はてなキーワード: ブッダとは
北欧諸国にもブルマーらしい写真を見つけることもできた、また、学校の体育で使われたと確認できるものもあった。
〇デンマークの学校教育では、1960年代から1980年代後半にブルマーが採用されている学校があった。また、レオタードを着用する例もあった。
〇スウェーデンの学校教育でも時期ははっきりしないが、ブルマーやレオタードが使われていた。
〇ノルウェーでは学校教育でブルマーの写真が確認できた。また、学校教育外ではへそ出しブルマー、ブラトップにブルマーが確認できた。
〇これは英国での影響かもしれない。英国では、学校教育で導入される以前の1930年代、1940年代から、Women's League of Health and Beautyなどで提灯ブルマーやショーツ型ブルマーが導入されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=YmWYxulYQI4&ab_channel=BritishPath%C3%A9
https://www.youtube.com/watch?v=UbO9RAXHdHU&ab_channel=BritishPath%C3%A9
https://www.youtube.com/watch?v=HUrx29uQpwg&ab_channel=BritishPath%C3%A9
そして、これは知らなかったのだが、女性だけの場所では、へそ出しファッションもあったようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=2k5uTySJO4w&t=28s&ab_channel=BritishPath%C3%A9
ちょうどビキニの水着が生まれた頃で、少しずつへそ出しの時代が始まっていたようだ。陸上ブルマ以前のへそ出しの存在には驚いた。ヨガと書いてあるが、す1956年代ににヨガが欧州に伝わっていたのが驚きだ。ヒッピーとかの時代だと思っていた。対し蟹欧州のインド研究の歴史は長いが、大衆にまで広がるのにはタイムラグがあったはずだ。いや、ここでヨガが伝わってヒッピーが育っていった?
〇フィンランドでは、女性のみの環境では1940年代から1950年代でブルマー姿になっている女性が見られた。また1970年代のブルマー着用者ではなく、ブルマーそのものの写真も見つかった。現代の学校では、スパッツやレオタードが選べるらしい。
〇アイスランドについては資料が少ないが、現代の生徒でジャージ以外にバレエみたいな恰好をしている例を見つけた。
さて、以前、調査は国ごとにまとめて行うべきで、地域を横断するのは雑になるのではないかと思っていたのだが、こうやってブックマークしておいた画像をもとに1つの記事にまとめると、北欧にはへそ出しがあるという意外な関係性がわかるメリットがあった。
女性だけの環境では、多少大胆な格好をしてもいいのだろうか。あるいは、屋内というか体育館限定なのかもしれない。
かつての記事では、女子は人前ではスカートだが、女子だけの場所ではパンツスタイルで運動したことを書いた。
それと関係しているのだろう。
もっとも、上のWomen's League of Health and Beautyでは、うら若き女性が人前で大胆なブルマーで開脚している。
これは女性の解放・自由・権利が、家父長制に逆らって好きな格好をするほうに向かっているケースで、マドンナやテイラー・スウィフトのレオタードにも似ている。
https://genxy-net.com/post_theme04/328116l/
https://pbs.twimg.com/media/F_vqDL8W0AABet_?format=jpg&name=large
では、韓国のブルマー同然の短パンで腰を振りながら歌う女性歌手は?
わからない。だが、女性が堂々と肌を見せる権利と、それが異性愛者の男性の欲望の対象となることで起きる緊張は、今にもつながっている。
だが緊張は常に悪ではない。そこから新しい思想、ファッション、表現が生まれていく。問題なのは無知や無理解、人格攻撃であり、批判は時には深い理解からなされることだってある。純粋理性批判だって、批判は肯定的な意味じゃない。何ができて何ができないか、境目を知っておくのは大切だ。
話を戻そう。
一方で、これが本当にブルマーだったのかは留保が必要な写真もある。というのも、ごく短いスパッツのサイズが合わず、結果的にブルマーのような形になってしまっていると解釈できなくもないからである(さっきの★をつけたデンマークの写真や、☆をつけたノルウェーの写真)。つまり、結果的にブルマーに見えているだけで、最初からショーツ型ブルマーとして裁断されているわけではないのかもしれない。提灯型ブルマーかはっきりしない写真もある。
今後は他のアーカイブサイトを横断し、さらに事実確認を続けていく必要がある。
今回見つけたのは、例えばデンマークでは第二都市オーフスのアーカイブだが、それこそ首都コペンハーゲンのアーカイブを探せばもっと当時のブルマが見つかるのではないか?
ノルウェーではオスロ博物館の情報もあったが、他の諸国ではどうか。
とはいえ、画像による調査に行き詰まりを感じている。幾分、事実確認よりも画像の狩猟に近づいてきているからだ。
なので、今後は各国の言語で「体操服の歴史」と検索して、それを読むことになるだろうか。
実際、英国やオーストラリアでのブルマーの展開については、個人の記憶や体験をもとにしたブログでの証言をもとにした記事もある。ただし、人口の少ない国では苦労するだろう。前にも書いたように、ショーツ型ブルマーそのものに特に名前がなく、短パンやスパッツの一種ととらえられているとしか思えない国もある。
また、リンクの途切れたバルト三国についても、画像を探し直すやもしれない。
そう、過去の記事を見るとすでにいくらかリンク切れができている。だが、魚拓を取るのも面倒だし、どのリンクが死んでいるかを何十もある記事をさかのぼって調べるのもおっくうだ。
いつ上述の作業をしたり、続きを執筆したりするかは全くの気まぐれ、次回はいつになることやら。下手をすれば来年だ。それくらい面倒くさくなっている。というか、調べまくっていたらブルマがゲシュタルト崩壊を起こしてきた。あの頃のブルマーってあんなにハイレグだったっけ?
資料の豊富にある英語で調べた、ブルマー以外の服や手塚ブッダのおっぱいのほうがしっかりと調べ物をした実感もあるし、バズる。
けれども、少しずつはてな匿名ダイアリーでブクマを稼ぐことへの執着が前よりもさらに薄れてきており、調べものをしても増田に書くかどうか、日々怪しくなっているのである。
やるとしたらトップレスやへそ出しの歴史か、しかしそれもウィキペディアの丸写しになりそうなので、何か別の資料がいる。
それではまたどこかで会いましょう。
現代では、お経の研究と実践が進み、ブッダが執着を離れなさいと教えられたのは、方便だったことが分かっています。
あなたは、執着を離れることに執着しているから、執着しないほうが幸せになれるんじゃないか?と頓珍漢な結論にたどり着くのです。
執着することからも、執着しないことに執着することからも自由になれば、いつでも100の幸せが手に入るのです。
こうしたほうが幸せじゃないかと分かっているのに、なぜそうしないのか。
それが、執着しないことに執着しているということです。
本当は100味わえる幸せを10程度しか味わえてなかったんじゃね?だとしたら残りの90分を味わなかった。その分だけ人生損してないかな。
仏教はよく知らんが、ブッダとの目的意識の違いがその疑問になっているのでは?
ブッダは若い日に酒池肉林贅沢の限りを尽くし、「満足は渇望を生む」的なことを悟ってそのループを断つために修行を始めた……みたいな話じゃなかったか。子供の名前もひどいもんだし
例えば、犬を飼っていたとする。当然犬に執着する。ずっと一緒にいたいし、出かけていれば早く犬に会うために帰りたくなるだろうし、病気になったらこの世の終わりが来たかの如く絶望するし、死んだら悲しみのどん底。つまり執着してる。
この一連の流れがあることを知っていながら、次の犬をまた飼う。死んだらとてつもなく悲しいことを知っていながらね。何故なのか?
答えは、犬と一緒にいる時間がとても幸せだからだ。神様が与えてくれたその幸せな時間を満喫するためとも言えるかもしれない。そして神様が与えてくれた寿命が尽きる時が別れの時だ。それはとても悲しいし言葉にはできないレベル。
では執着がなければどうなのか?犬を飼いました、家に犬がいます、かわいいっす。でも執着してないから。病気になったとしても、「そんなこともあるよね」と。「だって生き物なんだもん」と。亡くなりました、「そんな事もあるよね、生き物だから」と。
犬とずっと一緒に生活をしていて、こんな考え方になれるかどうかは別として、仮にこのような考え方になれたとして、それって幸せなのかなと思う。だってこれってあまり好きではないと言う事じゃね?と言う事は、本当は100味わえる幸せを10程度しか味わえてなかったんじゃね?だとしたら残りの90分を味わなかった。その分だけ人生損してないかな。
ブッダはこうも言ったとされている。この世は虚しいと。何故虚しいのかと言うと、死んだら全てがパーだからだ。もちろんそうかも知れない。死んだら全てパー。しかし生きている時間を少しでも幸せにしようと努力し、そして幸せを感じる事は無駄ではないんじゃないかな。
ちなみに仏教の勉強をしていると色々な説があって、微妙に違ったりする部分があるし、なんなら僕自身の解釈が間違っている可能性もある。ただ、仮に僕の解釈が正しければ、ここに書いたような疑問を持ってしまう。