はてなキーワード: 逆効果とは
痴漢はやる人間が100%悪いにも関わらず、仁藤みたいな人間が暴れまわった結果として
「痴漢冤罪」への忌避感が強くなり、なぜか痴漢そのものではなくて
痴漢本人をほったらかしにして痴漢冤罪を主張するものと痴漢許せない女が叩くという意味不明な状況になった。
パパ活についても同じだ。
米山議員が買っていた女子大生は文春報道によれば東京の名門私立大学の学生で、売春していた内の一人は米山議員を「良いお客さんだった」とすら言っていたので、仁藤氏が支援しているような女の子達とは毛色が違うように感じている。パパ活おじさんはキモいけど、学費が払えない等やむにやまれぬ理由がなくてもパパ活する女の子は、素敵な奥様がいても浮気するおじさんと同じくらい普通に存在しているし、そういう子達は“被害者”ではないように思う。
極論すれば、これはそもそも買春ではない。パパ活だ。 これを批判するなら、仁藤はまずまずパパ活を攻撃すべきだ。
仁藤は「生活に困った女性を食い物にするから許せない」という建前なので、筋が悪い。
凄いと思った時は凄いって言うしありがたい時はありがとうございます!って言うけど
自分から「ほら凄いだろ!?認めろよ!もっと尊敬しろ!感謝しろ!」って感じに迫ってくる人間にだけは絶対凄いって言いたくないし感謝の気持ちも失せる
漫画やアニメの作り手を目指す人に対して富野由悠季など様々なクリエイターがそう言っている。自分は最近、この発言にやや共感するようになった。しかし世間を見て見るとこの発言はそこまで正しいものではなかったようだ。もっとも、クリエイター達がどんな意味合いでこの手の発言をしたかはそのクリエイターによるが。
自分は最近までこの手の発言に共感していなかった。この手の発言はオタクコンテンツに携わっているクリエイター達のコンプレックスによる「オレはお前たちキモオタとは違う!」アピールだと考えていた。この手の発言からは「漫画やアニメを作るためには、その源泉にするために漫画やアニメ以外の世界に触れなければいけない」という意味が読み取れる。自分はこれに疑問があった。
「源泉にするために触れる別の世界」は演劇や小説などの「創作物」とスポーツや歴史などの「創作物以外」に分けられる。作り手に回るためには漫画やアニメを封印し、それらの「別の世界」を見なければならないとクリエイター達は言う。昔の自分はこれに共感していなかった。「創作物」の方に触れなければならないのは、「アニメ漫画以外の創作物の方が良質だから、そこから技法を盗め」ということだろう。だが、アニメや漫画は創作の技術において他の創作物より劣っている作品ばかりだとは思えない。面白い演劇や小説には盗むべき技術が沢山あるだろう。しかし、アニメや漫画は封印すべきほど無価値だとは考えられない。それに演劇や小説は源泉にすべき価値がある作品ばかりだとも思えない。内輪ウケ狙いの寒い舞台も多い。古典文学は価値のあるものだとされているが、全部が全部そうは見えない。価値のある古典作品を知っていたとしても、それを模倣することが目的となってしまっている作家はファンからオナニーだと叩かれる。これは正しいと思う。そのオナニーはまさに「オタクコンテンツに携わっているクリエイター達のコンプレックスによる『オレはお前たちキモオタとは違う!』アピール」だ。
「創作物以外」に触れなければならないのは「アニメや漫画の話のタネにするために他にも詳しいものを持っていた方がいい」のと「アニメや漫画等のオタクコンテンツだけにいると凝り固まったキモオタになるから」だろう。「アニメや漫画の話のタネにするために他にも詳しいものを持っていた方がいい」のは確かにそれに越したことはない。しかし興味が持てないのならアニメや漫画でその題材を描きたい時、その都調べればいいだろう。無理してイヤイヤ好きになろうとしては逆効果だ。
「アニメや漫画等のオタクコンテンツだけにいると凝り固まったキモオタになるから」の方を見ていく。凝り固まったキモオタの悪さは「コミニュケーション能力の低さ」と「趣向性ばかりを反映した独りよがりな作品を作ってしまう」ことにある。「コミニュケーション能力の低さ」だが、インターネットを見ていると凝り固まったキモオタ的な人間でもコミニュケーションを要領よくこなしている例は少なくない。それにクリエイターの場合、コミニュケーション能力が低くても才能がある場合は正義である。才能がないなら論外だが。「趣向性ばかりを反映した独りよがりな作品」の方も近年はSNSの発展により、その手の作品でもクオリティが高い場合、一定の支持者がつく。これもクオリティが低い場合は論外である。
このように昔はクリエイターの「作り手になりたいなら漫画やアニメを見るな。オタクになるな。外の世界に触れろ。」発言に自分は昔は疑問を感じていた。しかし最近はそれを正しいと思うようになった。「創作物のあるあるネタ」を題材にした作品があまりに増えたからである。なろう系の異世界、ファンタジーに出てくる女騎士、幼馴染、負けヒロイン等の「創作物にこんな展開、こんなキャラってよくいるよね」を出発点にした作品があまりにも増えた。自分はそれがあまり好きではない。クリエイターの「作り手になりたいなら漫画やアニメを見るな。オタクになるな。外の世界に触れろ。」は正しかったんじゃないか。こんな作品が生まれるのはアニメや漫画だけを創作の源泉にしているからではないのだろうか。
もっとも世間では「創作物にこんな展開、こんなキャラってよくいるよね」を出発点にした作品はウケている。その手の作品をカテゴライズして批判する声もない。だから世間的にはクリエイターの「作り手になりたいなら漫画やアニメを見るな。オタクになるな。外の世界に触れろ。」発言はあまり正しくはなかったのだろう。
政治運動において敵対者への嘲笑は時代や地域を超えて普遍的である。
SNSにおいても、特定政治家のみならず支持者や大衆への嘲りは、もはや見飽きた光景だ。
だがその効用は明らかとは言い難い。
嘲笑することは一見、敵対者への攻撃にはなるが、第三者の反応はまちまちだ。
一緒になって攻撃するか、逆に攻撃者への批判を呼び起こすか、そういった争い自体を忌避して場を立ち去るか。
とくに、最後の効果、つまり政治自体を忌避させる原因を、政治運動における嘲笑に帰結する分析もある。
支持を拡大するという目的にマイナスにもなりうるのにも関わらず、なぜここまで嘲笑が溢れているのだろうか。
社会学において支配関係を類型化した初期の学者であるマックス・ヴェーバーは、政治運動の上層部が運動員に与える精神的報酬のひとつだとしていた。
選挙活動などの強力な支配行動に人々を動員するには当然、従わない人間よりも多くの報酬が必要である。
しかし、(とくに猟官制の廃止された後の)民主主義では、大衆を動員するときに直接的な経済的見返りを与えられない。
それ故に様々な精神的見返りを与えることが必要であり、「嘲笑のための大義名分」がそれにあたるのだと。
この描像だと、嘲笑はあくまで精神的な見返りのひとつであり、怒りや復讐心の発散なとど同列とされ、そこまで重視はされていない。
政治家がトップダウンで操る戦術のオプションとして扱われている。
現代的な心理学の描像だと、嘲笑はもっと政治に直結したものだとみなされる。
そもそも、「笑い」という行為や付随する情動は、自他の思考や行動の間違いを指摘するために獲得されたと考えられている。
人は、社会的に正常な状態だと思いこんでいた状態が間違っていると発見したとき、その気付きに対して笑う。
自分が間違っていたと自分で気づいた場合には行動を改めるだけだが、重要なのはこれが仲間に、かつ攻撃的に向けられたとき(すなわち嘲笑)だ。
期待されている効果は、間違っていた人間が態度を改め、仲間に従うことだ。
だが、仲間の「間違い」に気づいたとしても、実際に正しいのは自分なのか、相手なのか。それはどうやって決まる?
社会的な正常さを決めるのは、群れの政治的力学だ。人間の原始的社会は単純な多数決でもないし、かといってリーダーや強者による完全な序列制でもない。
たとえば、強く序列が高い人間の笑いには追従の笑いをもたらす効果がある。これによって周囲から笑われた人間は態度を改める。
しかし、リーダーが明らかに間違っている場合には、群れの全員から嘲笑され、リーダー側が反省を強いられる場合もある。
場違いな場面で他人を笑った人間が、逆に間違いを笑われることもあるだろう。
このように、嘲笑とは複雑な政治行為の最も原始的な発露であり、人間特有の行動である。
無論、現実、とくにSNS上の政治言論における嘲笑はこの2つの描像の中間にあるというのが実際のところだろう。
特定の政党や政治家、言論人が嘲笑行動を種々の政治目的で扇動する場合もありうる。
そういった目的を持たない、無意識の笑いが政治シーンに影響を与えることもある。
ただ、そういった背景を無視して効果だけを見れば、ひとつほぼ明らかな事実がある。
嘲笑は多数派を固めるためだけに有効であり、それ以外の場合には逆効果になる、ということだ。
集団的に行われる嘲笑は、味方には精神的報酬をあたえ、仲間関係を確認し、支持を固めて動員する効果がある。
また、怒って反応する敵対者をあぶり出し、敵として認定することもできる。
日和見派のうち気の弱い人間には追従笑いを引き起こす。彼らはすくなくとも言論の場では逆らわないことが期待できる。
そして、何よりも重要なことに、それ以外の無関心層を遠ざける効果がある。
これによって、多数派の勝利を確定させる一方、少数派にとっては確定するのは敗北となる。
さて、ここから考えると、もしあなたがすでに多数派だとわかっている場合だけ、集団嘲笑戦略をとるのが合理的である
だが現実には、少数派が集団的に他人を嘲笑し、かえって袋叩きに合い、劣勢を固めてしまうという現象はありふれている。これは何を意味するか?
まず、自分が多数派か少数派かを判断するのは、大半の人間には難しい。
社会調査などの客観的な指標でなく、周囲の人間の意見を重視してしまうバイアスは容易には逃れがたい。
次に、感情を抑えてまでマクロに合理的な政治行動を行うほどのインセンティブは個人にはない。
感情が進化的な意味では合理的であったとしても、それは過去の環境に適応したものであり、現代政治における合理性とは相容れない。
これらはそもそも戦略的に振る舞えない個人がいるという問題だ。
が、真に重大なのは、この理由により「少数派に属している時、味方が嘲笑という不合理な選択をとりうる。そしてそれに対する良い戦略がない」ということだろう。
その味方は自身を多数派だと意識的あるいは無意識に考えている。
嘲笑に追従しないことは、対象を孤立させるシグナルとなるし、たしなめたり批判したりすれば敵対行為だとみなされるだろう。
よって追従することが局所的には合理的だが、それにより嘲笑は拡大し、多数派の敵対者や日和見派の目にとまり、敗北を拡大することに貢献してしまうのだ。
この問題にたいする回答は筆者の力量では思いつかない。
SNS上において政治言説をひろめたい、政治的に少数派であると考えている人々は、この現象に対応する戦略を考案する必要があるだろう。
CO2の削減を目標とするならBEVは貢献できるような使い方が限られるみたいだ。
はてなではトヨタの主張は雇用の維持の部分ばかり切り取られてそんなのはエゴだとか逆効果だとか切り捨ててるけれど、彼らの主張のほとんどの部分はBEV一辺倒はCO2削減に対しては逆効果だという趣旨だった。これは直接トヨタの主張を読みに行ってもらったほうが誤解が無くていいだろう。
ハイブリッド車も金銭的に元を取るのは大変なんですけどとか、エネルギー安全保障を考えたら化石燃料依存を減らしたほうがいいのではとか、他の観点では疑問は感じたが、地球温暖化対策を第一目標とするなら。
投票率を上げようというキャンペーンは一般に、与党政権支持者よりも反政権・野党支持者の方が積極的である。しかし左派の人たちの、投票率が上がると自民党が負けるという素朴な前提には疑問が多い。むしろどう考えても逆だろう。
理由は「普段政治に関心のない人」というのは、(1)「政治的な公正さ」への関心が弱い、(2)選挙公約を色眼鏡なしに読む、(3)「みんなの空気」の風向きを重視する、という特徴を持っているからである。
(1)そもそも投票に消極的な「普段政治に関心のない人」は、野党が強調する「政治的な公正さ」などには関心を持たない。普通に考えれば、そういう問題に関心のある人はとっくに投票所に足を運んでいる。リベラルな政治理念やイデオロギーに訴えるのも逆効果である。「普段政治に関心のない人」は、そもそもそうした政治の話が苦手だからである。「普段政治に関心のない人」にとって、イデオロギー臭は嫌悪感しか与えない。(その意味で岸田首相「新自由主義からの転換」も逆効果)。
(2)「普段政治に関心のない人」が選挙に行く場合、選挙公約がそれなりにまともで、政権担当能力がありそうかどうか、というぼんやりしたイメージで投票する。そうすると、自ずと自民党一択になる。左派は「自民党は福祉と育児を家族と女性に丸投げしている」と批判するが、「普段政治に関心のない人」が自民党の公約を色眼鏡なしに読むと、完全に逆の印象を受けるはずである。与野党が似たようなことを言っているなら、当然ながら実現可能性の高いほうに投票するということになる。
(3)あとは、テレビの報道やTwitterなどのSNSの政治論議における「空気」で決まる。とくに「普段政治に関心のない人」は、「正しい人間と見られたい」という意識よりも、「馬鹿に見られたくない」「空気が読めない奴と思われたくない」という意識がはるかに強い。Twitterでは野党は「小馬鹿」にされることが非常に多く、岸田首相がかつての森喜朗や菅直人レベルの大バッシングをメディアで受けてでもいない限り、投票率の向上は野党にとって大きく不利と言わざるを得ない。
そもそも、投票率向上の主な呼びかけの対象である若い世代の野党支持率は、さまざまな調査で見てもきわめて低い。自民党が積極的に支持されているわけでもないが、投票先を決める段階では政権与党を消極的に支持することになるだろう。
もちろん投票率の上昇それ自体は悪いことではない。しかし左派の人たちの「投票率が低いから自民党の長期政権が続いている」「投票率が向上すれば野党が勝利する」という間違った前提は捨て去るべきだと思う。
光: なるべく窓際で光を当てる
風: 風通しがいい場所に置く
主にこの3要素だ。
かわいがって毎日水をあげてしまって根腐れして枯れる。植物を枯らしてしまう人のほとんどがこれらしい。
大事にしているのに枯れてしまうというならまず水やりの頻度を見直すべき。
園芸には「水やり三年」との言葉もあるくらい。基本だが、それゆえに難しい。
土を1~2cmほじってまだ湿り気があればその鉢は水を必要としていない。土の表面が完全に乾くまでグッと我慢する。
土はほとんどの植物では、ある程度水はけのいい土が良い。土が乾くと根は水を求めて成長するので、水はけがいい方が「乾く→水やり」のサイクルを増やせるし、根腐れの心配も軽減される。おすすめは「プロトリーフ室内向け観葉・多肉の土」というやつ。元肥といって、あらかじめ肥料が入っているので自分で肥料をあげる必要がないし、少量から売っている。乾くと土の色が変わるので水やりの指標にもなる。
余裕があれば軽くふるいにかけてから利用すると、微塵と呼ばれる細かい土によって鉢底が詰まって水はけが悪くなるといったことを防げる。
毎日鉢を持ちあげていると鉢の重さで土の水分量がなんとなくわかるようになるので騙されたと思ってやってみて欲しい。
鉢底から流れ出てきた水はそのまま鉢受けに溜めておかずに捨てること。
夏の葉焼けには注意だが窓際でたっぷり光を与えてあげるのが良い。部屋の日当たりが悪いなら耐陰性のある植物を選んだ方が良い。
見落とされがちだが風通しは大切。蒸散を促す上に、根が吸いきれない土の水分は風によって蒸発していく。風がないといつまで経っても土が乾かない。
また、ペパーミントのような草ものは特に蒸れを嫌う傾向があるように思う。
鉢が小さく数も少ないうちは安物のUSB扇風機などでいいので風を当ててあげるのがおすすめ。(エアコン直撃はNG)
以上のことさえ気をつけていればあんまり枯れるということはないように思える。
あとはミントなどの草物より、体力のある木に近い植物の方が調子が悪くなっても持ち堪える確率が高い。
以下におすすめを紹介する。
いきなりありきたりだが、本当におすすめ。
ダイソーなどにも売っているし、根の形がそれぞれ違うので気に入った鉢を持ち帰って育てれば良い。
多少水やりを忘れても枯れないし、水耕栽培でも育つほどには根腐れに強い。耐陰性もあるので強い光がなくても育つ。
それに切った枝を水につけておくだけで発根するくらい生命力があるので増やすのも楽しい。(挿し木で売り物のような根を作るのは難しいが。)
ダイソーで300円で買ったやつはかなり保水性の高い土に植わっていたので植え替えをおすすめする。
小さな鉢なら1000円程度で買える。水やりの頻度は少なめで良い。
かなり日当たりを好むので、日当たりの良い窓があればおすすめ。見た目もカッコよく、簡単には枯れない。
新芽が出てきた時期に日当たりが悪いと一気に徒長してしまうが、だからといって枯れることはないのでかっこいい葉が揃うまで何度でも挑戦できる。
ホームセンター等で安く売ってる。いわゆるサボテンのように水を控える必要はなく、通常通りで良い。
葉が面白い形をしており、うまくいけば花も楽しめる。また、葉をもぎって土に植えれば割と簡単に増やせる。
この植物に限らず、挿し木や葉挿しで根が生えた時の喜びは他に変え難いものがある。
お値段は多少するがいわゆる塊根植物で、盆栽のようになるものもある。
タネから育った株(実生株)でないと塊根にならないので購入時はすでにある程度根が育ってるものを買うのがおすすめ。
多肉っぽい葉をつけるが、水を好むので基本通りの水やりで大丈夫。
おすすめはアイビーのダックフットという品種。その名の通りアヒルの足のような形の葉をつける。
蔦がもりもりしてくるとかわいい。
個人的には、水やりが少なくて済むと言われている多肉植物やサボテンなどは、じゃあいつやればいいのよ?となっていきなりは難易度が高いように思える。
それにこれらの植物は大抵日当たりを大変好み、光量が不足しているとすぐ徒長する。
長くなってしまったが、最初は冒頭の3要素だけ気にしていれば良い。
目の着くところに置いておけば、植物の成長とともに徐々に情報が頭に入ると思う。
枯らしてしまってもあまり落ち込まず、自分の部屋の環境に合わなかったと割り切ろう。
タイトルが変更されてた
そりゃベトナム人実習生がずっと自給自足で生きていくのは無理だし、
本人たちもそんなつもりで取材受けてるわけ記事を読めばまったくないわけで
なんか自己啓発臭すぎるというか、意識高すぎるというか、感動ポルノというか、
これは昨今、何にでも言える気がするんだけど、
鼻につく、というか、気持ち悪い
TEDみたいなセレブのセミナービジネスも英語の勉強にはなるけど、
TEDとかLinkedInとか、英語圏でもキャリアポルノとか意識高いネタとして、
ジョークでバカにされて扱われてたりして、ちょっと安心したりもするんだけど、
〜みたいな奴とは付き合うな、という本が出れば、みんなそれに従うみたいな怖さがある