はてなキーワード: 読破とは
読書家の問題として再読をするかどうかというのがあって、私はかなり再読を重視するので、どうしても読める本が減ってしまうがために読破数では勝てない以上、負け惜しみかもしれないとは思うけれど、彼(彼ら?)の読書の仕方は表面をさらって冊数を稼ぐような物にみえるし彼のブックレビューにはどうも心が惹かれない。
実際、私が割と熱心に再読してる作品のレビューを見てみたらただ文書を引用してトンチンカンなコメントをつけているだけのものでとてもがっかりした覚えがある。
毎年大量に出版される本やこれまた大量にある過去の名作に対してひたすら冊数をこなして引用集を作る事が読書の醍醐味ではなく、5回読んでもまだ面白く汲みつくせない本を探しだす事こそが読書の醍醐味であると再読派の私は思う。
ここやネットに投稿したときに文章自体についてのコメントではなくて本文内容そのものにコメントがもらいたい。
とりあえず本を読もうと思った。そしてそれは20年くらい続けている。
私は年間100冊~300冊は本を読んでいるが内訳はだいたいアイドルの写真集だ。
本を読めば文章がうまくなったり、頭良くなったりするんじゃなかったのか?
100冊の内訳は
70~90冊が写真集で
残りの30~10冊が「入門○○」的なもの
小説は5年に1冊くらい
ちなみに上手に文章を書く方法的な本は過去に20冊くらいは読んでいるつもり。(年1冊程度)
ここ最近で読む気になった小説は以下で団地妻とメイドの話くらいしか全部読めていない
団地妻の話
メイドの出てくる話
IQ86(とても読みやすくて三分の一くらいは読んだが全く続きが気にならずに読む気になれない)
ノルウェーの森(上に同じ)
サルトルの本(哲学書らしいが小説仕立てになっていて全く面白く感じなかった)
私はどうして小説を読み進められないのだろう
面白い小説を知らないからというアドバイスが欲しい気もするが、これだけは読んでおけという小説、ドラマやアニメ・・・。
なぜか全く見続けられない。
我慢してみることはできるがアイドルや折り紙の本を読んでいるようなわくわく楽しいなという新鮮な感覚には至れずその結果二度と見るかというループにはまってしまい現在に至る。
小説が好きな人は芥川龍之介が好きで興味があってマニアなのか?だから読み終わるのか?
自分は金持ちではなく、両親も自分も別に本を読む人間ではない。
金持ちは家に大きな本棚があり、そこの家の大人たちは皆週に何冊かは本を読む。
そうやって知の連鎖が起きているのだと。
でも今時の金持ちが本を買うだろうか。
本棚を見せびらかしたい虚栄心があるならともかく、普通みんなタブレットやスマホで本を読むだろう。
「僕がYouTubeを見る機械でお父さんが何かしている。よし僕もYouTubeでヒカキンを見よう。」
そうなってしまうんじゃないだろうか。
そうなったらせっかくの知の連鎖は失われてしまうんじゃないだろうかと。
そう思う。
読まないだろという結論ありきではなく、単に疑問。
むしろYouTubeを見る感覚で気軽に本を読むようになるんだろうか。
私は英語を趣味にして久しく、英語学習法などいろいろ探したり手を付けたりしてみたが、リスニングに関しては出来るようになりそうなのを見たことすらない。なので自力で手法を開発していくしかなかったのだが、その手法はなかなかの成果を上げ、最近では自分の納得いくリスニング力にかなり近づくことが出来た。嬉しいので今回その手法をシェアしてみようと思う
私は大人向けのドラマや映画を見ながらリスニング力を鍛えたが、子供向けのものも実はリスニングのレベル的には大差がないので、より面白く感じてモチベーションを保てるものをやっただけだ。自分の好きなものを見て、楽しく続けるのが結局は一番効率的になる。英語教材は高いが映画のDVDなら100円で借りてこれるのでお金もかからない。
スポーツや勉強など通常のトレーニングでは、考えて仮説を立て実際にやってみて実証するといったプロセスをとる必要があるが、リスニングは考えても出来るようにはならない。英語音声を何回も聞いてみて、必死で意味を考えてみたところで何を言ってるかわかるようにはならない。
まず第一に音を覚える必要がある。だから英語の字幕が出ない映画やドラマなどは見ても意味がない。英語字幕ありとパッケージに書いてあるものを借りてきて見なければならない。
英語字幕を出さずに視聴をする意味があるかというのは実は大きな問題である。最初は何を言ってるのか全く分からないはずなので字幕なしで見る意味はない。
字幕を出しながらの視聴でもネイティブがペラペラしゃべっていると字幕を読むのすらついていけないという人も多いだろう。一時停止をしながら意味を確認しようとしても、映画やドラマに出てくる口語表現やイディオムは難しいため一時停止しても意味がわからないということもある。その場合はまずリーディングの訓練をすることをおすすめする。簡単な英語の小説なら普通に読破出来るくらいのリーディング力がないと、ドラマや映画を視聴するのは難しい。
ある程度のリーディング力がつけば、一時停止して字幕を見ながらネット検索などで一つ一つ意味を確認していく、という作業を全体通して2,3周繰り返すことで、字幕の英文の意味を全て把握することが出来るようになる。そうしたら字幕を消して視聴し、役者がしゃべっているセリフと頭のなかにある英文を比べていく。一致してるように思えない場合は、字幕を出したり消したりしながら同じシーンを繰り返し視聴し、字幕の英文を繰り返し音読し、テレビの中の役者のセリフに近づけていく。これは出来るまで100回でもやる価値がある。
1箇所を100回やっても分かるようにはならないが、長期間やり続けることで音の解像感が上がっていき、役者の話している音ひとつひとつが捉えられるようになり話している言葉も徐々に分かるようになってくる。
音を聞いて頭の中の英文と比べる作業は初めはものすごく疲れるし、うまく出来ないので辛くなるだろう。わからない箇所を100回音読する作業を全体通して3,4周するのが理想だが、別に10回でもいいし、1周でもいい。やり続けることが一番大切なので出来るペースでやっていくことだ。初めは一時間のドラマ一話に一ヶ月かかるかもしれないが、そのうち音読が必要な箇所が減り必要な音読の回数も減り、聞き取れるまで何周もする必要もなくなるので、一日かからず出来るようになる。
わからないシーンを何回も聴き直すためには、巻き戻しを効率的に行えるようにすると良い。このためにはDVDを取り込んで再エンコードし、キーフレームの間隔を狭めるという作業が必要になる。これは多大なPCの知識が必要で、法的にもグレーなので自己責任で行って欲しい。
それと、動画の再生はパソコンで行うこと。Media Player Classic Home Cinemaのようなソフトが良い。「前のキーフレームに戻る」「次のキーフレームに行く」「字幕のオンオフ」「再生/一時停止」のキーボードショートカットを覚えて自由に使いこなせるようにしておく。私は全て矢印キーに配置することで快適に操作できている。
役者の音声と英文の対応をとっていくうちに、様々な役者の様々な発音、訛り、音響による音の違いなどが頭に入ってきて、やがて初見の音でも何を言ってるのか分かることが増えてくる。そうなればいよいよ映画を予習なく最初から字幕なしで見るというトレーニングが出来る体制が整う。
音は覚えられたが、話のスピードが速くてついていけない、途中で疲れて集中が途切れてしまって意味が取れない、といった場合がある。そういった問題に対処するためには、脳の動作スピードを上げる筋トレのような作業が必要で、このために字幕を出さずにそのまま聞くトレーニングは有効である。
この脳の動作速度の問題は、実は大半がリーディングでも鍛えることが出来る。返り読みなしのリーディングをスラスラこなすことが出来るなら、リスニングでも音さえ取れれば意味を捕まえることは難しくない。リスニング能力の向上に行き詰まったら、リーディングのトレーニングも併用することをおすすめする。
私のおすすめのトレーニング法は、ただ辞書を引きながら英語の小説を読んでいく、というものだ。児童文学にも大人の鑑賞に耐える楽しいものが多いので、そういったところから徐々にレベルを上げていけば良い。小説は児童文学でもいろんな語彙が出て来るので、辞書を引いていけば自然に語彙力もついていく。
日本人の一般的な英語力では児童文学でも読破はかなり難しいが、そこは学習参考書とかネット検索、質問サイトなどを駆使しつつ根性で何とかする。最初さえ越えてしまえば後は「小説を読む」「映画やドラマを見る」といったことだけで英語力は際限なく上げることが出来る。楽しくて実用にもなる最高の趣味になることは保証できる。
俺は学生時代ずっとモテなかったボンクラ男子だが、漫画が好きなこともあって
ボンクラ男がのめり込みやすい典型的な作品なので、もちろん俺もハマった。
で、なんかの雑誌のインタビューで押見先生が「惡の華は安達哲のさくらの唄に多大な影響を受けて描いた作品」と答えているのを読み、以前からタイトルや評判を聞いてはいたが
自分が産まれた頃の作品であり、なかなか読む機会が無かったのだが
これを機に読んでみようと、古本屋を探し回った。(電子書籍は嫌なので、絶版本を手に入れるには古本屋しかない)
やっと見つけて読むと、なるほどこれは思春期に読んでたら気が狂ってたわ…大人になってから出会ってよかったー
と思えるほどすごい作品だった。
これは惡の華が好きなら読まないと損!
と思い、友人たちに勧めた。
男の友人たちは「読んでて気分悪くなった!最高!」と絶賛だったが
女の友人たちからはことごとく不評。
「言うほどのめり込めなかった」「男の妄想って感じで不快だった」
彼女らは惡の華も全巻読破して、おれたちボンクラ男が大嫌いな浅野いにおの漫画も大好きな人たちばかりなので
似たような作品というか、そういった作品の元祖とも言うべき「さくらの唄」が女性に全く受け入れられなかったのは驚いた。
俺の周りでは女性には全く駄目だったなあ。
俺の周りでは完全に男受け漫画だった。
今日は土曜日の深夜、正確には日曜の早朝と表現した方がいいだろう。私は二日前に開けた生酛を飲みながらゲーム「シュタインズゲート0」をプレイしてる。とてもゲームが面白く止め時を失いつつ同時にお酒にも手を伸ばすのを止められずにいる。文章を読み進める事に少しずつ日本酒を口に含んでは飲み、含んでは飲みと繰り返していると半分ほどあった日本酒は既に空に。仕方なく冷蔵庫に放置していたジンを取り出し、少し気の抜けたコーラと混ぜて飲みながらまたゲームを再開する。
そうしているうちに気がつけば日はすっかり昇り、ゲームの方も1晩で2ルート読破するに至る。
頭に軽い痛みを覚えるがこれはお酒のせいだろうか。なんにせよそこまで嫌な気分ではない、むしろ気持ちいいくらいだ。1人で飲むお酒は誰にも気兼ねしなくてもいいし、お酌も必要ない。
『サピエンス全史』を読み進めており、もうそろそろ上下巻読破間近というところにいる。
本書の発端となるのは
「生物としての個体能力の低いわたしたち(ホモ・)サピエンスが生き延びた理由には、
サピエンスには虚構=物語を想像し、その物語を信頼、共有する能力があることにある」
というものだ。
本書の文脈においてこの「虚構」「物語」は「秩序」「神話」と名を変えていく(大まかにはしょって言っている)。
たとえば
宗教が誕生し共有されると、その神の名のもとに人類は冒険、侵略、残虐行為を犯した。
資本主義が誕生すると「消費は善=個人主義」というロマン主義的思想が返り咲くとともに、
それらを後押しするかのごとく神話伝導役として「マスコミ」が発達していった。
などなど(実際には本誌において「帝国主義」および「科学への投資」なども含まれるがはしょる)。
これらは「サピエンスの信じる力」により生まれ発展してきたと筆者は言う。
命を捧げるべき神も、死後の幸福世界が約束されているとする信仰心もなければ、
荒れ狂う未知なる大海原を越えていこうなどとは誰も思わなかっただろう。
少なくとも個々人の生存時間の中で属する社会に浸透している「約束されているであろう物語=神話」が、
カウンターカルチャーを含め支配していることになる。
未知なる明日を考えもしないが故に
「『神話』に約束されているであろう明日」を(如何に情熱狂気的であろうとも)ただ漫然と過ごすのだ。
ここで疑問がひとつ頭をもたげる。
「神話」(だけでなく「虚構」「物語」「秩序」含め)について先述したんだけど、
「神話」すべてが生き残っているわけではないとも考える。
それでは滅び語り継がれなかった「神話」は間違っていたのか?
そうではないだろう。
ただ対抗勢力との兼ね合い(つまりは文化的なものを含めての「侵略」)から朽ちていき、結果語り継がれなかっただけだ。
サピエンスは「生まれた神話を信じ強化すること」ができる能力を持つだけで、
「その神話を最強として遍く伝導すること」をできるわけではない。そんなものは時と場合だ。
するとなんだ、「神話」とは。
まったくただの結果論ではなかろうか。そう結論づけていいのではないか。
ああ『ドグラ・マグラ』は、夢野久作は全く間違っていなかった。
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
島尾敏雄の「死の棘」という小説を読んだ。浪人時代に予備校講師に勧められて買ったものの文庫で600ページと長く、ずっと読めずにいたが、春休みを使って読破することができた。簡単に紹介するなら、「死の棘」は作者の代表的私小説で、夫の浮気の発覚から始まる妻の不調と家族の崩壊を記録した作品である。
読み進めていくと、妻の精神異常を和らげるためにと、「私」はこんなようなことを考える。
『相馬に帰ろう』
紹介され偶然手に取ったこの本のこの文章を読んだ時、私は名状し難い不思議な感じに襲われた。
私は、相馬地区で生まれ育った。島尾敏雄も相馬地区がふるさとだったのだ。
正直言って、私はふるさとがあまり好きではなかった。自然はたくさんあって、野馬追という伝統も素晴らしいが、若者が志を高く持つには小さすぎる街だと思った。私はどうしたらなんとも言えない閉塞感を打破できるかを考えては、多分無理だろうなと半ば諦めの感情を胸に秘めていた。
東日本大震災が起きた。
私は生き残った。住んでいる地域は原発避難指示区域には入らなかったものの、鉄道などインフラは寸断され、私たちは転居した。都会に。
それからの私の生活は非常に充実したものとなった。幸い、福島出身と明かしても白い目で見られることはなく、田舎にありがちなデキる人の足を引っ張る風潮もなかった。意欲ある人が存分に学び体験できる施設があり、尊敬できる人がいた。若者がより広い世界へ飛び立とうとする意欲を持つには充分だった。
東日本大震災が起こって6年になる今、私は東京で高いレベルの教育を受けられている。あの地震でおぞましい数の人が亡くなり、今も苦しんでいる人が大勢いるが、私にとって6年前の地震は人生を大きく変えた分岐点であったように思える。あの地震がなければ、私はここにはいない。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。嫌だったふるさとから、私は逃げるようにしていなくなってしまった。どうすればいいかわからなかった。何か違うのではないか、という気持ちが渦を巻いていたが、田舎を離れられる開放感でそれを押さえつけてしまった。大震災を美化してしまった私の思考が正常なものなのか、若さゆえの過ちなのかは未だにわからない。
小説の中で島尾敏雄が相馬に帰ったのは、崩壊してゆく家族とのギリギリの人生をやり直す力を、故郷に感じたからだと思う。多くの人が、故郷を自分の人生の原点にして、そこの原風景を大事にしているように。私が捨てた故郷のそばには、未だに立ち入りが禁じられ、人々が帰ることすらできない場所がある。彼の郷里も最近、立ち入りが許可されたばかりで、復旧・復興とは程遠い。故郷に帰ることさえ一生叶わない忸怩たる思い、悩み苦しんだ時に自分が生まれ育った場所が変わり果ててしまった悲しみ、いわれのない差別に苦しみ、福島出身ということに引け目を感じている子どもたちの心情にどうやって接したらいいか分からない。故郷を追われ苦しんでいる人に少しでも助けになるように日々研鑽を積んで、その人たちを助ける力、次に世界を揺るがす大事件が起きた時に多くの人を助けられるような力を養うことが、震災をチャンスと捉え故郷を捨て去った自分の贖罪だ。
自戒として、ここに記しておく。
アニメでオサレな雰囲気にハマり、先が気になったので今出てる単行本を全部買って読破した。丁度完結していたのもポイントが高かった。
読み終わった感想としては、すごく面白かった。最初の方のノンビリとした役人的な話から段々と上層部でクーデターの話が出てきたあたりから主人公の周りを巻き込んで話がきな臭くなっていき中々読んでいて先の展開が分からないためワクワクした。最後の展開も政治ゲームを上手く主人公が活躍して乗り切ったドンデン返しとか、意外な人が黒幕だった所とか唸らされた。
アニメは3話まで見て、その後原作に手を伸ばしたが、1クールで終わるペースにはどうも見えない。どう構成し直すんだろうか?大変面白く、各キャラ魅力的なので是非とも削られずにいて欲しい(特にスイツの話が好き)
作画も良いし、ラノベアニメに飽食気味な人とか、攻殻機動隊みたいな政治ゲームが好きな人は是非とも見て欲しい作品である。監督も夏目監督だし、安定だし。是非とも見て欲しい。