はてなキーワード: 相関関係とは
原文: Schumpeter blog: Angst for the educated(http://www.economist.com/node/21528226)
裕福な国の何百万人もの卒業生が、泣く泣く両親に別れをつげて、大学での新生活を始めようとしている。学生の一部は純粋な学問への愛ゆえに大学に向かうのだろう。しかし、ほとんどの学生は、大学で3年か4年過ごせば、そのために多額のローンを組むことになったとしても、実入りのいい安定した職に付ける見込みが強くなるのだと信じて大学に進んでいるのだ。
大人たちは常に「教育こそがグローバル化した社会で成功をつかむための最良の道だ」と子供たちに言い聞かせてきた。そしてこのお馴染みの話は次のように続く。ブルーカラーの仕事はやがてオフショアされるか機械化されてしまうし、中退したら金に困る一生を送ることになる、世を勝ち抜くのは学士号を手にしたエリートだ、と。これは証拠によって支持されている見解でもある。ジョージタウン大学の教育・労働力センターが最近発表した研究によれば「中等教育以上の学位を取得すれば、ほぼ必ず十分なリターンが得られる」という。学歴と収入には強い相関関係があるのだ。専門学位をもつアメリカ人の生涯賃金は360万ドルだが、高卒の場合はせいぜい130万ドルでしかない。さらに、学位を持てるものと持たざるものの差はますます広がりつつある。2002年の研究では、大卒は高卒の1.75倍の生涯賃金を得ているという結果が得られたのだが、今日ではこのプレミアはさらに大きくなっている。
しかし、過去というガイドは未来において役に立つだろうか? むしろ、私たちは仕事と教育の関係が変化する時代の境目に立っているのではないだろうか? 実際のところ、古いパターンが変わりつつあり、今は不況によって引き起こされている西欧社会の大卒需要低迷という事象も構造的なものに転化しつつあるのだと考えるべき根拠は十分にある。数十年にわたって多くのブルーカラー労働者を揺さぶり続けた創造的破壊の強風は、今や教育エリートにも牙を向こうとしているのだ。
大卒者の供給は急速に増大しつつある。高等教育統計によれば、1990年から2007年の間に、大学に進学する学生の数は、北アメリカでは22%、ヨーロッパでは74%、ラテンアメリカでは144%、アジアでは203%に増大したという。2007年には世界中で1億5000万人もの人が大学に通い、そのうち7000万人はアジアの大学に在学している。経済的新興国、中でもとりわけ中国は欧米のエリートに対向しうるだけの大学の育成にリソースを注いでいる。この新興国では、タタ・コンサルタンシー・サービスやインフォシスのような専門サービスを業とする会社も生まれつつあり、これらの会社は新卒生を世界クラスのコンピュータープログラマやコンサルに育て上げている。詰まるところ、富かな国の最優秀層は、より少ない賃金で沢山働いてくれる貧しい国の最優秀層と競合しつつあるのだ。
同時に、教育を受けた労働者の需要のあり方もテクノロジーによって変わりつつある。この状況は19世紀に農業労働者が直面し、20世紀に工場労働者が直面したそれと非常に似ている。コンピューターは反復的な知的作業のみ成し得るというわけではない。コンピューターは、アマチュアにプロのごとく仕事をこなせるようにする力を与えるのだ。どうして生身の会計士を雇って納税申告をしてもらう必要があるだろう? そんなものは、Turbotaxを使えばわずかな費用でやれるのだ。今後、論調と言語的曖昧さを処理できる機能が備わるようになれば、コンピューターがこなせる仕事の種類は今の何倍にもなるだろう。
Paul Krugmanを含む経済学者の一部は、ポスト工業化社会の特徴は絶え間なく続く知的労働者需要の増大ではなく、巨大な「空洞化」にあるのだと論じている。この「空洞化」は、中級職が賢い機械によって取って代わられ、上級職の増加が鈍化することによって起こるのだという。MITのDavid Autorによれば、このコンピューター時代におけるオートメーション化の主たる効果は、ブルーカラー職の消失というより、ルーチン化できるあらゆる職の消滅にあるという。プリンストン大のAlan Blinderは、低賃金の仕事よりも、大卒が伝統的にこなしてきた仕事の方が比較的「オフショアしやすい」と論じている。配管工やトラック運転手はアウトソースすることができないが、プログラマの仕事ならインドに頼むことができるからだ。
大学教育は、未だに医療・法・学問といった巨大なギルドの入会資格になっていて、このギルドは安定した高賃金な職を生み出している。これらのギルドは前世紀において非常に強力な参入障壁として機能してきた。この障壁は時には正当な目的に出たものだったが(誰も床屋に手術されたいとは思わないしね)、他方で自分たちの利益を目的としたものでもあった。しかし、ギルドは次第に没落しつつある。新聞はブログとの戦いに負けつつあるし、大学はテニュア付きの教授をテニュアの無い職に置き換えつつある。法律事務所は「discovery」(訴訟に関係のある資料を探し出す仕事)のようなルーチンの仕事を、Blackstone Discoveryに代表される電子検索の専門集団に外注しはじめている。医者ですら安泰ではない。患者たちはオンラインでアドバイスを受けた上で、ウョルマートの新しい医薬品センターを利用して治療を求めるようになりつつあるからだ。
MITのThomas Maloneは、このようなオートメーション化・グローバリゼーション・自由化といった流れは、もっと大きな変化 - すなわち「知的労働の分業化」という流れの一局面かもしれないと論じている。アダム・スミスの工場マネージャがピンの生産を18の手続きの分割したように、企業はますます知的労働を細切れにしつつあるのだ。例えば、TopCoderはITプロジェクトを小さな塊に分けたあと、その細切れをフリーランスのコーダーに分配するという方式を採用している。
このような変化は間違いなく知的労働者の生産性を高めるだろう。消費者はサービスに対して高い対価を要求する専門家ギルドを避けて通れるようになるし、多くの知的労働者は退屈な仕事を外注することで自分の最も得意な仕事に集中できるようになるのだ。しかし他方で、この知的労働の再編の流れは、次の世代の大卒者の人生を、はるかに不確定で安住できないものにするのだ。
なんか、前提が全然見えないのでお前が何を言いたいのかわからん。
人間の何について何の根拠をもって4種類に分類しようとしているのか不明。
お前が、解剖学を根拠にしているのか心理学を根拠にしているのか社会学を根拠にしているかによって科学的かどうかが決まる。
「丙午」(60種)は科学的な事になる
お前が、数学を根拠にしているのか、歴史学を根拠にしているのか、民俗学を根拠にしているのか、五行や風水、陰陽を根拠にしているのか、オカルトを根拠にしているのかで科学的かどうかが決まる。
因果関係や相関関係の複雑さが分母に現われるのだから、分母に文句を言うのは非常に科学的だと思うが。
人は他のいかなる動物よりも慎重に研究されてきたが、彼らが一つの種あるいは人種と見なされるべきかどうか、有能な調査者の間にも多様な意見があり、どれもあり得そうである:2(ヴァレイ)、3(ジャッキノー)、4(カント)、5(ブルーメンバハ)、6(ビュフォン)、7(ハンター)、8(アガシー)、11(ピカリング)、15(ボリセントヴィンセント)、16(デ・ムーラン)、22(モートン)、60(クロフォード)そしてバークによれば63。この判断の多様性は人種が種として認められるべきではないと言うことを意味しない。しかし、人々は連続的に変わっていき、はっきりとした区別がほとんど不可能なことを表している。
で、ほかのレス見てるとABO式血液型分類のことを言いたいらしいが、ABO式単独では日本人の2/3ぐらいしか分類できないんだよね。
というか、ABO式だけで分類すると輸血ミスるわ。
すでに、Rh式も一般的に使われているだろ?
血液分類法が100種類以上存在する現在において、ABO式単独なんて微妙すぎるんだよ。
さらに、ABO式だけ見ても、亜型って種別が存在する。
ちなみに、俺は普段はO判定されてたんだけど、血液検査でA型に振れたことがあって、調べた結果A3辺りじゃないかな?って感じ。
千人存在すれば、千通りの考え方があり、誰とて同じ存在は居ないと言えよう。
だが、心というものは先ず同じではない。
同様の遺伝子を持つ存在に人生を同様の経路で辿らせれば同一人物になるかもしれない。
一方、人格形成は生まれ持った要因によってのみ決まる。
どちらも突き詰めれば、脳内の分泌物と電気信号によるものでしかない。
だが、我々人間の社会に於いては、それ自体に一つの価値を見出してきた。
その為、数値化したり、分かりやすいデータにコンパイルし直す必要がある。
5因子モデルがその一例であろう。
NEO-PI-RやFFPQといったモデルがあるが、ここではFFPQについて語ろう。
性格を5つの次元に分類し、それによってその人間を判定する基準である。
これにより、複雑な事象を我々に近くしやすい次元にまで下げる事が出来る。
客観的に人間を見る一つの指標とはなるが、あくまでも客観的にである。
5つの次元以外の要因が絡み合えば、他の次元に何らかの影響があるのかもしれない。
自己を偽ることでそれらを全て好意的な結果に置き換えることも可能である。
だが、別の見方をしてみれば、生まれつきの人格を遺伝子レベルで変えてしまえば、
全てを良い結果として出せるのではないか。
もしそれがまかり通る世の中になれば、世界は大きな転換点を迎えるだろう。
この世に生を受けた瞬間に格差が生じるのだ。
時としてナチズムにも似たイデオロギーを生み出す可能性がある。
我々は、神の領域にまで踏み込んではならない。
そんな言い訳は認められないですね、はっきり言って。内面化された「自分」の視線を「社会」だなんて呼びなさんな、と思います。
早い話、加藤智大の言い訳を聞いてるのと同じような印象しかない。程度の差はあれ、ね。何もかもぶちこわしたくなる衝動、あるいは「不都合な真実」はなかったことにしたくなる衝動自体は誰でも理解できるものだし、加藤の「非コミュで非正規」という境遇がしんどいことは理解できるが、だからって人を殺すかよ、と。
人を殺すくらいならサンドバッグでも殴ってりゃいい。中絶するくらいなら最初から子供なんか作らなきゃいい。それだけのことなのに。
たぶん、障害者の親とか兄弟って、社会から、障害者を明るく前向きに受け入れて育てている「理想の家庭像」を押し付けられてると思う。
「普通の家庭」だったら普通にあるような、家庭内のトラブルや親兄弟の対立が、「障害者の家庭」ではあってはならないものとされているような。
ないとはいわないし、私がそれで苦労しなかったとはいいませんけど、少なくともうちの場合はどこの家庭にでもある一定の歪みの範囲を超えるものではなかったと思いますね。そういう風にめちゃくちゃになる家庭もある、そうならない家庭もある。
貧困と犯罪に相関関係があっても、「貧困家庭に生まれたら犯罪者になるしかない」ということではないというのと同じようなもんですよ。
子は親を責めても良いけど、社会が親を責めるのは違うんじゃないのって。社会の側から見たときに、中絶した親を指して「お前は加害者だ!」って言うのは、虫が良すぎるんじゃないのって思ったんだ。
そこで中絶された「子」は口を塞がれてるわけだから、誰かが代弁してやらないといけないし、その意味で私は自分の立ち位置は決して不適格ではないと思いますが、違いますかね。
http://anond.hatelabo.jp/20110719114224
怒りが有頂天だったけど、
逆に俺が求めてたものが明確化された。
そこの部分にいくまでの文章が長いから、
最後のほうで
感謝してることをあらかじめ書いておく。
で、
コーチングの話とかは知らないしどうでも良いよ。
そこなんだよ。
あんたはさ、
俺があのエピソードで、
みたいに書いたのだって、
と切り捨ててるんだよ。
あのエピソードが成立した条件について、考えて欲しいんだ。
「たまたま」じゃなくて。
「たまたま」って言われたり、
「そんなの無理」って言われたら終わりじゃんかよ。
まず、俺もレクチャーしてくれた友人も同じ授業を受けた。
俺はよく理解できなかった。
そしたらテスト問題が簡単に見えた。
テスト問題が何を問いたいのかがわかった。
もしだよ?
俺が雑談したのが、
同じ授業を受けていない数学の出来る友人だったら?
数学は出来るが、面倒見のよくない友人だったら?
どうなってたと思う?
どっちともたぶん駄目だったと思うよ。
あるいはブクマで指摘されていたけど、
ここから考えれば、
教える内容を12回に割り振るのと、
どちらが効果的だろうか?
TAは毎回1人を付けたほうが良いのか?
6人を中間と最後の2回の授業に動員したほうが良いかも知れない。
こういうことなんだよ。
俺があんたに食いついたのは、
それなのに、
それなのにだ。
以下の問いが、どんだけ何も考えずにその場しのぎで作ったか、
俺の怒りが有頂天だよ。
例えば、小学一年生に「なんで足し算とか勉強するんですか?」って聞かれたら、どう答えます?(こういう事聞いてくるのは、逆に賢い子だと思うけど)
学部生の「なんで?」が、
同じものだと思ってるの?
だから答えは、
「足し算は基本だ」とか
「足し算ができないと将来大変だよ?」とかじゃないんだよ。
そんなこと小学生でも知ってるんだよ、
小学生なめんなよ。
共感してやれよ。
「テレビみたいの?じゃあ、あと5問やったらいいよ」
とかでいいんだよ。
で、約束通り5問できたら褒めてやればいいんだよ。
学部生の「なんで?」は、
「この概念をどう使ったらいいの?」なんだよ。
目の前の試験を乗り越えたいんだよ。
もちろん「やりたくない」って意味で使ってるのもいるが、
それは置いておく。
で、ここで最初に書いたことが出てくる。
講義を通して、
何を学ばせたいのか?
試験でどういうことを問いたいのか?
それがわかんなかったんだよ。
俺自身がそこを明確に認識していなかった。
あんたが、
そこが明確になった。
「先生はここを重点的に説明してるな」とか、
「この人は、こういうことを教えたいんだ」ってことが、
きっと、わかってたんだよ。
俺自身にも、そのエッセンスを理解するだけの準備が出来ていて、
あんたは、こうも書いた。
俺は別に「あんたが悪い」と攻撃してるわけじゃなくて、線形代数を教える人に「どうしてこれをやるか?」って聞くのは無茶だって言ってんの。「例えば何に使うんですか?」なら、まぁ良いけども。そういうつもりで書いたんだけどな。
わかってない人間ていうのは、何がわかってないかさえわかってないんだよ。
だからちゃんと方向付けてあげないといけないんだ。
「君の質問に答えることは、一応できるけど、
君が本当に知りたいのは、
と聞き返せば、質問に来た学生はきっと目を輝かせるんじゃないかな?
どうなるかと思ったけど、
思わぬ会話になったな。
***
追記なんだけど、
一応、もう一つ、エピソードを紹介したい。
スポーツで、
「足腰を鍛えるのは基本だから、とにかく走って鍛えろ」
と、そういう教え方をする人がいる。
この場合の「足腰」には「心肺能力」という意味も込められていることは、
そこに、例えば、
「1500mを4分台で走れるようになるのが最低条件」
というふうに、何か加えるだけでだいぶ違う。
さらに、根拠をつけるなら、
「歴代のレギュラー選手の90%は、1500mを4分台で走れた」
となれば、さらに「走って鍛えろ」の意味が増す。
俺は、野球をやってた。
今では気晴らしにバッティングセンターにいく程度だが、
行くと、ほぼ必ず見かけるものがある。
ちびっ子がお父さんに叱られながら、
バッティングしてる姿だ。
曰く「脇をしめろ」
曰く「最短距離で打て」
この金科玉条は、
そういう親に教わっている子は、
かわいそうだなと思う。
あまりこれを否定すると、
補足すると、
「脇をしめる(ようなイメージで)」
「最短距離で打つ(ようなイメージで)」
が正しい。
本当にに脇をしめたら、
最短距離で打ちたければ、
この3つでしかない。(配球の話は置いておく)
極論、この3つがうまく出来るなら、
どんな打ち方だって構わない。
上手な人の打ち方は似通ってくる。
似通ってくるが、
素人が見てもわかるように、
それぞれに個性的だ。
高校生の頃、
最も相関性の高い筋力は「握力」だと聞いた。
大学生になって、
全身の筋肉量と最も相関するのが握力だと知った。
全身の筋肉量との擬似相関じゃねーかよ、と。
そんな切ない、エピソードさ。
追追記
ってか、バイオメカニクス的な部分まで踏み込まない。
「プロ選手を調べたら握力が強いほどスイングスピードが速かったんだって」
と聞いて、「相関関係は因果関係とは違う」という箴言を無視して、
と思って、頑張った。
普通に考えれば、全身を鍛えるだろうが、
でも、握力を鍛えるリストカールやハンドグリップはお手軽だった。
だから飛びついた。
で、大学になって、何かが違うことに気付いた。
で、余談だけど、握力が全身の筋力量に相関するのは、
最終的な力の伝達部分が、握力の影響を強く受けるからじゃないのかな?と思う。
数学得意な人は体育の分野にくればいいのにー。
Evidence for a Collective Intelligence Factor in the Performance of Human Groups
http://www.sciencemag.org/content/330/6004/686.abstract
Psychologists have repeatedly shown that a single statistical factor—often called “general intelligence”—emerges from the correlations among people’s performance on a wide variety of cognitive tasks. But no one has systematically examined whether a similar kind of “collective intelligence” exists for groups of people. In two studies with 699 people, working in groups of two to five, we find converging evidence of a general collective intelligence factor that explains a group’s performance on a wide variety of tasks. This “c factor” is not strongly correlated with the average or maximum individual intelligence of group members but is correlated with the average social sensitivity of group members, the equality in distribution of conversational turn-taking, and the proportion of females in the group.
【適当訳(要つっこみ)】
しばしば「一般的知性」と呼ばれるものの創発が,広範な認知タスクにおける人々のパフォーマンスと相関関係にあると,心理学者たちは繰り返し示してきた.しかし,グループに存在する「集団的知性」と呼ばれるものについて,システマティックに調査したものはいない.699人が2~5人のグループに分かれてタスクを行った二つの実験から,我々はグループのパフォーマンスを説明する一般的な集団的知性の因子の証拠となるものを見つけた.この「c因子」は,グループメンバーの知性の平均や最大とは強い相関はなく,グループメンバーのsocial sensitivity,会話におけるターンテイキングの分布の平等さ,そしてグループ内の女性の割合と相関関係があった.
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規制推進派がするべき事は、架空の規制反対ロリコンおじさんを仕立て上げて叩く事じゃなく
「児童の人権は擁護しなければいけないけど今回の規制には反対」な規制反対穏健派と話し合って
落とし所を見つけていく事なんじゃないのか?
推進派がそういう人達ばかりなら苦労はしない。
特にエロ漫画やアニメ規制に燃えてる連中は、それらと犯罪の相関関係を示す必要など一切無いと本気で思ってるし、ロリコン野郎を社会から駆除するためなら冤罪で無実の人間がちょっとくらい刑務所にぶち込まれたり、それが警察機構の利権と焼け太りに繋がったりしても仕方が無いと考えてたりするし。
それは「政治に無知な自分でも考え無しで飛びつけるようなキャッチーな候補者がいない」と言ってるような物だね。
会社の中身や経営者の肩書きと政治姿勢や能力に直接の相関関係があるとでも?
ネットでのわずかな短文の表現だけで誰をどれだけ政治的能力を計れようものか。
それだけの理由を並べて全てダメと言うって事は「自分には一番ベストな知事を選ぶ能力がありません」と吐露してるも同然。
まあ、でも都民の7割5分くらいはあなたと同程度の見識しか持ち合わせていないでしょう。
オレも含めてね。
それならそれで黙っていればいいのにどうして「自分が悪いんじゃない、自分に理解させてくれない候補者が悪いんだ」みたいな事を言うんでしょう。
それがとても滑稽だ。
自分の基本スタンスは、あの条例は賛成できなかったが、表現規制は必ずしも否定しない(性・暴力ともに)。
特に1)は個人の主張である。信念であるうちはいいんだけど、それが「実証的に証明された」例があったら教えてくれ。え、規制が緩い国の方が犯罪率が低いとかいうデータがある?それは示唆するデータであることははっきり認めるけど、国が違うデータ等を使って「日本でもそうなる」と応用できると言い切れるデータなの?そして、そもそも、相関関係は因果関係ではないですよ。それらを総合してまともに使えるデータはどっかにあるんですか?
自分が見てきたデータからすると、「エロを抑止しても犯罪効果につながる可能性は低い」「エロ規制が犯罪を抑止する証拠はない」「エロを開放すると犯罪率が減る可能性を示唆するものはある」けど、それ以上じゃない。条例反対運動で「エロ規制が犯罪を抑止しないとわかっている」と批判している人がいて、それはいいんだけど、それと同じ口で「エロが犯罪を抑止する」「エロを規制するとかえって治安が悪化する」って言いきるのは、正直「あんた大丈夫?」って思ってしまう。きもい。
3)エロ嫌な人への見下し
条例推進派の発言等にも多々見苦しいものはあったが「エロに免疫なく育った人とあったことがあるが人間的に云々」と非常に小馬鹿にした発言が散見されたが、エロ免疫なしで育ってもまともな人はちゃんと自分の知ってる中にもいる。性教育についてはある程度教えた方がいいだろうという立場だが、それ以外のエロコンテンツに触れておかなかった人間がそんなに見下されるような人間とひとくくりにされると、なんだその傲慢なカテゴライズは、という印象はぬぐえない。エロを知ってても嫌いな人は少なからず(どちらかというと女性に多いか)はいるが、それが何か問題なのか?エロが氾濫することを嫌う主張だって意見としては尊重されていいはずだ。棚が分けられたって封がしてあったってコンビニに並んでるエロ本の表紙が並んでいるんだっていやな人はいる。そういう人はおろかなのか、そういう人は今時マイノリティだから我慢して生きるべきなのか。少なくとも「そういう人とも折り合って生きられる社会のルールってなんだろね」ってかんがえられないようならダメじゃね?すでに都条例は通ってしまったが、こういう私から見るとキモい言動をするのは、運動の内側のオナニーにはなるかもしらんが、外向けの運動としてはマイナスはあっても(現実問題マイナスはたいしてないだろうが)、まず、プラスにはならんと思う。
それは君の考えに基づけば、という話でしょ?w
金を返せる、金を返せないという信用の有無は、人権の保障とは独立した別個の問題だよ。無関係。
君がやってるのは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」「木を見て森を見る」レベルの、非常に思慮に欠けることだよ。
そうであってほしい、という気持ちはわからなくもないが、これが現実だよ。
人が利害で動くからといって、その利害関係で齎された人権の毀損、剥奪が正当化されるわけでもない。
目を覚まして!
ん?
それはどこの現実だ?君はどこに生きている?
としても、その失業者100人は役員1人と同じだけの人権を主張できる。
もしかしたら君が信奉している考え方によると、人権とはおよそ定量的なもので、人の社会身分によってその価値が変動する、ということだね?
で、その現実はどこにあるんだい?
これは理想論でも何ものでもない、君が主張する現実のはずだけど、君はそれを現実ではないという。
僕と君と見ている現実は違うようだ。
では、君はどんな現実を見ているのだろう。
現実が終わってる奴が何を言おうと無視される。
君も大概だね。君の隣人や僕に向かって何かを言ったところで、どうにもできないよ。
そういう主張はしかるべきところでしないと。
はー、なるほど。君が則っている考え方によれば、人権と信用とは同値、あるいは相関関係にあるんだね?
で、その現実はどこにあるんだい?
漫画・アニメが好きで、本当に表現規制に反対したいのならば石原都知事を叩くな。
こう言うと石原都知事のファンだとか表現規制賛成派だとか…そういった部類に思われそうだが、正直なところ私も都知事は嫌いだ。
要するに都知事を叩くことで逆効果になりうるのでないか、と危惧している。
ここで「規制賛成派の立場」で考えることなど難しいので、相関関係が似ている架空の条例をでっちあげて考えてみよう。以下の内容を仮定してみる。
・リア充のイチャイチャが子どもに悪影響を与えるという世論がある
・リア充を蔑視する風潮がある
その状況で「カップルのイチャつく行為を規制する」旨の条例案が出た。
もちろんカップルたちは大反論するが、多数の議員は条例案に賛成している。
あくまで仮定なので細かいことは気にしない事にしよう。というかさせてください。
・Webサイトなどを用いた問題の周知活動
・署名活動
・議会に対する嘆願書の提出
リア充たちはこぞって議会を批判し、オタクである都知事についても批判した。
ここで、一部のリア充によって「条例に反対するために集団で性行為を行う」というイベントが企画された。
今、あなたを含む議員らは条例は当然のことだと思っているし、一部の議員はさらに規制を強化することすら考えている。
この状況で以上のようなイベントが行われたら(条例案に賛成している)あなたはリア充に対してどのような感情を抱くだろうか?
嫌悪を抱くことによって「さらに規制をすべきだ」という意見に達してもおかしくはないだろう。
以上、自分でも訳の分からない事を書いたがある程度伝わっただろうか。(オタクと対立するという意味でリア充を用いたが深い意味はない。)
すでに分かっておられるとは思うが、「条例案」は表現規制条例をモデルにしている。
最後の方の「条例に反対するために集団で性行為を行う」イベントは「石原オンリーイベント」をモチーフにしている。
実は書いているうちに頭の中がゴチャゴチャになってきた。このままでは結論が書けないので、疑問を投げかけて終わりにしよう。