「享年」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 享年とは

2009-05-27

http://anond.hatelabo.jp/20090527133719

さっき息を引き取ったとのこと、享年10歳でした。

食事も喉につかえたような感じだったけども、訃報を聞いたらずーんと胃に重いものが入ったようだ。正直辛い。

2009-05-16

マスゴミ馬鹿さかげん

最近ようやく享年○“歳”と書く馬鹿が減ってきた。

最近ようやく「新年あけましておめでとう」という馬鹿を(時期的に)見なくなったと思ったら、

お天気キャスター(笑)が「五月晴れ」と連呼するシーズンになった。

まぁ視聴者なんて可愛ければパープリンでも、むしろオッケーなのかも知れないけど、

馬鹿キャラってヘキサゴンだけじゃねーだろ。

もうテレビって低脳児の見せ物だな。

2009-04-18

山口登(二代目山口組組長)

山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年1月大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年1月山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区新町神戸中央卸売市場建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組大島組と対立した。同年7月神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。

溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房2002年ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房2006年ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店徳間文庫>、1982年ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年1月須磨料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場開業した。山口組は中央卸売市場利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年4月山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年4月山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長吉本せいと会い、吉本興業東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せい東京新橋演舞場大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分東京にいる間は、浪曲師広沢虎造吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造吉本興業の専属にすることと、広沢虎造マネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオンピストン堀口挑戦者・ジョー・イーグル東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋スポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年1月27日国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグル東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸部長となった。同年7月広沢虎造吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日浅草浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日山口登は東京浅草浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年10月4日山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。

2009-04-09

葬式饅頭

ある方のお葬式に行って参りました。

その方の好きな曲が流れて、どこか心温まる式でありました。

享年72歳でありました。

わたくしと全く同じ年に生まれ、全く同じに歳を取り、

そして来年からはわたくしばかりが歳を取るなんて、とても いじわる。

今年頂いた年賀状に、体調が悪く病院での療養を繰り返している旨が書かれておりまして、

わたくしは、あの方に出してしまった年賀状をずっと悔いておりました。

いつも猛々しく明瞭に笑っていたあの方がご病気なんて、わたくしには考えもつかずに、

あの方に当ててしまった思慮のない手紙など、誰かどうか破り捨てて届けずにいてほしいとまで願いました。

ただ、わたくしはもう、そんな浅はかな手紙のやり取りしかできないほどに、

あの方のことを、何も知らなくなっていたのです。

去年交わした年賀状では、山登りに励むあの方の近況が綴られていたから、

今年もそのように過ごされていると思い込んでおりました。

わたくしは、愛しておりました。

静かに、細く、長く、愛しておりましたよ。

あの方と出遭って50年以上も過ぎ、少し可笑しくなってしまうのですが、

本当にこんなに長くも、思い続けてしまいました。

あの方に、そんな戯言を告げたこともありました。

手紙で、言葉で、態度で、折りに触れて。

莫迦だと仰って、取り合っても頂けませんでした。

それでも、あの方の「莫迦だ」と笑う表情がいとおしく、わたくしは何度か莫迦となりました。

莫迦ゆえに、あの方が結婚をされたとき、わたくしは死のうかと思いました。

でも死んでしまったら、あの方がどのように生きていくのか知れなくなってしまうので、

わたくしは遠くで、生きていくことを決めました。

遠くでも、必死に聞き耳を欹てて、あの方の近況を動向を活躍を拾いながら、

何通かの手紙と、たま電話を、数えるくらいですが、繰り返してまいりました。

近年のやりとりは、もっぱら年賀はがきのみとなっておりました。

それでもわたくしは、まだ数回はあの方の前に立てると信じておりました。

よもや、あの方のお葬式にゆく日など来るとは思いませんでした。

ただ、お互い齢72。

身近に死の気配は感じておりました。

わたくしは、わたくしの葬儀にあの方が来る日を待ち望んでおりました。

わたくしの葬儀で、わたくしのためにあの方が一粒でも泣いてくれたら、

わたくしの人生は十分であったと思えたでしょう。

そんな浅はかな夢をあの方の遺影を眺めながら、そっと謳いました。

式の終わりにはその遺影を抱いた奥様であろう方が、息子達に抱えられ泣きくずれておりました。

わたくしもその遺影を抱いてみたかった。

でもわたくしは、できるだけ真っ直ぐに式に参加いたしました。

棺桶のあの方のお顔をしっかりと覗き、手を合わさせて頂きました。

あの方のお式で、「泣く」などという行為をしてしまったら、

わたくしの愛は、今嘆きくれている親族やご友人の方々と同じになってしまうから、

わたくしは泣きませんでした。

思いつきもいたしませんでした。

ただ帰りの列車の中で、お饅頭の入った箱を抱きながら、わたくしは虚しくてなりませんでした。

あの方との年月が、あの方の死が、お饅頭になって手元に残ってしまった。

わたくしとあの方の50年以上の関係は、たった二つのお饅頭になってしまったのですから。

わたくしの人生は、一体なんだったというのでしょう。

列車からは丁度よい頃合いの桜が見えました。

あの方がもう見ない桜を見ながら、お饅頭の箱の蓋を開け、みっともなくも その一つを頬張りました。

こんな味しかしないあの方の死を、心より悼みながら。

こんな味しかしないわたくしの生を、心より痛みながら。

それでも不思議と笑みがこぼれてしまうのです。

あの方を失ったこの世界で、わたくしはようやく辻褄が合ってゆくのです。

やっと、やっと、世界中で一番愛している人が誰であるかを声に出せる日がきたのです。

わたくしは玄関で塩を巻くのも忘れて居間に飛び込みました。

そして長年連れ添ってきた背に言いました。

「心より愛しています、あなた」

あなたが無邪気にもう片方のお饅頭を頬張る姿を見つめながら、

私の人生も、あの方の人生も一体なんだったのでしょうと思いました。

数分後、食べきられてしまったお饅頭に、

そう、きっとお饅頭みたいなものなのだろうと納得いたしました。

一つは自分のために。

一つは誰かのために

2009-01-30

祖父母と養子縁組で悩んでいます。

苗字を変えるか変えないべきかで悩んでいます。

私は二十歳で学生です。美大に通っています。

将来については今はまだ具体的に目標が定められない状態ですが、やりたいこともやれていて毎日充実しています。

先日 成人式を迎え、母とお酒を楽しく飲んでいたときに、

苗字を変え、戸籍母親の両親の養子になってほしい、と母から言われました。

私が中学生のときから再三言われていたことですが、なかなか決められずこの年齢まで引きずっていました。

変える理由としては

母親家系を継ぐ者がおらず、家を絶やしたくないため」ということですが

少し私にも把握しきれいてない問題があるようです。

もともと母には弟がいて、弟が家を継ぐはずでした。

しかし弟は何らかの理由で自殺享年19歳だったと聞いています。

この話を聞いたのは3年前、私が高校2年の時でした。それまで母は一人っ子だと聞かされていました。

弟が他界したのち、母は父と見合いをし結婚を決めたのですが

婿養子としては迎えなかったようです。(このあたりにもひと悶着あるようなのですが詳細は隠されたままです)

2年のちに私が産まれましたが、その時には母の父と、私の父の仲がとても悪く、

私が5歳になるまで父は一人でアパート住まいだったそうです。

(去年の春に父親から別々に暮らしていたと聞かされるまで、わたしはそのことを知りませんでした。)

その後妹が産まれ、 私と妹と両親は母親実家から離れ、すぐ隣の町に引っ越し今に至ります。

母親実家には母の父と母がいまも二人で暮らしています。

母の父はとても家を重んずる人らしいのですが(しかし私には母の家系の何を重んじているのかわからないのです)今年で80歳を迎え、だいぶ体力も消耗してきています。

私の父が婿養子になるのを拒んだために、母の家が途絶えるのもそう遠くはない話だと思います。

祖父は私には直接なにも言いませんが、そのことがとても辛いらしく、

母はなんとか祖父が元気なうちに、私に養子に入ってもらいたいのだそうです。

一方この話を父親とすると、「そんなことはしなくていい」の一点張りです。

細かい理由を聞かせてはもらえませんが、家系が途切れるのは祖父の落ち度であり、孫の私には関係ないと言い張ります。

(どうも母の弟が亡くなったことと祖父は深いかかわりがあるみたいなのですが、何も教えてもらえません)

また、この話は今年で15歳になるわたしの妹には全くしていません。

妹が成長した時に(今の年齢でも十分知っていてもいいと思いますが)この話を突然するのはなんだか酷に思います。

母からもう一度懇願された夜は、気がめいるほど母の辛さもわかりました。

泣きじゃくる母になんと言葉をかけてよいのかわからず、おろおろするばかりで、「変えるよ」と簡単にいうわけにもいかず

困ってしまったところ、感情的になった母に「もういい。ほんとになにも通じないのね、もう聞かなかったことにして頂戴」と言われ

さらに途方にくれました。

母には自分苗字を変えるという考えはないようですし

この問題について父と母と二人で議論すると喧嘩になって 収集がつかないままなのだそうです。

私は両親の仲をこじらすのも、祖母と祖父に過去の話を聞くのも、祖父が本当に私にしてほしいことは何なのか聞くのも

怖くてできません。

自分がどうしたらいいのか、世間一般ではこのような場合どうするのが主流なのか、自分では判断できません。

まだ自分自身、両親の過去や祖父母の過去について知らない部分もいっぱいあるのではないかとも思います。

ただ そのことで精神的にまいっている母を見るのは大変つらいです。

私が苗字を変えることで、母が弟を失ったことや家を継げなかったという苦悩から解放されるなら

変えてもいいかもしれないとも 思ったりもします。

2009-01-26

こりゃPTSDになったかもなあ

少し前に曾祖母が亡くなった。享年102歳。俺を含む親類縁者に見守られ、自宅の寝室で眠るように逝った。今時珍しい大往生だったと言えるだろう。通夜、葬儀と滞りなく終わったが、問題はその後だった。火葬場での出来事だ。

祖母のお骨を骨壺に収める際、何を思ったが従姉(お袋の姉の娘)が娘(小学一年生・俺からみれば「従姪」)をその場に立ち会わせたのだ。

俺と両親は「やめておいた方がいい」と事前に何度も告げたのだが、従姉夫婦はいっこうに聞き入れず、これから何が始まるのかもよく分かっていないであろう我が娘に「大丈夫だよね?」と尋ね、娘もそれに頷くばかりで結局押し切られてしまった。

何せ直前まで高温に晒されていた物体である。お骨のみならずそれを乗せている台もかろうじて触れられる程度に熱を持っており、それほど広くない締め切った部屋には独特の熱気が充満している。そして部屋の中央には紛れもない本物の人骨。いくらなんでも小学一年生の女の子にはキツいシチュエーションだろうに。

案の定、従姪はお骨を壺に収める事なく体調を崩し退室した。顔は真っ青で今にも吐きそうな気配。従姉(従姪の母親)と伯母夫婦(従姪の祖父母・お袋の姉夫婦)はオロオロするばかり。「だから言わんこっちゃない」とお袋は伯母を睨みつつ、従姪の背中をさすりながら俺に「すぐに駐車場に行って、クルマに置いてるあんたの任天堂DS持ってきて」と指示。

「こういう時は違う事をさせて気を紛らわせるのが良い」というのがお袋の経験らしい。最初は拒んでいた従姪だったが、火葬場を引き上げる時はゲームに熱中していたようだった。「後で返させるから、しばらく貸しといてやっといてよ」というお袋の要請を俺も受諾した。

それから2ヶ月ほどが経過した。伯母から電話があった。「あれから孫(従姪)がトラウマになったみたいで…」こぼしていたのを、お袋がたっぷりと説教したらしい。漫画やアニメのデフォルメされた骸骨や幽霊の類にも極度におびえるようになったそうだ。テレビで唐突に葬式のシーンが流れるだけで嘔吐する時もあるそうだ。貸したDSはまだ戻ってきていない。

追記

なんだかトラバもブクマ米も「この程度で何言ってるんだ」的な物ばかりで驚いた。みんな、お骨を拾って何ヶ月も悪夢にさいなまれたり発作的に嘔吐したりしながら成長していったのか・・・。19歳になるまで身近な人間の不幸に遭遇しなかった俺にはちょっと想像しづらい経験だ。

追記(2)

続柄の使い方が間違ってるっぽいんで修正したよ。

2008-12-13

宗教に興味がない人でも分かる仏教入門

最初に言っておくが、私はなんら仏教関係ないし信者でもない。ましてやキリスト教イスラム教新興宗教にも全く興味が無い。ただ仏教哲学には納得する部分が多いし人生の参考になるので簡単にまとめたいと思う。だから全く興味がない人や食わず嫌いの人に触りだけでもかじって欲しいと思い書きます。

そもそも現代の人は私を含めて宗教と聞くと胡散臭い洗脳など怪しいイメージが強いから拒否反応が自動的に働くと思います。しかし、そういうイメージがついたのは仏教キリスト教適当に模写し都合の良いように作りあげた新興宗教カルト教団のことを言います。例えばオウム真理教なんか日本代表である!つまり、仏教は胡散臭くも無く怪しくも無いブッタが一生をかけて考え抜いた精神世界の教えです。

ちなみに私は仏教本に関して、自己啓発本の一種としか考えていません。つまり仏教本を読めばモチベーションが向上する。ただそれだけです。しかし、知っているのと知らないとではこれからの人生生き方価値観は大違いだと思います。後、仏教と聞いて、お経なり墓参りや、お坊さんやお葬式など思い浮かぶと思うが、面白くないので触れません。私が興味あるのはブッタという哲学者が考えた知識です。

できるだけ専門用語は使わずまとめていきたいと思います。まず仏教といえば仏(ほとけ)様がイメージできますが、決して仏像の仏ではありません。では仏とは何かというと、悟った者のことを示します。

仏=ブッダ

ブッダとは「ブッダ」という名前ではなく悟った人のことを言います。それで「悟る」とはサンスクリット語でブッドゥッといい、その過去分詞がブッダ、つまり悟った人なのですね。とりあえず、ふんふんと頷いといて下さいwでは仏教を始めた人は誰か?ブッダと呼ばれるものは誰か?

ゴータマ・シッダールタ」  この人がブッダであります。ちなみに仏教インドから広まったものです。これで分かるように仏は神みたいな絶対的存在ではなく、ただの人間であり、ゴータマ・シッダールタという悟りを極めた哲学者であります。この人の生きた時期は具体的には分かっていません。なぜならその当時のインド人に「いつ」の概念がなかったからなのです。だいたい紀元前5世紀くらいの人と言われていて、生まれた場所はルンビニーという所。裕福な生活をしていて結婚して男児もいて普通の生活をしていました。しかし、29歳のときに家族を捨てて城から離れ修行者として旅立つことに。つまり出家ですね。それから苦行を続け、やがてナイランジャナーの河のほとりで瞑想を開始します。そして、35歳で悟ったと言います。それからたくさんの弟子をかかえて享年80歳という長命で姿を消すことになります。それで亡くなってから、当時の弟子たちがブッダの教えで会議を行い文章として作ったのが「経典」であります。

まず仏教キーワードは「縁起」”えんぎ”。  是非この言葉だけは覚えて欲しいと思います。

縁起」とは人や事柄などが関係しあってお互いを支えていることを言います。例えば、ここに40歳男性がいるとします。彼は妻にとっては夫であり、子から見れば父、彼の親からすれば子である。会社にいけば彼は課長であり、オーナーから見れば従業員である。つまり、自分存在とは情報によって作り出されたものであり、あなた自身多くの人々の関係、周囲にあるあらゆる物との関係において、今のあなた自身でいることができる。だから、最初からあなた自身が存在しているのではなく名前という情報があり、住所という情報があり、職業などがあってこそ自分がなりたつ。つまり、他人が自分存在を示してくれる。逆にいうとあなた自身も周りを支えていることになる。こういう関係性を仏教では「縁」と呼びます。

もうひとつ知ってほしいのは<「空」”くう”です。

「空」とはそこに見えてるものは実体がないと考えます。ちょっとややこしいが、普通は実体があるからこそ人やものが存在していると考える。しかし、仏教では現象にすぎないと考えます。簡単にいえば全て幻と考え、起きることや物、人生、人すら実体のない幻と解釈してしまう。バカらしいと思うかもしれないが、ちょっと待ってほしい。例えばテレビ画面やパソコンの画面、映画スクリーンを近くでよーく見てみると、小さい四角や丸の集合体であることは知ってますよね、知らない人はテレビ画面におデコをつけて見てほしい。すると小さいドットが繋がっている状態でひとつひとつがいろんな色に点滅しているただの光の集合体というのが分かります。つまり実体のない幻といえる。物や人も素粒子レベルで考えると、点滅しているにすぎない、だからあなたも私も幻と考えることができるということなのです。ちょっと分かりずらいが、「空」とはすべてが現象と考えると分かりやすいと思います。

もうひとつ例えを出します。皆様は普段から牛肉を食べますよね。これって食べた後にどうなるか知っていますか?そもそも、食べるものとは”アミノ酸”だとか””コラーゲン”みたいに色々な分子が集合してできているのが食物で、それを体内に入れた時に分子に分裂して体中に分子が散ればめられてたんぱく質に変わり栄養として吸収され破壊されて行くのですが、ここで問題なのが牛肉は牛であり、人間と同等の生物ということです。具体的に言いますと、牛肉は分子の集合体ですよね、ということは、牛も集合体ということになり、故に、人間も分子や原子の集合体ということになるのです。、だから、人間も実体がなく現象であり「空」であるというのが仏教という哲学なのです。

ちょっと分からなくなってきたと思いますが、この2つセットが仏教の基本なので、先入観を少し置いといてこういう考え方もあると思ってくれれば結構です。補足ですが、瞑想と言う言葉を聞いたことありますよね、洞窟の中とか誰もいない森の中で永遠瞑想という修行をする人たちのことですが。なぜ、できるかというと全てが幻と思っているからです。どこにいようとも何をしようといいというわけです。これが究極の空です。

ちょっと話がそれますが、巷では占い師の方が「あなたの前世武士」だとか、死ねば生まれ変わるだの言われることがありますが、仏教では輪廻転生はないと考えているし来世も前世存在しない、自我も空だと考えています。つまり、体がなくなっても魂は来世に蘇り繰り返すという概念はありえない(正式には分からない)しかし、一部では霊がいるとか神がいるとか、輪廻するとかいうのが信じられています。まあ信じる分だけならいいのですが、それに付け加えて出てくる概念が、この世で苦しめば苦しむほど来世でランクステージ)が上がるという考え方です。インドカースト制度がこれ、ランクステージ)の低い身分の人はこの世で自分を苦しめ相手も苦しめることを現実にします。つまり問題なのは現世で苦しめば来世でランクが上がるという概念が怖いのです。

例えば、電車の中で騒いでいる若者がいたとする、こいつは人に迷惑をかけていてこのままでは来世でランクステージ)が下がるのでかわいそうと思い、早い段階で苦しめて殺しちゃえという考え方になり、ナイフで刺してぐりぐり苦しめて殺してしまう。この考え方がオウム真理教の「ポアの思想」。

もうひとつ例えれば、映画館で隣の男性がポップコーンをボリボリ食べていて人に迷惑をかけているとする。すると、前にも言ったがそういう人は現世で苦しめて殺してあげる、そして「来世でランクステージ)を上げて楽しく暮らしてね。」って感じで平気で人をナイフでぐりぐりして殺してしまう。刺されている人が「痛いよ!」って言っても刺してる側は全てが「空」だと思っているから、「この世には実体がない幻なんだから痛くないでしょ、何言ってるの」ってなる。これがオウムの「ポアの思想」で宗教を悪いことに利用したスピリチュアルな考え方です。

怖い考え方のキーワードは3つ

  1、ランクがある(麻原は最高ランクみたいに)

  2、輪廻転生がある(来世や前世存在する)

  3、現世で苦しめば来世でランクが上がる概念

現在テレビで人気の○木数子はかわいいもので彼女はただのオカルト。怖いのはスピリチュアルの○原氏。輪廻ランクがありきと考え、しかも視聴率が良い番組で堂々とわけの分からないことを言っているので、このままいくとオウムみたいになりかねないと私は危惧します。

話を戻しますが、人間には煩悩がたくさんあります。代表的なのでは睡眠欲、食欲、性欲、物欲、などなど、これらの煩悩をなくしてしまうのが悟り、つまり全てが空と考える概念を「空観」”くうがん”といいます。その逆が「仮観」”けがん”。仮観は煩悩むき出しでお金も稼ぐだけ稼ぐし、あれも欲しいこれも欲しい、その為には戦争もする考え方。みんなが仮観の考えでは世界は滅びます。逆に「空観」もみんなが考えるとやる気もないし何もしない、食欲もないし睡眠欲もないからこれも世界が滅びます。

じゃあどうするの?

そこで仏教ではその間の「中観」”ちゅうがん”という概念存在します。では「中観」とは何か。まず全員が「仮観」の考えかたをすると欲望を限度なく追求するから結局戦争になり人類が滅びます。次に全員が「空観」の考え方だと全てが幻と思っているからボケーっとして誰にも迷惑かけないけど何も進歩しないからこれも滅亡する。しかも「空観」にカルマ思想が入ると他人に迷惑をかける最悪のことになります。

それではダメなので昔に「中観」という概念を考えたナーガールジュナという人がいます。「空観」と「仮観」の間の「中観」。さっきの例で言うと、ポップコーンを食べている人はボリボリと人に迷惑をかけているが、その男性彼女映画を見にきていて彼女と楽しむことや、彼女を楽しませるなどやること、役割ががあると考えます、つまりその男性は機能をもっていて、デートいう役割を果たしている。すると矛盾が発生して殺してはダメになる訳です。

ちょっと話が脱線しますが、ブッダ弟子ブッダに対して「神はいますか?」「生まれ変わりはありますか?」という質問をした。その時にブッダが「毒矢の例え」で答えたという。「毒矢の例え」とは一人のひとがどこからか飛んできた毒のついた矢が胸に突き刺ささって苦しんでいて、その時にどこから矢が打たれたのか、この毒の成分は何なのか、何メートル先からか、ベクトル計算するとなど考える前に矢を抜けよってこと。つまり、ブッタは「霊」とか「神」とか「自我」とか考える暇があるんだったら他にやることあるだろ、だから「神」がいるとかいないとかどっちでもいいじゃんっていうのが結論。これが「空観」に機能(やる事)(役割)をもたせた考え、つまり「中観」。

私も「どっちでもいいじゃん」ってのが結論で、答えがでないものを考えるより他にやりたい事や、大切なことを楽しむ、そして人生有意義なものにできればと思いました。ただ仏教などの哲学全体を把握しての「どっちでもいいじゃん」と何もせずめんどくさいから開き直って、さも分かっているかのように「どっちでもいいじゃん」とでは雲泥の差があるので勘違いしないで欲しい。是非、皆様も仏教と聞いただけで邪険にするのではなく、知っていると悪徳新興宗教スピリチュアルなんかで高額なお布施などを払うことも予防できると思います。是非これをきっかけに仏教本でモチベーションを上げてみるのもいいのではないでしょうか。

言葉は「どっちでもいいじゃん」です。

2008-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20081208100304

・同じ硬貨で一度に支払えるのは20枚まで

銀行で両替したときにセロハンでくるまれてる五十枚一括のやつは、結構喜ばれる

・隣家から境界線を越えて伸びてきた枝を勝手に切ってはいけない

隣家から境界線を越えて伸びてきた根は勝手に切ってもよい

・年齢は満年齢で表すよう心がけなければならない

人が死んだときの「享年○」は、数え年

決闘を挑んだり決闘をすることは罪になる

刑法仇討ちのためにあるのではなく、法を犯した者を処罰するためにある

・正当な理由なく封をしてある手紙を開けてはいけない

借金返済の催促を誰でも読める葉書で送ると、個人情報漏洩で訴えられることがある

2007-04-12

http://anond.hatelabo.jp/20070412154220

愕然とするよね。

昨日はジミ・ヘンドリクス享年27歳というのを知って鼻毛白髪になったよ。

そういえばジャニス・ジョプリンも27歳か?

あれ…カート・コバーンも27歳??

うわ、尾崎豊も27歳だ!?

まさかとおもってhideを調べたら34歳だった。

他誰か居たっけか?まぁいいや。

ジミヘンジャニスだけでおなか一杯。

しかし、世に名をとどろかせてる人は若いなぁ。

宇多田ヒカルなんてまだ24歳なのに離婚暦ありなんだ。

藤圭子なんて少なくとも8回の離婚暦があるらしいんだ。

松坂26歳かよ。

関係ないけどドラえもん年表によると来年にはタイムマシン発明される予定なんだ。

科学忍者隊ガッチャマンの時代設定は2010年なんだ。

2007-02-06

お嬢さんが亡くなったそうで」(4) 2/6 豆まきで初対面

■流れ

200X年事件 ──→ 2006/12/25初めての来訪 → 2007/1/5友人帰国 → 1/27その話を聞く → 1/28カラオケボックスで録音 → 1/29(1)1/30(2)昨日書いた動機について2/1(3)K宅訪問にあたり2/6(4)豆まきで初対面(5)2/9Kからのメール(6)三連休の出来事


■(4)豆まきで初対面

土曜にさっそくK宅を訪問してきました。メンバーは以下の通り。

K父、K母

K、K彼女

例の娘

Kの家に行く

13時。娘を観察以外特にミッションがないので気楽といえば気楽だなと思い電車で最寄駅に到着。駅についてKに「着いたけど、このまま行っていい?」とメールして少し歩いて家についた。

駅から15分ほど歩くと閑静になってるけど、家の中はちょっと賑やかな感じもするのでためらいなく呼び鈴を押す。「はーい」という声とともにK彼女さんが扉を開けてくれて中に入れてくれたのでK彼女さんと簡単に挨拶を済ます。

彼女さんが「X君(俺のこと)は今日会うの初めて?」と娘のことを聞いてきたので、「そうなんですよ、それが楽しみで(笑) K彼女さんは?」と彼女の印象を聞くと、「そう、私も今日が初めて。かわいいよ、気の利く子だね」とのこと。K彼女は相変わらず胸が大きい。

でも今日はそれより娘の方がポイントなので、どんなんだろうとわくわくしながらリビングに通されるとK父、K母さんが「やぁ、どうも」と挨拶をしてくれる。Kとは中学の同級生でたまに家に遊びに行ったことがあるんだけど、さすがにその頃の顔なんてお互いによく覚えてないので「大きくなったね」なんて無難な声をかけられた。

そんでKが「ついに来たんだな」というと一同笑い。「あーそうなんですよ、今日楽しみで(笑)」とご両親に挨拶をするとお父さんが「まぁね、じゃあ頼むよ」と言い、お母さんは「すみませんね、お忙しい中」と頭を下げてくれる。「そんな、大したことじゃないので大丈夫です」と答えるとKは「こいつが心配性でねー」と言い、一同はまた笑った。見ると娘の姿がない。俺がなんとなく部屋の奥とか見たりしていると、「あぁ、そこにいるよ」とKが教えてくれる。

見ると、キッチンから女性お茶を持ってきてくれた。背丈は普通?で黒髪は肩まで伸ばしてる。顔は…別に亡き娘さんに似てるわけじゃなかった。誰に似てるかというより、愛想というか笑顔がいい子っぽい。

「どうぞ。はじめまして、Aです」Aが座り、ちょこんと頭を下げた瞬間、いつもの癖で胸の大きさを目で測るとCぐらいだった。へぇー。これで魅力がなかったら追っかける目的というか目標がないのでよかった。いや目標というか…ほら、可愛くなくて胸もなかったらちょっとやる気なくすじゃん? そういうシチュエーションではないことはわかってるんだけど、でも俺もそこは普通に男です。

でもそんな意識する必要ないよなと思ったので、身体の向きをK&K彼女あたりに向けて茶を飲む。お茶が少なくなったので気付いたんだけど、場が次の俺の言動を待っているような雰囲気だったのでとりあえず「美味いですね。今日は寒かったので」とか答えて場を和ませた。とりあえず俺に注目するのはやめてくれ、と『王様のブランチ』とか見るんだけど妙な雰囲気は続くので、あぁそうか、とりあえず聞いておこうかと聞くこと聞いてみた。

「Aさんはあれ、いくつなんだっけ」

「23です」

「えっと、じゃあ…」とKの方を向くと「Yとは1才違いだ」とのこと。

「あ、1才…」

確かに亡くなったYさんが生きてたら同じような年齢だ。とここで「Y」の名前が出たせいかちょっとしんみりとした雰囲気になってしまい焦る。

「あーっと、じゃあ他はあとで(笑) あ、今日は何やんだっけ?」とわかりきった質問をKに聞く。

豆まきだね、豆は…」

「そうそう、K、買ってこなくっちゃほら」

とK母が急かしてKと豆をどこで買うかとか話してる間、なんかAを見にくかったのでK彼女に「Kと付き合ってどれぐらいだっけ」と質問する。もうすぐ2年とのこと。Aが「仲いいんですねー」と聞いて、K彼女が「そうかな? でも…」と、Aと会話を始める。女同士ってなんでこんな仲良くなるんだろうな、表面上だろうけど。

二人で話す

そしてK、K彼女、A、俺で駅前まで行って買いに行くことにした。今思い返すとだけどAはKから貰ってた写真と多少印象が違ってかわいい。そういう趣旨じゃないけど。でもKが好みそうなタイプじゃないな。

豆なんてそこら辺で売ってるから別に4人で行くようなことじゃないんだけど、せっかく誘ってくれたんだしフォーメーション的に俺はAと話すしかないのでお店に行くまでにいろいろ聞いてみようかと思ったら、向こうが口を開いた。

「Kさんからどんなこと聞いてるんですか?」

やっぱ気になるのか。ICレコーダーの件とか聞いてるのかな、しかしどれほど話していいものか。

「それは内緒かな」

「別に大丈夫ですよ。警戒しないでください」

「んーまぁね」

「Kさんとは同級生なんですよね」

「そう。君はYさんと1才違いだそうだけど、Yさんが亡くなった時が?」

「Yさんが亡くなった時は同じ年齢です。こちらへお邪魔させていただく前に、いろいろネット見てて。20才目前で亡くなられたのが印象に残ってて…」

「Yさんは確か19才だったっけ。じゃあその時君も19才?」

「はい、Yさんは1個上ですね」

【参考】

2002年 Yさん享年19才、A19才

2006年 A23才

「ふぅん…」

「Xさんは、Yさんと面識があったのですか?」

「面識というか、まあ、Kんちとか昔近所だったし」

「Yさんって、どんな方でした?」

「どんなって…」

「お父さん、お母さん、Kさんからお話しは聞いてるんですけど、いろいろ聞きたいと思いまして」

Kの彼女と一緒に前を歩くKを見ながら「そんなこと聞いてどうすんの」と苦笑して答える。お父さんとかお母さんとか呼んでるのか。馴れ馴れしいとちょっと腹立ったけど今思い返せば他に呼びようもないか。

「少しでも、Yさんに近づけられたらなぁとか」

「近づいてどうするの」と答えたら「えっ」と戸惑わせてしまった。でもちょっと、そんなことなりきろうとしなくても別にいいのにとか思いぶっきら棒な態度になった。

「なんか、警戒されてるみたい(笑)」

「…するよ」と答え、そうだ、聞きたいことはあれだと思い出して聞いた。

「ああそうだ、君はなんであのお宅に…」

と言いかけて気づくといつの間にかデパートの前に到着しており、KとKの彼女が待っててくれてた。

「盛り上がってるな(笑)」

「いやいや、ゴメン」

Kが苦笑していたので空気を読まなくてはと思いその話は一旦やめておく。AとK彼女が豆を選んでいる間、Kから「何話してたんだよ」みたいなニヤケ視線を感じたが放っておく。

豆を買った帰りはフォーメーションを変え、AとK彼女、俺とKというコンビで歩く。前を歩くAとK彼女を見ながらKが「で、どう? 何か聞けた?」と聞いてくるので「いやまあ…」とさっきの質問を聞ききれなかったことを悔やむ。信号を曲がり家に歩きながらKに聞く。

「あの子は何、Yちゃんの真似をしたいの?」

「そんなこと言ってたんだ」

苦笑するKだが、どこまで知ってるのか聞きたい。

「あれだよ、この前聞いたじゃん。モラルの問題だって」

「あーはいはい」

「それ、それを本人に聞こうと思ってさ」

へぇ、本人なんて?」

なんだよお前楽しんでるのかよって思いつつ、「これから聞くところだったんだけど」と言うと、「そっか…」と黙る。聞いた方が良かったのか、聞かない方が良かったのか読み取れない表情だ。そこからは無言で前の女子二人が話してるのを見つめて家に帰った。

豆まき

考えてみれば豆まき彼女とかゲストとか呼ぶってどんなんだろう?と思ったけど、実際にやってみると楽しいもので気合い入れて投げた。ビール飲んだ勢いで「ちょうど男3と女3だから男女で投げ合ったら面白そうですね」と言ってみたんだけどスルーされた(笑)そりゃそうか。

なんとかしてAと二人になろうかと思ったが、ビール飲んでるうちに別にまあいっか知るかぼけと思うようになって気持ちよくなって畳部屋でちょっとゴロンとした。いつの間にか眠ったらしいが、気づくとAがそばで豆食って縁側から庭を眺めている。

「あれ?」

「あ、起きたんですか」

Kと彼女は二階の部屋に行ったらしい。リビングではご両親がテレビを見ており、いつの間にかひとりになっていたのでAが心配してくれたのか。なんか悪い気がしたので起きて「豆ある?」と聞くとすっと袋を差し出してくれた。さっきの質問を聞くべきだろうけど、なんか機を逸したというか聞きにくさもある。まあ今日は特にミッションみたいなのはないけれど、それは聞いておかなくっちゃいけないかなと思い、豆をかじりながらふと聞いてみる。

「そういや、Aさんはなんでこのうちに来たの?」

「…ふふっ、やっぱり気になります?」

「気になるというか、あいつが話してくれないから」

Kのいる二階を指差す。

「うーん、偶然なんですよ、ニュース見つけて。私もちょっと行く宛てがなくて、ダメ元でお話聞いてみたんです」

「よく許したよね」

今度はご両親がいるリビングを指差す。

「そうですね(笑) Oさんにはほんと、ありがたく思っています」

「行く宛てがないから、なんでこの家なの? いや彼も心配してたからさ。知ってる? 俺が証人になった話」

「えぇ、知ってますよ」

「そう。俺も心配でさ、なんでだろうって」

たまたまとしか…別に前から知ってたわけではないですよ、決して」

「ふーん」

「ふーんって?(笑)」

「そこって納得できるのかどうか…」と目を擦りながらはてなブックマークの数を思い出した。自分だけが不思議に思ってるなら「たまたまなのか、そっか」で納得するのもいいかもしれないけど、知りたい人は俺だけじゃないからこれはもう自分の価値観だけで図れないんだよ、と言いたいがそうもいかない。

「心配性なんですね、Kさんが言ってた通り(笑)」

「そりゃ心配するでしょう」と真面目な顔して返す。

「だってさ、君だって留守番することもあるでしょ?」「はい」「そしたらご両親だって見知らぬ他人に家を明け渡しているようなもんだしさ、わかる?」「そうですね…」「ご両親が帰ってきたら、家が荒らされてたとか洒落にならないじゃん?」とたたみ掛けると、「ああ、そっか」と笑う。そんな可能性もあるのねといった感じに見えたけど、なんか聞きすぎて気まずくなったのでこの辺でやめとく。

もうすぐ17時になろうかというところで皆に挨拶をして帰ることに。帰りに誰か駅まで送ってくれるかと思ったけどそれはなくひとりで帰った。Aの携帯アドレスでも聞こうと思ったけど、また自然に任せるとするかと思いやめておいた。メアドを聞くという行為にも抵抗あったし。


そして5日の朝、携帯に見知らぬ人からメールが届いていた。

「こんにちは、この前はどうもです! Xさん今日会社ですよね」とあったので、「誰?」と返すと、「Aです(笑)突然すみません。たくさん疑問がありそうなので答えていこうかと。アドレスはKさんから教えてもらいました♪」と来て一瞬目を疑う。特にそういう雰囲気でもなかったしなんで送ってきたんだろう、単にこちらの連絡先を知りたかっただけか。勘弁してくれと思うけど引き返そうもないし、引き返すつもりもないのでメールを返すことにした。

「まあいいよ別に。君にはまだ聞きたいことがあるから(笑)」

「どうぞ、聞いてくださいよ(笑) いつでも待ってます♪」

「うん、楽しみにしておいて。ではまた」

その時は特に聞くことが思い浮かばなかったので放置してある。さてどうしようか。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん