なんだな、と思った。
今日見た隊長の記事は 中年男性の心情の吐露として非常に興味深かったのだが、ブコメではお前が言うな系のコメントであふれてたし、童貞は美しいなんてはあちゅうが言ったらぼっこぼこだったのに、ニャート氏がいうとなんて優しい人なんだと褒められていた(ついでにいうと告ハラは滅しろというはてな民がニャート氏の告ハラには なんて優しい人なんだっていってた)
いやいや、これは今に始まったことではなく昔から。ホリエモンもそう、小泉旋風もそう。結局テキストをどう読み解くかに任意性があるせいなんだろうな。
どんなテクストであっても真理性・慈しみが含まれている。その一方、欺瞞・傲慢・偏見もまた含まれている。自分が好意的に読みたければ、そのように読むし、悪意や反発を持って読みたければそのように読む。どのように読むかはテクストの内容はもちろん、テクストが誰によってもたらされたものなのかであったり、自分の党派性によるところが大きいのだろう。
はてブのコメントなんてたった100文字で Twitterは 120 文字なので、なおさら 自分の読みたいように読めてしまうのだろう。逆に言えばどう読んだかは自分がどう読みたいのかをある程度浮き彫りにしてくれる。
はてブのコメントはその点面白いよ。「女性は抑圧されているんだ!」みたいなコメントを付けているアカウントのブックマーク一覧をみるとそんなコメントばっかりしてるし、「KKO をいじめるな。KKO はかわいそうなんだ」みたいなコメントを付けているアカウントのブックマーク一覧を見るとそんなコメントばっかりしている。
文系的なバックグラウンドの人は、古典文学・歴史的な資料・各種思想など、総体としては価値があるけど 部分を見ると時代背景的だったり社会的な制約で明らかに間違った言明が含まれているテクストを相手にする。そしてそこから価値をすくいとる、という作業をする。なので、不完全・不明瞭なテクストの読み方が上手いんじゃないかなあと思う。一方、理系的な学問ではそういう作業は基本的に不要だよね。
テクストをどう読むかという現象に対して、文理の違いがどのように表れるかは不明だけどそういう観点では文系的なメンタルモデルを持っておくことは重要なのかなあと思う。どうも理系的な人間は「文章は明晰で一意に意味付けされるべき」みたいな固定観念に縛られている気がする。自分もそうだけど。
ブコメで「(記事が)何言っているのか意味不明」みたいな知能指数が低いコメントをするのは、本当に知能が低いのか、上記のような すくい上げて読むという習慣を持たない人の発想なのかなあとも思った。
後段の話、自分は文系だがそうかもしれない。少なくとも自分はテキストの読みにしても調査にしても、対象を信頼できる根拠がないので常に注意深く読もうと努める。例えば偉人の自...