はてなキーワード: ポメラニアンとは
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個人の感情に任せた場合に、大型犬よりポメラニアンの方が寄付が集まりやすいという前提は正しいと思う。
ポイントとなるのは、寄付が集まりやすい順番に救済されていった結果、最終的には大型犬を含むすべての苦しんでいる対象が最低限必要な水準に至るまで救済を充足できると寄付する人間が信じているか、だと思う。
つまり「順番に多少の前後はあれど、ポメラニアンが救済されれば次には中型犬、大型犬に同情が集まるようになり、結果としてすべての犬が救済されるはず」と信じている人にとっては、とにかく目についた可哀想な犬に寄付を行うのは、(最善ではないにしても)概ね正義にもとる行為ではないと思われる。
一方、諸々の理由により救済が大型犬に行き渡ることはないと考える人ならば、寄付を正義にもとる行為だと感じる傾向が強くなるだろう。
救済が大型犬に行き渡らないと感じる要因としては、
・救済に充てられる全体のリソースが明らかに不足していると感じられる場合
などが考えられる。
そして、この中でより考え方の違いが出やすいのは後者の「救済されたと見なす水準が高い場合」ではないかと思われる。
救済を急迫した危機からの脱却(必要最低限の状態の確保)のためだと考えている人ならば「とにかく今、危機的状況にある人には手当り次第に支援を行うことで、世の中から危機的状況にある人をゼロにすることができる」というロジックは比較的すんなり受け入れられるものだと思うが、救済を可哀想な要因の完全な排除(対象の状態を世の中の平均水準まで押し上げること)だと考えている人ならば「そんなリソースあるわけ無いじゃん→個人の感情で救われるやつを選別するのか?」と感じるのも自然だろう。
この話でまず思い浮かぶのは心臓移植に募金した前沢や擁護した坂上が叩かれた話だろ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kaigyou-turezure.hatenablog.jp/entry/2019/07/03/193556
ポメラニアンと大型犬の比較の極端な例が日本の子供と順番を飛ばされる外国の子供なわけだ
多様性という生存戦略を、遺伝子の進化だけじゃなく思想(ミーム)の進化にも使っているから。
生命は突然変異した遺伝子が、環境に応じて生き残ったら次の世代に伝えていく、という戦略を取っています。
こうすることで全体としての多様性を確保し、カンタンに全滅するのを防いでいるのです。
逆に人間が調整して作り出したバナナは一様なクローンなので、栽培しやすい反面、ひとつの木が疫病にかかれば、すべてが共倒れするリスクがあります。
人間の頭の中にある考え、ミーム、もまた、他者に伝達される中で変化していきます。
keshimini 属性による偏りが問題になるのは例えば税金のような公正な分配が求められるリソースであって、増田の財布の中身は増田の好みで自由に使って良いんだよ。増田の考えは究極まで突き詰めると私有財産の否定になる。
IthacaChasma 増田が吉野家で牛丼を食べることが、すき家で働くバイトや、マックの食材を生産してる農家や、サイゼリヤの経営者を差別していることになるか? 答えは「ならない」。私有財産の使い道を選択しただけ。
おそらく、どちらかが一方に影響を受けて書いているでしょう。
ポメラニアンに財産を割くのを正当化する一方で、黒い犬を助けると言っている人もいます。
日本政府が完璧ではありません。おそらく、完璧になるのは難しいでしょう。
言論による自由なミームの交配を促すことで、増田さんがなさったようにミームを競争にさらし、向上する余地を与えて
だけど、現実はそうなっていない。
自民党裏金問題で明らかなように、私利私欲にまみれた政治家が法律を定め、行政がそれを執行する限り、
どこかに偏りがあり、見落としが生じる。
国の平等な救済から外れた部分を、個人が見つけて救済してやれば、全体として真の平等が実現する。
ある者は黒い大型犬が可哀そうだと寄付し、別の者はポメラニアンへの救済が不足していると考えてポメラニアンに寄付する。
個人の価値観の多様性を活かすことで、救済の幅を広げるのは悪いことじゃないよ。
おもしろい。自分は寄付をする人間で、存分に選り好みして寄付しているのでその観点から書こうと思う。また自分は犬には寄付しない。ほとんどは被災者である。
自分は寄付には差別的要素があると思う。そして、そもそも寄付は究極の善でもないと考えている。
それから自分がやっている寄付は全く善と考えていない。もっと利己的なもので自己満足感を満たすためにやっており、投資や物品購入に近い考え方をしている。
どちらかといえば自分がやっているのは贖宥状購入のような悪徳に基づく行為である。
ただしここで「差別的要素があるならすなわち善ではない」と考えると危険であると思う。それは完璧主義的な意見だろうと思う。
これは自分は、世間の欺瞞に対する挑発だとも考えている。普段は比較的「悪」なくせに、そういうときだけ調子のよいことを言う人間がいる。あたかも「自分は善側の人間ですよ」と振る舞っていること・自分が選んだものを助けたことに満足していてその他には一切憐憫の情を向けない「ほかを悪と断罪するための正義」を感じているのもあるのではないか。「やらない善よりやる偽善!」と言って、やらない者を「悪」側に落とす文句もある。
もし多くの人間に対する不信感がある場合、選ばれなかった方に目を向けたくなる。彼彼女らが助からないのなら、それは善といえるのかという話のようにも見える。
自分には、増田は「嫌われている方を助けたい」という考え方があるようにも見えている。ちょうど増田が考えていることはロールズの「無知のヴェール」の話にも通じるのではないか。これは個々の立場を忘れるヴェールを被ってから正義を考えようという概念である。この概念はそこそこ有名だが、それほど一般的ではない。ほとんどの人々は伝統的な倫理観にしたがって寄付などを行っているはずだ(※ べつに揶揄しているわけではない)
ただし差別うんぬんよりも、もし「すべてを救えないのなら救うべきでない」とすればこの世のほとんどは何も救えないことになる。われわれは有限の資源の中で生きているので、絶えず不足にさらされている。不足している中では選別が必要となる。
このあたりはトリアージ等の動画を見ると非常によくわかる。属性のせいで助けてもらえないというのは悲しいものである。何もないまま助からなかったよりも、助けられそうな資源が目の前にあるのに助けてもらえなかったという絶望はたしかなものだ。それが現実である。現実は理不尽であり不公平である。しかしポメラニアンを助けている人も、何も黒い大型犬に思いを全く馳せていないわけではないかもしれない。助けたいが、資源が足りていないために助けられないのだ。
どのように「公平に選別するか」も重要な問題である。こうした点がトロッコ問題などで考慮されていた。選別しなければならないのだ。ポメラニアンと黒い大型犬はその「愛らしさ」に焦点をおいているので、その独善的な部分に嫌悪感を感じるのではないか。善という正義の皮をかぶって差別を正当化しているように見えるのかもしれない。通常、笑って朗らかな態度で選別してはいない。血涙を流しながら、選べないという自分の無力さ無能さ愚鈍さとどこかで折り合いをつけて、否応なく選別している。
そして誰も救わない場合、「どうにも俺と同意見の人間が増えたとして世界が良くなるとは思えない」と言っているとおりのようになるだろう。もしそれが現実となったとき、考え方はどうであれ実際に起こるのは「誰も寄付しない世の中」である。つまりどれだけ困窮しようが誰も何も手を差し伸べはしない。それはポメラニアンや黒い大型犬のみならずすべての生き物が平等に絶望しなければいけない事態であると思う。
人々から金銭を徴収して再分配することはODAなどで一応おこなわれている。
一方で寄付は、自発的に自分の所有財産から抜いておこなっているものだ。これは財産権という強固な概念で守られている。
われわれは「自分の持っているものを自分の使いたいように使っていい権利」を持っている。これらをとりあげて自由に使用することは、自由権や民主主義を否定するものである。
またこれは単純に「世界中で増税する」ということに他ならない。国はそれほど信頼できるだろうか。国同士は同意できるだろうか。現在の世の中ではかなり厳しいものとなる。
また、マクロな問題を持ち出して、ミクロの問題のやらないことの根拠に含めてしまうのはズルであろう。個人的な寄付をすることと、国家群が寄付を集めて再分配することとは次元が違う問題である。
結局増田が言っているのは理想論なのではないか。「あるべき理想の姿」があまりに現実と違いすぎる。今この瞬間にはどうしようもないことを前提としすぎている。遠い将来にそれが普通になることはあるかもしれない。しかし周りから見ればそれは「ただやっていない」「ただ誰も助けていない」のである。
そして実際にその浮いた100円は何に使っているかといえば、個人的な実益に対してなのではないか。これはどう言い繕っても「誰かを助けるよりかは、自らの幸福を高めたい」という行動である。この言はずいぶん切れ味の鋭いものだが、それが事実である。われわれは見ず知らずの黒い大型犬の命よりも、見ず知らずのポメラニアンの命よりも、コンビニのお菓子の方を選ぶことがある。そちらの方が自分にとって幸福だからだ。
増田はもしかすると「誰からも助けてもらえなかった」と感じているかもしれない。だから自分も手を差し伸べはしないのだと。しかし本当は助けられたかったのではないだろうか。助けてもらえない者たちから見れば、この世は邪悪な方が都合がいい。この世が邪悪だから助けてもらえないのだと考えられる。それほど邪悪でないのに助けてもらえないなんて諦めがつかない。
寄付だろうがなんだろうが人の行動は利己的なものであり、己のためにするものだと思う。どちらかといえば、寄付することによって自分が救われているのだ。
べつにこれは自分個人の意見だが、「全員を助けられないのなら寄付しない」と考えるのならば、あまりにもったいないと思う。
誰かを救いたいのなら救えばいいのではないか。
一千万円寄附したとしてそれを被災者10万人に平等に配れば、一人100円。
自分は一千万も寄附したと気分がよいだろうが、もらった方は100円程度もらっても何の足しにもならない。
ポメラニアンを助ける募金をしているのであればそこに集中すれば一匹だけでも助けることができるが、不平等だと言って誰も募金しなければ一匹も助けることはできないということ。
正しく富を分配すれば平等で公正な社会になる、というのは社会主義につながるのだけど
今のところ歴史的に社会主義がその社会を実現した例はない、というのが前提。
国や民間団体や個人がそれぞれの切り口でばらばらに、時に共同で活動をすることで、
平均値的な平等と公平に近づけていくのが人間のできるせいぜいの事だと思ってる。
1円の寄付を1000人にしてもかまわないし、人ではなくモノ(城の復興費など)に1億ぽんとだしてもいい
考えうる選択肢が無数にあるのだから属性とかポメラニアンという考えは全くそぐわない
緊急で選択肢を求められて、ポメラニアンか黒い大きな犬かを選ぶとなったら、それはその場では葛藤するだろう
寄付というのは外部の無関係な人が自分の意志で十分に考慮して行えるものだから
何もしなくとも、何十億を何百人に分け与えても問題がない
あなたほど深く考えない人たちがポメラニアンに寄付しまくってるので、あなたが積極的に黒犬(だっけ?)に寄付してやれば少なからず不平等は是正され、不平等感も解消されるのでは?
では、苦しんでいるポメラニアンの子犬と苦しんでいる黒い大型犬が並んでいて、それぞれ100円を寄付すれば助けられるという状況において、ポメラニアンにのみ100円を寄付するという行為は正しいのか?
どっちにも寄付しないより良いだろ
俺は基本俺個人として何かしらの属性を救済するための寄付などはするべきではないと考えている
何故なら「誰かを助ける」という行為は同時に「助けない何か」を選定することでもあって、
例えば苦しんでいるポメラニアンの子犬に100円を寄付すれば助けられるという状況で100円を寄付するのは一般的には正しいとされる行為かもしれない
では、苦しんでいるポメラニアンの子犬と苦しんでいる黒い大型犬が並んでいて、それぞれ100円を寄付すれば助けられるという状況において、ポメラニアンにのみ100円を寄付するという行為は正しいのか?
というと、その「黒い大型犬を見捨てて愛らしいポメラニアンのみを助ける」という選定の思考プロセスには正義にもとる何かしらがあるように思えてならない
一般的に弱者とされる属性に寄付を行うという行為が差別みたいに言われることはまあまずないだろう
ただ俺が黒い大型犬みたいな立場だったとしたら「ポメラニアンは世間に助けてもらえたけどあなたは助けてもらえませんでした、何故ならあなたはポメラニアンのように愛らしくもなければ同情したくなるような顔もしていないからです」と言われて納得するだろうか?
『差別』という単なる単語の定義に当てはまるか当てはまらないかなんて当人には関係なく、目の前にあるのは属性のせいで選定されて助けてもらえなかったという不平等感と助からないというクソみたいな確かな現実があるだけで、
俺だけが救われない世界であるのなら、俺以外全員が救われない世間であった方がましだろうと俺なら思うだろう
俺は自発的な寄付などは行わない、ただし納税は当たり前に行っているし、再分配みたいなものは国を通してやるべきかと思っている
もちろんこの国は民主主義で成り立っている上に人間が運営している以上、上記のような問題が起こらないわけがないが、それでも個人が感情のままに救済のリソースを再分配するよりはましだと思っている
もちろん国はそのような偏りが出ないように注意を払って税を運用すべきであるのは大前提
こんな考え方をしているんだが、どうにも俺と同意見の人間が増えたとして世界が良くなるとは思えないから、どう間違っているのか教えてほしい
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【Design/Styling】
ルームウェアの3DOGシリーズと連動した、ふわふわな手触りのぬいぐるみです。ウエアと同じお座りポーズを再現したトイプードルは、従来よりもさらにカーリーなニットを使用し、ふっくら丸みのある、愛らしいフォルムを強調しました。手足に重さを感じさせるビーズを入れているので、抱っこすると腕にしっくりとなじみ、まるで本物のワンちゃんを抱いているような気持ちになれます。ほかにビションフリーゼとポメラニアンもラインナップ。お揃いのルームシューズと合わせてギフトにもおすすめです。
※照明の関係により、実際よりも色味が違って見える場合があります。
続き
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
それをあなたがケチだ愛情がないとさんざんなじったから、ここに父の直筆遺言状がのこっているんでしょう。
目の前の日付の違う数枚の「全額妻に」の部分が私をにらんでいるじゃないか。
で、本当に検認などしていないだろうね? 私は一回「検認が~」という話をきいたぞ。
あとから裁判所からみつかったら相続人協議書つくらなきゃいかんのだぞ。
やっぱり司法書士よばなきゃ。そんなに高いわけじゃないんだから専門家をいれたほうがいい。
「うわーん!(=30分ほどの恨み言)」
これだ。 🫲😫🫱
んで分けたい額は?「孫の学費がかかっている子に600万円。私は家屋敷あればいい」でもねぇ、だまってそれやると来年贈与税で15%以上は持っていかれるよ。
「じゃあいくらにすればいいの」贈与税の無課税枠は一年に110万円だね。一人に一度に600万円は無理だ。
「私は遺産とってもうれしかった、おとうさんにパッとつかいはたした浪費家といわれたけど学費にあてられて本当にうれしかった」
ありがたいけど。今の私たちは子供(母の孫たち)の学費にそう困ってもいないんだよ。「うわーん!(=30分ほどの恨み言)」
翌日きた親戚が言い合いの横でぐぐって、実家の家屋敷の路線価評価額が(見積もりの10分の1の)数百万円ていどであることがわかって全額無課税枠で相続可能だし、
ダマテンフリコミ(麻雀用語。まあ普通に贈与税無課税枠)でいいんじゃないのとあいなったんですけどね。
父もこの癇癪にほんとうによく耐えたとおもうよ。マジで。
つまり相続権は愛情のカタにとられていただけだったのである。バカみたいな痴話げんかで役所を巻き込もうとすんな…。
父は読書好きでものしずかで有能で公平だが、ひょうきんであり、派手好きであり、ズルは嫌いだが、クーポンや法律の抜け穴は見逃さない程度にケチであり、ガメつく、ド田舎とはいえ家を二軒も妻にたててやる程度にはお金持ちで、片道一時間以上の通勤に耐えるほと忍耐強く、有能で、母にあたまがあがらず目をほそめてうんうんとうなずき、でも母が理に合わないことや浅はかな法律違反(すぐみつかるやつ)をしようとすると声をあらげることもあり、子や孫を外に連れ出す父である。
なんだこれ。チャットGPTがこれをなんと要約するのか昭和の子供は知らないが、さしずめ「昭和の父」とでもするしかないのか。たれ眉の我慢強い大型犬みたいな感じといえばいいか。
(おそらく外ではクライアントに陽気で気さくな愛想笑いをしながら物件を紹介・提案していたと思われるのだが、母の前では本当に怒りっぽい先生の前の子供のように静かだった)
母は料理と庭いじりと手芸とすべてのリアル育成が好きであり、必要に応じておぼえた自己流断捨離で必要な指輪と書類(葬儀領収書)まで捨てようとする。公的な書類と機械とインターネットでは、今の小学生以下の常識しかない女である。ポメラニアンかチワワかな。ああよく鳴くのはスピッツというのがいたな。
二人とも善良で先走りであわてもので甘えるくせに優しさの表現が下手で、あまりにも能力が凸凹なので今となっては発達障害などといわれるのかもしれない。
ソクラテスはよくいったものだし、片方になっても幸せにしろ、再婚だってしていいんだ。母ももうそろそろ自分勝手に幸せになれよ。
増田は父に似ているし子供のころからハッタツくさい母をささえた(教育虐待を友人にしか訴えないことによって)し
いってみるなら伴侶も子も仲のいい友人もハッタツくさいし増田本人だってハッタツくさいけど
それでも言わせてもらえるのなら、カサンドラはもう終わり!というようなハレバレした気分だよ。
こっそり続報
「私郵便局のおじさんにきいたのよ!夫の口座からでも現金をおろしてかまわないといわれた!贈与税がかからないかをたずねたらそれは税理士に聞いてくださいっていわれた」ああああああ
「で、この車の遺産分割協議書を『ダウンロード』したいんだけどダウンロードってどうやるの?わからない、怖くて出来ないからあなたやって」ああああああああ
こないだファックスしたやつが『ダウンロード』でつくった包括的な分割協議書だよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
メアドあてにワードでも送ったけど「ダウンロード」できなかったんだろうねええええ
ついでに分割案が全部ずれたよおおおおおおおお
ぜんぜん晴れ晴れしない
ほんとうにだれにこの危険物のおもりをおしつけたらいいんだよ
俺、今花見に来てるのよ。
いつもは車で移動する派なんだけど、駐車場もなさそうだったので電車にしたのさ。
当然、激込みの電車だった。
そんな中にベビーカーがいたのよ。
特に何も思わなかったんだけど、よく見たら乗ってるのは犬だったのね。
たぶんポメラニアンってやつだと思う。
知らんけど。
で、犬はちびっこいのに、ベビーカーは結構なサイズで「はぁ?邪魔だな。。。」と思ってしまったのよ。
けど、人間のベビーカーはOKで、犬のベビーカーはNGなんてルールもないしな。。。とも思ったのよ。
とはいえ、あんな激混みの中に、あんなドデカイ物を持ち込むなよバカかよ、という気持ちは消えないわけさ。
作品は「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」だ。タイトルはもうこれしかないので長いのは勘弁してあげてほしい。
配給会社推奨の通称は「エブエブ」で主演のミシェル・ヨーはこれ聞いて爆笑してた。
今作で拡散されてる注意はこれだ。
「犬が可哀想」「犬が傷つくシーンがある」「犬好きは注意」等々だ。
自分はどちらかというと猫派だが犬も好きなので、かなり鑑賞に慎重になった。が、好きな映画の予感があったので「目を閉じよう、シェイプオブウォーターでもそうした」と奮い立たせて映画を見た。
いや、確かに犬(ポメラニアン)なのだが、確かにちょっと可哀想なんだが、どうみてもぬいぐるみなのだ。
そして一方的にやられるわけでもなく、狂犬ポメラニアンとして登場し、飼い主に紐で宙をぐるぐる回され鉄球武器のように扱われる。死んだ描写はない。そもそも異空間なので現実世界では怪我もなく生きている。
これを…まるで犬が虐待されて死ぬような注意喚起されても……!
「明らかにぬいぐるみだよ」と書いた上での注意喚起なら良かったのだが…。
エブエブは色んな映画やサブカルのネタが入っていて、アジアの作品も多くパロディ使われている。
実はこのぬいポメ虐シーン、昔「極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU」という三池監督の映画で哀川翔がチワワ(のぬいぐるみ)を振り回したり蹴り飛ばしたりしてたシーンのパロディと言われている。
あの頃の邦画は好き放題してた印象だ。よく海外の映画祭にも日本映画が出品されていて牛頭もカンヌに正式出品されている。
これもVシネなので一定の層しか見てないはずだが、それでもちゃんと炎上した。ウィキにも書いてるしエブエブ監督もわかってるだろう。
エブエブは監督が見てきた色んな映画の中から印象に残ったシーンを詰め込んだような印象があり、その中の一つがこれだったのだ。
(ぽめぽめし・い)
[形][文]ぽめぽめ・し
とてもポメラニアンらしいの意。
注釈無しに「ポメポメしい」と言ってもなんとなく伝わるのがいい
例えば「ねこねこしい」で「いかにも猫らしい」というように簡単に派生した造語を作ることができる
ただポメポメしいという造語が優れているのは「ポメ」という二文字だけでポメラニアンを連想させうるということ
「いかにもライオンらしい」で「ライライしい」なんていってもなんのこっちゃとなるからな(「レオレオしい」とすればやや伝わりやすいか?だが迂遠な表現に思える)
なので「いかにも○○らしい」という意味で「○○×2しい」という造語を作るなら「○○」だけで何を指すかわかりやすくないといけない