はてなキーワード: 歴史上の人物とは
基本的に、悲劇にあう元の主のところに行き、刀剣男士はこれを止められない、悲しい、なんて過酷な使命なんだ!
って話しか無い。刀剣男士は常に可哀想な人を助けられないことを悲しむのが毎度繰り返される。
遡行軍は刀剣男士が可哀想な人を殺さねばならない立場になるための、舞台装置だ。
悲劇的な元主を持たない人気キャラを使うために、最近は歴史上の人物に成り代わり追体験するという手法を使い始めた。
悲劇を追体験すれば悲しい、しんどいのは当たり前だ。そして結局、助けられない悲しい使命を見せつけて終わる。
正直「またこの流れか」と思うことは観劇中何度もあったのだけど、ライブパートで「まあいいか」となっていた。
刀剣男士が曽我物語を主に言われて演じましたって、なんで? 片方の刀が出てくるから?
でもどストレートに曽我物語やっただけで、刀剣乱舞的なアレンジもなく、刀剣男士であった必要性とか無かったよね。
見ている最中、いつ刀剣乱舞らしい部分が入ってくるのか、アレンジされるのかと思っていたけど、
何のひねりもなく終わって唖然とした。何を見に来たんだっけと思った。でもライブで頭パーになった。
役者は格好いいし、歌もうまいし、ダンスも良かったから楽しかった。
ただ、前半の物語の部分では空いていた席に、ライブパートになったら人が入ってきて、結構な席が埋まったことの意味はわかった。
もしかして他のミュでも、ライブのみ来てた人がいたんだろうか。
技術力のあるゲスト役者さんの芝居は見ごたえがあったけれど、自分は刀剣乱舞を見に来たのであって、それだけをみにきたのではない。
コロナで舞台が飛びまくったおかげでストーリーを思い返すようになり、凄く気になるようになった。
けれど何十年も人間に成り代わるのは、さすがに歴史修正だろう。
そんなに長く干渉しつづければ、その時間軸は放棄された世界になってるだろう。
飲み込むには大きすぎるご都合主義だった。ファンタジーで片付けるにも限度がある。
なにより葵咲本紀で、みほとせで石切丸が裏でやったことが明かされ、
厚樫のことを考えたら、それはやってはいけなかったことだろう。止める側じゃなかったか。
今剣は駄目だが、自分は特別に良いのか?生き延びた説があったからOKっていうなら、義経もモンゴルに送ってやれよ。
土方だって生き延びた説あるよ。どうなってるの。すべて見ていればこそ、納得行かない。
その近藤のことに関しても、蜂須賀が代わらなくても長曽祢は事をなしただろうから、長曽祢はその後も任務に出せるけど、
刀剣男士の勤めを果たせないと言い切って泣き崩れた和泉守は、この先重大任務には出せないだろう。長曽祢とは違う。
悪質なSEOポイズニングとか、風評被害や誹謗中傷が検索上位に出てきたりとかが汚染って言われるのはその通りだと思うんだけどさ。
今だと某偉人召喚ゲーとか、少し前だと某歴史無双ゲーとかがきっかけで「人物の名前を検索したらキャラクターばかり出てきた!」ってなる現象を汚染呼ばわりしているのを見るとかなり違和感を覚える。
いや汚染って言うけど、純粋な需要に対する供給の結果だろ、と。
その検索エンジンの多くのユーザーがその結果を求めたからそういう風に適正化されただけだろう、と。
文句言っている奴らはオタクがイラストを検索する以上の頻度で歴史上の人物の肖像画を画像検索しているのか?
歴史のお勉強中の子供ですら、教科書見ればだいたいは事足りるんだから滅多に検索なんてしないだろ。
検索エンジンは私企業であって、公的な教科書じゃないんだから、公正公平で教育的で万人が求めるような結果を出す義務なんてない。
自分のところのユーザーが求める結果を表示するのは当然のこと。
(まあ実際に検索エンジンの運営会社が現状を良しとしているかは分からないけど、仮にそうでなかったとしてもSEOロジックを組んでいるのはその会社なんだから、少なくともキャラクター側が悪いというわけではないだろう)
ウィッチャー3を70時間ほどプレイしていまだラドヴィッド王に会う手前くらいでクリアしないまま、初アサクリのオリジンズをちょっとだけ試しにはじめたらこれが面白すぎて、移動の制限多いウィッチャーからだもんでフリーランで本当にどこにでも登れてしかもスタミナなんて制限システムもないってのが余計にノンストレスでやめられなくなってしまった。個人的なことだけども、建物もやたら大きくて開けたシチュエーションが多いので3D酔いしづらいってのもあった(ピラミッド内部は除く)。
シワにいたころは木材とか材料集めどうすんだ…って思ってたのに、アレクサンドリアについてからの輸送部隊襲撃が楽しすぎて、鷹の目で確認→馬で向かって襲って次の獲物を探すという盗賊プレイめっちゃ捗る。あまりにも盗賊プレイやりすぎたせいか、Yボタン暗殺の字が出た途端とりあえず暗殺しとこっかというプレイになってしまう。あとウィッチャーだと好き勝手にクエストクリアしていくとレベル上げとかで後で苦労する羽目になったりと微妙に面倒くさい仕様になってたりで素直にクエストの消化をゲーム的に楽しめなかったのだけれども、アサクリはその辺とくになくて好きにガンガンクエストクリアしたり、無限クエストあったりそこらの敵倒してもちゃんと経験値入ったりでゆるいので考えなしにどんどんクエストクリアできるのが楽しい。
映像とか実際の歴史的な知見に基づく作り込みは言わずもがなだけど、死体を水に入れたら血が広がったり、水中に浮いてる壺に乗れたり、炎が燃え広がって焼け跡が残ったりでそういった細かい点も面白かった。それと、いつもはゲームやってても高所で恐怖を感じたことはなかったのだけれどもアレクサンドリアの大灯台を登っているときには掴まれるところの不自由さなどもあってかはじめてゲームで恐怖を感じてしまった。
戦闘面に関しては暗殺メインのゲームだしでどうしても多数に囲まれたら煙に巻くくらいだったりと地味なんだけどもその辺オデッセイだとファンタジーな技が使えたり、防具にも意味が合ったりと順当にパワーアップしているみたいなのでいつかやるであろうのを楽しみにしておく。
そんな感じで、まだストーリーは序盤の序盤でレベル30程度で遊んで大体は不満はないんだけどオートセーブしかないのだけはクソ。色々探索しますよってクエストでうっかりいきなり正解引いてしまってよく話がわからんまま進んでしまいやり直そうとしてもできないしでこの仕様だけは本当にやめてほしかった。
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100時間ほどかけてサイドクエストを全てクリアしてレベル40超えになった後、一気にクリアした感想としてはストーリーとしてはシンプルな復讐劇と歴史上の人物がちょこちょこ関わってくる感じであまり歴史知らなくても楽しめた。
海外ゲーだから子供バリアで大丈夫だろなあと思ってたら、息子ぶっ刺しもだけど他にも割とエグい殺され方をしたのは驚いた。
ただアヤパートはゲームとしてつまらなかった。何が悲しくてラストバトルでそれまで使ってたプレイヤーと違うキャラでしかも下位互換のキャラを使わされる羽目になるのか…。ウィッチャー3でもシリ操作パートあって色々制限プレイを強いられてはいたけれども、あちらはシリならではの特殊行動があって面白かったし、せっかく別キャラ操作させるのだから何か特殊な技が使えたりくらいしてくれればよかった。それが面倒だというのならそのままバエクの能力全て使えるでよかった。
AIで美空ひばりを再現しますっての、個人的には気持ち悪いなぁ。マイケル・ジャクソンとかの時も思ったけど、自分の死後とはいえ、自分にそっくりの何者かが自分の顔形声で自分の知らない活動を始めるんでしょ。歴史上の人物とかと違ってこれからの死者はほぼ100%本人に見える再現が出回るようになる訳で、下手したら生前の行動や考え方も修正させられるかもしれないじゃない。今回の場合、息子さんがOK出してるんだからいいじゃないという方もいるかも知れないが、俺は自分が再現される立場になったら家族がなんといおうが嫌だね。これから晩年を迎える有名人なんかの中には「私は再現しないでね」て遺言を残す人も現れるんじゃないだろうか。
どうもMidasファンです。
もう少し左翼に好意的に言っておくとこの件(「消すぐらいならやるな」と憤慨してるひとがいるように)「政治は政治でちゃんとやれよ(天皇制を打倒したいなら『表現の自由w』とか言ってないで現実で打倒しろ」につきる。めざすべきはあくまでも現実世界での天皇制廃止ないしは社会改革であって展覧会で「これがボクたちの考えた芸術です」は単に『表現w』の世界へ逃げこんでるだけ(「現実では何も変えれない」敗北宣言にこれも等しい。
このへんの不純さ、不誠実さが(右翼のみならず)いわゆるノンポリのひとたちの嫌悪感を誘ってるのは疑いないので。結局「歴史上の人物だから問題ないですよね」がいまだに大失言だと気づいてないのはそういうとこ。「これは表現の自由だ」が『政治』になりうるためには当然ながらそんな2代まえなんかの肖像いくら燃やしてもアクチュアリティのかけらもないわけで(「歴史上」は「ノーカン」でしかないので)いまの天皇を燃やすべき。ところが令和の陛下が犯した悪行といえば柏原芳恵にラブレター書いたのと嫁の生理があがってオトコみたいなツラになったくらいしかないのであってその責任を問おうにもポイントがみつからない(お人柄もいいらしいし。
「2代まえのひとだから(歴史上の人物なので」と『表現の自由』だけを切り分けようとするほど政治的には効力を失ってしまうというジレンマがある。「いいかな?」とか言ってる場合ではないのである。かんたんにいうと今回の件が決定的にダメなのは(ちまたで言われてるような)「芸術の政治化(本来はニュートラルであるべき美術の世界に稚拙なプロパガンダ芸術をもちこんだ」からではなく逆「政治を美術化した」から。
政治の美術化とはいうまでもなくファシズムの最も簡潔な定義なので。政治を美術館での鑑賞の対象にするとは現実世界の矛盾を一見みんなで共有してるようでその実は単に審美的な判断をくだすだけ。くり返しいっとくが政治をギャラリーでの鑑賞の対象にして「考えさせられました…」とか言ってるのは現実改革をあきらめたしるしでしかないのである。政治を展覧会のネタにしてはならないとはそういうこと。
たぶんガイジンさんには今回の「表現の自由」いったいなにを争ってるのか全く理解できてないと思う。ちなみに「表現の自由がー」必死に言ってる連中もこれが極めて日本的な『どこに由来してる』か自覚してない。
(まさかと思うかもしれないが)この『表現の自由』はいわゆる『朝日的な』もの(サヨクん)ではなくルーツは雑誌『ぴあ』にある。町山が「はあ…昔の『ぴあ』はよかった…」言ってたのを軽くみてはならない。日本の68年以降の文化史ではそれまで『朝日ジャーナル』を小脇にかかえて歩くのが学生さんヤングのひとたち『かっこいい(政治意識がある』と言われてた。雑誌『ぴあ』はまさに『朝日ジャーナル』の次にあたる。朝日ジャーナルにかわってこんどは『ぴあ』をかかえて歩くのがかっこいいヤングの条件(ちなみに朝日ジャーナルのまえは『平凡パンチ』とか)になった。『ぴあ』がかっこよかったのはいわゆる『情報誌』だったから。
ロードショーから場末のポルノ歌舞伎展覧会にいたるまで情報を『差別』せずフラットに扱った最初の例が雑誌『ぴあ』。フラットに扱うとは『価値判断をしない』。ただしこの『価値判断をしない』がくせものであって…「町山さいきんクソサヨクになっちゃってどうしたの…(脳に毒がまわったのかな」ふしぎに思ってるひとも多いが情報のコンテクストにおける『価値判断しない』は結局は「愚弄する(冷笑する。もちあげない」なので津田やあずまくんにしてみれば「まさかこんな反発くらうとわ…」なのもまあわかる。あの「歴史上だから、まいっかと思って」もホントだったら慰安婦像つくったひとにむしろ「ふざけんな!」言われてるべき態度。
慰安婦像つくったひとは(わたしにいわせればデタラメもいいとこだが)マジで「日本人よ…はんせいしろ」思って(たぶん)あれつくってるので。津田やあずまくんがやってた「表現の自由」実はそこまでの政治性はない。
雑誌『ぴあ』が今週おこってるいろんなイベントをおもしろおかしく無差別にとりあげれたその点において表現が自由だった(ロマンポルノのとなりにハイソな演劇が並んでてよかったね自由な社会で)くらいのニュアンス。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。
高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。
みんな(とくに憲法がくしゃとか)大いに勘違いしてるけどこれ要するにそういうことなので(どうしてこんなかんたんなことがわからんのだという感じ。なぜそうなるかというとつまるとこ『インダストリー』のもんだい。たとえばこんかいあずまくんいきなり前言ひるがえしたりして「なんなのこのひとは…(このていどのこと最初からわかれよ」思うひともたぶんたくさんいるはずだが別に彼らに一貫したものなどありはしないので、こないだまで河村disってたはずのあずまくんいきなり「津田がわるい」になるの丸山ぎいん「みなさんNHK受信料はらうのは国民のぎむ」からの「NHKぶっこわす!」入りと全くおなじ。
インダストリーの問題とはすなわち文化産業の問題であり雑誌『ぴあ』の「表現の自由」が成立してたのはみんなが中産階級だと思ってたから。永六輔とか旧NHKこうした平等な社会の構築に焦点あわせてたしこの環境の産物。こうした文化産業の仕組み(従事してるひとたちも含めまだ巨大なインフラが半ば廃墟と化しながら残ってる)いまどきこれでやってけるはずない(もう残念ながら時代おくれ)と誰もが思ってるのは確かなので。
若干専門的な話でしめとくと(もうネットにたくさんいる情報産業のひとにとっては常識だろうが)おどかすようですまないがこれからは「情報をフラットに」ではなく「差別と排除」の時代なので(あれこれいってもムダ。差別と排除とはゲートキーパーが誰をはじくか決めてその(誰でもゲットできるはずの)情報へのアクセス権がそのひとの社会的な地位をしめすアレ(要は「ブロックだ!」「不可視にする!」みなさん楽しそうにやってるやつ。
表現の自由なんかよりそっちのほうがよっぽどだいもんだいじゃないの?wという感じだが世の中よくできたものでホントに重要なことは展覧会のテーマになんかなったりはしないのである(みんなのメシの種になってるから。