はてなキーワード: テッド・チャンとは
自分の大学での専攻が「言語」に関わる分野だったので、一つ一つの話のテーマが染み入るように面白かった。言語学ももちろん科学なので、それを用いて「科学空想小説」を書くことは可能だ。そう言ってしまえば当たり前のことなんだけど、そういう誰も書かないようなジャンルに進んでいきなり「傑作」を書けるところが凄い。
「非線形」言語をテーマにした表題作も面白いけど、それ以外の人文科学をベースにして空想を語るとその外観はほとんど「魔術」になるという確信犯的認識を用いた他の話も秀逸。そして、それが単に「そういうことがウンチクっぽく書かれてる」とか「素材として使われて」というだけじゃなく「プロットの中核部分を為して」いるというところが衝撃的。「72文字」とか、まさに『おおーーーオチをそこに持ってくるのか!』という感じ。
ホント最高でした。
「理解」って本は無いよね。短編集の「あなたの人生の物語」に収録か、アンソロジーで読んだのかな。
ちなみにテッド・チャンの理解という話は、いうなれば人情味の全く無い「アルジャーノンに花束を」みたいな感じ。「アルジャーノンに花束を」はSFだけど一般の人にもファンがいるという点で「夏への扉」と似ているかな。
頭が良くなる薬といったSFガジェットとしては共通だけれども、それによって引き起こされる人間関係に重点を置くか、知能の増加そのものに視点を置くかでこうも違うのかというのかというのが興味深い。
それと同じ構図が「夏への扉」と「輪廻の蛇」でもいえるかも。作者はどれもハインライン。タイムマシンを使って世界を変えようとしても変えられないのは「夏への扉」も「輪廻の蛇」も同じ。でもそのラストの違いが「アルジャーノンに花束を」と「理解」を連想させる。
なんでSF初心者が広瀬正とか知っているんだというのが不思議なところだけど、古い話でもいいんだったら小松左京の「果てしなき流れの果てに」や光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」なんかもどう、とか書いてみる。
ある日あの噂の「早川さん」を見て、SFに興味を持ち、読んでみることにした。
今まで読んだことのあるSFというと、星新一くらい。ハルヒのSFめいた部分も好きなんだけど、2chのSF初心者スレで、「オススメのを教えて下さい、ちなみによんだことのあるのはこのくらいです」とその旨を書き込んだら「これだから初心者は…あんなオタ向けラノベの稚拙な設定をSFっぽいとか言われてもね」的に嘲笑されてしまったお。リアル早川さんだお。こ……怖いお……
怯えつつも聞いたところ、夏への扉とかを勧めてくれた。
「初心者ならここらへんからじゃない?」とのこと。「猫好きならオススメ」うーん。どっちかっていうと犬派だけど……でもまぁいいや。初心者向けだっていうしひとまずこれ読もう!と思い本屋へ。
他にも初心者向け!と言われた本をメモってあったのだが、いざハヤカワ文庫コーナーへ行くと、なんだか面白げなタイトルが並んでいる。「順列都市」「万物理論」……なんか、面白そう。「夏への扉」もあった。しかし、序盤を読んでみると、なんだか恋人と友人に裏ぎられてどーのこーのみたいな普通の小説みたいな描写が続くだけで、なんかSFめいた展開になかなかならんなー、まあこの後面白くなるんだろうけど、正直そこに至るまでちょっと飽きそうだなー……と断念。結局初心者板で聞いたくせに、私は自分の好みに従い「順列都市」という本を上下で買っていった。(なんか裏のあらすじを見たら面白そうだった)
で、読んだ。(以下微妙にネタバレ?)やはりところどころある日常パート?などはちょっと飽きる。飽きたところはところどころ飛ばしながらも、なんとか読み勧める。「上」の後半辺りから段々面白くなってきたけど、同時に、よくわからなくなってくる。わからないままとりあえず読み進める。「下」にはいって、ピーが椅子の脚だけをひたすら作り続けるなどの描写でwktkし始める。面白いのだが、自分が理解できているのかどうかよくわからない。分かったよーな分からんよーな、て感じ。一応想像しながら読んでいるんだけど、もしかしてこの脳内の想像は全く間違ったものかもしれない。ていうか多分そうだろうな……塵理論を見たとき、バベルの図書館をちょっと思い出した。ちょっと違うか……でもこういう考え方は好きだ……私の理解が合っていればの話だけれども。最後は興奮した。誤って次の行を先に読まないように注意しながらたちながら読んだ。そしてラスト。おお……これは、なかなか……。読み終わった後は少し寂しい感じだった。いい映画が終了したあとの映画館での余韻みたいな……その日一日は「なんか面白くて壮大な話を読んだよ!」と興奮していて、母に「順列都市ってのをよんだよ!面白かったよ!」と伝えたのだが、母に「へぇ。どういう話?どこが面白かったの?」と聞かれ、「え……ど、どういう話って言われても……なんか……面白かった」としかいえなかったため、やはり理解はかなりあやふやと思われる。(今またちらっと読んでみたら、前よりは結構分かる気がする。当たり前か)
で、じゃあ次は「万物理論」ってやつ読んでみるかーと思って本屋へ。グレッグイーガン、グレッグイーガン、と探す。しかし「万物理論」はその本屋にはなく、代わりに「しあわせの理由」というのがあった。そのなかにある「しあわせの理由」をちょっと読んでみた所、これがツボで、面白かった。結局立ち読みで「しあわせの理由」を全部読んでしまった。こういうのは好き。読んでしまった手前買ってきたけども、他の短編は未読。母に持っていかれた。
で、次は図書館へ行った。「SFはこれを読め!」という新書を発見。それを借りた。面白そうな奴がいっぱいある。とりあえず紹介されている中で一番興味を引かれた「理解」と、「幼年期の終わり」ってやつを読む事にした。
「理解」は凄く面白かった。短かったし、読み始めたらとまらなかった。歩きながら読んだ(あんまよくないね)。ラストは家で「フオオオッ!フオッ!」と唸りながら読んだ。思わず友達に「テッド・チャンの理解って本おもしろいど!」とメールした。「え?テッドチャン?は?」「SFだお!」「は?SF?すこしふしぎ?」ドラえもん!?
で先日「幼年期の終わり」を読んだ(以下ネタバレあり)。いきなり「ソ連」と来た。……ソ、ソ連?なにこれ結構昔の話?携帯やネットがでてこない違和感を覚えながらも読み進める。例によって飽きるところは飛ばしつつ……おおおオーバーロードだってよ!きましたよ!うぉお!何?この人類のちっぽけ感……なんという圧倒的な進化ぶり。萌える。オーバーロード萌える。と邪な楽しみ方をする。「いつ姿見せるんだよー」「50年後だよ!」ちょw死んでるがなwいちいちでっけえなw
黄金世代、入りました、いいねぇ、この桃源郷な感じ。科学的技術の発展のために豊かになった世界というのはなんか……いいよね。これが本当の桃源郷って感じがする。とか思いつつ読む。ところでオーバーロードが、初めどんな姿をしているのか分からなかった。「え?なに?鳥?でかい鳥なの?別にいくね?」ってレベルだった。しかし他の本にはしっかりと「悪魔」とかかれているそうで、あーなに、そういうことかそういうことがいいたかったんか……悪魔だってわからんかった私涙目wあの説明じゃでかい鳥、としか想像できなかったよ。西洋の発想だからか私の知識不足か。後者ですよね……サーセン。
クジラの標本にもぐりこむっていうけどそんななんつーか稚拙な方法、すぐバレんじゃね?持ち込むときとか、何か中にないかどうか赤外線的なものでチェックしたりしないの?と思ったけど意外と通っていた。
でもここはちょいちょい飛ばした場面も多数。クジラに乗り込んだヤツが帰って来るころには、ヤツの知り合い全員死んでる、っつー話になり「人間ちっせえな、いちいち宇宙ヤバイな、でけえな」と感慨に浸る。オーバーロードの星のシーンでなぜか先日プラネタリウムいったときのことを思い出した。
で3部、ここは面白い、うおおお!うおお!そそそそういう目的だったのか、へぇー、っていうか、あれだよ。宇宙ヤバイ。
こういう「人間の終わり」みたいなのってそういえば余り考えた事無かった。人間の終わりっていうとたいてい、科学技術行き過ぎて自ら破滅の道を選んじゃいました愚かな人間どもですー、とか、普通に隕石で恐竜のごとく消えうせたよー、所詮自然には逆らえなかったよー、とか、あくまで、人間がそのままの姿で一挙絶滅的なものが言われがちな気がする(SF者にとってはそうでもないんだろうけど初心者の私からすると)。そこでこれ、うお、これはいいかも。しかしこの本も、こんなこといってるけど、ちゃんと理解できているのか正直心配。間違ったイメージを持っている気がする。順列都市よりは分かりやすい気はするけど……全く別個のものになっていくこの絶望感、しかしどこかオーバーロードの「うらやましー」て視線もあってか、どこか「これはこれで……寧ろそうだ、これこそが進化ってもんなんだろーな」と、今の人類が、ほとんど姿かたちは今のまま、ちょっと知能や科学技術が発展する程度で続いていくより、こういったパターンの方がいいかもしれない。
で、そういえばヤツは?クジラでいっちゃったヤツは?っておもってたらきたよ!うおおお!ここからはもう怒涛の勢いで読む。何か凄いんだけど、でも、正直イメージしづらくもあった。ただ凄さは伝わってきた。前半はちょっとイマイチだったけど後半は結構よかった。読み終わった後また余韻に浸った。
でもこの中で一番好きなのはやはり「理解」かな。
しかしやはりSFは読み辛いwなんかわかったよーなわからんよーな、って感じ。SF者と話し合ったら絶対ついていけないと思う。漠然とした理解でしかないから……もう一度読み直そうかな。それとも違うのを読むか。でも、ミステリよりはSFの方が好きかも。(ミステリと比べるのは、他に読んだ小説というとミステリくらいしかないため)
ところでSF者は何冊くらい読んでるんですかね?初心者板とかいくと、100冊だかなんだかくらい「初心者はまずこれをよめ」的に書いてあってビビるのですが。あれで基本!?みんなどんだけSF読んでんだよ……!こりゃしばらくは初心者だな。まあいいんだけども。
前のエントリ、
の続き。
自分を「認める」ことのメリットがわからない。メタに逃げて鈍化させることが出来るってこと?
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20070726023532
メリットかあ。まあ繰り返しになるけど、メリットがあるからとかそういう問題じゃないんだよなあ。
最近読んだナンシー関の本に、たまたまこの話題に関係する面白い文章があったので紹介。
中学2年生の時点でイメージする19歳と、実際に自分がなってみてのその年齢には、必ずすごいギャップがある。そのギャップというのはどんな年齢に対してでも「かつて自分がイメージしていた○歳は、もっとちゃんとしていた」という思いなのです。
ちょっと前に「ピーターパン症候群」という言葉がはやりました。いつまでたっても大人になりたがらない人が増えているという意味ですが、コレとさっきの“ギャップ”の違いは、その“ギャップ”を「おもしろがれるかどうか」ではないでしょうか。「自分はまだちゃんとなんかしていないのに、大人の仲間になるのは嫌だ。恐い」と思えば、バカ・ピーターパンですが、「こんな自分でもいっぱしの大人たあ、笑わしてくれる」と思えば、テイキットイージー(Take it easy.)。
ま、ぶっちゃけた話、私が言いたいのは「大人、恐れるに足りず!」ということです。目上の人を敬いましょう、という道徳を否定するつもりはありませんが、でも敬わなくてもいい大人もいると思うけど、ま、そのへんは礼儀として分別ある日常生活を営むことでクリアしてください。
面白いのは、バカ・ピーターパンとテイキットイージーの差は、ちゃんとしているかどうかではないところ。周りから見てどんなにちゃんとしている人間でも、バカ・ピーターパンはバカ・ピーターパン。全然ちゃんとしていなくても、大人は大人。
ダメな大人? だから何。
自分を変えなきゃいけない? 関係ないね。
ちゃんとしてない大人よりもちゃんとしたバカ・ピーターパンの方がいい? 確かにそれもアリじゃん。
前回のエントリで私が言った「自分を認める」ってことは、大人になることに似ている。
「自分は○○だから、自分を認めることはできない」と思えば、自分を認めることはできないけど、「こんな自分でも自分を認めてるたあ、笑わしてくれる」と思えば、テイキットイージー。
自分、恐れるに足りず。
なんだか「自分を「認める」ことのメリット」がわかった気がしたのでこれから説明する。
たとえば「おまえは大人になることから逃げいている」と言われたときに、バカ・ピーターパンは「そうだ自分は逃げているんだ。だから大人になれないんだ。ダメな自分」と打ちのめされるだろう(そうやって打ちのめされるところが大人になれていないところなんだけど)。でもテイキットイージーなら「そうだねえ逃げているねえ。大人になれてないねえ。はっはっは」と思うだけである。で、そのあとも逃げ続けたり逃げることをやめて闘ったり、まともな大人になることに成功したり失敗したりするんだろうけど、それはバカ・ピーターパンもテイキットイージーも関係ない。
「おまえは大人になることから逃げている」みたいな説教をくらったときに打ちのめされないだけの強度を得ることができる。というのが「大人になる」メリットといえばメリットである。
とはいっても説教をくらって打ちのめされてしまう人もいるだろう。で、そのときに「自分はこんなことで打ちのめされてしまうんだ。ダメな自分」と打ちのめされるのは、自分を「認める」ことができてない人だ。自分を「認める」ことが出来ている人は「打ちのめされちゃったよ。はっはっは」と思うだけである。で、そのあとうまく立ち直ることができたりできなかったりするんだろうけど、それは自分を認めているかどうかとは関係ない。
「自分は打ちのめされた」ことに打ちのめされないだけの強度を得ることができる。というのが、自分を「認める」ことのメリットといえばメリットである。
とはいっても「打ちのめされちゃったよ。はっはっは」では済ませられない人もいるだろう。で、そのときに「自分は……
このように無限に続くわけですな。
よく「自分を許せない」という人がいるけど、でも許していないのも自分なのである。
「自分を許せない」
「「自分を許せない」自分を許せない」
「「「自分を許せない」自分を許せない」自分を許せない」
……
「「「……「自分を許せない」自分を許せない」自分を許せない」自分を許せない」……
自己否定の無限ループだ。ループを実行している間は不愉快なわけである。また無限ループだからいつまでも実行していられるわけである。
自分を「認める」ことができていると、この無限ループがはじめから実行されないのだ。ま、これが自分を「認める」ことのメリットといえばメリットかな。
とはいっても「ループの実行を止めることなんてできないよ」という人もいるだろう。で、そのときに「自分はできないんだ」と打ちのめされるのは……
というわけで、「メタに逃げて鈍化させる」と言われるとなんか違う気もするのだ。
むしろ「メタから逃げる」ような気がする。逃げた先もメタっぽいんだけどね。「あっちのメタはしょっぱいぞ。こっちのメタは甘いぞ」なんちゃって。
また、不愉快なことを不愉快だと感じないように「鈍化させる」のではなくて、無限ループを実行して不愉快をもくもく生成するのを「やめる」感じかな。
アイロニカルプロセス。興味深い。
「余計なことを考えるな」と言われると、「余計なことを考えていないだろうか」と確かめちゃうんだよね。
自分を「認める」とはどういうことかを知るには、カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』を読むといいかもしれない。
これまで私が言ってきた「認める」というのと、この小説にある「そういうものだ」は似ている気がする。
「理解」(テッド・チャン 著 ハヤカワ文庫SF『あなたの人生の物語』収録)
わたしは自分の思考メカニズムを理解する。自分がどのように知るかを、そして自分の理解力は帰納的なものであることを、正確に知る。この自己認識の無限の退行は、はてしなく階段を踏んで進行するものではなく、その限界の了解であることを理解する。
自分の思考過程がみえ、自分の思考を記述する式がみえ、自分がそれらの式を了解するのがみえ、了解されたことをそれらの式が記述するのがみえる。
自分の思考をそれらがどのようにつくりあげているかをわたしは知る。
自分の思考を。
頭が良くなるクスリによってなんか臨界を超越しちゃった主人公が、自分の思考について語っているところ。
「私は考えている」
「私は「私は考えている」と考えている」
「私は「私は「私は考えている」と考えている」と考えている」
「私は「私は「私は「私は……
自己否定にせよ自己肯定にせよ「はてしなく階段を踏んで進行する」ことになる。無限ループとかアイロニカルプロセスとかに捕われてしまう。けど、それよりも「その限界の了解」しようぜ、と。自分を「認める」とはそういうこと。
後ろを向いてばかりで前を向くことができない、と悩んでいるなら上を向こう。うつむいてばかりで上を向くことができないのならば、横を向けばいいじゃない。横を向くことに意味はあるのかって? 知らねーよ。でもそんときはもううつむいてはいないじゃないか。自分を「認める」とはそういうこと。