はてなキーワード: 享年とは
http://anond.hatelabo.jp/20160822052822 の続き、リベンジ
初めて使ってから早2週間、やっぱり準備や後始末を考えると使おうという気が起きなくなりますね死にたい。
前回、独特の感覚は理解したもののそれ以上ではない感じだったのは恐らく、いわゆる溜めの期間が少なかったためだと思う。そこで今回は一週間のブランクを用意することとした。一般的には3日もあれば充分らしいが、念には念を入れた。これで文句はあるまい。
また今回はちゃんと部屋で致すべくタオルも敷いたしおかずは幾らでもある、準備は万端。一体どのおかずを使うべきかというどうでもいいことで悩んだが、今度こそちゃんとできるのだ。
が、いつもなら興奮するおかずでも何故か半端にしか立たない。え、まさか、緊張してるの?シリコン相手に?無機物相手でも緊張するって、人として終わってるにも程がある死にたい。
前回と同じ流れになるのはどうにも腑に落ちないが、入れてしまえばまた大丈夫だろうということでいざ鎌倉。うんそうそう、この妙なイタ気持ちよさっていうのが良いのか良くないのか微妙なんだよ。違和感に押されてでも立つんだから悪くは無いのかも知れないけど本当に微妙。
じゃあとりあえず、どうせまた時間かかるだろうし動かすかなーっと………………え?え?あれ?
微妙な感覚を楽しもうって思う時間も無かったね。気付いたら、痛みを覚えるぐらいに出る感覚になってた。
あと今更だけど、どれだけ出してもオナホの中に溜まるから実はこれって後片付け的には凄い楽なのでは???と気付きました。死にたい。
お風呂入るついでに洗い流そうとしたところで、一週間我慢して1分未満とかありえないだろ!!と一念発起して二度目に挑みましたが風呂場という環境のせいもあってか今度はダメでした。そういえばさっきも、出したら文字通り萎むとしか言いようが無い勢いで萎んだ。昔は二度、三度ぐらいはできたものだと思っていたのに、いつの間にかこれ程までに老いていたという事実なんて知りたくもなかった。死にたい。
どうして誰にも好かれたことがないんだろうと考えてたら、ふと、誰かを好きになったことがないことに気付いた。
異性を見て可愛い、綺麗、と思うことはあっても、それは美術品や花を見て抱く感情と同じでただの感想以上の意味は無い。好きという感情の機微がわからない。
物語的な意味合いでの意味はわかるが、それは物語だからこそ現実感が伴わない。他人に対して、本当に物語にあるような強い感情を抱くものなの?
たまに、勇気を出して告白しても振られてモテないって人がいるけど、そういう人と自分のような享年=彼女いない歴になりそうな人間は別カテゴリにしないと前者に対して失礼だと思いましたまる。
イギリス(イングランド)の王朝・プランタジネット朝の王族にして第三代国王。
1167年12月24日、プランタジネット王朝の初代王・ヘンリー2世の末子として生を受けるも、彼には土地を与えることができなかった
ため、父王からJohn the Lackland(土地の無いジョン)とあだ名をつけられた。
母君のアリエノールから愛情を受けられなかった事をヘンリー2世は憐れんだとも言われているが、父王が彼に土地を与えようと
したら兄達が反発したり、せっかく賜ったアイルランド卿の位も名目上でしかなかったなど不遇が続いた。
1216年10月18日、赤痢の悪化によって崩御した。享年48歳。
http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%AC%A0%E5%9C%B0%E7%8E%8B
今から71年前の1945年1月25日、彼はフィリピン沖で護衛空母に特別攻撃を実施し、戦死した。
陸軍の飛行場が近くにあったこの地域では、東大に入るのと同じくらい難関のパイロットという道が、
彼もまたそんな軍国少年の一人で、軍人になることを決意し、陸軍少年飛行兵となった。
彼が乗ったのは「戦闘機」ではなくて、「爆撃機」だったそうだ。
99式双発軽爆撃機、通称「99双軽」と呼ばれたその機体は、かの有名な零戦と同じく、
序盤はその軽快な運動性で戦果を挙げていたが、後継が続かずに旧式化していった歴史を持つ。
ただ一度、その99双軽で帰ってきたことがあったそうだ。
彼の乗った99双軽は実家のあった大字上空で旋回、上昇、降下といった曲芸飛行を見せた後、
小学校の校庭に彼のしたためた遺書を投下して、飛行場へと消えた。
弟の方がこの一部始終を見ていて、曲芸飛行の様子を教えてくれたが、その飛行の意味は分かっていないようであった。
飛行機、特に大戦中のレシプロ機はとてもデリケートな乗り物で、華やかなイメージとは裏腹に、
常に危険と隣り合わせの代物であった。
急降下爆撃を念頭に置かれて開発された99双軽も、降下速度を見誤れば引き起こしの際に粉々に吹き飛ぶし、
戦闘機に比べて機体が重い爆撃機は旋回や上昇での失速も激しい。
恐らく何時間にも及ぶ訓練の中で、彼は自分と機体を極限まで追い詰め、その操縦スキルを手に入れたのだろう。
恐らく、故郷上空で見せた急降下で敵の車両や拠点に爆撃を加えたのだろう。
記録は残っていないが、さんざんっぱら旧式化した双発の爆撃機である。
戦果は無かったろう。
享年19歳。
ICJとかユネスコの件でまたぞろ「松岡洋右の再来か!!!!」と腐れ外交官の代名詞みたいな扱いを受けている松岡洋右さん。
しかし、彼はゴリゴリの右派とはいえ、「なるべくなら国連脱退したくない派」でした。連盟を脱退し、国際秩序へ挑戦状をつきつけるヤバさは認識していたのです。
国連を説得できないなら脱退しろ、と言ってきたのは本国政府のほうで、
アメリカに遊学した経験を持つ松岡さんにとっては「無茶振りにもほどがあるだろ」だったらしいですが、
そこはホモ・シャチクンスである日本人であるかなしさ、負け戦とわかっていながら国連へ赴きます。
で、一縷未満の望みに賭けて国連で大演説を行うわけですが、そもそもの満州国擁護からして無理筋もいいところなのですから
いくら弁舌さわやかな松岡さんも無理なものは無理。無茶振りやっといて、やっぱりダメした、からの暴発。このへん古きよき日本の惨敗パターンをなぞってますね(rf. 沖縄戦)。
彼も「全権」と名前はついてるとはいえ、実態としては本国の使い走り。大臣でもなければ現役の外務官でもない。「A(無理な命令)ができないならB(脱退)をやれ」という指示に従うしかありません。ここで本国に楯突いたらそれこそ独断です。
(無茶振りとはいえ)使命を果たせず、日本を孤立化への道に導いてしまった松岡の挫折感は相当なものでした。
彼が肩を落として議場を退場する様子を「堂々退場す」と書き立てたのは新聞でした。
国民は帰国した松岡を旗振って出迎えます。外交的には大失敗を犯した人物を立派な外交官として歓迎したのです。
「国益」と「浪花節」を取り違える国民性はこのころから変わっていません。
落ち込んで帰ってきた松岡さんでしたが、英雄として出迎えくれる国民を見てすっかり気をよくします。その後、右派から更に針を倒してファシスト的な方向へ進みます。
国連脱退により軍部のおぼえよろしきを得ていたこともあって、40年には外務大臣に就任。
香港工作など平行していわゆる三国同盟を推進するものの、そのドイツとの同盟が仇となって日米関係は悪化。ついには真珠湾へと至ります。
ところが、何をどうしたらそういう思考になるのかしりませんが、松岡さんはまさかアメリカと戦争になるとは考えていなかったらしい。日米が開戦すると男松岡は「陛下や国民に申し訳のしようがない」と泣きながら辞任。アメリカとの国力差を認識していたのはアメリカ帰りらしい慧眼でしたが、いかんせんその他が無能すぎました。その後、終戦までの四年はあんまりぱっとしない生活を送ります。
終戦後はA級戦犯として裁かれ、本人も死刑になる気まんまんで望みますが、ここでも彼らしいヘタレぶりを発揮。持病の結核が悪化し、法廷から「まあとりあえず裁判とか後でいいから病院いけよ」と病院送りにされ、そのまま不帰の人となります。享年66歳。最後まで、なんだか咬み合わない人でした。
享年は60歳です。
(北斗晶さんと同じ症状。頑張って欲しいです)
死にゆく人に生き残る人がしてあげられることは、
一体何がベストなのでしょうか。
二ヶ月ほど生きました。
一ヶ月を過ぎた辺りでも何とか元気だったので、
もしかしたら治るのかな?と思い始めました。
そんなある日、母が家に帰りたいと言いました。
久しぶりに家に帰って色々家のことをやりたいと。
私は言いました。体調は安定していないし、
無理したら治るものも治らないよ、と。
母は珍しく声を荒げ、どうしても帰りたいの!
と主張しました。ですが私も譲れません。
そんなのは嫌だと。
ただ、それに加えて、母が家に帰ることが、
まるで終わりに向かってしまうような気もして。
怖くて、
母の主張を聞き入れてあげられませんでした。
結局家に戻ることはありませんでした。
その次の日以降、
母の具合は徐々に悪くなりました。
喋ったり笑顔を見せてくれていたのに、
日に日に喋らず、顔色も悪くなり…。
悲しくて、
ただ泣きました。
何で帰らせてあげなかったんだ。
やり残したことがあったんじゃないか。
その結果、もしかしたら気力が戻って、
病状が良くなったんじゃないか。
私があそこで母の帰宅を認められなかったのは、
その時、
それ以外の選択肢が考えられなかったのです。
でも…。
私はあの時どうすれば良かったのか、
正解は今でも分かりません。
家族の、親の死なんてきっと、
余命宣告を受けたって、うまくいけば、
もしかしたら助かるんじゃないか、
と思いたいのです。
きっと母はもう長くないことを、
だから帰りたいと。
ただ身辺整理のために帰りたいとは言えず、
こんなことになってしまいました。
でも、そんなこと言えるはずがないことは、
子供の私が、
一番分かってあげなきゃならなかったんです。
分かってあげたかった。
やりたいことをやることの努力をされていました。
でも、その裏には家族の、
私が母に対してしてしまったことが、
間違っていたとは決して思っていません。
ただ、ただ悔いが残るだけです。
ですが、もし、次に同じような機会があるならば、
たとえ少し間違っていても、
なかなか心を開かないし来客に吠えまくるし困った子だった。
それでも年に数回しか会わない自分には吠えないし、やたらお父さんには服従してた。
犬らしい犬だった。
この子は、もう二度と犬を飼いたくないなくすと悲しいからとかたくなだった母から許可を得て父が飼い出した犬だった。
田舎ゆえ、昔は犬ならどこかしらからツテでもらうものだったが近年そういったことはしなくなっていた。
飼い主がいいかげんだった避妊や首輪での管理を見直し徹底したためだと思われる。うちもだ。
なのでペットショップのツテから巡ってきた子犬をもらったのが、この犬だった。
うちではそれまでに累計3匹犬を飼っていた。
いい加減な放し飼いとかいい加減な散歩とか、田舎あるあるできっかけがあったため前々任の犬が産んだ。
それが前任だ。
前任の犬はひたすらおとなしく甘えん坊で利口だった。
コリーと混ざりまくった雑種、という感じがたまらなく愛嬌のある顔で美人だった。
母はその前任と長い時間を共に過ごしていた。
あぁあの前任の犬のほうがいいといった内容をこぼしていた。
親元を離れて犬のことに干渉のない自分にはとくにフォローのしようがなかった。
それでも母は、当然のように世話をし散歩をしエサをやり。寒い日には毛布をくるっとして防寒力の高そうななにかを作って犬小屋にいれていた。
そして昨日母から「犬が死んだ」と全く別件のメールの返信で来た。
たった一言だったしそれ以上聞かなかったけど。
また母は大切なものを失った悲しみに暮れていることは分かった。
去年から体調悪くしてて、通院してたが治る見込みはなかったから延命治療のみやってた。
色々悪くしてたからなにが原因とは一概に言いがたいけど、腎不全。
どうしようもなかった。
お世辞にもきれいな猫じゃなかったけど、すごく可愛い子だった。
今書いてて涙が溢れてきた。ついでに雨も降ってきやがった。
去年病院に駆け込んだ時から覚悟してたつもりだけどやっぱりダメだ。つらすぎる。
一般的には長生きしたほうだと思うけど、後悔の思いばかりこみ上げてくる。
一緒にもらってきたもう一匹はまだ元気だけど、何年もしないうちにまた同じ思いをしなければならないのか。
だが全力で面倒見てやる。
猫飼ってる奴は絶対に定期健診受けさせろ。後悔するぞ。
先日親類の墓参りに行った。
新しめの霊園で、その親類の墓は
自分にとっては一般的な「○○家代々の墓」ってタイプのだったんだけど
「絆」とか「感謝」とか書いてあるのをちらほら見かけて面食らう
誰がこんな墓にするんだろう。洋式墓ってなんかモダンでいい感じ
それにしたって「絆」とか「感謝」って、J-POPじゃないんだし
今どきは墓までキラキラかよと、正直心のなかで思った。
今まで「死」という現象を全く意識してなかったんじゃないのかなあと。
で、突然我が子の死に対峙して色々悩んで泣いて悔いて責めてとか色々あったんだろうと、
でも、主に時間的な、次に予算的な数々の妥協を受け入れていく中で
どこにでもある何者でもない感じで切ない
我が子にオリジナリティのある命名をしたつもりが
常日頃から思っていたけど、墓というのも
とても恐ろしい。
自分の死んだ後ってのも気になるんだけど
それよりもまず、親しい人たちを今後どう見送るべきかってのを
っていうか割れた基板の修理なんてできるか。
ここ1年ほどで『2GBメモリ』と『128GB SSD』を増設・換装したマシンだったので悔しいです。
とりあえず使えそうなパーツ(メモリ、SSD、ネジ、キーボード)を取りました。
残った残骸はヤフオクでジャンク品として売る……こともできなそうだったので止む無く廃棄。
メインPCが死んだので新しいのを買いたいところですが、部屋の片隅で独りチラチラと様子を窺っているマシンがあります。
Chromebook「僕を使ってよ!」
ChromebookをメインPCに使っているのは米帝の小学生だけです。
とても実用に耐え得るとは思えません。
しかし小雨降る中、捨て置かれた雨傘の下で震える子犬のような目で私を見つめてきます。
それに新しいPCを買うのは平たく言っておカネがかかります。平たく言わなくても懐が寒くなります。安いものでも3万円。ちなみにうちの家賃も3万です。
Microsoftとともに齢を重ねてきた私としては断腸の思いです。
しかしChromebookが健在で、懐に余裕ができるまでは勝ち馬Google先生に乗っかっていくことになるでしょう。
なお、私の密林ほしい物リストはこれ( http://goo.gl/1sYWcC )です。
買ってくれてもいいんですよ?
彼は酒と煙草とパチンコとセックスとジャスコと家族を愛し、そのために死んだ。脳溢血だった。享年35歳。自分も死ぬ歳なのだな、と今更ながらに思い知った。
彼はスーパーの鮮魚担当で毎日朝3時から夕方3時まで働き、その後6時まで酒を飲む。「ただで腹いっぱいだ」とスーパーづとめを楽しんでいた。鮮魚の仕入れから店に出すまですべてをこなしていた。
体重は120キロを超えていた。「まだメタボリック診断の歳じゃない」と笑っていたのを思い出す。その歳まで生きなかったじゃんかよ……。
ひいて自分を省みる。大学進学と同時に上京し、院を出てSI屋に入った。救われない上司と救ってくれる同僚、どうしようもない営業と客に囲まれて、毎日毎日が限界だ。今日も22時まで働いた。連休中は終電じゃないから早いと思えるくらいに毒された毎日を過ごしている。体重は平均をはるかに下回る。もう一日一食、昼だけだ。一人で昼を食べるのももう10年だ。働く前からこれは変わらないけどさ。彼とは違った病気で死ぬのだろう、と今回のことでぼんやり思った。誰が僕の死体を見つけてくれるのだろう。彼は仕事中に倒れたようだ。大勢の中で死ぬのなら働いている途中に限る。不謹慎ながらそう思った。自宅で死ぬなんて、誰が見つけてくれるのだろう。
だきまくらを買う勇気はないけれど、もし、「ただいま」に反応して「おかえり」と言ってくれる人形が出たら買いそうだ。
今日も誰もいない部屋に「ただいま」。
11 :卵の名無しさん:04/01/26 10:55 ID:QxfYqAlS
そんで、つつましくしてるとケチだと思われるし。
12 :卵の名無しさん:04/01/26 11:32 ID:rkVwCccw
風呂もろくに入らなかったらしい。
15 :卵の名無しさん:04/01/26 11:44 ID:cmxYjD42
親父が3代目
兄と弟は進学校
落ちたらプロボクサーになろうと考えていたが
親族が家に来るたびに
「将来はお医者さんかなー?」
マジでぶち殺そうかと思ってた
19 :1 ◆fSAb5cRqRI :04/01/26 15:37 ID:nKt4UP2E
>>15
超わかる超わかる
私は父は二代目。私は進学校へ。しかし挫折、中退。下の子が今進学校でトップ。
それまでは親戚とか知人とかさ『将来はお医者様かな?』とか言ってたけど、進学校に行っても父を見てたら医者になりたいと思った事は一度もない。
んで中退したら親戚ん家行く事なくなった。近所の目とかあるし私は臭い物に蓋状態。それまで順調な道を歩んでた私が崩れる様を明らかに喜んでる近所のばばぁとかいたし、いるし。
てかやっぱり同じ事考えてた人いたんだなぁ。
いつまでも金持ちと思われるのも確かにアレだよね。小泉内閣から行政変わって医者も前より稼げてないんだよー!!
確かに得なのは風邪ひいてもただで治療して貰えるからね。怪我でも。
父は尊敬してますが、早死にしそうで心配。祖父が医者で早死にしたから。
………メンヘラーも多いのかな…
73 :おいは精神科医でごわす(^^;笑):04/01/28 12:32 ID:Zi1EEEHH
なんか身内に医者がたくさんいたから、高校卒業時何気なく医学部を受けました。
他の道はあまり考えなかったね。でも今は少し後悔してるわ。
卒業の時には、身内のものが誰もやっていなかった今の科に入りました。
医者の子はそれなりに苦労しているとおもうよ。医学部に行かなかったら、周囲か
らなぜ?と言う形でみられるし。いったらいったで、親族の知り合いの医者からは
◎◎の息子さんという形でみられるから、そのプレッシャーはきついよ。
89 :卵の名無しさん:04/02/01 03:49 ID:tU1HHKfK
父と母が医者。小学校からずっと公立に通ったけど楽しくやってた。
最近、中学時代仲良かった子に、当てつけのように嫌味を言われてしまって
後になってから、その子が医者の家にすごく憧れてたとわかった。
だから自分と仲良くしてた面もあったんだと気づいて尚更ショック受けた。
思い返してみて、自分と同じような状況の友達って一人もいなかった。
なんかそれに気づいた時さみしかったー。人付き合い嫌になっちゃった。
137 :卵の名無しさん:04/02/04 00:27 ID:aAw30SZE
実家は開業医だが、いたって質素だし、普通に厳しくしつけられた。
父も母も地味で普通、でも
だから、人のねたみを買わないように振る舞う癖がもう身についている。
医者の奥さんでこれ見よがしに威張って気取る人を身近にみて、
カルチャーショックだった。本人は玉の輿気分みたいだけど。。。
みっともない、、、
150 :卵の名無しさん:04/02/04 13:15 ID:7T6tQXj3
父・母ともに医者で、指定校推薦で医学部に進学する事を薦められていた。
「これからは医者も厳しい時代だし、女の子なのだから尚更向かない」という
理由?で止めるように言われた。私大に進学したけど
自分のやりたい事がさっぱり見えない。それ以来鬱ぽくなってしまった。
一人だけ「自由に生きていいよ」といわれると、見捨てられた気分だったな。
273 :卵の名無しさん:04/02/10 15:37 ID:XafxB9uo
医者の子ってだけで、親戚や近所は口を揃えて「将来はお医者さん
だよねー」と子供だった俺に言ってきた。
こともあった。
406 :卵の名無しさん:04/02/21 22:29 ID:RPtawQCp
開業医の長男に生まれ文系行くといったら村八分。脅迫されて一浪して今年旧設私立合格。私立なんて恥ずかしいと親が泣く。…もうどうでもいいや……
414 :卵の名無しさん:04/02/22 02:34 ID:w+jdgvEx
かなりのプライド持ってる。ほんとに苦労して憧れてなったんだと思う。
そのへん私立出身だったり、二代目以降の人だと余裕もあるのだろうな。
状況として>>406さんに近いかも。医者以外は仕事じゃない、くらいの勢い。
そうやって育てられちゃうと、いざ医者になれなかった時に辛いんだよね。
自分は女で逃げ道があったけど、男の人、それも長男だったりすると
肩の荷も重いだろうな。
この手のスレは絶対に変なやつが沸いてくる
http://anond.hatelabo.jp/20110725004759
おれの弟は生まれながらの重度のそれで言葉も解せず寝たきりの状態だったが、おれが中学のときに何の前兆もなく死んだ。享年12歳。
そういう子をもつ家庭の負担を知っているから、生まれる前に流す人のことは理解できる。
むしろその苦労を知っていながら、それを回避しようとする事を非難する人の気がしれない。同じ苦労を味わえという呪詛か。
まぁしかしこういう人って愚かな衆生に同情しない上に愚民扱いだからおもしろい。人をバカ扱いして近寄ってくるのは、同業者か、バカ扱いされたい奴隷だけだ。
16歳で初めて東京へ遊学、初め漢学を次に哲学を志して遂に大学予備門に入学、東京帝国大学では国文科に入り、二ヵ年の修行で病気のために退学した。居士は大学で修める学科が居士の志す所と没交渉のものが多いからというのを退学の一理由としているけれども、勿論病気ということもその退学原因の重大なものであった。
退学が病気に因る如く、居士の事業また病気によるものが多い。その俳句研究を始めたのは喀血後明治21、2年頃からである。 「俳句を研究せねば、足利以来の日本文学とその思想は到底鮮明することは出来ない」 とは、その頃居士が他に語る口癖であったが、斯く考えることもまた病身ということが手伝って力あるものである。そうして24歳より俳句の復興革新に志し僅々5年29歳の頃には略ぼその大業を成就するに近くなったのである。
次に30歳頃から和歌の革新を思い立ち、「紀貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ歌集に有之候」という当時としては歌壇の反逆児としか思えない畏る可く宣戦の言葉を放って健闘すること3年有余、その34歳の頃には既に速くも歌壇一千年の永き惰眠を覚醒し、写生趣味による真実味と自然味とを和歌に注入して以て殿上文学たる和歌を地下の書生学徒の手に移したのであった。
次で文章の革新をも思い立ち、写生趣味を加えた言文一致の文を発表し、真実を自然のままに叙写するのでなければ、到底永遠の生命ある文章を得べからざることを称道し、所謂写生文なる一派の文を興すに至ったのが、明治32年頃からその晩年たる35年頃までの活動により成就せられたのであった。漱石の猫が生まれたのもまた実に子規居士の造った揺籃に於てしたのである。
かような明治文学史上に最大の意義ある事業を為す傍ら、明治24年頃から、俳句の分類だの、俳家全集などの編著にも精力を注がれた。
20歳喀血し、30歳脊髄を冒されて、腰は全く立たず、カリエスは開口して漏膿し、痛苦を伴った。30歳の頃以後は年百年中37度ないし39度くらいの体温を干満した。生まれて虚弱、13歳より5、6年僅かに小康を得、そうして盛年常に病魔に冒されて以て一生を終わった。居士は畢竟病を以て終始したものである。そうして享年僅かに36歳、明治35年9月19日示寂せられたのである。
寒川鼠骨「子規居士小伝」より
欧米の新聞社では、死亡記事部を設けて日頃から著名人についての経歴などの情報を収集し、各著名人ごとに死亡記事の準備稿を作成してその死去に備えているのが一般的とのことで、当然死亡記事を専門に書く記者も存在するそうです。死亡記事の多くは、死因や享年などの具体的な情報だけを列挙した無味乾燥なものではなく、その人の人生を振り返り簡潔かつ文学的にまとめた職人芸のようなもので、時には「作品」と呼びたいような読み応えのある死亡記事も登場します。
死亡記事部に配属された記者は、毎日のように死亡記事を執筆し数え切れないほどの人の死を見つめることにより物の見方や人生に対するスタンスも変わってくるのではないかと思われますが、配属3年半で800以上の死亡記事を執筆してきたボストン・グローブ紙の死亡記事専門記者Bryan Marquard氏によって、仕事を通じて得た人生の心得6つが明かされています。
詳細は以下から。
6 life lessons: from the dead - Boston.com
その1:人に優しくすること。
単純なことのようですが、「自分が死んだあと、人の記憶にどう残るか」という視点で「優しさ」について考える機会はなかなか無いのではないでしょうか?人生においてどんな偉業を達成した人でも、生前の人に対する接し方は、死後人々の記憶にどう残るかに大きく影響するとのことです。
その2:意地悪をしない。
死亡記事部に配属されて数カ月後にMarquard氏は非常に長生きした女性の家族にインタビューする機会があったのですが、成人した子どもの一人に「お母さんは天寿をまっとうされましたね」と話しかけると、「ああ。ボストン・イタリアンだったからさ。ボストンのイタリア系は殺しても死なないんだ」と切り返されたそうです。母を亡くしたばかりの子どもたちの言葉が通常予想されるような反応と違ったのは、どうやら生前お母さんがいわゆる「意地悪ばあさん」のような人となりだったためらしく、結果的に子どもたちのコメントの大部分は記事には引用されず、長い人生の割にとても短い死亡記事となってしまったそうです。
その3:長生きしたいなら、若いうちにリタイアすること。
親は人生の教訓を子に伝えたがるものですが、これもその一つで、Alfred Larkin Sr.氏が息子で元ボストン・グローブ副編集長のマイケル氏に伝えたもの。家族が集まった時にマイケル氏を脇へ引っ張り、「僕からのアドバイスは、可能な限り早くリタイアすることだ。この10年で、その前の50年分を全部合わせたより多く、楽しいことがあった」と伝えたそうです。Larkin氏は隠居生活を満喫し、92歳まで生きました。
その4:もしくは、生涯リタイアしないこと。
アーティストのPolly Thayer Starrさんは赤ん坊のころ、鉛筆を持てるようになるや否や絵を描きはじめ、緑内障と加齢黄斑変性により視力を失いつつあった80代のころにもまだ素晴らしい作品を描いていたとのこと。視力を失った後は、散歩中に友人たちが読み上げる詩を記憶し、常にクリエイティブであることにより、101年間の充実した人生を送ったそうです。Starrさんは彼女をかきたてる芸術的情熱について、「天の猟犬(Hound of Heaven)なのよ。いつも追いかけてくるの」とスミソニアン協会のインタビューで笑い混じりに語ったそうです。
その5:金持ちである必要はない、家すら持たなくてもいい。
Harold Madison Jr.氏、通称「Mr. Butch」はボストン大学付近のKenmore Square一帯やハーバード・ビジネススクールを擁するAllstonのハーバード・アベニューで30年間にわたり路上生活をし、学生を中心とした数万人の人々に親しまれている有名人だったそうです。飲み過ぎて酔っぱらった時には少し怖がられてもいたようですが、ファンによりWikipediaに項目が作られたり、MySpaceにページが作られ、YouTube に動画が投稿されるほどの人気者でした。2007年に交通事故により56歳で亡くなった時には盛大に追悼パレードが行われたそうです。
その6:今、行動に移すこと。
「800人もの死亡記事を書いていると、山の上で一人黙想する仙人のように、人生を変えるような深い洞察を得られるのではないかと人々は考えます。人生における答えのない深い問いに対する回答が得られたということはありませんが、確かにある意味人生が変わったかもしれません」と語るMarquard氏。「死について頻繁に考えるおかげで、去年、もし自分が父と同じ寿命を持っているのなら、残りあと25年だということに気付きました。そのひらめきは、ボストン都市圏からバーモント州の小さな町へと引っ越すきっかけとなりました。ボストンへの通勤時間は長いですが、今住んでいる町が大好きです。前々からやりたいと思っていたことを、いつまでも後回しにすべきではありません。死亡記事記者として自信を持って言える教訓です」
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091220_memento_mori/
6/25 マイケル・ジャクソン(歌手) ※享年50、他殺