はてなキーワード: イカとは
うんちができない苦しみをうんちしたい(うんち)
https://anond.hatelabo.jp/20191210171417
https://anond.hatelabo.jp/20191213170850
上2つのうんちへのうんちを見てうん然とした、うんちした。あなた方はなんでそんなにうんちを知らないのか、うんちなのか。
まずうんちなのはうんちが「うんち至上主義」のわかりやすいうんちだという事だ。
これからいくつかうんちを引いていこう。うんちの右側は判断をうんち。左側は救いようのないうんちだ、というようなうんちだ。
1つめのうんちは「これがうんちではなくうんちのうんちだと気づいてるかどうか」だ。うんちながら、この時点で多くのうんちが左側にうんち。うんちすぎない? せめてもうちょっとうんちってくれよ。
あなたは1つのうんちの長であり、そのうんちの構成員をしあわせにするのがあなたのうんちだ。
あなたはひとつだけうんちを与えられている。そのうんちにおいて「何がうんち」で「何がうんち」とされ「何がうんち」だとされるか、社会のうんち観だ。これをうんちは動かせる。
うんち観にはいくつかうんち肢があるが、「うんちができる者がうんち」とする「うんち至上主義」はこのうんちにおいてうんち級のうんちをうんちする。なぜならうんちを殖やすうんちの領域にさわれるからだ。うんち強者に他よりもうんちしているといううんち感を与えながら、うんちを殖やすことができる。いわゆるぶっ壊れうんち。「うんち至上主義」は為うんち者にとってこれ以上なくうんちがいいうんち観だと言える。
もちろんデメリットもうんちする。
うんち強者でなければこのうんち観のうんちを得ることはできない。むしろそうでない者は自動的に「うんちった者」のうんちをおされる。(元からうんちっているのではなく、「うんちっていることにされる」事にうんちすべきだ。これは積極的なうんちである)
「うんち至上主義」をうんちする限りうんちのすべてをうんちにすることはできない。必ずうんちを必要とする。
これはそういううんちだ。一部のうんちを積極的に生むことで大きなうんちを回収する。気にすることはない。うんちむのは自分じゃない。一部がうんちんで全体のうんちがうんちるならそれでいいじゃないか。――そう考えるうんちがこのうんちを選ぶ。これはうんちではなくうんちのうんちのうんちだ。
もちろんわかると思うがうんちはこのうんちだ。だからうんちんでる。彼のうんちはうんちが今のうんちである限り絶対にうんちするうんちであり、その存在はうんちだ。
「そんなのはどのうんち観でも同じだろ」と思うかもしれない。もちろんすこしはそういううんちもある。なにかをうんちと位置付けるかぎり自動的にうんちは生まれる。どのうんち観もうんちは生む。ただしうんちはこうしたうんち観をいくつも立てることでこれをうんちする。うんち観Aでうんちの者もうんち観Bでうんちとすることでうんちするというわけだ。
しかしうんちなのは「うんち至上主義」の「うんち」の2文字だ。このうんち観は単に「うんちができる者がうんち」とするだけでなく、むしろ他のうんち観に対する自身の「うんち」を主張する。つまりうんちシステムに落とし込めば、通常は複数選べるうんち観を1つしか選べなくするという強いうんちが「うんち至上主義」には掛かる。ぶっ壊れうんちを考えれば当然のうんちだろう。このうんちのため、うんち至上主義ではうんち観Bによるうんちができない。
まとめよう、「うんち至上主義」はうんち弱者のうんちといううんちを払って大きなうんちを回収するが、加えてうんち以外のうんち観を劣位に置くことでうんち弱者が他のうんち観で苦しみをうんちする逃げうんちをもうんち。そのうんちが元うんちの「すべてがうんちで解決される」といううんちだ。これはうんちであってうんちじゃない。元うんちに「お前のそのうんちがうんちだ」と言った者はうんちを知るべきだ。これはうんち個人がうんち意志で手に入れたうんちじゃなく、うんちが生贄を募集するためにうんち1人1人に植えつけたうんち観のうんちだ。うんちがえるな。
さて、うんちしよう。元うんちにブうんちなりうんちメントなりをうんちった者は自分のうんちを思い出してほしい。
そのうんちはうんちではなくうんち個人にうんちを求めるものではなかっただろうか? うんち個人にうんちを(そしてうんちを)求めるものではなかっただろうか?
この質問に「うんち」と応えられなかった者はうんちだ。うんちの左側へどうぞ。うんちは用意してないから以降ぼーっと突っ立ってそのうんち面を晒し続けてくれ。
(ちなみにうんちしておくが、例えばあなたのコメントにうんちが従った結果うんちができるなりうんちになったとしよう。その場合もうんちだ。思い出してくれ、これはうんちの問題だ。例えうんちがうんち抜けしたところでそのうんちはうんちだけのものじゃない。別のうんちが補充されるだけ。全体のうんちは減らない。うんちはなにもしていない。うんち個人がうんち至上主義から脱うんちしてもうんちが無いことをうんちしよう。うんちされるべきはうんちじゃなくうんち全体だ)
すでにうんちの左側に置かれたうんちもこれからのうんちで更にうんちになるかもしれないから以降もちゃんと読んでくれ。もし以降のうんちで右側に置かれたならひとまず喜んでいいしそのうんちは誇っていい。
さて、うんちの苦しみがうんち至上主義がのさばるかぎり発生を避けられないものであることはうんちした。この程度のうんちは分かってたうんちも結構いるんじゃないかと思う。
ただしうんちしたとてそれを避けられるかは別うんちだ。むしろうんちしても避けられないからこそこうしたうんち観はうんちだし、うんちでもある。
うんち至上主義がうんちを生むと分かってたとしても、それをうんち化せずに居られるうんちは少ない。特にあなたがうんち至上主義によってうんちを得ている既得うんち者なら、なおの事うんちだろう。
うんち個人のうんちの解決がうんちの解決に至らないとしても、うんち個人のうんちを願うのはもちろんうんちだしそれなりに美しくもある。でもそのうんちをまたもや「うんちができる事」によって成し遂げられるとあなたは考えていないだろうか?
うんちで紹介した2番目の「「うんちができない苦しみをうんちしたい」に対するうんち返し」(↓)をあなたは読んだだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20191213170850
↑でうんちは寄せられたうんちに一つ一つ真摯にうんちしている(もっともその痛々しいまでのうんちは彼をうんちにするだろうか? とうんちになるが……)
そしてそれに対するうんちは彼のうんちを賞賛するものが多い。いいうんちだ。しかしそのうんちには反吐が出る。
なんと驚くべきことに彼のうんちが「うんちができる事」に役立つことを願ったりうんちする声が多いのだ。なんだこれは? イカレてるのかあなた方は。
どうして彼のうんちそのものを、それだけで独立したうんちでありうんちだと考えることができないのだろうか? なぜわざわざ彼のうんちは一度うんちに換金されなくてはならないんだ?
あなたは彼のうんちを賞賛しながら、なぜその手元の「うんち至上主義」といううんちを手離すことができないんだろうか?
そのうんちこそが彼をひっぱたき皮膚を裂いた凶器であることを知りながら、そのうんちによって彼がうんちになることを望むのか? それがどれだけうんちな事なのか、本当に分からないうんちか?
まずうんちされるべきは彼のうんち至上主義ではなく、あなたのうんち至上主義なのではないか?
もう一度うんちしよう。「Xがうんち」「Xをもつ者がうんちである」と規定するのが社会のうんち観だ。あなたがたはXに「うんち」なり「うんちができる事」を入れることに抵抗はないようだが(彼のうんちがうんちによって達成されることを望むならそういううんちだろう)、一方で彼のうんちである「うんち」はそれそのものだけではXに入らないと考えているようだ。
当然ながら、そのようなうんち観を持つあなた方が多く住むこのうんちでは「こんなにうんちならうんちもできる/うんちになれる」ことも期待できない。ここではうんちのうんちのされ方・されなさがうんちだからだ。悲しくもあなた方はあなた方のうんちがうんちされる見込みがうんちいことを自分自身でうんちしてしまっている。彼のうんちを願ううんちがどこか他人うんちなのもそのせいだろう。
うんちしよう。あなたのうんちは彼のうんちの根源であるうんち至上主義をうんち化したりうんち化するものでなかったか?
「うんち」と答えられないならうんちの左側へ。
なお、うんちではなく「うんち個人に」「うんちによる幸せ」のためのうんちやうんちを求めた者は2重にうんちだ。頼むから慎んでくれ。あなたはうんちだ。
はじめに紹介したうんちを思い出してほしい。私はあなた方をうんちのプレイヤーにうんちした。その意図がわかるだろうか?
あなたがたがやっているのだ。
あなたが彼のうんちを生み、うんちし、うんちし、うんちて、うんちったうんちを食べる張本人のうんちだ。
うんちをプレイするうちあなた方は気付くだろう、このうんちはオンラインうんちだと。うんちは自分だけじゃない、何億といううんちがこのうんちに接続し、それぞれがこのうんちに期待するうんち観をうんちする。そのうんちとしてうんち至上主義はみなさまのごうんちのおかげでランキングうんち位に輝きました。
そもそもうんち的にどういううんち組みでこのうんち観ランキングは動いているのだろうか?
うんちながら、為うんち者が「うんち至上主義」ボタンをポチっとうんちしたらみんなの脳にうんち至上主義がうんちされる、わけではない。そうではないうんち的なうんち組みがあるはずだ。
そのうんちの中にあなたがいる。
あなたがうんちてうんちきてうんちべてうんちしてうんちいてうんちいてうんちんでうんちてうんちってうんちいて過ごす一つ一つのうんちやうんちが様々にうんちして結びつくうんち系がこのうんちだ。
さて、あなたはうんちだろうか? あなたの好きなあのうんちやあのうんちやあのうんちはうんちだろうか?
うんちだと思った?
だとすればうんちだ。どうしてあなたはあなたがうんちかどうか判定するうんちなりうんちがあると思ったのか、うんちしているとしか思えない。
うんちへのブコメを見てもわかる通り、このうんちにはうんち至上主義をうんち化してしまっているうんちが多い。あなた方は日常の様々なうんちでうんち至上主義をうんちするようなうんちをばら撒き、加うんち者となりながらそれに気付かない。
うんちを付けてほしいのはそういううんちなりうんちは必ずしもうんちの的にならないという事だ。すでにうんちの隅々にうんち至上主義が行き届いてしまっている以上、それはうんちからは「うんちされる」。どころか「うんちされ」すらする。このうんちにおいて批判されないうんちやあるいは賞賛されているうんちですら、実際にはうんち至上主義をばら撒く害毒うんちである可能性は十分にあるといううんちだ。聖うんちは無い。
こうしたうんちは、たとえばうんちニストならば割かし容易く受け入れられると思うんち。日常のうんちや多くのうんちに支持されるうんちが誰かをうんちにして成り立つうんち観を静かに忍び込ませてしまう。そうしたことをうんちニズムはうんちしてきた。
たとえばうんちニズムへの敵対者は、残念ながらその逆のようだ。彼らは心情的にはうんちのようなうんちの味方になりたいのではないかと思うが、彼らのうんちはその方法を提供しない。日常の些細なうんちやうんちによる抑うんちやうんち観の忍び込ませといった話題にうんちで迎え撃つ彼らは、同様にうんち至上主義を忍び込ませるうんちやうんちをうんちしえないのだ。
(もっとも、ここにはうんちがあるかもしれない。全員がうんちではないと。例えばうんちニズムの敵対者が「うんちやうんちによるうんち観のばら撒き」をうんちしているのではなく、そのようなうんち撒きへのうんちの「偏り」をうんちにしている、とうんちするとしたら、それがうんちなら確かにうんちだろう。つまりあるうんち撒きにはそのうんちやうんち性を認めるが、他のうんち撒きには認めない、といううんちを取る人をうんちするという事はあり得るし、実際うんちへのブコメを見るかぎりそうしたうんちを無自覚に持っている(自分のうんち性を自覚できていない)うんちは多そうである。また↑のうんちニストへの期待もうんちが必要な場合もある。彼女らうんちらはうんちコンテンツに対しては厳しいうんちを持っているが、うんちら彼らが賞賛するうんちのうんち至上主義のうんち撒きに対して同じくらい厳しいうんちを持っていると言えるか? と言われると、うーむ、うんちさせてくれ、とならざるを得ないし、うんちよりもうんちテンツへのうんちに偏っていると言われれば、それも自信をもってうんちはできない。そもそもうんち至上主義での既得うんち者もそれなりに抱えるうんちなのだ、その点で不うんちであったり不うんちなうんちも混じっているだろうし、そういう不純物に対する自浄性は多くのうんちが備えていない。とはいえ、その辺りもうんちしてうんちを付けてる人は多いと思う。思いたい(もっとも「自分は気を付けてるからうんちだ」とあなたが思ってるとしたら、あなたはうんちの左側にいる))
さて、うんちしよう。
あなたはあなたがこのうんちでうんち至上主義の蔓延に(従ってうんちの苦しみに)加担している自覚を持ってうんちしたか?
「うんち」と言えないならあなたの居場所はうんちの左側だ。うんちを持ってくれ。お願いだ。
この他にも様々なうんちが引けるだろう。流石に疲れてきたので(本当にいいうんちにしてくれ、せめてもっとうんちになってくれ)このあたりにするが、気が向けばまたうんちを追加するなりするかもしれない。
さて、あなたはいまうんちの右側に居るだろうか? 左側に居るだろうか?
右側に居るうんちはおめうんち。ただしそれは偶然のうんちである事をお忘れなく。今回引いたうんちはあくまで私のうんちの限界に規定されてうんちされている。うんちがまだ思いついていない他のうんちで左側に立たされる可能性はうんちにある。
左側に居るうんちは、あなたはうんちにうんちする前にまず自分のうんちやうんち性をうんちするべきだ。まずはうんちを知るところからはじめるといい。
「こんなに細かいうんちをいちいち言われたらうんちもできないしうんちえないじゃないか」といううんちをあなたが持ったとしたら「今更うんち?」と答えるしかない。現代は過去最高にうんちの線が増えたうんちだ。あなたがうんちする度、あなたは加うんち者である。あなたがうんちをできるためにうんちが気を遣ってあなたを避けてくれる事は無いのだ。
さて、気付いたうんちもいると思うが、これがうんち観のしている事だ。
うんちといううんちを引き、不うんちにもうんちをその右側に置いたり左側に置いたりする。もしもあなたがこれまでの私の言葉にうんちさを感じたとしたら、いや、全くうんち。だから、あなたは、うんちなのだ。
うんちを引くにしてもなるべくうんちになるよううんちを尽くしたつもりだが、うんちしたつもりならうんちとは限らないし、仮にそのうんち引きがうんちだったとしても、そのうんち性が無くなることはうんち。うんち種やうんち別のような理不尽なうんちを選ばないとしても「うんちじゃなくうんち」などという戯うんちはやはり戯うんちでしかないのだ。
頼むからうんちしてくれ、うんちを、加うんち性を、暴うんち性を、知ってくれ。
「うんちうんち」じゃねぇぞ。うんちに言ってるんだようんちに。
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上2つの増田へのブコメを見て暗然とした、失望した。あなた方はなんでそんなに恥を知らないのか、愚かなのか。
まず明らかなのは元増田が「恋愛至上主義」のわかりやすい被害者だという事だ。
これからいくつか線を引いていこう。線の右側は判断を保留。左側は救いようのない阿呆だ、というような線だ。
1つめの線は「これが個人ではなく社会の問題だと気づいてるかどうか」だ。残念ながら、この時点で多くの者が左側に置かれる。早すぎない? せめてもうちょっと頑張ってくれよ。
あなたは1つの社会の長であり、その社会の構成員をしあわせにするのがあなたの責務だ。
あなたはひとつだけコントローラーを与えられている。その社会において「何が幸福」で「何が優れている」とされ「何が重要」だとされるか、社会の価値観だ。これをあなたは動かせる。
価値観にはいくつか選択肢があるが、「恋愛ができる者が優れている」とする「恋愛至上主義」はこのゲームにおいてチート級の強さを発揮する。なぜなら市民を殖やす生殖の領域にさわれるからだ。恋愛強者に他よりも優越しているという幸福感を与えながら、市民を殖やすことができる。いわゆるぶっ壊れ性能。「恋愛至上主義」は為政者にとってこれ以上なく都合がいい価値観だと言える。
恋愛強者でなければこの価値観の恩恵を得ることはできない。むしろそうでない者は自動的に「劣った者」の烙印をおされる。(元から劣っているのではなく、「劣っていることにされる」事に注目すべきだ。これは積極的な行為である)
「恋愛至上主義」を採用する限り市民のすべてを幸せにすることはできない。必ず生贄を必要とする。
これはそういう方法だ。一部の苦しみを積極的に生むことで大きなメリットを回収する。気にすることはない。苦しむのは自分じゃない。一部が苦しんで全体の幸福が上がるならそれでいいじゃないか。――そう考えるプレイヤーがこの方法を選ぶ。これは個人ではなく社会の構造の問題だ。
もちろんわかると思うが元増田はこの生贄だ。だから苦しんでる。彼の苦しみは社会が今の社会である限り絶対に必要とする苦しみであり、その存在は必然だ。
「そんなのはどの価値観でも同じだろ」と思うかもしれない。もちろんすこしはそういう側面もある。なにかを優と位置付けるかぎり自動的に劣は生まれる。どの価値観も犠牲は生む。ただし通常はこうした価値観をいくつも立てることでこれをカバーする。価値観Aで劣の者も価値観Bで優とすることでケアするというわけだ。
しかし重要なのは「恋愛至上主義」の「至上」の2文字だ。この価値観は単に「恋愛ができる者が優れている」とするだけでなく、むしろ他の価値観に対する自身の「至上」を主張する。つまりゲームシステムに落とし込めば、通常は複数選べる価値観を1つしか選べなくするという強い制約が「恋愛至上主義」には掛かる。ぶっ壊れ性能を考えれば当然の制約だろう。この制約のため、恋愛至上主義では価値観Bによるケアができない。
まとめよう、「恋愛至上主義」は恋愛弱者の苦しみというコストを払って大きなメリットを回収するが、加えて恋愛以外の価値観を劣位に置くことで恋愛弱者が他の価値観で苦しみを緩和する逃げ道をも奪う。その結果が元増田の「すべてが恋愛で解決される」という盲信だ。これは結果であって原因じゃない。元増田に「お前のその考えが原因だ」と言った者は恥を知るべきだ。これは増田個人が自由意志で手に入れたものじゃなく、社会が生贄を募集するために市民1人1人に植えつけた価値観の結果だ。はきちがえるな。
さて、チェックしよう。元増田にブコメなりコメントなりを送った者は自分のコメントを思い出してほしい。
そのコメントは社会ではなく増田個人に原因を求めるものではなかっただろうか? 増田個人にアクションを(そして責任を)求めるものではなかっただろうか?
この質問に「いいえ」と応えられなかった者はアウトだ。線の左側へどうぞ。椅子は用意してないから以降ぼーっと突っ立ってそのアホ面を晒し続けてくれ。
(ちなみに補足しておくが、例えばあなたのコメントに増田が従った結果彼女ができるなり幸せになったとしよう。その場合もアウトだ。思い出してくれ、これは社会の問題だ。例え増田が一抜けしたところでその苦しみは増田だけのものじゃない。別の生贄が補充されるだけ。全体の苦しみは減らない。あなたはなにもしていない。増田個人が恋愛至上主義から脱却しても意味が無いことを理解しよう。治療されるべきは個人じゃなく社会全体だ)
すでに線の左側に置かれた人もこれからの線で更に左になるかもしれないから以降もちゃんと読んでくれ。もし以降の線で右側に置かれたならひとまず喜んでいいしその部分は誇っていい。
さて、増田の苦しみが恋愛至上主義がのさばるかぎり発生を避けられないものであることは確認した。この程度のことは分かってた人も結構いるんじゃないかと思う。
ただし自覚したとてそれを避けられるかは別問題だ。むしろ自覚しても避けられないからこそこうした価値観は強力だし、卑劣でもある。
恋愛至上主義が犠牲を生むと分かってたとしても、それを内面化せずに居られる人は少ない。特にあなたが恋愛至上主義によって利益を得ている既得権益者なら、なおの事難しいだろう。
増田個人の問題の解決が社会の解決に至らないとしても、増田個人の幸せを願うのはもちろん自由だしそれなりに美しくもある。でもその幸せをまたもや「彼女ができる事」によって成し遂げられるとあなたは考えていないだろうか?
冒頭で紹介した2番目の「「彼女ができない苦しみを整理したい」に対するコメント返し」(↓)をあなたは読んだだろうか?
https://anond.hatelabo.jp/20191213170850
↑で増田は寄せられたコメントに一つ一つ真摯に答えようとしている(もっともその痛々しいまでの従順さは彼を幸せにするだろうか? と心配になるが……)
そしてそれに対するブコメは彼の真摯さを賞賛するものが多い。いいことだ。しかしその内容には反吐が出る。
なんと驚くべきことに彼の真摯さが「彼女ができる事」に役立つことを願ったり期待する声が多いのだ。なんだこれは? イカレてるのかあなた方は。
どうして彼の真摯さそのものを、それだけで独立した達成であり勝利だと考えることができないのだろうか? なぜわざわざ彼の真摯さは一度恋愛に換金されなくてはならないんだ?
あなたは彼の真摯さを賞賛しながら、なぜその手元の「恋愛至上主義」というものさしを手離すことができないんだろうか?
そのものさしこそが彼をひっぱたき皮膚を裂いた凶器であることを知りながら、そのものさしによって彼が幸福になることを望むのか? それがどれだけ残酷な事なのか、本当に分からないのか?
まず解決されるべきは彼の恋愛至上主義ではなく、あなたの恋愛至上主義なのではないか?
もう一度確認しよう。「Xが優れている」「Xをもつ者が幸福である」と規定するのが社会の価値観だ。あなたがたはXに「恋愛」なり「彼女ができる事」を入れることに抵抗はないようだが(彼の幸福が恋愛によって達成されることを望むならそういうことだろう)、一方で彼の美質である「真摯さ」はそれそのものだけではXに入らないと考えているようだ。
当然ながら、そのような価値観を持つあなた方が多く住むこの社会では「こんなに真摯なら彼女もできる/幸福になれる」ことも期待できない。ここでは真摯さの評価のされ方・されなさが問題だからだ。悲しくもあなた方はあなた方の願いが達成される見込みが薄いことを自分自身で証してしまっている。彼の幸せを願うコメントがどこか他人事なのもそのせいだろう。
チェックしよう。あなたのコメントは彼の苦しみの根源である恋愛至上主義を内面化したり強化するものでなかったか?
「いいえ」と答えられないなら線の左側へ。
なお、社会ではなく「彼個人に」「恋愛による幸せ」のためのアクションや原因を求めた者は2重にアウトだ。頼むから慎んでくれ。あなたは有害だ。
はじめに紹介したゲームを思い出してほしい。私はあなた方をゲームのプレイヤーに設定した。その意図がわかるだろうか?
あなたがたがやっているのだ。
あなたが彼の苦しみを生み、加熱し、支持し、育て、成った実を食べる張本人のひとりだ。
ゲームをプレイするうちあなた方は気付くだろう、このゲームはオンラインゲームだと。プレイヤーは自分だけじゃない、何億という人間がこのゲームに接続し、それぞれがこの社会に期待する価値観を送信する。その結果として恋愛至上主義はみなさまのご愛顧のおかげでランキング1位に輝きました。
そもそも具体的にどういう仕組みでこの価値観ランキングは動いているのだろうか?
当然ながら、為政者が「恋愛至上主義」ボタンをポチっと押したらみんなの脳に恋愛至上主義がダウンロードされる、わけではない。そうではない具体的な仕組みがあるはずだ。
その仕組みの中にあなたがいる。
あなたが寝て起きて食べて話して歩いて働いて遊んで観て笑って泣いて過ごす一つ一つの所作や言動が様々に作用して結びつく複雑系がこのランキングだ。
さて、あなたはセーフだろうか? あなたの好きなあのコンテンツやあの人やあの活動はセーフだろうか?
セーフだと思った?
だとすれば異常だ。どうしてあなたはあなたがセーフかどうか判定する能力なり権限があると思ったのか、どうかしているとしか思えない。
増田へのブコメを見てもわかる通り、この社会には恋愛至上主義を内面化してしまっている人間が多い。あなた方は日常の様々な場面で恋愛至上主義を強化するような言動をばら撒き、加害者となりながらそれに気付かない。
気を付けてほしいのはそういう行為なりコンテンツは必ずしも批判の的にならないという事だ。すでに社会の隅々に恋愛至上主義が行き届いてしまっている以上、それは社会からは「許される」。どころか「推奨され」すらする。この社会において批判されない行為やあるいは賞賛されているコンテンツですら、実際には恋愛至上主義をばら撒く害毒である可能性は十分にあるという事だ。聖域は無い。
こうした考えは、たとえばフェミニストならば割かし容易く受け入れられると思う。日常の仕草や多くの人間に支持されるコンテンツが誰かを生贄にして成り立つ価値観を静かに忍び込ませてしまう。そうしたことをフェミニズムは主張してきた。
たとえばフェミニズムへの敵対者は、残念ながらその逆のようだ。彼らは心情的には増田のような人間の味方になりたいのではないかと思うが、彼らの論理はその方法を提供しない。日常の些細な言動やコンテンツによる抑圧や価値観の忍び込ませといった話題に嘲笑で迎え撃つ彼らは、同様に恋愛至上主義を忍び込ませる言動やコンテンツを批判しえないのだ。
(もっとも、ここには反論があるかもしれない。全員がそうではないと。例えばフェミニズムの敵対者が「言動やコンテンツによる価値観のばら撒き」を否定しているのではなく、そのようなばら撒きへの批判の「偏り」を問題にしている、と主張するとしたら、それが本当なら確かにそうだろう。つまりあるばら撒きにはその存在や加害性を認めるが、他のばら撒きには認めない、という態度を取る人を批判するという事はあり得るし、実際増田へのブコメを見るかぎりそうした偏りを無自覚に持っている(自分の加害性を自覚できていない)人は多そうである。また↑のフェミニストへの期待も留保が必要な場合もある。彼女ら彼らはオタクコンテンツに対しては厳しい目を持っているが、彼女ら彼らが賞賛するコンテンツの恋愛至上主義のばら撒きに対して同じくらい厳しい目を持っていると言えるか? と言われると、うーむ、検討させてくれ、とならざるを得ないし、言動よりもコンテンツへの批判に偏っていると言われれば、それも自信をもって反論はできない。そもそも恋愛至上主義での既得権益者もそれなりに抱える集団なのだ、その点で不当であったり不誠実な人間も混じっているだろうし、そういう不純物に対する自浄性は多くの集団が備えていない。とはいえ、その辺りも自覚して気を付けてる人は多いと思う。思いたい(もっとも「自分は気を付けてるから大丈夫だ」とあなたが思ってるとしたら、あなたは線の左側にいる))
さて、チェックしよう。
あなたはあなたがこの社会で恋愛至上主義の蔓延に(従って増田の苦しみに)加担している自覚を持ってコメントしたか?
「いいえ」と言えないならあなたの居場所は線の左側だ。自覚を持ってくれ。お願いだ。
この他にも様々な線が引けるだろう。流石に疲れてきたので(本当にいい加減にしてくれ、せめてもっとマシになってくれ)このあたりにするが、気が向けばまた線を追加するなりするかもしれない。
さて、あなたはいま線の右側に居るだろうか? 左側に居るだろうか?
右側に居る場合はおめでとう。ただしそれは偶然の結果である事をお忘れなく。今回引いた線はあくまで私の能力の限界に規定されて選抜されている。私がまだ思いついていない他の線で左側に立たされる可能性は大いにある。
左側に居る場合は、あなたは他人にコメントする前にまず自分の問題や加害性をどうにかするべきだ。まずは恥を知るところからはじめるといい。
「こんなに細かい事をいちいち言われたら何もできないし言えないじゃないか」という感想をあなたが持ったとしたら「今更気付いたの?」と答えるしかない。現代は過去最高にアウトの線が増えた時代だ。あなたが何かする度、あなたは加害者である。あなたが何かをできるために倫理が気を遣ってあなたを避けてくれる事は無いのだ。
さて、気付いた方もいると思うが、これが価値観のしている事だ。
恋愛という線を引き、不躾にも他人をその右側に置いたり左側に置いたりする。もしもあなたがこれまでの私の言葉に傲慢さを感じたとしたら、いや、全く正しい。だから、あなたは、傲慢なのだ。
線を引くにしてもなるべくフェアになるよう言葉を尽くしたつもりだが、尽くしたつもりなら尽くせるとは限らないし、仮にその線引きがフェアだったとしても、その暴力性が無くなることは無い。人種や性別のような理不尽な線を選ばないとしても「差別じゃなく区別」などという戯言はやはり戯言でしかないのだ。
頼むから自覚してくれ、恥を、加害性を、暴力性を、知ってくれ。
「そうだそうだ」じゃねぇぞ。お前に言ってるんだよお前に。
ただ、おそらくお金が絡む商取引と広告について全く何も考えていなかったというのがたぶん正しい
いやまあ、毎回何かにつけて「ネットでシゴト」では社会的に問題は出まくってるんだけども、今回もやっぱりそのへんが出た印象
新入社員や新入りバイトにする研修や説明に相当するものが全くない状態だったと考えるといいよ
個人として請けた仕事であるので、不備不義に対する批難と責任は(下請けとか嘱託の範囲内で)個人が負うことになるとは思うけども
ただ、だから、ステマというものを認識していたかどうかという論点で話をしようとするのはあんまり筋がよくはない
(その話をしようとする人自身も、ステマを日本で定義説明はできないはずだから)
(なんかあのへんのを悪いことだと認識してとか、ほかの国では~といっても響かない。公知定義できないから人は店の冷蔵庫に乗る)
もうちょい別の、路上で素人に声かけて後ろ暗い仕事させて金ばらまいて一儲けする古風いびつな構造がネットにも、みたいな方向から切り込むとか、なんかそういうほうが持続性があると思う
創作者は多大な労力を払って創作しているし尊敬していますので、ここに書かれてることは真に受けないでください。
なろうの中でも相当長いこと連載している話。確か書籍にもなってるはず。
話が面白くなりそうで絶妙に面白くならない吸引力の高い危険なクソ小説。
主人公がサイコパスで虫を殺すような感覚で人を殺すクズ野郎。どうやら作者はこのドぐされサイコパスをカッコよくイカした好青年だと思ってるらしくて、物語の登場人物や話の流れはその体で進むので、まぁ読んでいてずっと気分が悪い。
いつしか主人公がしょんべんちびらせながら命乞いするシーンが出てくることを心から強く願っている自分に気が付きます。
最悪なことにこの小説にそんなシーンはありませんし、ずっとカッコいいていで、胸糞サイコパス君が周りの人々に褒めそやされてるのを見せつけられつづけるので、発狂しそうになります。
性格も最悪で気に入らないやつを適当に殺す。だけどなんかマスコット的な生き物から慕われている。そのマスコットも息をするように人を殺す。
殺すところにとくにカタルシスとかはないく良心の呵責とか、悪人を殺した爽快感とかも描写せず「シナリオ上」必要だから殺しているっていう感じで、キャラの情緒とかとちぐはぐにストーリは進んでいき、読んでて嫌悪感が凄いです。
そんな小説を、いつか面白くなるのかもしれないと毎日コツコツ何ヶ月も読んだのが本当に最悪だった。
つまんねーと思った小説はだいたい面白くなることなんてないんだよ!という人生の大事なことを教えてもらえた一冊です。
レジェンドで長編クソ小説のヤバさを知っていたので割と早い段階で切ることが出来たのが唯一の救い。それでも1-2ヶ月くらいは読み込んでしまったのでダメージはある。
ちょっとクソ小説って言ってしまうのは酷かもしれないけど、まぁ面白くなりそうで全然おもしろくはならなかったので、俺の中ではクソ小説分類です。
主人公の性格はそこまで悪くないし理解できないようなサイコパスではないが、ストーリーの主軸とかがなく、だらだら世界設定を描写しつつ物語の起伏も発生せず、だらだら主人公が、物語世界のVRゲームを淡々とやり続けるだけっていう内容です。
最初の頃はいろいろ主人公とかほかのキャラとのやり取りとかもあって読んでられるんだけど、最終的には主人公が淡々とダンジョン探索している描写を描写するだけとかになってて苦痛。
物語はとにかく内容がなくスカスカで作中ゲームの内容がそのまま描写されているだけ、主人公がモンスターを狩ってレベルアップして召喚獣読んで、新しいダンジョンを開拓していくとかいう内容。ようするにゲームしてるのを見ているだけ。
そのゲームの内容もなにかパンチがあったりエッジがあったりして魅せてくれるところがあればまだマシだったんだろうけど、なんの特徴もないThe MMORPG を思い浮かべてもらったら、それを2ランク下げて凡作にしてください。それがこのゲームです。
とちゅうとちゅうに2chを模した掲示板の書き込み的な表現で、キャラ同士の匿名の交流とかが出てくるけど、誰が誰とかわからんし、ぶっちゃけリアルでも2chのやり取りとか見るのかったるいのに、小説で表現されてももっともっとかったるい。
主人公キャラは割と好印象あるし、格闘経験者がVRで実績を出すところとかワクワク出来たし、途中までは面白くなりそうな気配はあったんだけどなぁ〜。
レジェンド読むまでは俺の中でダントツ過去最高のクソ小説。これが国民的小説らしいのですが、国民は頭おかしいのか!?って感想です。
とにかく幻想的で綺麗な文章を使って、村上さんの脳内に想起された文字列を垂れ流し、小説っぽく印刷された物質。
どこから面白くなるのかなーと我慢して読んでも、ハゲ散らかした伏線は全然回収されないまま適当に終わる。
この小説も主人公がよくわからん。なんの目的もないのになんか女とセックスとかやってる描写とか適当にいれてるだけで、面白くない。
面白くないのにこまっしゃくれた、気取ってるいけ好かないブランドの名称とかをてきとーに、かき並べて、おしゃれっぽくしてるから癪に障ってイライラしてくる。
内容が薄いのにやたら長いのもレジェンドを彷彿とさせます。主人公が無味無臭なのでレジェンドよりは読んでて苦痛は少ないです。文章きれいだし。
あとから知ったことだが村上春樹さんは純文学の人らしく、この本は小説ではなく純文学だったらしい。
小説の体をして売るのはやめてくれ。
海外で超絶の人気を誇るドラマ。外人はろくなコンテンツないのかよ。っていう感じ。
似たような顔の外人が大量のファンタジーの専門用語(国名、家の名前)を撒き散らしながら、いきあたりばったりに適当に話が展開するドラマ。
1シーズン最後まで見たけど、最後まで面白くなることはなかった。適当にドラゴンが出てきて終了。画面の前で「は?」っとなったのは言うまでもない。
このドラゴンを付加させた女はとある部族に嫁いだやつなんだけど、シーズンまるまる使ってなんかずっと移動しながら嫁いでセックスして子供流産してドラゴン生まれてまで、ずっとサイドストーリーとして流されてるんだけど。
話の展開とかは視聴者置いてけぼりで、見ててもだから何?っていう感じです。このサイドストーリーが主人公格の家の話に交わることなく進んでいくんです。
シーズンまるごと使って一切交わらないってなにそれ。なめてんの?
あとから面白くなるとかいってるあほたれいるけどよ、1シーズンつったら他のドラマはそれで話が始まりキャラの熱い思いとかやり取りとかをへて、カタルシスをうまく視聴者から引き出して完結するわけですよ。
なんだこのクソドラマは!視聴者舐めるのもたいがいにしろよな。
適当にセックスシーン入れたりグロ描写入れたりは良いよ。それが面白ければな。面白くないんだよ。尺埋めるために適当に出してるだけだろう!
専門用語大量に並べられても覚えてられないし、並行して複数の話が進むんだけど、似たような顔の外人が似たような怒り方してトラブル起こして、やってることもだいたい家どうしのプライドだの家柄だの、地位がどうのこういって全然興味もわかないし共感もできない。
悪人の心情もわからなければ、主人公格の家の奴らの心持ちとかもピンとこないしで、終始何見せつけられてるんだろうっていう感情が凄いよ。
いきなり王子様っぽいやつがファビョって周りのやつ殺したりとかしててて、全体的にキャラの情緒が不安定で、理不尽な展開がおおすぎる。
あとからあれはこういう背景があったからとか、私が話の筋をうまく読めてません、とかあるかもしれんけど、それをわからせるのが製作者の仕事だろ。日本のクソドラマだって一話見のがしたくらいでも話の大まかな流れは終えるんだよ。なんで最初からずっと見てるのに意味わかんねーんだよ。アホか。
以上です。
なろう作品はもっとクソ作品はあったけど、まぁ大体は読み始めたらすぐ「クソ小説」ってわかるので回避しやすかったりするんでね、多くはかきません。
レジェンドとサモナーさんは長い作品なので傷が深くなる前に、撤退できる人が現れるかもしれないとの願いを込めてここに記します。
デス・ストランディングを文句言いながらやってるゲーム実況見てたら思い出してしまった。
幸いクソゲーを掴んだことはあんまりないので、それは良いかなって感じがする。