。
『イヴァンまたは獅子の騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士道物語であり、アーサー王伝説を主題にした5作品のひとつである。
イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇と獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァンは獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。
『黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃 – 98)によるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。
その時代、エチオピアの町では一人の魔術師が権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイは魔術師の元を訪れた。魔術師はマタイにドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。
同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。
聖マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?
タラスクは、レヴィアタンとボナコンの子供なのだが、ボナコンの特徴である「燃える糞」が、日本語訳されるときに混同されたのでは。
といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン」概念は薄かったが、
8〜9世紀頃から伝承として語られはじめて、10〜12世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。
なぜ火を吐くようになったのか?
サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山の溶岩の中に住んでいるという伝承もある。
ズメイや、ヤコブのドラゴンは、吐く息から硫黄の臭いがするといい、火山を連想させる。
ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、
蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージがしづらいことを考えると、隕石からの連想には説得力がある。
そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然な解釈に思われる。
うーん、わかんね。
追記。
「フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。
・身長があること
・適度に筋肉があること
などはよく言われるが、これは的外れだと思う。
170cm未満でも似合う人は普通にいるし、スポーツ選手などでない一般人レベルで言えば筋肉量など大差はない。目に見えて差があるのは骨格だろう。
では一番大切な条件は何かというと、肩の角度だと思う。いかり肩でもない、なで肩でもない、ちょうどいい角度になっていること。前肩(巻き肩)も大きなマイナス。
全身が長方形のような形だとよい。胴体、手足とも長方形の積み木をくっつけたようなイメージ。
顔の形も丸型より長方形に近いほうがいい。アングロサクソンや北欧人に多い。
顔立ちが女性的な人も似合いにくい。
マッチョが既製服を着て本来の形より盛り上がっているのは美しくないし、逆三角形の人がスーツを着ると太って見えてしまう(スーツはウェストが絞ってあるが、本当に逆三角形の人にはそれでも絞りが足りない)。
「スポーツマン体型 スーツ」でググるとそうした人向けのオーダーメイドのサイトが多数見つかることからもそれは分かるだろう。
絶対そういうこと言う人が多いと思ってたよ。
最初は私もそう思ってた。
だが、もう日本は諸外国に追い越されるばかりだよ。深刻なんだよ。
日本国内ではそれを必死で隠そうとする力が働いている。そのためにはどんな手段も厭わないほどだ。
国民一人あたりの所得はあと数年、遅くても10年以内に韓国に追い抜かれる。
もはや同じ中産階級なら日本人より韓国人の方がよっぽど裕福だよ。信じられないだろ? 信じられるわけがないんだよ。そういうことを絶対に信じてはいけないって私達は教え込まれているんだから、テレビに。
もう外国人がわざわざお金稼ぐ目的で日本に来るメリットなんてほとんどない。今はコンビニとかにたくさんいるけど、実情が知れ渡れば来る人はどんどん減る。
いくら外国人、アングロサクソンでない外国人だからって日本人より安い賃金でいつまでも働かせられるわけがない。ひどい勘違いだ。外国人を下に見ている証拠だ。しかも彼らはバイリンガルだ。一般の日本人よりもよっぽど頭がいいのにこの扱いだ。こういう根本的なレベルでの民族差別的な思考、これが二十世紀から克服されていないという事実は日本の凋落を決定的なものにしている。
テレビは日本すごい日本絶賛番組ばかりやる。本当に日本がすごかった30年ほど前には考えられないことだ。
本当に日本がすごければ、わざわざすごいすごい言う必要などないのだ。
私を含め、多くの日本人は、明らかに進行していて避けようのない、この日本の凋落を、必死で見ぬふりをしてごまかそうとしているんだ。
この発言に対してもきっと、罵詈雑言が投げつけられるか完全無視を決め込まれるだろう。日本はすごいと信じ続けたい人たちによって。
そうしないと、なんとかして今の私の訴えを否定し、論破しないと、なかったことにしないと、彼らの精神は崩壊してしまうのだから、悲しいが仕方がない。
まず、人種ってのは差別対象ではないとは思うけど、明らかに違いはあるんだよな。
こう言うことを言うといつも「まだ民族や人種に囚われているのか」みたいなことを言われるんだけど、
そうは言っても、
別に完全に同じじゃなくても、
ゲルマン人とアングロサクソン人みたいに連続的で似てるならともかく、
フランスやベルギーの白人とアフリカ系の黒人じゃ見た目も運動能力も完全に”違う”からね。
日本においても、大坂なおみやケンブリッジ飛鳥みたいなのは駅伝の助っ人外国人感、または単に外国人に見えてしまう。
別に、道を歩く黒人や黒人的容姿のハーフが日本国籍を持っていて、日本人として接してきても違和感はほとんどないと思う。
でも、これはスポーツだからこそ、自分がスポーツを長くやっていたからこそ生じる違和感のような気がしている。
要は、運動能力などに自分や周りの人との連続性を感じないために生じるものだと思う。無意識に、”日本的な運動能力”と照らし合せてしまう、というのもあるだろう。
また、フランスやベルギーのような受け入れ方を見るとスポーツが黒人だらけになる危機感がある。
スポーツを見る行為がこれまでと大きく変わってしまうんじゃないかという危機感。
日本代表が黒人だらけになったらもはや日本代表の試合を見る必要性を感じなくなり、
プロスポーツは自分からより遠く遠くへと行ってしまうのではないか。
そういう危機感だ。
バーチャルおばあちゃん(以下VB)、というバーチャルユーチューバーがいる。
フェイスリグのサンプルキャラクターの老人に声を当てたキャラだが、
(例えば視聴者が「慰安婦」と呼びかけ、VBが「慰安婦じゃないよ!朝鮮人じゃないよっ!」と返す。)
正直、自分自身最初はゲラゲラ笑って見ていたのだが、ふとポール・ローガンのことを思いだした。
ポール・ローガンは富士の樹海の自殺者の姿を撮影して大炎上したユーチューバーで、
待ちゆく人にポケモンボールをぶつけて見たり、築地でカートに乗って迷惑かけたりと、
日本をゲームの世界かなんかと勘違いしたかのような振る舞いは見ていて腹が立った。
また、VBは外観が老人なだけで、本人は老人でもなんでもない。
老人ネタは自虐ネタではなく、単に老人を馬鹿にしているだけだ。
それでも、以前の俺みたいにポール・ローガンに怒りながらVBに笑ってる人々は一定数いると思う。
不謹慎ネタは面白い。いい子ぶる奴はダサいしウザい。そう言われるのは分かる。
でもやっぱり、まずいことはまずいのだ。