はてなキーワード: 言うは易く行うは難しとは
舞台設定に関しては、テッド・チャン「不安は自由のめまい」の《プリズム》で観測できる平行世界というのが元増田の
やりたいことに合致してそうな気がする。
未読だったけど、おもしろそうなので調べて見たら、むちゃんこガジェットが似てて草
ちなみにPrismaticallization(プリズマティカリゼーション)がどういうギャルゲーかというと、
・・・と、だいたいこんな内容。めっちゃ似とらん?www (まぁ、さっきも書いた通りタイムリープ物ならみんなどこかしら似るか)
マクロなスケールで考えれば原理的に始まりから終わりまで決まっているよね
⭐️やはり前回書いた増田(https://anond.hatelabo.jp/20221012002410#)同様に "大差ない" と "時戻し" の定義による⭐️
自由意志は現代の標準的な物理的世界観と論理的に矛盾する。お前と言う存在(自由意志)は気のせいだから"我"があるように振る舞うな😡以前に、
そもそも、我々が現在、"日常" と認識する世界においても、単純に I/私 は連続していない
過去の自分・今の自分・未来の自分は組織からして物理的に違うし、人間の記憶は同じだから連続した存在(同じ存在)とするのもだいぶ無理がある
記憶は五感を伴うものであり、身体の組織が違っていれば、思い出しても当然感じ方は違うし、
(似たような環境で育てたとしても完全に同じ個体にならない理由がまさにこれ)
そもそも記憶のインディックスを失い、正しく記憶を読み取れなくなるかもしれない(いわゆる"忘れる")
早い話が人間は、身体も記憶も連続していない。少なくとも、連続性を保証するものは何も無い
しかし、それでもなお、誰も "I/私" を無い物として放り投げやしないでしょ。ワイはそれを『希望』と呼んでいる
もちろん、現代の標準的な物理的世界観と論理的に矛盾するけど自由意志はあると思ったらある!としても、
壁をすり抜けたりとかトンデモないことは出来ない
(もしかしたら出来ちゃったりするのかもしれないが、1秒間に100億回壁にぶつかりつづければ、宇宙が始まってから現在までに1回ぐらい壁抜けが出来るかもしれないみたいな類に
我々が現在、"日常" と認識する世界でチャレンジする予定は今のところ無い)
でも、ボタンをただ押すみたいな単純で小さな小さな事なら出来ると思って生きているし、それがどんな変化をもたらすのか非常にワクワクして楽しい
それは不確定な未来について不安に思うとかではなくて、 "I/私" は世界に介入する力があるのだから、
世界で認知し得るすべての不幸は、 "I/私" の行動・望んだ結果だからだ
言うても壁をすり抜けたり等トンデモな事は出来ない(と思われる)ので、ボタンをただ押すみたいな単純で小さな小さな行動しかできないけどね
どちらも非常に難しいでしょうね。能力主義 FUCK だよ
だからこそ、口にするほど出来てはいないけれど、自分に足りない物を嘆くのではなく、自分が持っているものに感謝したいし、
自分の能力でできる範囲(出来ないことしようとしたら潰れる) で困っている人は助けたい
あと単純にもっともっと楽しくワクワクしたいので、今よりも少し自分も世界も良くしたい
しかめっ面しながら、うぉぉぉぉぉぉ積み重ねるぞーとやっても何も楽しくないので自分が認知している今を楽しみながら、
でも、出来たらちゃんとなんらかの積み重ねが出来ているようにバタバタやっていきたい
ほんと『言うは易く行うは難し』だよな
結局あらゆる事は自分がどうありたいかってだけの話でしか無いは常に自分の中心に据えたいと思っている
なぜなら、バカはバカとしか言いようが無いし、バカだからといって実生活で困ることは何も無いからだ
少なくともワイくん自身は自分がバカで困った事は何一つとして無い
もちろん、何か物を頼むなら出来たらバカじゃない人の方が良いので、
プロフェッショナルとして期待される場面ではバカじゃない風に(自分の能力で可能な範囲で)装うが、その程度のモンである
自分の能力以上に賢く振る舞う事は当然出来ないし、学が無いのも誤魔化せやしないが、それでも誰も困っちゃあいない
自分の半径1メートル圏内の話ではなく、世の中全般的なお話である
しかし、それは、ペーパーで測れる範囲の認知能力に特別な問題は抱えていないバカの話であって、
ペーパーで測れる範囲の認知能力で既に問題ありとなってしまうケースではそうはいかない
学があったとしてもさまざまなシーンで配慮や手助けが必要となる
けれど、ペーパーで測れる範囲の認知能力で既に問題ありとなっている本人自ら手助けや配慮を拒否しちゃうケースが多々あるんですよね
バカだと思われるのが屈辱・辛い、あるいは自分自身を守るために警戒心・猜疑心が強く手を跳ね除けてしまうそうな
こんなん、足が速い遅いとか背が高い低いだとかと同じレベルで引け目に感じる必要性はまったく無いのだが、
『フツーに助けや配慮を求めてどうぞ』という世の中にするには、
バカという言葉というか、知能にまつわる罵倒語を無くしていくしか無いのだろうなと思う
それに伴って、ペーパーで測れる範囲の認知能力に特別な問題は抱えていないバカは、
いつでもどこでもバカで〜すw と開き直るのは改め、
出来得る限り襟を正す必要性、出来得る限り困難を抱える人に手を貸せるよう余力を蓄える必要性があるのかなぁと思う
でも、『言うは易く行うは難し』なんよね
バカであること(愚かであること・無学であること)を開き直るのは、何のアクションも要らないし何のコストも掛からない。とにかく省エネで楽
なんか今、議員と旧統一協会との繋がりを一人ひとり確認する流れになっていて思うのだけど、これ、議員がもし旧統一協会の信者だった場合どうなるんだろうね。
その場合、正直に答えるなら、「私は旧統一協会の信者なので、当然同じ教会員には応援してもらっています」ということになるのだろうけど、今の状況でこれが世の中に受け入れられるとは思わない。
なので、適当にお茶を濁した発言をするしかないのだと思うけど、それを詰めていくことは、実質的に旧統一教会員か否かの踏み絵を踏まされているのに近いのではないか。
よく考えるとこれは怖いことだ。
企業が人を採用するときに、受験者にその信じている宗教を尋ねることは厳に慎むべきとされている(厚労省による)。それを採用選考に持ち込むことは、信教の自由を侵すことになるからである。
今回の件に即していえば、受験者が旧統一教会の信者であるかを確認し、それを採用判断に用いることは厳に慎むべきということだ。
日常生活においても、人にその信じてる宗教を尋ねることはしにくいのではないか。
私は友人がどこかの宗教組織に属しているかどうか、確認したことはないし、確認するつもりもない。
友人との今の関係が全てだし、宗教を確認することでその関係に変化を与えることは望んでいないからだ。
翻って、議員に対して実質的に信じている宗教を明らかにするような問い詰めを行うことが許されるかどうかということだが、
私は議員に対してだろうが、このような問い詰めは許されないと考えている(つまり、自分が信じている宗教を明らかにする必要はないということ)。
旧統一教会は、宗教法人法に基づき、文化庁により認証された宗教法人の一つである。
旧統一教会員であることが周囲にバレることで不利益を被る可能性があるのであれば、信教の自由のもと、旧統一教会員であることを隠すことは許される。
(さらに言えば、「旧統一会員ですか」と聞かれたときに、「私は旧統一会員ではありません」という答え以外は旧統一会員とみなされる可能性があるため、
旧統一教会員であっても、「私は旧統一会員ではありません」と嘘を付くことも許されると考えている)
旧統一協会を例にすると変な反発を生みそうなので、他の新興宗教を例にしてもいい。
日本には旧統一協会に限らず、カルト的とみられている新興宗教は幾つもある。
それらを一つ一つリストアップしたうえで、議員にそれらの新興宗教との関わりを尋ねることは、信教の自由を犠牲にするほどの価値があるのだろうか。
(そもそも、ある宗教がカルトかカルトでないか何て明確に切り分けできるのだろうか)
今重要なことは、議員個人の宗教的属性を明らかにすることではなく、
現に宗教問題に苦しんでいる信者やその家族などに対して、新たな法的手段を含め何らかの支援の手段を講じるということではないか(言うは易く行うは難しではあるが)。
(議員の宗教的属性がどうであれ、これにきちんと取りくんでくれるのであれば問題ないのではないか)
なお、私は、信教の自由の観点から、宗教問題は2世問題が一番重要だと考えている。
幼い頃から半強制的に親と同じ宗教に所属させられることが多く、実質的な信教の自由が保障されていないことがままあると考えるからだ。
私の印象では、2世問題が政治的に大きく取り上げられたことは無いと思っているので、これを機にこの観点からの議論が進めば大きな前進だと考えている。
個人情報と個人のストーリーをネット上に載っけないとアカンねんって話なのですわ
持ち回りで会社のエンジニアとして記事を書け・イベント開け・参加しろとに命じられて
Facebook垢をイヤイヤ作ったけどね
すべて同じ人物から得たものだけどね。ここでは仮にA氏としておこう
https://anond.hatelabo.jp/20210401174952
今から10年前自分もこの増田と同じく新社会人になれないまま卒業した。
そのためこの記事を読んで当時のことを思いだした。
地獄要素は書ききれないほどあるが大まかに分けると3つだ。配慮の無い人事との面接、家族への引け目、友人との比較。
配慮の無い人事については一発芸は無かったが、その質問をして意味あるの?というのは山程あった。
あと地味にキツい質問が「なぜこの時期まで就活をしているのか、説明して」というのがあって、いやこっちが知りたいと常に思っていた。
自分が振られた理由も企業によってケースバイケースだし、仮にあっても正直に言うのも微妙。どういう回答が欲しいのかよく分からなかったしそれを見極めるのがあなたの仕事ではと思った。
家族への引け目もきつかった。当時、卒業後に姉が結婚式をしたり祖母が亡くなったりして親族一同と会う機会があって気まずかった。微妙に気遣ってくれるのがまた心苦しくていたたまれなくなった。
家族も気遣ってくれるのが伝わってきて、それに対しての申し訳無さもあった。ただ、両親もアドバイスをくれたが両親が新卒の時と時代が違いすぎて参考にならなかった。
友人との比較もあった。友達の就活が終わり悠々と卒業旅行をしているのを聞いた時は羨ましさ半分、どうせ一緒に行っても純粋に楽しめなさそうだなとも思った。
また友人の新社会人生活の愚痴も聞きたくなかった。こっちはそもそもそのスタートラインにすら立って無いのだがと思っていた。またそうやって友人と比較して卑屈になっていく自分も嫌いになって落ち込んだ。
さてその後自分がどうなったのかというも書いていく。
ただし、これはアドバイスではない。参考にしたいところだけ取り入れればいい。
■ 志望企業について
増田と同じように100社にぐらいは自分もそのぐらい受けたと思う。というよりもそのレベルになるとどこの会社を受けたのか覚えていない。
ただ、既卒になってやめたのは受けたくない企業は受けないようにしたこと。恐らく増田もそうだが普通に考えて100社も行きたい企業はない。
確かに志望度が低い企業を落ちても精神的なダメージは少ないが、結局ダメージは0ではないし、時間と交通費の無駄であるので闇雲に受けるのはやめた。
また世の中には新卒至上主義の業界や企業が存在する。残念だがこれらの業界や企業は既卒になった段階で受かる確率が低くなるのでこれらは受けるだけ不毛になるので調べられるなら調べといた方が良かった。
■ アルバイトについて
既卒になってまず実感するのは社会との繋がりが希薄になった。今まで学生ですと答えていたが、既卒ですというのもなんか変な気がする。
そのため、面接以外にも普通の大人と喋る機会はあった方が良いと思う。何かしらアルバイトをして社会との繋がりは残しておいた方が良いし、少しでも金銭面で家族への依存がなくなるだけで気は楽になった。
あと自分は近所でアルバイトをしていたが、振り返ってみると出来るなら興味がある業界のアルバイトをした方が良かった。
正直今の時代はアルバイトか正社員かという経験の有無よりも、「何ができるか」ということの方が重要になってきている。だから自分は〜が出来るという具体的な引き出しは増やしていくことの方が正社員経験有りますよりも有利。
たぶん採用側からすると業界未経験の第二新卒を採用するよりも、業界経験有りの若いアルバイトの子を採用すると思う。アルバイトからそのまま正社員登用が無難だけど、それよりも経験がちゃんと積めるアルバイト先を見つける方が優先度は自分なら高いかな。
■ 面接について
相手の企業のペースに合わせるのではなく、自分のペースに巻き込むようにして面接をする。増田もそうだが自分もわりとマイペースな人間だった。
だから、相手の企業に合わせて自分を作り変えるというのがそもそも向いていないし苦痛を感じる。もちろん訓練によっては改善できるのかもしれないが、そもそも不得意なことを頑張っても費用対効果が薄い。
自分がマイペースに話してダメなら、それはその企業と縁が無かっただけだし、むしろ自分が違和感を感じれば辞退してもいいと思う。
もちろん言うは易く行うは難しではあるが自信に繋がるので重要である。コツは相手の話をよく聞き、友達の感覚で話す(多少敬語が崩れていても問題はない)
ただし、注意としては正直過ぎる必要もない。別に言う必要のないことは言わなくても良かった。分かりやすく言うと自分のメリットにならないことは喋る必要はない。
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そんなこんなで自分はその後就職して今は独立して仕事している。
結局自分は会社に所属して仕事するというのが合わなかったから、当時の面接官の見る目は結果的に正しかったのかもしれない。
でも、傲慢だが就職した後は抜群の結果を残しいたのでやはり見る目がなかったのかもしれない。
乙女ゲー、エロゲー、ギャルゲー、スポーツゲーを除くジャンルのどれかを定期的に遊んでて
おはよ~とか今日のお昼ご飯どうしよう~とか他人からしたら微塵も価値がない情報を連投してツイッターを汚染しない
そんなアカウントをフォローしたい。探し続けて1年ぐらいになるが、全然フォロー数が増えない
1日10分ぐらいしか眺めないから、所謂ブログの代替みたいな使い方をしてるアカウントが好きで
このアカウント良さげだな、と思ってフォローしてもフォローし続けてると、変なことを言い出すやつが非常に多い
一番ひどかったのは何を思ったのか、突然政治の話を連投し始めたやつ。政治経済習ってないのかな?ってレベルだったので即ブロックした。まあ習ってたところで即ブロック案件だったけど
べつに100人200人もフォローしたいわけではないので、10人そこらで十分なのだが
その10人が見つからない。最近は探すのがだんだん億劫になってきた。
以前似たようなことをここに書いたら、自分で配信なりして人を集めればいいじゃんと言われたが、それで簡単に集まるならぶっちゃけ苦労してない
まず配信向けのゲームを選定し、見る側が居心地の良い環境を作り、トーク力を培う必要があるわけで、まあ一言で言えば面倒なのだ
そもそもゲーム配信をしている日本人がこの世にどれだけ居るのかご存じだろうか?莫大な人数から「こいつの配信は面白いからコメントしよう」と思わせ、コミュニティの存在を認知させるのがどれだけ大変なのかは、言うは易く行うは難しだ
こちら、酒を一定量以上飲むとより欲してやまないたちの悪い性質をしており
とはいえ、協力金(6 万円/日)の影響は大きく、ほとんどの店は休業を決めている。
馴染みの店はすべて休業だ。困った、為す術もない。
こうなると家に帰って一人コンビニで買った酒をおとなしく飲むのがあるべき姿なのであろうが、
いい年のおっさんともなると、家で一人飲み、くだをまく侘しさが身にしみていて躊躇しかない。
結果、飲める店を探し求めてぐるぐる。商店街を2周した。
そして開いている店をみつける。ガールズバーですって。
いや、言い訳をさせてほしい。女の子と飲める店を探していたわけではない。
ただ、空いていたのがその業態だったのと、いま女の子がいないから料金半額でいいとのことで即決した。
40 分 2000 円飲み放題のところ、女の子がいないので 40 分 1000 円飲み放題でいいという。
大喜びで店に入りビールやハイボールを何度か注文しどうしようもなく楽しくなったころ、
正確には 40 分くらい酒に溺れたころに女の子が相手をしにきてくれた。
女の子の店に来ておいて何を言ってるんだと思われるかもしれないが、正直 40 分 1000 円でもっと飲みたかった私は
他に接客が必要なテーブルがあるならそちらを優先してくれと紳士的だと思われる言葉を並べてみたのだが
どうやら間に合っているらしく、私の担当として正面で相手をしてくれた。
それはもう、お互いに不幸だったと思う。
私は女の子に少しでも話を合わせようと、あなたはどういう人なのか、何が好きなのか、を聞いてみた。
少しでも共通点を探して、もしかしたら仲良くなれるかもと言う期待もあったかもしれない。
現実としては、あまり反応は良くなかった。というか嫌そうだった。
そんなつもりはなかった。が軌道修正もできず、40 分間お互いに辛い時間を過ごし店を後にした。
延長についてたずねられたが、そこで居座れるほどの胆力もないため退散した。
帰路につきながら、何が原因か考えた。自分が原因なのは明白なことだが
こんな感じなのかなとよそいきには思うものの、実際は問題とは思っておらず反省するつもりはない。正直。
わかってる。だから自分の男女関係がうまくいかないのも。ただ、ここってお互いが思いや考えをぶつけないと進めないもんじゃないかなと。
女の子の店の最初の会話のステップではないだろと言われるとそうなんだけど、、じゃあ最初は毒にも薬にもならない当たり障りのない会話をするのが正しいと?
いっちゃなんだが会話が合わないのはお互いの問題だと思っている。
とはいえ、飲みに行っては何かしらのわだかまりを持ち帰っているのは事実で。これはどうしたものかと思っている。転換期ですね。言うは易く行うは難し。
みなさま、どのようにお過ごしでしょうか。お兄様方のアドバイスを受けたいです。
コミュ力って媚び力なので概念としては何も難しいことはないと思うけど、人のお気持ちは多様なので言うは易く行うは難し
言うは易く行うは難しってあるけど、わずかな論理性があれば言うのすら難しいと思う。
日本のオワコン会社が合併して出来た会社でも、妥当Googleだの言っていたし、昔勤めていたお役所企業のガチ低能IT企業でも社長がそんなことを言っていた。社長、うちの会社の社員はプログラムすら書けないでエンジニアと名乗ってるんですけど??
世界中から優秀な人を集めることができるアメリカは様々な有名企業を要しているが、その名だたるIT企業のTOPに君臨するGoogleと、日本の技術力だけでなく、英語力までも低いがために、英語で書かれた技術書をまともに読めず、新技術を使うときいつも的外れな投稿がQiitaにあふれかえるこの日本のエンジニアがどう勝負するっていうんだ??
そもそもGoogleの入社試験を突破できるエンジニアが日本に何人いるっていうんだ?Googleの日本支社ですら外人で溢れているのは日本のエンジニアが糞しょぼいからだろ?
もう会社のTOPが精神論になんかに頼りだしたら末期。思考が停止してますって言っているようなものでしょ。
わいはおっさんだからドラゴンボールに例えると、亀仙人に弟子入りしたての少年クリリンとフリーザ様くらいの戦闘能力の違いがあると思う。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
今すぐに思いついたのだと、二つあるかな。
一つは、義務でも何でもない、「誰でも出来る簡単なことを『継続する』」こと。
「継続は力なり」なんていう一見すると何てことない言葉が格言足りえるのは、それが一般的に大変なことだからだ。
例えば、君がこの匿名ダイアリーで内容は何でもいいから日記を投稿する。
これを気が向いた時々でいいのならばともかく、ほぼ毎日となると大分ツライだろう。
そういうものは仮に最初は楽しめても、やり続ければ飽きやすい。
義務でもない、自分がやろうと思えばいつでもやれるということは、自分次第でいつでもやめられることだしな。
誰でも出来ることが、誰でもやり続けられるものとは限らないということだ。
私だって一年以上このカテゴリを継続させていて、それなりに楽しんではいるものの、それと同時にいつやめてもおかしくないと思っているからな。
えー、そうだなあ……。
もう一つは義務でも何でもない、「誰でもできる簡単なことを『我慢する』」ことだ。
特に、「外部からの影響によってもたらされる衝動」を我慢する。
まあ、「我慢する」とまではいかなくても、「関心を向けないようにする」だとか、「エネルギーを割かないにようにする」だとかでも構わないが。
例えば私だと、「シン・ゴジラ」だとか流行真っ只中の時期に、そのテーマで一切語らなかったことかな。
センセーショナルなテーマというものは、「何かを語りたくなる衝動に駆られる」ものだろう?
知識や教養がなくても、千差万別の人々が衝動に駆られて色々と語るから、自分もその熱に煽られる。
他には、間抜けな内容が書かれたエントリや、挑発的な文章にブコメも何もせずリアクションをしないようにするだとか。
現に、観に行ってすらいないのに、「シン・ゴジラ」を語る人が多く出没することからも、影響力の高さが窺えるね。
周りを見渡しても「シン・ゴジラ」のテーマを扱ったエントリが目に付いていた。
そんな環境下で茶々の一つも入れない、ふざけてネタにすらしないって、とても困難なことだろう。
仮にそういう状態で語っても、まあそれなりの内容は書けるだろうけれど、衝動的なものだからね。
頭は回っていて、理路整然とした文章だとしても、それは普段の状態で書いたものとは性質が違うわけだ。
それはそれで、或いはそちらの方が面白い内容になる可能性もあるかもしれないが。
だが、そうやって動機に自覚がないまま書くということは、それは自分が好きで書いた文章ではなくなる可能性を持つということだ。
自由意志のもと書いた筈のものが、自分が書きたい文章ではなくなるってのは私からすれば不本意なのでね(もちろん、これは私の言動に後から付け足した理由だが)。
おっと、客観的にみた是非だとか、そういうことは君が考えればいい。
いずれにしろ、「誰でも出来る簡単なことを『継続する』」、「誰でもできる簡単なことを『我慢する』」、これらは間違いなく「言うは易く行うは難し」だろう。
もし両立できる人間がいるとすれば、すさまじい精神力といえよう。
もちろん出来たからいって、その事柄自体が誇れることかどうかなんてこと私は知らんよ。
……そういえば、これもテーマを取り扱ったうちに入るんだろうか。
なぜランナーズハイが起きるのか、考えてみたことはあるかい?マラソン選手が「無心」に走るとき、いやマラソン選手じゃなくてもいいけど、人が走るとき、その人の脳内で何が起きているのか、それを考えてもみてくれ。
「無心」という言葉がある。また、「無為」という言葉がある。それらは何を意味する言葉なのか、ちょっと考えてみようか。
例えば、「美味しそうな桃があるなあ」と思って、桃をつかむ。これは「有心」なわけですよ。やろうと思う→動こうと思う→動く→反応がえられる。必ず、こういう順序になっているわけ。これはね、人生の最も普遍的な構造の1つなんだ。あらゆる所で、今言った順序のプロセスがついてまわる。
ところがだよ、「美味しそうな桃があるなあ」と思ってつかんだら、前の席の女の子のお尻だった。これはどう考えるべき?
「無心」に近いのだよ、これは。たしかに「やろうと思った」。桃をつかもうとした。でも、痴漢行為という違うことをやっちゃったわけ。つまり、桃に関しては「有心」かもしれないが、痴漢に関しては紛れもなく「無心」。やろうと思わないで、動こうと思わなかった動きをやった。そしてビンタされるという反応をもらった。簡単なことだろう。
これは、先ほどの矢印で表すなら、 動く→反応 というシンプルな構造をしておる。これが無心の構造だ。
有心と無心の構造の違い、それが何をもたらすのか?ここが重要なところであるぞ。有心だと、「やろうと思う」「動こうと思う」という意志が行動に先行していた。すると何が起きるかというと、動きがよく意識される。当たり前だ罠。やろうと思って動こうと思って動いたんだから、その動きはよく自覚される。当然である。
ところがどっこい、無心の場合は動きが「特別視」されない。ここがポイントね。特別視されないから、動きと反応が渾然一体となって、心に「どぴゅっ」と入ってくる。射精音を「どぴゅっ」と最初に表現した人は天才だと思う。話がそれた。渾然一体となって行動とその反応が入ってくるから区別がつかない。これが「主客未分」とか「無我」なわけです。
おそろしく単純だけどそれを厳密にやるのは難しい。だから「無我」はむずかしい。からまりの糸をほぐさないと外れない、でも外れたフリは簡単にできる、そんな知恵の輪がそこにある。
以上から、「無為」のヒントが分かったろう。「やろうと思う」「動こうと思う」といった「意志の想念」を無くせばよい。もちろん難しい、難しいけど無くせればもうそこには「無為」がある。
ランナーズハイのえもいえぬ快楽はまさにこの「どぴゅっ」であろう。ランナーは走り去る景色を見ながら走る。過ぎ去る路面を見ながら走る。やがて走ろうという意志が消えて走行が自動化すると、何ということでしょう、過ぎ去る景色が「どぴゅっ」「どぴゅっ」と飛び込んでくる。エンドレス射精が気持ち良くないなんて人はこの世にいるだろうか?いや居ない。射精だに気持ち良いのに、いわんや連続射精においてをや。世間では「ちんぽには勝てなかったよ」という名言があるそうだが、それは自身のちんぽとて例外ではないということだ。話がそれた。
私はジョギング以外にスキーもやるのだが、スキーにも似た感覚がある。過ぎ去る景色がやがて「どばばばば」という射精感で飛び込んで全身の喜びとして一体化される。バイクはやらないんだがバイクなんかもそうなのだろうか?
その気持ちよさを味わってみると、ああ人間ってのはなんて自分の動きにやたらと注意を払う生き物なのかと叫ばずにいられない。そのようにhumanbeingを特徴づけても差し支えないくらいに、自分の動きを意識しすぎている。それは挙動不審とか自意識過剰とよばれる。自然界から有心な生き物だけ集めると、すまないがホモサピエンス以外は帰ってくれないかってことになる。
要するに、「○○しよう」って意志が人間を人間たらしめ我らが誇る文明を築き上げてきたのであると同時にだな、人間を大きく縛り付ける枷(かせ)ともなっている、と言いたいのだ。
その枷から逃れる術は実はあるのだがここでは詳しく立ち入らない。簡単に触れると、動きの意志からの離脱が動きを無為へと解放したように、「意志の意志」というか「意志へのこだわり」を捨てればよい。さすれば、己が意志すらも「どぴゅっ」と飛び込んでくる。イメージとしては川の上流が滞りなければ、中流も下流もさらさら流れやすいだろ?そういうこと。感覚としては小学生でも分かる簡単なことだ。また、部分的実行もさほど難しくない。だが完璧な実行は、言うは易く行うは難し、である。
だから、意志は最小化(minimize)したい。そう思うのも当然だね?それをシンプルに「没頭したい」「熱中したい」と言い換えることも可能だ。人々は意志の中身を問題にするが、意志の量はあまり問題にされない。意志の量を問題視しよう。
アメリカの政治家ナサニエル・シモンズはいみじくも「習慣は最高の召使か、最悪の主人のいずれかである。」と言い放った。
しかし、こと意志の最小化に関しては、習慣化は善である。すなわち、習慣化すれば意志は減る。換言すると、動きを自動化すれば、動きに関して気にすること(daily hassles)が減る。当然だよね(キュウべえ口調)。
習慣化なんてやだよーと枕に顔をうずめて手足じたばたさせているそこの貴方に朗報。習慣化しなくても意志は減らせます。キーワードは「リズム」。リズムに乗れば確実に無駄な意志は減ります。ジョギングってリズム運動じゃないすか~?だから効くんすよ~。
リズムというと「リズムに乗る」という言い方をするだろう。「リズムに身を任せる」ともいう。意識せずとも身体が動く。無為。これはもう完全に、意志で「動こうとする」のとは正反対のことですわい。
ジョギングでも音楽演奏でもなんでもいいんだけど、リズム運動するとき最初はリズムに「乗ろうとする」。けど、やがて「リズムに乗る」。すると、意識の上でも逆転現象が起きる。こういう順番なわけ。
逆転現象ってのは、世界と自分を対立させて自意識過剰にキョドってうまく動こううまく動こうとするモードから、世界に乗って世界のあやつり人形となったお任せモードへと変わる。あやつり人形なんておそろしい言葉・・・。しかし、これはあくまで行動の細部が自動化されることを感覚的に表現しただけで、実際に大筋を決めるのはモニタの前に座ってるそこの貴方だ。びしっ。
是非ともこの逆転ということを幾度となく経験してどんなものか掴んでほしい。「無為ってなあに?無為ってなあに?」と彷徨っていると夜のとばりが突然降りたかのようにガラッと変わるから。
自分の動き、自分の身体が景色の一部に取り込まれて、景色全体が一挙にドドドドドドと押し寄せてくる、飛び込んでくる感覚。
そして、そのとき漏れなく付いてくるのが「どぴゅっ」である。それも連続。つまり、「ドドドドドトド、どぴゅどぴゅどぴゅどぴゅ」なのである。