はてなキーワード: 覇者とは
ウマ娘に詳しいみんなはもう知っていると思うけど、桜花賞は3歳になったウマ娘が走る生涯1度きりのクラシック3冠タイトルのうちのひとつのG1レース
その中でも桜花賞はシーズンの最初のレースなので、有馬記念や天皇賞、またはシーズン終盤の秋華賞などと比べると、実績のあまりない若手ウマ娘たちが走ることになる
なので古馬が走るレースみたいなドラマは、背景にまだあんまりないです
ウマ娘は3歳から4歳くらいまではぐんぐん成長するので力関係も日に日に変わっていくし、不確定なことが多いです
なので、桜花賞はアニメ全12話で言うと2話くらい?と思って秋への伏線として楽しめばいいかと思います
その中でも気になる点を少しだけ紹介しておきます
ウマ娘のキャラデザとして、馬の毛色とウマ娘の髪の色が一致しているのは知っていると思いますが、白髪のオグリキャップ、メジロマックイーン、ゴールドシップなどはどうなのかというと、芦毛と言われます
芦毛は生まれたときは茶色い毛で、成長とともにグレーから白がかった色味に変化していくのに対して、白毛は生まれた時からずっと真っ白
デザインとしては、鬼滅のクモの鬼の姉さんか母さんのような髪も肌もドレスも真っ白なウマ娘なんだろうなと想像しています
白毛馬はそもそも数が少なく、今までの歴史上中央では30頭くらいしか走っておらず、中央のトゥインクルシリーズで勝利をあげたのもソダシのおばあ様のシラユキヒメが初(*間違いすみません、初勝利ではなく、初めて馬券にからむ(3着以内)でした。指摘ありがとう)
おばあ様シラユキヒメの両親の血筋に白毛はいないため、シラユキヒメの白毛は突然変異で発生しており、その形質は娘のブチコ、そしてソダシへと受け継がれている
古くから白毛のウマ娘は勝てんやろ、という言説はかなりあったけど、ソダシ自身が勝つことでその偏見を少し打ち破ってきている
ソダシの実績は4戦4勝
2戦目、3戦目がG3、4戦目でG1阪神ジュべナイルフィリースを走り、全て勝っている
白毛馬の芝の重賞制覇、G1制覇は初だし、これ以降ソダシがいろいろやるたび、白毛初がついてまわる
ジュベナイルフィリーズは2歳牝馬のチャンピオン決定戦という位置づけなので、この世代でのディフェンディングチャンピオンといえる
トレセン学園入学試験1位だった感じか、入学後の1年生限定レースで優勝した感じ
ただし、ジュベナイズフィリーズ覇者が順当に桜花賞勝ったケースはほとんどない
それだけ数か月でライバルのウマも成長するのだが、それでもソダシがおそらく一番人気になるだろうと言われているし、実力もトップクラスで間違いない
気になる点は、ソダシのお母ちゃん、ブチコはゲート難で、出走前に扉破壊、ゲートくぐって飛び出す、なんてことを3度やって、2回競走除外になった
鞍上のルメールがゲートで落とされて骨折したりしているし、3度目やらかしたせいで引退した
ソダシも立派にその血筋を受け継いでおり、ゲートでは割と暴れるらしい
でも週1でゲート練習やってて、だいぶよくなっている!だそうですが
そして、あのゴールドシップと同じチーム(厩舎)、同じトレーナー(調教師)で、厩務員いわく、ゴールドシップとかなり似ている!だそうです
幼くてやんちゃ、わがままで暴れるけど、レースになれば真面目で抑えも効くらしい
差別や偏見と戦う真っ白で美しいウマ娘が、天真爛漫でゴルシ級に暴れる、って想像すると、そりゃあ萌えるよね
サトノダイヤモンドと同じ、名門サトノ家のご令嬢(サトノ家の家業はゲーム販売のセガ)
レイナスとは女王のスペイン語の複数形らしく、複数のタイトル獲得を宿命づけられている
レイナスちゃんの所属チームからは、あの史上最強女帝アーモンドアイと、アパパネという2人のトリプルティアラウマ娘(牝馬3冠)が誕生している
チーム名はチーム国枝(国枝厩舎)
ここは強い牝馬を育てるのも、桜花賞勝たせるのも慣れていると思われるので、レイナスちゃんも偉大な先輩のような道を歩む期待感あり
実績は3戦で2勝、2位がひとつ
2位になったレースは阪神ジュベナイルフィリーズでソダシに負けた一戦
このレースは最後の直線で差してトップに立った後に、ぎりぎり差し返されてのハナ差だったし、ソダシと力の差はほぼない
レースのあった12月から4か月たって、筋肉のつき方が子供のものから大人のものへと変貌しつつあるらしく、今の力はソダシより上なんじゃないか、というような期待感もある
同じ相手に2連敗するわけにいけないし、ここで勝ち切ればよきライバルとして、オークス以降も楽しみになってくる
ちなみに阪神ジュベナイルフィリースは、ハナ差、クビ差で3頭がもつれる結果となったけど、3着の子は桜花賞を回避したので、今回はおそらくソダシとレイナスの2強だろう、という見方が多い
性格的には折り合いが付きやすい(騎手の指示を聞きやすい)子らしく、従順で頭がよいのだと思われます
スタイルは中段の後方につけることが多く、いわゆる差しウマといっていいかと思います
わりとダイヤちゃんそのままのイメージでいいかもしれないですね
アパパネはハワイにいる赤い鳥らしく、その娘なのでアカイトリノムスメと命名されたそう
母親以上の成績を残して、母親のことをアカイトリノムスメの母、と呼ばせるようになってほしい
名前と血筋からして、背負ってるものが多すぎるような、業の深い子だと思う
4戦3勝で、G3をひとつとっている
ウマ娘的にはエアグルーヴみたいに、母と同じチームで、母と同じトリプルティアラを目指すストーリーをこの子に重ねて見ることができる
レースのスタイルとしては真ん中につけるレースと、最後方につけるレースが半々だけど、後方にまわったレースで負けてるし、騎手は今回前につけたいと言っている
性格はおとなしくて落ち着いているとのこと
まだ若いのにもう落ち着きが出ているということだし、ウマ娘キャラとしてはスーパークリークみたいなお姉さんをイメージしたらよいのかな?
この子がこれから親に負けずに勝っていくならマックイーン的な王者のキャラ付けになるだろうし、ここで負けてしまうならキングヘイローみたいなアイデンティティと戦うキャラ付けになるかもしれない
ここで勝たないと母親を超えれないため、本当に「アパパネの娘」になって自分の名前を名乗れないウマ娘になってしまう懸念があるし勝ってほしい
まわりからはのんびりしてそうで、幸せそうに見えているけど、夜な夜な親の偉大さに押しつぶされそうになって寝れなくなっている様子を想像してしまう
ひいじいちゃんがソダシの父親のクロフネ、その奥さんつまりひいばあちゃんがソダシのおばあちゃんシラユキヒメ
母親はシラユキヒメの孫のシロインジャーって名前の白毛の馬だけどメイケイエールは白くない
これだけ見るとみんなよりひと世代若く見えるけど、みんな3歳
実績は5戦4勝で、G3を2つ、G2を1つとっているので実績と実力は出走馬の中でも十分
負けたレースはソダシが勝った阪神ジュベナイズフィリーズでの4着
気性難として有名で、レースさせるにはまだ危険とまで言われるほど
負けたジュベナイズフィリーズはかかりっぱなしで、言うこと聞かずに大外回っての4着
チューリップ賞も、とにかく前にウマがいたら抜かさないと落ち着かなくなるらしく、武豊と大喧嘩しながら走って、結局騎手は諦めて最終コーナーより前からスパートかけさせて先頭に立つ
直線で後ろからエリザベスタワーに差されるも、根性で脚を伸ばして差し切らせず、同着での1着に持ち込むという(チューリップ賞の動画みると騎手との喧嘩っぷりに笑う)
乗ってた武豊ですら、頭をかかえたらしいけど、こんなんもう負けやろうというレースをしておいて最後にちゃんと合わせてくる能力の高さは間違いないみたい
もし騎手と折り合って力を100%出せたら?と思うとまだまだ能力は底知れない
しかし、実は気性難というより、本当は真面目なおりこうさんらしく、レースもムキになったり闘争心むき出しというよりかは、「これを抜かせばいいんですよね?マスター」みたいな感じの生真面目さからくるという話
普段はおとなしいけど、仕事になると私生活もペースも無視して突っ込んでいくバリキャリタイプのようです
ウマ娘のキャラ的には、医療品が足りてない!って騒いだり、タイキシャトルをとっ捕まえたりしてる場面のたづなさんのイメージ
ミホノブルボン的とも言えるかもしれない
たぶん、部屋は散らかってると思う
今回は主戦騎手の武豊が負傷療養中で、かわりに横山典弘が乗ることになる
横山典弘はゴルシにお祈りしながら乗ってた人だし、馬の気持ちを尊重して乗る名手
今回は馬具も馬を従わせるための拘束のきついものは全部やめることにしたそう
というわけで今回は変に折り合わせようとせず、馬の気分にあわせて逃げるんじゃない?って予想も多いです
これで勝ったらサイレンススズカの再来と言われるはず
先進()国では順調に少子化が進んでいるらしい。少子化のまま国が存続していた例は寡聞にしてしらない。猿から人間、そして有史に至るまで人間は産めよ増やせよ地に満ちよであっただろうからそもそも少子化って現象自体がなかなか珍しいものだ。生殖による増員と選別は強力な武器であっただろうし、それをしない群れが生き残って来たとはちょっと思えない。
猿に近かった頃の人類の話から始めると全ての人の群れは猿山の原始カルトだった。遺伝子の生存競争と同じように原始カルトの生存競争もあった。原始カルトの今から見ると無茶苦茶な教義に従って群れは暮らし、群れごと滅ぼしたり滅ぼされたり吸収したり隷属したりのカルト集団の生存競争の果てに今の国家群がある。群れがあり、別れ、また一つになる。何度も繰り返してきた生態だ。だがもうなくなるだろう。そして世界はなんだかんだ統一されるし、統一に向かっている。分かり合えるようになったからだ。
現存の原始カルトと言えばキリストだのイスラムだのヒンドゥーだのだろう。それに加えて土着の信仰(勝手な思い込みって意味だ)が混ざり合い、現在では皆似たり寄ったりでそれなりに仲良くなっている。現代社会全体で見れば極めてヤバイ宗教はもうほとんどないし、きわめてヤバイ宗教が存在しないという形で宗教は統一に向かっている。世界の裏のヤバイ人の数はどんどん減っており、我々は分かり合えるようになった。今戦争している地域も最終的にはおとなしくなり、負けた宗教は土着の信仰に貶められるだろう。宗教的な統一は順調だ。
国家的な統一も進んでいる。こちらの方はある程度で止まるだろう。それがどれくらいのサイズ感かはわからない。しかし統一は進む。
理由①新たな群れはもう増えない
未発見の土地は既に存在しない。今後生まれるであろう群れが求める新天地は存在しない。群れから別れようとするような異端分子が存在しても行き場はそもそもない。アメリカへの移民はアメリカがあったからこそ成せた。既にそのような場所は存在しない。
更に言えばボス猿の武力が強くなりすぎている。その昔、人間というサルは連帯によって敵を倒せていたらしい。どんな強者でも最悪100人から投石を貰えば死ぬ。しかしそれは昔の事。武装が強力になった現代では石を投げつけられてもビクともしない強い武装がいくらでも存在している。そしてそれは製造に高度な技術を要求する。コモン投石はレア機動隊装備には勝てないし、その気になれば核ミサイルを撃ってもいい。まず反逆が無理
理由②群れは消える事がある
人間の群れが大きくなるにつれ相対的に世界は小さくなる。戦国時代には日本は分裂していたが現代では完全に統一されている。このような事例は枚挙に暇がなく歴史的にかつて国であった地域は統一され巨大な一つの国になった。人が進歩するごとに群れは減っていく。
世界的に国家は減っていく。しかしこちらはある程度で止まるだろう。江戸幕府が出来る可能性があるが黒船が来ない。もちろん宇宙人が出張ってきたら話は別だ。最大でも中国あたりが覇者になり幕府を開き、それくらいで終わるだろう。
以下の文章は、社会学は客観性が無いから学問の体をなしていないから解体すべき、という暴論を見かけて、趣味で社会学を学んでいる人間がイラッとして書き散らしたものです。専門家によるまともな読み物としては、盛山和夫『社会学の方法的立場: 客観性とはなにか』(2013)、佐藤俊樹『社会学の方法――その歴史と構造』(2011)(たまたまですがどっちも東大系の人ですね)、あるいは以下で紹介する「客観性論文」やそれ関係の論文などがあります。ちなみに「岩波科学は科学論文」の人に関しては擁護のしようも無いと思います。
たとえば、この宇宙はスパゲッティモンスターによって創作されたという誤ったイデオロギーを抱えた科学者がダイナマイトを発明したとして、ダイナマイトは誤った発明であるとか、あまつさえ存在しないということにはなりません。それはそれ、これはこれ、という態度が科学的というものでしょう。しかし、誤ったイデオロギーを社会学者が抱えることは望ましくないとされます。なぜでしょうか。
それは社会や社会問題が、原子やDNAが「存在する」のと同じ意味では「存在する」と言えないことに根本的な原因があります。たとえばホームレスは現在の社会においては色々な意味で問題とされています。しかし、ホームレスは人類の定住以前においては間違いなく問題や概念として存在していませんでしたし、中世や近世においても今日と全く同じ問題としては存在しなかったことでしょう。原子がこの宇宙の始まりから今と同じように存在していたのとは対照的です。ホームレスを扱う社会学が、物理学や生物学と比べて胡乱なものに見えがちな理由はここにあります。誤ったイデオロギーを抱えた社会学者は誤ったものを存在するとみなしてしまいかねないのですね。
しかしだからといって、今日ホームレスが問題としてまったく「存在しない」と言い切ることはできないのもまた確かな実感でしょう。原子の「存在」とは別の意味とはいえ、社会や社会問題は確かに「存在」する、と言いたくなります。「実在」と「非実在」のあいだの独特な在り方。社会学者はそのことを「社会的実在」のような言葉で表してきました。これはいかにも怪しい物に思われます。しかし今日における我々が「ホームレスになりたくない」、「ホームレスが怖い」、あるいは「そうしたホームレスに対する差別的な見方こそが問題なのだ」と思っているのもまた確かなことです。およそ100年前、そのことを単に思うだけでなく、その思い自体を当時隆盛しつつあった科学の方法で分析しようと考えた人々がいました。
マックス・ウェーバーの「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」(以下、客観性論文)という1904年の論文があります。ウェーバーは社会学におけるビートルズであり、この論文はイエスタデイくらいの重要さと著名さを誇ります。要するに、まともに社会学をやっていればなんとなくは知っているべきもの、という位置づけでしょう。(ちなみにLet it beは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。読んでいないのは許されない)
とか言いながら私は手元にその本が無いので、ネットの記述に頼りつつ思い出した記憶で以下のことを書くことをお許しください。
ウェーバーは客観性論文のなかで社会学者がよって立つべき「価値自由」という概念を提唱します。この主張はしばしば「価値判断をしてはならない」とか「価値判断に影響されないデータだけを虚心に扱うべきである」といった主張として誤解されています。しかしそうではなくウェーバーはここで「社会学者もまた人間である以上、何かの価値判断を持ってしまうことは避けられない。そして価値判断は時として認識を狂わせる。しかしだからこそ、社会を科学的に取り扱う社会学者は価値判断と認識を区別しなければならない。そのためには自分の持っている価値判断に対して敏感でなければならないのだ」といったことを主張していたはずです、たぶん。客観性論文については多様な読解や批判がなされている(上に私の手元にその論文が無い)ので客観性論文の内容についてはこれ以上立ち入らないことにします。以下ではその代わりに、客観性論文に関する微かな記憶を頼りにしながら、社会学の客観性について考えてみたいと思います。
たとえば次のような主張がなされることがあります。「数字は嘘をつかないが、数字を使う人(社会学者!)は嘘をつく」。けだし名言でしょう。しかし、社会学者であるならばもっと深く考えなければなりません。ここでは「ホームレスの人数」について考えてみましょう。ここで名言に従って単純に考えるのであれば次のようになるでしょう。ホームレスの人数は、数学や物理における定数のように誤ることなく(それを測り間違うことはあるかもしれないが)存在しているが、それを多いとか少ないとか、それを減らすべきだとか主張する人は誤ることがある、と。
後半は確かにそうでしょう。しかし、前半は間違っています。たとえば、日本政府はホームレスについての統計を発表しています。しかし「国民の税金を使ってホームレスの人数を数えよう」という時点ですでに何かしらの価値判断が働いています。そのことは政府のサイトに「ホームレスの実態に関する全国調査」が載っていて、「鼻くそをほじって鼻血を出した人の実態に関する全国調査」が載っていないことを考えてみればわかるでしょう。こうした極論を言うと、「どちらも数字としては存在するが、後者はただ(未発見の物理的性質のように)見つかっていないだけだ」と言われるかもしれません。しかしたとえば日本政府のホームレスに関する調査は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法第2条に規定する「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所として日常生活を営んでいる者」」を対象にして行われているようですが、ここからはいわゆる「ネットカフェ難民」がその統計から漏れています。これは単なる「測り間違い」なのでしょうか。そうではありません。「ネットカフェ難民」をホームレスに入れるべきか、あるいはそもそも「ネットカフェ難民」をそもそも「問題」とすべきかこそが、ひとつの価値判断であるのです。「ネットカフェ難民」を入れたホームレスの人数と入れないホームレスの人数、どちらが正しいでしょうか?それは重力加速度として2m/s^2と9.8m/s^2のどちらがより正しいか、という問いのようには答えが出そうにありません。
社会についての数字は、自然科学における定数のようには存在しないのです。つまり、社会における事実は、自然科学における事実のようには存在しません。そのような状況で、いかにして社会を科学的に扱うことができるでしょうか?
もしかしたらそもそも可能かを問う以前に、そんなことを目指す必要があるのか疑問に思う人がいるかもしれません。あるいはより直裁に「社会を科学的に扱う学問=社会学って何の役に立つの?」と聞かれることはしばしばあります。それには多様な答えがありうるでしょうが、私は次のように答えることにしています。「何かの役に立つわけでもないのにやらずにはいられないのが科学の出発点なのだ」と。人間が持つ認識能力や、何かを書く/描く、喋るといった能力は、生存する上での必要性から発達したはずです。自分の周囲を見渡す能力や、自分が見た物事を他者に伝える能力は、それを持っていない種よりも生存上の有利をもたらしたことでしょう。しかし人間は、その必要性を越え出たところまでその能力を、あるいはその能力によって生み出すものを発達させました。それは、芸術とか哲学とか、あるいは科学とか呼ばれるものです。存在しない風景を描くことに、どんな必要性があるでしょうか?死後の世界を思い描くことに、どんな必要性があるでしょうか?そして宇宙の星々の表面を調べることに、どんな必要性があるでしょうか?こういうことを言うと、次のように返されるかもしれません。「芸術や哲学は生存に不必要かもしれないが、いまのわれわれは科学無しには生きられないではないか」と。まあ、確かにそうです。でも、それは科学の根本的な不必要性を否定するものではありません。人間=ホモサピエンスは、ニュートンが万有引力を発見する以前からずっと世界の覇者であったではないですか?それでもニュートンが万有引力を発見したのは、「世界のことをもっとよく知りたい」という、ただ生きるためには不必要な知的欲求、こういってよければ人間特有の本能からであったはずです。「ただ生きる」ことに飽き足りないのが今の人間であり、そうした人間が生み出したのが芸術・哲学・科学です。そのうちの科学的欲求が、これまた不必要に複雑化した社会のありように向かうことも、私は自然なことだと思っています。先のような問いをする人には、正直に言えば「なぜあなたは社会について科学的に分析したいと思わないでただ生きていられるのですか?」と私なんかは思うのですが、これはさすがに社会学に頭をやられてしまった奴の意見でしょう。ほかの社会学者はもっとうまく説明することができるはずです。まあ、そんな可哀想な奴もいるんだなと思っておいてください。でも実際、「社会に対する科学的認識って必要?」と言われたら、究極のところ「認識したいんだから仕方ないじゃん?」としか私は返せません。なのでこの問題は放置して次の段落に向かいます。
さて、いかに社会を科学的に扱うことができるかという問題でした。その問題は、社会に「存在する」ものや数字が、ふつうの科学が扱うものや数字と同じようには「存在しない」、というところから発生しているのでした。より明確に言えば、社会的実在は、それを観測する人や社会の価値判断を抜きにしては存在し得ないという独特の性質を持ちます。たとえば「ネットカフェ難民」は、ここ二十年ほどの日本の労働環境やネットカフェの事情抜きには科学的な意味で「存在」しませんでしたし、さらに言えば科学的な意味で「存在」していても、支援団体の人々などが発見しニュース等で取り上げられるまでは社会的に「存在」しえませんでしたし、いまだに政府のホームレス統計には「存在」していない、という状況にあります。そのことは万有引力が宇宙の始まり以来、ニュートンが発見しようとしまいと科学的な意味で「存在」していた、あるいは今現在未知の物理的現象や生物的現象が、まだ発見されていないだけですでに世界のうちに「存在」していることとは対照的です。
価値判断抜きで存在し得ない対象を、いかに科学的に扱うか。それこそがウエーバーが客観性論文のなかで考えたことでした。ここでよくある誤解は、そして絶対に避けられるべきなのは、「社会的実在は実は価値判断抜きに存在しうる」と考えたり「価値判断抜きで存在するものを社会学は扱うべきだ」と考えたりすることです。前者が存在しないことはすでに説明しました。社会的実在は――それが単なる数字や統計であっても――価値判断抜きには存在し得ません。であるからして、後者は社会学を根本的に否定する思想です。そういう価値判断に影響されざるを得ないもの、すなわち社会や社会的実在をよりよく知りたいと考えるのが社会学なのですから。それを否定する人に対しては何も言えないということはすでに述べました(あくまで私個人からは、の話ですが。ほかの社会学者はもっとうまく説得するかもしれません)。
そこでウェーバーが述べたのが「価値自由」でした。社会学者は自分の価値判断をわかっていなければならない。より分かりにくく論文に忠実な言い方で言えば、「存在する」ことと「存在するべき」ことを区別しなければならず、科学は「存在する」ことしか明らかにできない。このウェーバーの主張に対しては、それもまたひとつの価値判断ではないか、という主張を投げかけることが可能ですし、一見ただのいちゃもんに見えるその問いは、社会学の中で大真面目に議論されてきました。私の見たところ、この問題は答えが出ない種類の問いなので、取り扱わないことにします。いいじゃないですか、どんな学問にだってドグマの一つくらいありますよ。それより重要なのは、「自分の価値判断をわかる」ことが、本当に社会的実在を扱う上での十分条件であるのか、ということです。それが必要条件であるのは確かにそうであると思います。ある社会学者が「ホームレス問題についての社会学的分析」という論文を書くとして(テーマが広すぎますがそれは置いておいて)、その人が「自分はホームレスを望ましい人間の在り方ではないと考えている」とか「というかホームレス気持ち悪い」とか「ネットカフェ難民をホームレスに含めていない日本政府は問題である」とかいう自分の価値判断を自覚していなければ、それは社会学的研究として成り立たないでしょう。しかし、それだけで十分なのか。社会的実在というものは、もっと慎重に取り扱わなければならないものではないか。(実際、客観性論文より後の後期ウェーバーも、そう考えて「理解」を社会的実在の根本に据えたと私は理解しています[詳しくないので間違っているかもしれません])
と、ここまで書いて疲れたので一旦筆を置きます。続きは最初に挙げた二冊を読んでください。でも、ここまで読んでくださったあなたに問いたいのですが、私の書いたことは多少なりとも興味深くはなかったですか。社会学はこのような根本的な問いを抱えながら成長してきましたし、まだその途中にあるのかもしれません。私の考えるまともな社会学者はこの文章における中心的な問い「社会的実在とはどのようなものか?」に対する、この文章以上に説得的な答えをそれぞれ持っています。そこが人によって違っていいのか、と思われるかもしれません。もしかしたらそこが社会学の駄目なところかもしれません。しかし、おおよその社会学者は確かにウェーバーや(この文章では触れませんでしたが)デュルケームなどが作った社会学の歴史の上で考えている、という点では一致していると思います。それこそが社会学の共通性であり、知的伝統であるとみなしてはもらえないでしょうか。よろしくお願いします。
春のセンバツの覇者K大付属KOが前評判通りベスト4へ進出。春の選抜大会では出場選手全員がどう見ても高校生に見えない、キモいオッサンだとのクレームが相次ぎ
替え玉が疑われたことから大会後に全選手のDeNA鑑定を実施。全員が現役高校生であることが証明された。投打とも高いレベルで安定しており、
エースで4番の肝尾は1回戦の対味噌路二高(愛知)戦では大会史上69人目となるノーヒットノーランを達成。
対する日記を書はチームワークがセールスポイント。2回戦の龐徳義塾(高知)戦では19者連続でセーフティバントを仕掛ける、出塁した相手側の走者に対し
50球連続で牽制球を投げ続けるなどし、相手を試合放棄に追い込んだ。
「非モテは時代の犠牲者」を合言葉に全員が素晴らしい長打力を誇る犠牲者打線。大阪府予選決勝では宿敵である大阪口淫に21-18で打ち勝った。
大阪府大会からここまでで1試合平均得点12.7点を叩き出した“あてがえ打線”の破壊力は全国トップクラス。
この脅威の打線に立ち向かうのが穴開左のエースであり高校No.1サウスポーのxevra投手。予選通じてここまでの防御率は0.45。
デカダンスってのは今クール放映中のアニメな。ざっくり7話までのあらすじを、分かりやすいように喩えを入れて説明すると、
遠い未来、絶滅寸前のカブトムシに入れあげたオッサンが、カブトムシの生存圏確立のために仲間を集めてテロに走る
って話。で、これがどうオチをつけるのかってのがさっぱり想像つかない。俺の考えつく限りの予想を列挙すると
3. テロリストオッサンは早晩死ぬ。カブトムシは絶滅危惧種のまま何も変わらない。
4. オッサンが特別入れ込んでいる雌カブトムシとの異種間ラブ。
5. 大どんでん返しが起こり、全く予想がつかないオチを迎える。
1番は多分無い、2番も多分無い、3番は一番自然だが一番つまらない。4番は理解できない。結果二重丸は5番となる。つまり予想できない。
予想になってないのに予想ってなんだよって思われるかもしれないが、デカダンスは2話でいきなり舞台設定の根幹に関わる大どんでん返しを入れてきているので、それ以上の大どんでん返しがこれから終盤にかけて起きても不思議ではない。てか多分起きる。人類がカブトムシでカブトムシが実は人類くらいの意味不明な大どんでん返しが来るだろう。
あと、俺の説明が悪いせいでつまらないアニメに思えるかもしれないけど、派手なSFガジェットやアクションや顔芸が盛々で声優の演技も上々な気がするし、とても面白いです。
ネタバレ満載なので未見の人は見ないように。
甲賀弾正×お幻
「バジリスク」という名称自体が、死んでも殺す的な意味合いで付けられたものと思われるので最終的に壮大な相打ち物語なのだが、
その初戦を飾る戦い。
かつて愛し合った二人の戦いであり、物語のラストシーンとの対比となる名シーンである。
とはいえ、ここでお幻の鷹がいなければ勝負は恐らく一方的に甲賀の勝利に帰したであろう事を考えると、実質的にお幻の勝ちに近い気もする。
甲賀弾正は巻物をスリ取った上に不意打ちでお幻を倒して、かなり甲賀有利の状況を築いたにも関わらず、一瞬の油断から相打ちに持ち込まれた上に、結果的に巻物は鷹の翼によって先に伊賀方に届いてしまい、その後長きに渡る伊賀のイニシアチブを許すという、踏んだり蹴ったりな結末であった。
■FF7
FF7のストーリー上、クライマックスと言っても良い名シーン。
ここでの神羅カンパニーの社長退場と、その後のシスターレイを巡る一連の戦いによって、物語の最初からストーリーを牽引してきた神羅カンパニーは組織的な統率力を喪失し、物語の舞台から退場する事になる。その引き金となった戦い。
超長距離での大火力の撃ち合いによる相打ちだが、シスターレイの標的がダイヤウェポンではなくセフィロスの張ったバリヤーであった事や、ダイヤウェポンが倒れた後にその攻撃がミッドガルを破壊するなど、超長距離での戦いゆえの見せ場がカッコいいシーンである。
一方、本来ジェノバ(セフィロス)を攻撃するはずのウェポン達が、神羅カンパニーを攻撃したり適当にウロチョロしてるだけでイマイチ仕事してない感がある事や、
北の大空洞とミッドガルの直線上にダイヤウェポンが重なる偶然(神羅側はそのタイミングを狙ってたのかもしれないが)等、ややストーリー上の強引さを感じるのがマイナス要素である。
結果的に、サファイアウェポンやダイヤウェポンは神羅カンパニーを攻撃してセフィロスをアシストしてたようなものだし、アルテマウェポン・ルビーウェポン・エメラルドウェポンはあの有様なので、ウェポンは使徒を出したかっただけやん感が強い。
アルミサエル×零号機
前半でせっせと株を上げて、後半で一気に落としたTV版エヴァンゲリオンのエヴァ対使徒の実質最終戦(最後のシ者は、エヴァ対使徒って感じじゃなかったし)
前話でみんなのヒロイン惣流明日香ラングレーさんがアレな感じで退場した直後、嫌な雰囲気全開の中で行われた戦いの中で、やっぱり嫌な展開で発生した相打ちである。
レイ2号機の最後の回想が我らが主人公碇シンジくんではなく、ネグレクト総司令碇ゲンドウ氏であった事も含め、視聴者への嫌がらせが頂点に達した瞬間でもある。
思えば第一話から「勝てなきゃ自爆」がデフォの使徒戦だったので自爆では死なない印象があってもおかしくなかったのだが、黒ジャージ戦以降、物事が悪い方向にばかり進んでいたので、もはや出撃しただけで死にそうな感じが漂っていたのが印象的である。
しかもこの辺の戦いは、ゼーレやゲンドウが暗躍しまくってるせいで、初期の「使徒に勝たなければ世界が終わる」という背景が形骸化し、なんか消化試合みたいな雰囲気すらあった。
という事で、視聴者に嫌がらせするために行われたと思われる壮絶な相打ちシーンである。
■FSS
KOG×ジュノーン
ストーリー上重要な相打ちのはずだが、なんか全然重要じゃない気もするワンシーン。
設定変わっちゃってよく分からんけど、MHはレッドミラージュだけあればいい気がするんで相打ちになった二機が割とどうでもいい感じがしてるのと、
パイロットも割とどうでも良くて、重要なのは2人のファティマのはずなのだが、
それもなんでそんな所で相打ちになってるのか良く分からない感の漂う、良く分からない相打ち。
なんの意味があったのか。
言わずとしれた名シーン。ドラえもんの道具を使えば簡単に直せそうな気がするが、それは言わぬが花というやつである。
22世紀から来たドラえもんがいる以上、世界が滅びるはずがないのだが、それも言わぬが花である。
>相打ちはお互いに攻撃を仕掛けてお互いに致命傷を負うことであって、バギーちゃんみたいなのは自爆やろ
↑まあ、そんな気もするけど、鉄騎隊はポセイドンが操ってたみたいなんで、一応両方攻撃したよ、という体裁で一つ。
>バギーちゃんがしずちゃんの涙の雫に反応して奮起する名場面、水中では雫ができないはずだが、それは言わぬが花というやつである。
↑言われてみるとそうやな。まあそこは、おいらの心の胸は、お空の月の星の涙よおいらの胸の心の切なさよ、雨が降れば胸の心の頭もぬれるよって事で一つ。
スパイク×ヴィシャス
戦闘開始時点ですでに疲労してボロボロかつ腕に被弾していたスパイクと、無傷で座って待ってたヴィシャスではフェアな戦いとは言えない気もするが、
まあ殴り込みをかけたのがスパイクである事と、拳銃使いのスパイクに対してヴィシャスは日本刀使いというハンデがあり、更にスパイクはヴィシャスの部屋に爆弾投げ込んでるっぽいので、その辺込みで「堂々たる一騎打ちであった」と評して良いだろう。
かつての親友同士だったが女を巡って争った挙句、女は雑な感じで死亡済み、という背景もハードボイルドで良い。
最後、お互いの武器を押さえあった状態から相手に武器を渡しての相打ちであった事も、救いのないはずの戦いに花を添えている。
ラストシーンで入り口でスパイクを待ち伏せしていたマフィアが、既に戦える状態にないスパイクを見て銃を下ろすシーンがお気に入り。
ダイヤのJ×北家
2位以下は全員死亡というルールの中、逆転できるわけでもないのにアガって(しかも国士)そのままゲームオーバーとなった北家に対する、
「どこで運使っとんじゃあああああ」というダイヤのJの最後の叫びは、この作品一のお気に入り。
まあ、既に勝ち目が無いに等しかった北家と南家は、良くても東家のチシヤをトップにしてダイヤのJを道連れにするしかできない状況だったので、
そういう意味では北家は良くやったと言えるのだが、あんまりそんな雰囲気ではなく単に当たり牌が来たからアガった感の漂う北家の空気も良かった。
ゴルツィネ×フォックス
同作の組織戦としては最終決戦のクライマックスに起こった名シーン。
致命傷を負いながら裏切り者のフォックスを倒したゴルツィネの最後の心境はどのようなものだったのか、
その重点が裏切り者を許さないマフィアのプライドだったのか、自分の手に入らないならばアッシュを誰にも渡したくないという執着だったのか、
色々なものを想像させ愛憎入り混じったBANANA FISHの最終ボスを飾るにふさわしい男であったと言えるだろう。
片や主人公陣営を散々に苦しめた大ボス・ゴルツィネを用済みとばかりに軽く裏切って片付けたフォックスも、
その悪役らしいあっけない退場の仕方も含めて途中出場でありながら存在の軽さを感じさせない名悪役であったと評価したい。
なお、同作で相打ちといえば、言わずと知れた最後の名場面があるわけだが、ラオの存在がちょっと軽いので、相打ちというよりは「アッシュの最期」という印象が強い。
あと余計な事ではあるが、ふつーに考えると腹刺されて失血死する場合、床は数リットルの血でグチョ濡れで魚市場のようなムッとした臭気が立ち込めている上、顔はゾンビのような土気色のはずで、良い夢見てるようには多分見えないのではないかという疑いが強い。
※ブコメを見て
知らないのもあるけど、知ってるのもあるなあ。
□幽遊白書
飛影×時雨
あったなあ。解説の躯さんがいるので野暮な解説はしたくないが、
この時点で飛影と互角だった時雨がなぜトーナメントで蔵馬といい勝負ができたのか、原作読んだだけだと疑問しかない。アニメだと何か説明があったのだろうか・・・
なお、このトーナメントの逆トーナメント覇者は俺たちの柘榴であり、「自分に勝った奴は許さねえ」という柘榴の執念を感じる。
あった。勝てない相手に対してでも、何が何でも殺すというネテロの執念の一幕だった。
あの一撃でメルエムだけでなくユピーとプフにも致命傷を与えており、「当初はネテロの負けに見えたが、実は勝ってたのはネテロで、後からその凄さがわかる」という冨樫先生の演出の妙が光る。
一方、ネテロは立場上自爆を選択しただけで、一武術家として戦っていたならそのような戦法はとらなかったのでは、とも思わされる。
□北斗の拳
ファルコ×名も無き修羅
あったあった。修羅の国への期待値を爆上げして、後からパワーバランスが良くわからくなる原因を作った一戦。
それだけファルコが弱っていたと言えなくも無いが、刹活孔注入してからも一発喰らわせてるし、ケンシロウにも一応かすらせてるので、紫光のソリア程度の強さはありそうな気がする。
□マヴァール年代記
しかしあの一戦のせいで、あんまり英雄と知将の戦いという読後感がなくなったのも惜しかった。
孫子曰く「凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るはこれに次ぐ」というやつで、
お互い全滅するまで戦って最後に大将同士で一騎打ちして相打ちって、お前ら何やってんだという感が強い。
しかし今にして思えば、アルスラーン戦記の最後の相打ちに比べればまだマシだったかなーという思いもある。
相打ちすりゃ良いってもんじゃないんやで。
■BASARA
揚羽×夜郎組
最終決戦の裏側で、敵方の暗部夜郎組を一手に引き受けて散った、タタラ軍の縁の下の力持ち揚羽。
敵も倒し、崩れる城も支え、友人の太郎ちゃんの仇も討ち、と八面六臂の大活躍だったのだが、その最期は崩れた城の下敷きであり、見届けた者はいない。
物語の最初から更紗を救い続けたものの、その更紗は敵将朱理とできてしまい、それでもBSSとか泣き言を言わずに支え続けた男の中の男である。
なお、この物語にはもう一幕の相打ちシーンがあり、作中最強の暗殺者である柊と朱理・今帰仁コンビによる一戦。一交錯で決着がつき、双方死ななかったものの双方片腕を失うという痛み分けの結果となっている。
つまらない深読みをするなら、作品として物語前半で悪逆非道をなしている朱理を無罪放免というわけには行かず、華を持たせつつも贖罪的な意味合いで片腕を落としたのであろうと思われる。
早期にマーズランキング2位が退場した戦いであり、読者に絶望的状況を知らしめた。
レーダーよりも遠くから敵を察知するアドルフさんの謎能力がヴェールを脱ぐときの説明文のカッコよさに加え、
雷で倒す→避雷針で避ける→側撃雷で倒す→心臓マッサージ→銃を電磁場で防ぐ→電磁場の通じない投石で殺害→自爆
という二転三転する状況が、希望を見せてはまた絶望に落とすという、一筋縄では行かなさを演出した良い戦闘だった。
なお、状況的には相打ちというよりアドルフさんの負けであるが、多くのゴキブリを殺害及びボスに重傷を負わせ、結局何も渡さなかったという点と、
数話後にこの時のボスゴキブリが討ち取られた際に、すでに側撃雷で内臓に重傷を負っており、生き延びたけど長くはなかったであろう、という説明が入ったので、相打ちと判断したい。
余談だが、単行本には収録されていないが、YJ連載時の『雷帝、戦闘体勢(アドルフ・スタンバイ)』という煽りはかっこよかった。
アニメ版など無かった。
ちょっと前まで掲題のような空気だったのに、いつの間にかそんな空気は霧散しちゃったね
TeamsとSlackは機能が競合してる部分もあるから誤解をされやすいけど、収益の競合は一方通行なんだよね。
Teamsを提供するMSにとっては、顧客がTeams使おうがSlack使おうがOffice365契約してる限り収益は変わらない。
Slack使うためにOffice365切り捨てます!って企業もそんなにないのはOffice365の契約数の推移からいっても明らかだし。
けど、Slack側としては自社製品を採用せずにTeams使われると収益が損なわれる、という一方的な収益競合状態。
Teamsというチャットツールを既存のOffice365製品群をつなぐ糊のような位置づけにして、製品単独での収益を目指さなかったMSが上手かった。
早速だけれども世迷言が適切らしい。(適切を正解って書いててニュアンス違うかなって思って直して以降は気にせず突っ走る所存)
他の種族って種としての最大効率、生存戦略的なのに特化しとるわけですよ、多分。いや因果が逆か。
で、これまでの人類って、文化を熟成させて余裕のあるリソースを弱者に振り分けて人口増やしてきたんだと思う。
様々な危機があったと思うが、過去を振り返るにあたって、種よりも個を尊重するって方向性
中華史はキングダムしか読んでないし、信長の野望もやってないから歴史はほとんど知らないのだが、どっかで、個(とその個に属する界隈)を自由にさせてたら、種にとって不利益では? みたいなのがあったんだと思う。
そっから、種を拡大する言い訳として道徳とか倫理の全部の個を尊重する考えが生まれた、ってか重視するようになってきた。まだ到達はしてない
でも、それは非効率だ。
思いあがって自種以外の種や、愛玩動物とかに自種の個と同じ権利を(その先にどんな主張があるかは省略)とか言ってるけど、そんな冗長でブレブレな戦略で勝てるわけがない。
ここまで自然を破壊してきたし、天敵の居ない領域を拡大してきたんだから、一旦その優位性を思い出せ。
ゼロにはならんし、ゼロ近くからでも挽回は可能だろう、実際のところ。
↑
種として考えた場合ね。(電気が失われても、熊が異常繁殖とかせん限り、上位種に何がいるのか? そして火は残る)
トロッコ問題の回答(解答でなく)は、1:5の価値の判断がつくなら自由に切り替えたらいいし、それが困難なら5を生かせ、私情を挟むな、だと思う。
効率的に考えてそれ以外のアンサー出る人いたら教えて欲しい。”判断がつくなら”が怪しいのは承知だが、そこは本題ではない。
要は、なんで混乱が起きるのかってのが、種族の優位性とそれに伴う戦略が今までは積み上げた道徳とか倫理と矛盾してなかった、だがこの先は異なる、ってことなのだと。
この先ってのはもっと将来かもしれないし、近い将来かもしれない。でも、それこそ完全完璧なる覇者を目指さぬ限りは思い上がり的なのは邪魔なのかなって。
もちろん、敗北しても完敗するわけはないので、種としての優位性は保たれてる(はず)。そういう余裕があるから今のスタンスってのは凄く理解できるのですけれどもね(その余裕についてを個々人が認識してないとしても)
批判派は3層目が成立すると思うから1と2を組み立てているはず
なんだけれど、僕視点ではこの絵ではとてもOUTと言い切れるような
まあその最大のものは「オタク差別」と「巨乳差別」(用語は嫌い
だけど、一応使う)じゃないかとはさんざんいわれていて、
やつね)根拠材料があるような心理が生まれてしまったというのも
馬の眼氏のついったがいちばんよかった)、初期(10月頃)の段階で
いやこの件TVはまったく関係ないだろうハイ終了といわれるかも
しれませんがまあ聞いてください。
広告(ここでは、一枚絵かつ消費者広告※に限定)に登場する人物って、
どういう人が登場すると思いますか?
ここまでは、商品やその訴求内容が中心になるような人物起用ですよね。
(ほかにもそういうタイプの広告あるかもですが、ちょっと今思いつかない)
で、そうでない、商品を押し退けて人物を中心にする広告手法がむしろ
世の中ふつうです。
そういう広告に登場する人物のことを一括して何と呼ぶか微妙なところですが
ここでは
と呼ぶことにします。
宇崎ちゃんを広告として見ると、5項目に当てはならない。ふつう、アニメ・漫画
キャラクターは商品そのものか、寸劇・比喩表現として出てくることが(3次元と
比較して)けっこう多いんですが、赤十字は「タレント」として宇崎ちゃんを起用した
形になっています(概念的にいうと、2次元世界上で仮想的な宇崎ちゃんを演じている
女優が存在していて、その2次元女優を起用した、という方が正しいかも)。
ま、2次元の話はいいとして、世の中のマス広告、一枚絵でいうと駅・電車内の広告が
で、広告主が大企業だったりするとタレントのグレードも上がって、
何が言いたいかというと、宇崎ちゃんのポスターにダメ出しをした人たちは、
このTVコンテンツが作り出す秩序に世の中の企業や団体が従っているという
構図が心地よく(なぜならそれは自分たちの民意が作り出した秩序だと思って
いるから)、それに反するものなんておかしい、と思っているのではないか、
ということなんです。
赤十字は知名度も信用度もものすごく高いし、低いグレードの「タレント」なんか
使うはずがないと。
これに反して宇崎ちゃんが起用されているっていうことはなにか理由があるはず
→あっエロか!となって、そこから逆算して巨乳もエロ、表情もエロにみえる、
僕もそうだけど擁護派の人たちはTV離れが進んでいて、その感性をぜんぜん
共有できないのだろうと。
今の時代、TVの視聴率もどんどん下がってきて、広告に起用される「タレント」
がTVゴールデンタイムのイス取りゲームプレイヤーで占められなきゃいけない
必然性はどんどん下がっているわけです。
「タレント」起用の広告自体も長期的には減るだろうけど、その前の段階では相対的に
知名度の低い、TV以外の世界で知名度を稼いだ「タレント」も食い込んでくるはず。
で、そうなる有力な候補が、漫画・アニメ発の非実在の「タレント」なのでは
ないかと思うわけです。
2次元アイドルコンテンツなんかは10~20代に相当食い込んでいて、いま知名度を
蓄積しているキャラクターには今後20年くらいにわたってそうとう明るい未来が
待っているのじゃないかと、予想しているんですけどね。
なんでこんな事を考えたかというと、もう去年だけど4月頃?に「声優の顔出しは
是か非か」っていうトピックが流行して、あのときは批判者がアニメ・声優好きな
ようにみえて、それ以上に言葉の端々からTVどっぷりでTVコンテンツの秩序に反する
声優の進出が許せない、という感覚がにじみ出ていて、というのが強く印象に残って
いて、今回も似た構図なんじゃないかと思った、というのがあります。
本稿は、「女性をイメージモデルとして起用することの問題点を考える延長上で
2次元キャラの起用を考える」タイプの批判者を想定してますが、批判者には
「人間と絵は並べられない、純粋に絵として批判している」タイプも明らかに
います。そういう人は宇崎ちゃんポスターを見ても「タレント」には見えないで
(批判の原因が全然別のところにあるこという話をしたので、解決手段も全然別の
ところにあるかもよ、という話もすこししてみよう)
宇崎ちゃんは話題になる数ヶ月前WEBサイトに大量のディスプレイ広告が出回って
ウザイウザイと嫌われていたというのは事実としてあって、ウザイのが魅力
ポスターの批判者に応えるソリューションはなにか?って考えたとき、これは本質的
な解決にはならないけど、webの広告のやりたい放題は変えていくべきだと思うんですよね。
ほんと、あれの不快感の方こそなんとかしてください。
まず定義として、硬質のビキニ様の防具をつけていてボトムに関してはスカートなどは含む。また、カップから腹にかけて体に密着する形で太ももなどの露出が激しい物も含めるよ。
なおPCゲームはまったく詳しくないので対象からははずしたよ。
体系的に研究してるわけでもないオタクのおっさんが思いつくまま書いた感じだよ。
なおラングリッサーとアレサは殿堂入りな気もしたけど一応逐次記入。ただしラングは複数いる場合一人に絞ったよ。
『RING MASTER ~ゴドランタの覇者~ プリンセスマーガレット』
『マドゥーラの翼 ルシア』
『ダンジョンエクスプローラー PRINCESS』
『アレサ マテリア』
『アレサII マテリア』
『アレサIII マテリア』
『アレサ ARETHA the SUPER FAMICOM アリエル』
『バレットガールズ ファンタジア シルヴィア・オルタンシア』
『CODE OF PRINCESS ソランジュ・ブランシュフルール・ド・リュクス』
少なくとも80年代の内にすでに廃れたというのはちょっと受け入れがたいし、SAOの季節限定でアスナ以外のも複数ビキニアーマーのキャラが投入されてるので、「古典的女剣士」のスタイルとしては確立されてるといえるんじゃないかな?
御城プロジェクト:REは非R18だが和風なビキニアーマーなキャラがけっこういるよ!千年戦争アイギスは各種ビキニアーマーが揃っていて、まさにビキニアーマーの総合デパートとでも言うべき作品なので、ビキニアーマー好きには激おすすめ!!
アテナは、あれビキニなだけで魔界村で言うところのアーサーのパンツ姿だと思ってたんだけど、あれ?鎧なのかな
まあ、ビキニアーマー自体は少なくなって来てるけど、胸や腹のラインを出すカタリナさんの鎧は露出を下げたビキニアーマーの累計に入ると思うし、マシュは旧スク水アーマーだよね?ビキニアーマーはなくなったんじゃなくて、拡散と浸透して来たんだよ!と何かSF者じみたコトを言ってみました。
そうなはず。
でも川尻くんはいつも佐野くんを見るとき、後味悪そうな、気まずそうな顔をして見つめている。
一方佐野くんはいつも、曇りのないキラキラした目で川尻くんを見つめている。
川尻くんは、メンバー選びの際、昔馴染みだという佐野くんを選ばなかった。
そして、センターで一位でというはるかに高い下駄をはきながら、さらにAクラスで評価されてる人たちを引っこ抜いて、より高いハンデを積み上げた。
「彼の作り上げるチームを、僕はみてみたいと思った」
たしかに川尻くんにはそうする権利がある。これをしたことでなにも責められることはない。
しかしだ。
今になってみると違和感が付きまとう。
彼にはどうしても佐野君に勝ちたい理由があったのかもしれない。
そして、本当にこれくらいハンデをつけないと、佐野くんには勝てないと思ったのかもしれない。
佐野くんは不思議だ。空気のように踊る。実力は折り紙付き。でもその踊りに自意識はない。
本当にただ、真っ直ぐにダンスが好き。
なぜアイドルに応募してきてしまったんだろう、何か間違えてしまったのかな?
そう人に思わせるような、つかみどころのない性格だ。
彼は苦悩している、どうすればダンスで目立てるか、他人とうまくやるにはどうすればいいか。
二人の間に何があるのかは、私にはわからない。
誰が見ても川尻君の方が圧勝なのに、川尻くんは佐野くんに嫉妬していたのかもしれない。
川尻くんは、佐野君に、自分の舞台上で自分の正しさを証明したくてたまらない、自分がこの舞台の覇者であることを誇示せずにはいられない、そういうふうに見えた。
けれども、佐野くんは恨み言ひとつ言わなかった。涙を流して己の力不足を語った。
「ふざけんな、ずるいぞ川尻」
佐野君がそう言って怒ったならば、川尻くんも少しは救われたかもしれない。
けれども佐野君の反応はそれとは違くて、もっとずっと高潔で、ダンスに向き合ういつもの姿勢のそれだった。
多分、川尻君が持っていなくて佐野君が持っているもの、そのものだった。
それ以降、なんだか川尻くんから佐野くんに対する視線は、急速に罪悪感を帯びたものになる。
でも佐野くんは気づかない。川尻くんが自分にそんなことを思ってることに気づかない。悪意を向けれたかもしれないことに気づかない。
悲しいことに、このプロデュース101の舞台では、佐野くんは一度も評価されることはなかった。
川尻くんにとっても、彼がここまで評価されず去ることになったのは、予想外だったかもしれない。
彼の支配するゲームの中で、佐野くんは行き場を失ってしまったのだ。
「蓮君、ごめんなさい」
しかし、この時の川尻くんの、気まずそうな顔と言ったら、それはなかった。
佐野君のこの真っ直ぐな姿勢は、いつも川尻くんを追い詰め続けてきたのかもしれない、そう感じた。
佐野くんは脱落したが、それはやはり、川尻くんの支配する舞台の彩りになるには、相応しくないからだと思う。
今は心が折れてるかもしれない、けれども佐野君は、ダンスが誰より好きで、真っ直ぐにダンスだけに向き合うあの姿勢で、きっといつか、また私たちの目の前に現れてくれると信じている。
今回の日本シリーズではっきりしたけど、
今シーズンの巨人がリーグ優勝できたのは「巨人が強かった」からではなく「3連覇した広島が絶不調で弱かった」からだよ
明らかに今シーズンの巨人は、ここ数年のセ・リーグ優勝チームの中では最弱
そんな最弱チームが、それまでの優勝チームでさえ苦戦しまくったパ・リーグに挑んだのだから、
そりゃ4連敗しても何も不思議じゃないよね
加えて、今シーズンのソフトバンクは明らかに怪我人続出&不調で、本調子ではなかった
日本シリーズでの巨人の失点は、とてもリーグ優勝チームとは思えないお粗末なエラー絡みが多かったのが象徴的だが、
例年より不調なソフトバンクに4連敗したのは、それ以上に巨人がお粗末で弱かったからだよ
そんなチームがセ・リーグ覇者だなんて、今年のセ・リーグのレベルの低さには笑っちゃうね
セ・リーグが今年みたく不調なチームばかりで、
しかもリーグ3連覇チームの支柱だった丸を引き抜けたのであれば、
結局何が言いたいのかというと、