はてなキーワード: 能力主義とは
はてなー(というかブクマカ)が本を読むとか嘘だし、未だに努力教で公正世界仮説に生きてるよね
anond:20230413050437 anond:20230413165758 anond:20230413154903
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230413050437
https://anond.hatelabo.jp/20230321131216
まあ、学歴と仕事の能力が関係ないというのはごくごく当たり前の話だ。
俺達は学歴競争というトーナメントにおいて勝ち上がってしまった以上、ある程度の能力があるものと見なされちまうんだな。
(メリトクラシー(能力主義)批判を齧ったことがある人間なら、ポール・ローゼンバウムとかいうオッサンの言説を聞いたことがあると思う)
社会の評価主義が間違ってようが何だろうが、職業遂行能力があろうがなかろうが、俺達はレッテルと一緒に社会に放り出されるから世の中はクソだよな。
京大に入ると何か、サークルの奴らが勧誘ロードを作ってるじゃん。アレがもう嫌だった。
この列にトレーラーか何かが突っ込んできて、全員轢き殺してくれねえかな、って思うタイプの京大生が俺だ。いつか誰かが火炎瓶でも投げ込んでくれることを期待している。
とはいえ、当時の俺は純朴な地方出身の若者な一面もあったので、妙な起業サークルに入ってしまった。コミュ障にも関わらず、だ。
俺はサラリーマンとして誰かに頭を下げるのが死ぬほど嫌だったので、とりあえず社長になってみるか、というピュアな心でサークルに参加したのである。
そんな純朴な俺だったので、サークルでは三人の友人が出来た。
「増田君も目が濁ってるね!」
的なことを馴れ馴れしく言って話しかけてきた眼鏡と、その仲間の2人である。
オタク的な会話も弾み、一緒に起業しようぜ!と桃園の誓いばりのズッ友宣言をした俺達は、計4人で「良い感じのオタク起業をやろう!」「やろう、やろう」という話になった。
まあ、大体そんなサークルには卒業生の資本家が引っ付いてるのは皆様ご存じだと思う。
いい感じのプランをぶち上げ、投資家様たちにプレゼンし、3次審査くらいまで通すと出資、晴れて学生社長になれるってわけだ。
東京は三田会で起業していた知り合いのゴミがいたので、そいつにみんなで色々と話を聞きつつ、
仲間三人と練り上げたプレゼンで、無事に2000万ほどの融資を受けることに成功した。
『結局のところ、お洒落っぽさが重要だ』という三田会プレゼンメソッドは大分役に立った。
まあ、立ち上げ段階になったらめんどくさくなったので、300万ほど掠め取って、俺はその企画からはイチ抜けしたんだが。
その後、そいつらとは連絡を取っていないので、どうなったのかは知らない。
「やはり、他人と何かをするという作業が俺は嫌いだ」ということを再確認できたという意味では意義はあったと思う。
足抜けした理由はもう一つあって、
一緒にやってたら何か出資詐欺とかに騙されそうで怖くなった、というのもある。
(事実、そのころは東大とかでも出資詐欺が流行していて、100人の東大生に1000万与えて起業させ、成功した奴から毟るというスキームが漏れ聞こえてきた。ひどい話だ)
京大生って無駄に『俺達は頭が良いから騙されるわけがない』とか考えてそうで、まあ、アレだ。ピュアなんだよな、みんな。俺もだが。
ということで、300万を無償で手に入れた俺だったのだが、あっという間に無くなってしまった。やはりゴミみたいな手段で手に入れた金はゴミ扱いしてしまう、ということなんだろうな。
最後の方は、ユニセフだか何だかに30万くらい、寄付として突っ込んだ記憶がある。(やはり、俺は心の底では優しき善人だからだろう)
ついでに、元々、勉強というものをほとんどしたことがないので、大学の講義もあまり面白くなかった。
なんだっけか、山籠もりに行って休講にする教授いたじゃん。それくらいかな、記憶に残ってるのは。
京大生一人当たりに確か300万だか400万だかの税金が投入されているらしいが、まあ無意味な金の使い方を国家もするもんだよなあ。
そんな感じだったので、特に何も学ぶことなく、京大を卒業した。
それからが大変で、俺は社会の役に立つような仕事をしたいなあ、とふんわり思っていたのだが、
結局、健康器具を売るゴミみたいな仕事に就く羽目になってしまった。
何の成功体験もなく、学び舎で何も経験も積めなかったコミュ障の末路としか言いようがなかった。
あんまり言うと特定されるので言わないが、単価200万~300万くらいの器具を売る仕事だ。
スーパーの駐車場とかでテントを張ってたら、そこには俺がいる可能性がある。
ハッキリ言って効果が額面に見合っているかというと、見合っていないと思うし、
『社長が幻●舎から本を出すので社長の素晴らしい所を10個皆挙げましょう!』とかやるような会社である。まあ、社会のゴミってやつだな。
あと、ニトリとかで売ってそうな2000円の棚とかを20万くらいでオプションとしてつけたりもする。書いてて辛くなってきた。
何が嫌って、俺はその手の仕事が、意外にも滅茶苦茶向いていたということだ。
先輩曰く『老人受けする幼い顔をしている』とのことだった。良く言えば孫フェイス、悪く言えばチー牛・弱者男性フェイス、所謂ああいう顔立ちのことだ。
そんなこんなで、売上は年間2億円ほど立ててしまっている。
つまり、年間100人弱の御老人をだまくらかしてシノギとしているという計算になる。(俺の給料には還元されないんやけどな)
何が言いたいのか総括する。
弱者男性、コミュ障は老人向けの営業が向いてるのかもねって希望的寓話であり、
善人が、学歴をいかに積んでもコミュ障というだけでこういう詐欺まがいの仕事に就いてしまう社会だという絶望的な話でもある。
今日も、仲良くなったお客さんのお爺ちゃんお祖母ちゃんからもらった野菜の山、米の塚を消費する日々である。
私は幸福の科学の信者でもないし大川の著作を読んできたわけでもないが、ある時期、すこし彼に執着していろいろ調べたことがあるので、訃報に触れて思い出すことを書いておく。すべてうろおぼえの話を書くのでいろいろ間違っているとは思うが(ツッコミが入りそうな予感はする)。
幸福の科学でいちばん面白いのは教祖である大川の存在とその頭の中身だと思っている。そして、人間として大川の性格のようなものは、幸福の科学の教祖になった後、意図的に対外的な自己像をつくり直した過程によくあらわれていると思う。そのあたりの展開は『太陽の法』の初版と改訂版(現在の版につづく)を比較するとよく分かる。もし大川の人となりを知りたい者がいれば、おそらく『太陽の法』の初版以上に有用な資料は少ないだろう。
彼は徳島の田舎で誕生するが、たしか父親はGLA(かGLA系の何か)に入れ込むスピリチュアルな人で、一時期は共産主義に傾倒したあと精神世界にのめり込んだという、ある意味で救いを求めて生真面目にさまよう人間だった。そして本人は運動もできない、体も弱い、勉強もそれほどできないという劣等感を抱える子どもだった。一念発起してガリ勉に転じ、それでも浪人した末にようやく東大に合格するのだが、その後、デキる東大生の中で劣等感に苛まれるという「田舎の勉強できる子が東大に入ったらただの人だった」の典型的なパターンを踏襲することになる。そして、たしか在学中に司法試験を受けるものの合格せず、ようやくのことで卒業して拾われるように商社に就職する。会社でも卯建のあがらない存在であり、そのうちGLAとかに出入りしているうちに天啓を受ける(おそらくノイローゼの末の自動筆記のような状態になる)。そして、それを知った父親の後押しもあり、次第に宗教家としての自覚に目覚めていく。ある意味で父親は教祖としての大川のプロデューサー的な存在だったと思われる(神懸かりになった者を教祖に立てて、実質的な教義や教団はその近親や側近が整えるというパターンは珍しくない)。
この辺のプロセスが『太陽の法』初版には赤裸々に語られていて、本人のエリートへのコンプレックスのようなものが後の幸福の科学の「予備校」ぽさにつながっていることがよくわかる。つまり一般的に「頭がいい」といわれる人でなくても、あるいは学歴社会や能力主義の中で挫折した人でも、決められた本を読み、順番に「勉強」していけば霊的な高みに至れるという教義は、彼自身の挫折を埋め合わせるものなのだ。そしてそれゆえに、受験や就職などの競争で疲弊していた若い社会人に人気を博していくのである。幸福の科学の独自性とその人気は、時代の要請に加えて、ある種の本人の「素質」とビジネス勘のようなものの合致によって実現されたものだった。
そして、大川はある時期に『太陽の法』につづられていた赤裸々なコンプレックスをすべて削除して、「東大では見事な成績だった」「会社にぜひ来てくれと言われた」といった大言壮語で埋め尽くしてしまう。
(用事が入ったので続きはまた後で書くかもしれない)
AIが進化していくと、今まで「有能」「才能」だったものが変わっていくかもしれないよね。
論理的思考、文章制作、外国語能力、運転、絵画、音楽、プログラム…もしかしたら、コミュニケーションですら。
そうなると「人間にしか出来ないこと」に価値が出るという話だが、
もっというと今「無能」とされてるものが「AIにない価値」になるのかもしれない。
やたらヒューマンエラー起こすドジはむしろ貴重だったり、常人と「違う」感性や特性が金になったりするようになるかもしれない。
特異な遺伝子を持ってる事がその時代には「障害」じゃなくて「才能」になるかもしれない。
能力主義みたいなものが強くて、会社じゃ仕事ができる奴がデケエ顔してる今の世の中。それ、要は努力出来るかどうかすら生まれや運なのに、自分の手柄だと思って無能を見下してる奴と俺みたいな無能の地位が、ちょっと変わるといいなとこっそり思ってる
Q: 政治では「誰が何に値するか」についての議論が盛んである。あなたなら、どうやって「誰が何に値するか」を定義するだろうか。
能力主義が本当に悪いのかとふと思った。
大衆の権利についてのゲームを「人狼ゲーム」に喩えるなら、能力主義は「チェス」だと私は考えている。
能力を正当に評価する方法が存在し、かつそのジャンルが多様であるほど良い。
では「受験勉強を必死にやり、学歴を得て、その学歴を用いて就職する」という一見能力主義に思えるプロセスがなぜポピュリズムなのか。
よく考えてみると、大衆が望むようなタイプの能力で一律的に評価をしていることに関係する。
「(遺伝的意味でも)暗記が得意」「努力を評価する」「外れた人間を叩く」こういう性質を持つ大衆について聞き覚えは?
このような大衆が、受験戦争に躍起になるのは必然ではないのか。なぜならそれが彼らが信じる大衆の権利だからだ。
要するに大衆側が「俺達は努力をして学歴を得たんだ。それが尊重されるべきだ」と言っているのである。
私はチェスが好きな人間なので、そういうくだらんポピュリズムはクソだと思う。
個人の能力を様々なジャンルにおいて多様な方法で可視化し「僕が思う最強の能力評価指標」などという独善に支配されない能力主義の指標が要るのではないか。
しかもその多様なジャンルというものが、個人の経済状況に影響されない、公平なものであるのが好ましい。
喩えで言うなら、オンラインチェスや競技プログラミングは(不正を検出できれば)能力主義の指標としては比較的優れていると言えるだろう。
このような能力主義が「多様な」ジャンルで評価されるのが、本当の能力主義だと私は思っている。
ポピュリズムとはつまり、カルト宗教(創価学会, 統一教会, Google)が政治と癒着して無能を洗脳して権力を得る世界のことである。
正当な評価方法が確立されれば、多くの人が何かしらの得意分野を持つことができる。
パヨク以外のまともな考えを持った人は、学歴と家庭の収入に密接な相関があることを知っている。家庭が裕福なほど高いスコアを獲得する可能性が高くなる。
裕福な親は子供を受験対策の塾に参加させるだけではなく、ダンスや音楽レッスンを受けさせたり、ゴルフなどのエリートスポーツをさせたり、英会話スクールに通わせることで状況を有利になるよう訓練し、本物の善意ではなく下層階級に対する関心を示すために善行を積むように仕向けるのである。
そして授業料である。学生を入学させることのできる家庭は裕福であり、その他の貧乏人はローンを組むなど不利な状況に立たされる。この点から言っても、支払い能力を持つクソエリートの方が入学させる可能性が高くなるのである。
頭のおかしい評論家は、この不平等について「能力主義ではない」と嘘を吐くが、「男性の方が能力が高い」といった理由で医大が女性を差別するのも能力主義の不正が蔓延している一つの証拠である。
意見の相違はあるが、能力主義の連中は「能力を評価することは公正であり、能力に基づいて入学者を判断すべき」などと傲慢な態度を取る傾向にある。
暗黙の了解として、「実力主義で入学した者はそこから得られる利益を享受する資格がある」などと、弱者への差別を加速させるようなことを共有しているのである。
こんな考えが正しいと考えるのが、つまりリベラル派、パヨクである。少なくとも米国の政治論争で証明されている。対立はここ数十年の不平等の広がりに端を発している。誰がどの大学に入るかによって、より多くのことが左右されるという事実がある。
最も裕福な10%の人々の有名大学への進学がより重要視されるようになったのである。
50年前、大学への入学はそれほど困難なものではなかったとされる。4年制大学に進学するアメリカ人は5人に1人以下で、進学する人は自宅近くの大学に入学する傾向があったようだ。大学のランキングは、現在ほど重要視されてなかった。
しかし、経済的な不安だけがすべてではない。トップに立つ者は、自分の成功が道徳的に正当化されると信じたいものである。実力主義社会では、勝者は自分の才能と努力によって成功を勝ち取ったのだと信じなければならない。
連中はますます傲慢になり、自分たちの力で成功したのだという誤解を招いてしまうのである。
東大入学のために浪人する馬鹿について考えよう。彼らはエリート大学への入学がもたらす実力主義的な名声、つまり幻のようなものを求めているのである。
門をくぐった学生も、自分の力だけで入学できたとは言い切れない。親や教師は誰だったのか。自分だけの力ではどうにもならない才能についてはどうだ?たまたま持っていた才能を開花させ、それに報いてくれる社会に住んでいた幸運はどうだ。
競争的な実力主義の中で勝ち残った人々は、競争に対して見えないところで恩義を感じている。実力主義が強まるにつれて、その努力は私たちを吸収し、恩義は見えなくなる。不正行為や賄賂、富裕層への特別な特権がない公正な実力主義であっても、傲慢な連中が自分たちの力で成功したという誤った印象を持つのである。
これは自己欺瞞であるだけでなく、市民感覚を腐敗させるものである。自分たちのことを自分で作ったものだと思えば思うほど、感謝や謙虚さを学ぶのが難しくなるからである。感謝や謙虚という感情がなければ、共通の利益を大切にすることは難しい。
現代の政治においても、誰が何に値するかについての議論が盛んである。表面的には、これらの議論は公正さについてである。望ましい財や社会的地位を得るために競争する機会が本当に皆に平等に与えられているのか。
アメリカの現政権に従う傾向にあるので、トランプになればトランプ側になるしバイデンになればバイデン側になるし。
まずGoogleはパヨク系企業であり、少なくとも個人レベルでどうにかして洗脳を避ける必要がある。
Googleの社員を偶像崇拝するような連中は要注意で、特定のパヨク発想から抜け出せない。
そのパヨク発想の最たるものの例が「ワクチン接種」「マスク着用」に関するもの。まあ洗脳されている人が沢山いるのは見ての通り。