はてなキーワード: 歴史的とは
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39202060Q8A221C1LA0000/
香川県は20日、2016年施行の無電柱化推進法に基づく県無電柱化推進計画案を発表した。電柱や電線が主要観光地の景観を損ねているとして、無電柱化を優先的に進めていく方針を掲げた。新たに国の特別名勝である栗林公園(高松市)周辺の県道などで無電柱化に取り組む。
20年度までを対象期間とした新たな事業計画をまとめた。防災、通学路の安全確保、主要観光地の景観改善を3本柱に7.06キロメートルの道路で無電柱化の工事を開始する。
おおー凄いと思うけど、そんな短期間で進むのかな。
会員向け頁はみていないけど。
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20181208/CK2018120802000213.html
金沢市と長町景観地区まちづくり協議会は七日、土地の利活用や建物の外観などに一定の制限を設けるまちづくり協定を締結した。景観と住環境を守り、歴史ある町並みを継承してさらに住みよい町にする。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/list/201811/CK2018112502000162.html
まちなみ建築部門は三件。形や色調で周辺住宅との調和に配慮した「おおた歯科・小児・矯正歯科クリニック」(金屋仲町)や、「吉澤保全株式会社新社長室」(葛生東)、「豆柿のある家」(堀米町)が選ばれた。
豆柿のある家の写真を見ると、あまり日本的でないように見えるが?
https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2018/11/post-60.php
京都市が、歴史的景観の保全を目的とした建物の高さ規制について、緩和する方針を打ち出している。オフィスや住宅の開発を促進することが目的だが、景観の保全を重視する住民からは反対の声が上がっている。
都市景観は長期的に見れば貴重な財産であり、利益を生み出す源泉にもなるので、本来であれば多くの議論を重ね、再開発する場合には高度な戦略性が必要となる。諸外国ではコストをかけることで古い景観を残しつつ、新しい開発を進めるという事例も珍しくないが、経済的に貧しくなった日本ではこうした議論をする余裕がなくなりつつある。
こっちは残念なニュースだな。
日本も韓国も歴史的にずっと竹島は自国の領土だと主張してるんだから、少なくとも表向きには竹島を取引材料になんてしない。
竹島の代わりに何かを譲歩すれば、いままでの主張にやましい部分があったと認めることになるから。それでは自国の世論を納得させられない。
https://globe.asahi.com/article/11530020
思うに、民主主義を素晴らしいと思えるかどうかという問題は、他人(もしくは大衆)の理性や道徳を信用できるか、という点につきるのではないか。
もし、他人の理性や道徳が信用に足るならば、投票によって選出された政党や政治家を受け入れることができる。
そして、選出された政治家の理性が十分なら、独善的な政策ではなく、野党とも議論を交えながら政治を行うことができるだろう。
当然、野党となった政治家の理性が十分ならば、建設的な反対意見と与党側との議論により、いわゆる少数意見をある程度なりとも反映する政策を与党側に提案し、説得することもできるだろう。
これは理想。
だが、現実的にはそんなことは成り立たない。
政治の場面では、例えば与党が他者の意見に耳を傾けず独善的な動きをすれば、野党側もヒステリックに反応することで、その対立は時間を経るごとにエスカレートする。
他国のことはわからないけど、少なくとも日本では上述のような理想は絵空事だ。付和雷同の傾向が強く、議論が成立しない日本人にそのような理想ができようはずがない。
そんな歴史的なことを言わなくても、Web上でも片方が極論ともいえるような内容を声高に主張し、他者はヒステリックに反応するか、無視をするという光景はよく見る。とくに現在は、Webなどの発達により意見を主張するハードルが下がっているから、そういう光景が多くなり、両者の間の溝は大きくなるばかりである。
Webの発達した現在では、そのような他人との精神的な溝を自覚しやすくなっている。つまり、他人の理性や道徳を信用しにくくなりやくすくなっているのが、現在なのではないか。
現在のような状況では、民主主義に対する疑問が出てきてもおかしくはないと思う。とはいえ、他者の意見を軍事的に潰すような政治形態は論外だ。
「軍事政権だって、いいじゃない」という学生たちって記事のブコメ見て思ったんだけど、このレベルの脳みその持ち主が上から目線で政治語ってるとか頭クラクラしてくる
アフリカで民主主義が根付かないのらなんでなのかとか考えもしない
お前ら戦国時代にもどって統一国家がない時代に民主主義でリーダーを選びましょうなんて通用すると思うか?
無理なんだよ
どこの国も血で血を洗うような争いの果てに1つの国が生まれてくるって当たり前の事実を知らないのかよ
その必然性を否定するたか単純に歴史を知らない馬鹿なんだなとしか思えない
その軍事政権のような武力を背景とした強い政権じゃないとあっと言う間に国がバラバラになってしまう国だってあるさそりゃ
現実として解放されてないのに、解放されたふりをするのが滑稽だって言ってるんだよ。
更にその上「人類が取るべきスタンス」って言う時点でアホでしょ? だって数的優位の側が少数者にたいして暴力を背景に「これが人類の取るべきスタンスだよな?」って意志を押し付けてるだけなんだから、そんなものスタンスもクソもなくてただの暴力じゃん? その言い換えにどれほど意味があるのかって疑問を呈したわけよ。
弱肉強食から解放されるべきっていうのも特に自明でも説得力もない。そりゃ誰だって暴力に対象になるのは嫌だけど、しかしながらその解放が暴力によるものである時点で、暴力を否定する根拠ゼロでしょ。「俺は暴力でこの社会を支配したんで以後暴力禁止」って言ってるに過ぎないじゃないですか。
歴史的に見て、王侯貴族が専有的暴力で民衆を支配してた時代から、民衆が多数決主義という数の暴力で社会を支配してた時代に変わった。それはでも、暴力の主体が変わったというだけで後者が正しいわけでもなんでもないんだよね。暴力性能で後者が優れていたってだけで。だから新時代により大きな暴力が出てくれば、新しい社会構造になる。簒奪者は他者の簒奪に対して異議を唱える資格ないでしょ、って言ってるだけの話だよ。
まず前提として、安倍政権は歯舞諸島と色丹島の二島返還でロシアとの領土問題を決着させ平和条約を結ぼうとしている、ものとする。
1. 日本はサンフランシスコ講和会議で択捉と国後を放棄している。よく言われる、「ソ連が勝手に宣戦布告して占領されてそのまま返ってきていない」というのは間違い。戦後処理を経て放棄している。
2. 逆に歯舞諸島と色丹島は戦後処理を経ていないので、未だ占領状態と言える。なので1955年からの平和条約交渉とその予備交渉において、ソ連は一貫してこの二島を返還するつもりでいた。
3. 上の平和条約交渉が最終的に頓挫したのはご承知の通り。最大の問題は日本側が予備交渉の当初から、歯舞諸島と色丹島に加えて何故か択捉島と国後島の四島返還にこだわったからである。
4. 鳩山一郎内閣が四島返還にこだわったのは、主に国民への人気取りのため。「ダレスの恫喝」は平和条約交渉期間内に起こったとされる出来事であり、大した影響はなかった。そもそも事実かも怪しい。
5. 日ソ共同宣言後も日本は面子を守るために北方四島を日本固有の領土とする立場を堅持している。ソ連やロシアとの平和条約締結は未だならず
ここでスーパーリベラル安倍政権の出番である。国内の歴史的な経緯や面子を無視して二島返還に舵を切ることができる安倍政権はとても評価できると思う。
## 追記
出典がなかった。
本文中の安倍政権の評価、鳩山一郎が四島返還にこだわった理由が脆弱な政権基盤を維持するための人気取りという推測は俺のものである。
それ以外は「日ソ国交回復秘録」にもとづく。この本は日ソ共同宣言までの予備交渉と本交渉において全権大使を務めた松本俊一の回顧録に注釈をつけたものである。原本は「ダレスの恫喝」の唯一の一次資料でもあるらしい。
日本が豊かでない要因の一つは、海外でモノをうまく売れなかったからだ
海外で売れずに、国内の市場はどんどん外資に取られているのが現状だ
という方もいるかもしれないが、それで利益はどれほどあるのか?
GAFAは明確に日本市場を分捕っているが、それは自然なことなのだ
グローバル化での市場参入の障壁を自国だけ堅持すると国際的な非難にあっておしまいだ
この状態でまずやるべきことは「いかに海外に自国の製品を売るか?」ということだ
昔のように価格優位性で勝負できないときに登場するのがマーケター
彼らはブランド、技術力、製品の有用性など、いかにモノを売り込むのかが商売だ
こういうものは大学の基礎研究と同じで、パッと突然生まれるものではなく積み重ねの果てに生まれる
マーケターを排斥するならば、広告力でなくニーズにこたえる製品力も失われる
マーケターとは重要な職業なのに日本は歴史的に地位が低く、「マーケターごときが」儲けやがってという発想になってしまう
もう少し冷静になってマーケターの価値を見直してやる時が来ているのではないか
本でよけりゃ日露戦争は「陰徳を積む銀行王、安田善次郎伝」北康利
なんかどうだ?
それから、二次大戦のトラウトマン和平工作は「失敗の本質」戸部良一他
なぞいいな。
そもそも、この手のは歴史的には有名な話だからURLは他に出せるんだが。
http://keikomatome.blog.fc2.com/blog-entry-1032.html
https://diamond.jp/articles/-/97855
http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/torautoman.html
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-4ccf.html
なんだな、と思った。
今日見た隊長の記事は 中年男性の心情の吐露として非常に興味深かったのだが、ブコメではお前が言うな系のコメントであふれてたし、童貞は美しいなんてはあちゅうが言ったらぼっこぼこだったのに、ニャート氏がいうとなんて優しい人なんだと褒められていた(ついでにいうと告ハラは滅しろというはてな民がニャート氏の告ハラには なんて優しい人なんだっていってた)
いやいや、これは今に始まったことではなく昔から。ホリエモンもそう、小泉旋風もそう。結局テキストをどう読み解くかに任意性があるせいなんだろうな。
どんなテクストであっても真理性・慈しみが含まれている。その一方、欺瞞・傲慢・偏見もまた含まれている。自分が好意的に読みたければ、そのように読むし、悪意や反発を持って読みたければそのように読む。どのように読むかはテクストの内容はもちろん、テクストが誰によってもたらされたものなのかであったり、自分の党派性によるところが大きいのだろう。
はてブのコメントなんてたった100文字で Twitterは 120 文字なので、なおさら 自分の読みたいように読めてしまうのだろう。逆に言えばどう読んだかは自分がどう読みたいのかをある程度浮き彫りにしてくれる。
はてブのコメントはその点面白いよ。「女性は抑圧されているんだ!」みたいなコメントを付けているアカウントのブックマーク一覧をみるとそんなコメントばっかりしてるし、「KKO をいじめるな。KKO はかわいそうなんだ」みたいなコメントを付けているアカウントのブックマーク一覧を見るとそんなコメントばっかりしている。
文系的なバックグラウンドの人は、古典文学・歴史的な資料・各種思想など、総体としては価値があるけど 部分を見ると時代背景的だったり社会的な制約で明らかに間違った言明が含まれているテクストを相手にする。そしてそこから価値をすくいとる、という作業をする。なので、不完全・不明瞭なテクストの読み方が上手いんじゃないかなあと思う。一方、理系的な学問ではそういう作業は基本的に不要だよね。
テクストをどう読むかという現象に対して、文理の違いがどのように表れるかは不明だけどそういう観点では文系的なメンタルモデルを持っておくことは重要なのかなあと思う。どうも理系的な人間は「文章は明晰で一意に意味付けされるべき」みたいな固定観念に縛られている気がする。自分もそうだけど。
ブコメで「(記事が)何言っているのか意味不明」みたいな知能指数が低いコメントをするのは、本当に知能が低いのか、上記のような すくい上げて読むという習慣を持たない人の発想なのかなあとも思った。