はてなキーワード: 日本語学とは
・人口大国の中国も一人っ子政策のため労働人口が減少ターンに突入
・上記2つの理由で日本に働きに来る中国人は減る、ベトナムやフィリピンからも中国に人が流れる
・日本語は習得が面倒なわりに日本以外では使えないので海外での日本語学習者は減ってる(アメリカじゃ中国語学習者の方が増えてる)
・中国でも韓国でもインドでも技術力のある高度人材は日本なんかすっ飛ばして直接アメリカに行く
・日本は相続税率が高いから子孫の代にあんまり財産が残せないのでお得感が低い
・ヨーロッパにはトルコ→ギリシア経由の陸続きで中東系の難民が大量に流入してるが、日本は四方が全部海だから難民も入って来にくい
・外国人技能実習生の酷使されぶりがそろそろ国際社会にバレてる
――労働人口減少に対応するには、60~70代の人間も働かせるしかしかねえだろ。
すると老人酷使社会だと言う奴もいるだろうが、むしろ逆に、定年後すっかり社会から孤立して収入も途絶え、「働かせてもらえない俺は無価値なのか」と思ってる老人はけっこう多い。高齢者の困窮と孤独死は深刻だから、低収入の補助労働でも働かせてもらえれば喜ぶ年寄りはわりといるんじゃないの。
最初のすべて、すべての C の S 上のためのアリの原因のトラブル日本人学習者。すべての pHを1つのにMES 日本語以外1 W(ん)エンドそれ H母音。T ここで前部、彼らは傾向があるために追加した後に母音を英語 C 上の上のアリ。トラブルは、私が話すことから、私は疲れているはずです。彼らが話すときは英語を、lはある tenerはあり余分な母音のためにそれらを理解していない。乳清彼らがL である 10、それらがよいメートルであるの多くのC に S であるため、彼らはアリドン「TC にそれらサイダー等の pHは1 MESしかしとして かすかな 音。より具体的としてワットpects その時間C 上の上のアリ、tはここにいくつかのpHがある1つの彼らのために困難ですMES。例えば、私はL缶である T / F /、/ V /、/θ/、/ D / A、および/ʃ/。これらのph 1メゾは日本語にはないものです。Tは、ここで前部、日本語学習者は、PR にオンス/ H /の代わりに/ F /、/ B /代わりV /、/ S /の代わりに/θ/、/ Z /の代わりに/の/ D / A、および/ S /の代わりに/ʃ/。別の例として、私はL缶である T / R /、/ l /、/ M /、/ N /、/ N /。これらのpHは1つの MESは何ですか、日本語が持っている同様のpHを1にMESを、これらの日本の pHは1つの MESは、他に類似している英語のpH 1 MES。言い換えれば、日本語での1つの音が 英語で2つ以上の音。「ら」である /rʌ/と/lʌの両方に似て/が、まったく同じではないとして、電子それ彼女。"ん" である PRは上時々 ounced として時々 、m個/ / ような / N /、時にはとして / N /。それは依存にどのpHを1に私がされて、「ん」が、次のように問題実際、我々はドン tは気に」を、それだけC にサイダー一つとして、 pHが1私。すなわち、同様の面倒それは yはその原因日本語学習者がCであるに融合された間 / R /と/ l /との間に / N / / M /、/ N /、および。
母音の点では、ここでもいくつかの問題があります。以来、日本語が有する唯一 5母音、日本語学習者Dができないで tinguことで各母音E H として ILY。たとえば、「あ」は /ɒ/、/æ/、および/ʌ/に似ています。T ここで前部は、彼らがUSU すべてのy PRをに「熱い」、「帽子」、および「オンス小屋同じように」。また、日本語では「トリッキー母音」を持っていないとして 、英語 LANGUの年齢が 持っています。ここにI 'はトリッキー母音'手段は母音、diphth滑空することを定義する上で、GS、およびc R-母音に S である /ə/と/ R /のTSを。W それは知っハウトexがある可能性がどのように、これらの母音のTenceの日本語学習者が、おそらくPR にオンス、「キャッチ」「コート」、および「裁判所」?
これらの問題を解決するために、私はなり pHが使用1マイクシンボルを。以下のために日本の人々、それは T「sの珍しいことに、ここ ではない音を表現する一切の手紙。彼らはそれが 10であるので、私たちはオンスの言葉に基づいています。学生を慣らすために英語のスペル、教師はpHを教えるべき1つの最初のマイクシンボルを。その後、私はなりタールが含まれ、いくつかの単語や文章を使用し得る pHが1私を。また、私はしばしば最小限のペアを使用して、彼らができることを確認しますtingu は h ph one mesです。しかし、私はと仮定思春期に到達する前に学習者がすることができます取得、正確なPRを上 unciati に UNC に sciously とネイティブ・さすることが可能に再ように。T ここで前部は、番目である方法がある学習者のためのオーバー年齢思春期の。それはbでなければならないDUR電子を中学INGの高校以降。
日本政府が「こんだけ覚えてれば日常生活ではまあ問題ないっしょ」と認定するレベルでも2000字近くあって、ネイティブの日本語スピーカーであっても義務教育で9年かけて学ぶと。
だから、特にアルファベット系の文字(これはヘブライやアラビア文字を含む)を使う外国人にとって、習得は超大変だろう。
一方、韓国と北朝鮮はハングルを開発して漢字を事実上廃止した。
これを以て「日本もそうしろ」「そこまで後生大事に中国お仕着せの文字を使う意味がわかんね」と主張する外国人、結構いるらしいんだよね。
旧仮名遣い復活ですか?そっちも茨の道だと思うけど。
そもそも本当にカナ文字だけの文章を読んで、それでそんな主張してるの?
これ、日本語学習する外国人から少なからず恨まれている要素みたいで、向こうのかなりの知識人でも同様の主張をする人がいるからヤバイ。
となると、外国人向けに漢字習得用の教材を作って、少しでも難易度を緩和するくらいしか手がなさそう。
でも、日本人の子供でも習得に10年近くかかるものを、ものの数年で覚えさせることなんてできるのだろうか…。
あとは助数詞(「1本、2杯、3台…」ってやつ)ね、これは日本人でも微妙に間違えるしな。
どうしたものか。
うんと外れの丘陵地帯のさらに奥に行くと急な斜面の山肌になってて
晴れもいいが梅雨で雨も欲しいなぁと仰ってたわ。
この時期梅雨なのに
あまりにも雨が降らないわよね。
雨降って欲しいと思うほど、
最近雨降らないわよね。
梅雨雨欲しいわね。
あー、なんか空気はカラッとしてていいんだけど、
咲いてるサジサイさんも雨を恋しがってる感じだわ。
日本語学習してる人にとってはかなり鬼要素らしいわよ。
「ー」の棒を使うルールとかもなんか有るようで無いみたいで
それも鬼らしいわ。
同じ読みでも
書き分けたりするじゃない。
あれもなんかうまく説明出来ないのよねー。
何の話だったっけ?
梅雨の話ね、
うふふ。
久しぶりに何週間かぶりに
やっぱりそれが美味しくってたまらないわ、
牛乳もすすむわっ!
よくよく考えたら栄養素かなり抜群なんじゃね?って思うほど
美味しいのよね。
茶葉は少な目がいいわやっぱり。
冷蔵庫も整理しなくっちゃ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ネットに日本語で論文発表できる場所って無いんだな。日本語学会は年会費一万円かかるし。
a 収束 例:あっ
e 拡散 例:えっ
i 情報
u 終止
nn 終止
集合
d 集合の辺
n 集合の内側
k 集合の外側 例:そうか 来た
結びつける操作
g 集合の辺
h 集合の内側
w 集合の外側
選択肢(集合の辺における動き)
b ・→(前提) 例:ならば
t →・(結果) 例:だった
m ・(条件) 例:また もし
l →(選択肢) 例:なら
集合の内側における動き
z ・→(自分寄り) 例:だぜ
y →・(相手寄り) 例:だよ
集合の外側における動き
S ・→
p →・ 例:ぱぱっと
解説1:http://anond.hatelabo.jp/20170314172556
「わ」と「ね」は形は似ているが、読みに共通点はない。ややこしい。
五十音順で最初の文字「あ」は、ひらがなの中でも最も書くのが難しいもののひとつだと思っている。下半身のバランスが難しい。線が交わる箇所が3箇所あるが、この交点が重なってしまうと下手に見えてしまう。常に他の線がどこへ走っていくかを考えて書き進めなければならないのだ。これが一番最初に登場するのだから日本語学習者は大変だ。
それに比べるとアルファベットはどの文字もシンプルだ。「A」の堂々とした佇まいを見よ。
そんな「あ」も、いろは順では36番目である。いろは順で名誉ある第一位を戴いているのは「い」である。しかしこちらも最初のひらがなと言うほどの風格は感じさせない。これがカタカナの「イ」になると多少威厳が出てくるのは、テレビに最初に映るというお役目を果たしたためかもしれない。
ひらがなでバランスの悪さを感じるのは「を」である。カタカナの「ヲ」も、なんとなく異質な感じを受ける。これは文字自体の形・バランスから純粋にそういう印象を受けるのか、それとも助詞としてしか使われない「を」という言葉の特殊性から来るのか、よくわからない。
お気に入りのひらがなを挙げるとしたら「ゆ」かもしれない。上下左右に振り回されるアクロバティックさと、丸みを帯びたかわいらしさが同居しておりポイントが高い。
今回は裏サンデー
後半の漆原と心葉のやり取りがディスコミニケーションのお手本みたいで、不覚にも笑った。
円滑なコミニケーションにおいて重要なのは、多義に渡りやすい言葉の解釈を当事者たちで同じにしたり、軌道修正を細かにすること。
やり取りをする人たちで個人の事情だとか価値観だとか、前提の共有が成されている必要があるんだけれども、それをすっ飛ばすとグダグダになりやすかったり不和を生じやすい。
大雑把に言えば、伝える努力と理解する努力の両立が大事なんだよね(もちろん当事者たちがコミニケーションを求めていなければ話にならないけれども)。
漆原と心葉は互いのバックボーンを知らない上、その状態で話を進めたもんだから、ああなるのは必然だった。
モデルの件で心象が悪くなっているから、解釈の軌道修正をする余裕が心葉にはなくなっているし、漆原は言葉足らずなせいもあって逆なでするような発言を繰り返すし。
ラブコメっぽい感じは出しつつ、妙な警戒心を抱く描写がちょいちょい入るのは、あくまでスカしだってスタンスで読んでいいのだろうか。
穿った見方をするなら、ラブコメの差別化を図った結果よく分かんないことになっているのかと邪推してしまう。
そのあたりの方向性が定まっていないせいなのか、テーマと構成は一貫しているのに、表現だとか演出に何だかチグハグさを感じる。
当然、意図してさせているってのは分かるんだけれども、そのキャラがなぜそういう喋り方かっていう説明がないから軽薄だと感じてしまう。
例えば、吹き替えとかで日本の地方の訛りで喋っている登場人物がいたら、その役者や登場人物の元の喋りが訛っているが故の意訳とか、そういう妥当性はともかくにしても何らかの理屈が欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20161115175041
「恣意的」の正しい意味については日本語学者の飯間浩明先生のツイートを御覧ください
https://twitter.com/IIMA_Hiroaki/status/799592063813591040
謹んでお詫び申し上げます
ちなみに、上記の記事中に
>そしてこの大正5年から2000年頃まで、1世紀近くの間、ほぼ全ての使用例が誤用となっています
実際には1930年代から、新聞記事や専門書の中には「偶然的」と置き換えても差し支えない
飯間浩明先生のツイートでいう(A)の意味での「恣意的」の使用例もいくつかあり
”1世紀近くの間、ほぼ全てが誤用であった”というのも正確には誤りです
それらの使用例については
記事を盛りたかった、記事を書くにあたって邪魔だった等の理由で恣意的に排除しました
重ね重ねお詫び申し上げます
■あじあ の しゅしょく は こめ です
■湖[みずうみ]に ツル がいますよ。
■水面[みなも]に 月[つき]が 映[うつ]っている ね。
■彼の話を聞いて 不愉快 になった。
■ここ は さくら の めいしょ です
■毎朝コーヒーを飲むのが 習慣 です。
■ポテトサラダを 作[つく]るから、ジャガイモを 買[か]ってきて。
■雨降り で月が見えなかったね。
■ 変 な音が聞こえます。
■きのう すてき な どれす を かいました
■彼[かれ]は 壁[かべ]に 耳[みみ]を くっ 付[つ]けて 隣[となり]の 話[はなし]を 聞[き]いていたの。
■この 鞄[かばん]は 重[おも]たい です。
■友達[ともだち]はそのカップルを 冷[ひ]やかした んだ。
■ぼくは 無論 きみに賛成だ。
■その 病室[びょうしつ] はとても 広[ひろ]くてきれいだった。
■かれ は つり の めいじん です
日本人は英語出来ます。何かしらの理由が無い場合は、中学校で英語を学習します。
「いや私英語出来ないし」
ってみんな良く言うけど何故か
This is a pen.
これはわかるでしょう。じゃあ英語できると思う
でも
C'est un stylo
ってわかりますか?
フランス語なんですけど、一緒です。これはペンです。知らないよねフランス語は(たぶん)
出来る出来ないじゃなくて、知らないだけ。
なんで知らないかと、使いにくいとかは別だと思う。
その障害がいくつかあるだけ
ネットでも良く見るけど
●文法が英語と全く違う
ということは、考え方を変えればいいと思います
プログラミングを考える時に、「この仕組は日本語に直すとこうだ」
とか、料理するときに「この調味料はこういう原料から出来ていてうんぬん」
とか、(最初はそうかもしれないけど)慣れてくると記号なり慣れなりで理解するはず
英語ももっと小難しく考えないで、練習していけばいいんじゃないかと
●話す環境が無い
四六時中英語漬けしたいなら、友達なり異性と交際するしかないでしょう
日本語を学びたいって人はいるから、その人たちに日本語を教えるところから始めればいいと思う
もし海外に留学したとして、「おまえ日本語話せるのか、日本語学びたいから日本語教えてくれよ!」
って片言の日本語だけで突然話しかけられても、なんだこいつ私を利用しようとしてるのか?私は英語学びに来てるんだぞ?
英語できない人は無視するし、ちょっと英語出来る人は英語で話しかけてくる
友達になれば別だけど、最初からってのはせっかくなのに面白くないみたいです
まずは友達になりましょう
●同調圧力が問題だ
かさこさんのブログより
「日本人が英語を話せない本当の原因は同調圧力~留学生の経験から」
http://blogos.com/article/72101/
つまり、日本人が集まると日本語で話してしまうことが問題だと。
考えてみると、日本人が集まったら日本語で話すのが普通でしょう。
いくら日本にいるからと言って、アメリカ人同士が集まればほぼ英語で会話するでしょう。
でもあと問題があると思います、それは
日本人は英語がどうも勉強だと思ってる(たしかにテストや仕事の評価に使われる)けど
言語はコミュニケーションのツールであり、使いこなせることが偉いわけではない
のに、日本人は英語出来る人を崇め過ぎだし図に乗りすぎな気もします
僕は片言です、文法もまぁ間違ってます
「Ha? What do you say?? Ah… do you speak English??」
とか言ってきました(おまえ英語話せんの??)
文法間違ったら話したらいけないのかと思いました
とか言わないでしょ・・・
僕は現在海外留学をしている。こちらの大学には同じような日本人留学生が結構来ていて、元々居た大学もバラバラだ。
先日授業で隣になった日本人の女の子と話をしていて、自分の大学(早慶一橋レベル)を言うと「凄い!頭の良い学校の人と話してみたかった!」と少し興奮して返ってきた。その子いわく「頭のいい大学の学生ってどんな風に何を考えてるのかな、って凄い気になる」のだそう。
僕自身は決して頭が悪いとか頭が良いとかは思わない。多分同じレベルの大学に通ってる学生はみんなそんな感じだと思う。それゆえ彼女の反応には非常に驚いた(持ち上げられることに弱い人間なので少し照れつつ)。たかが紙の大学入試で判断できることなんてそうそう多くない。それでもその子と自分の間には妙な溝があった。結局2人とも同じ学年で同じ国の同じ大学に留学しているというのに。
留学先の大学では彼女は上手く立ち回れていないかといえばそうでもない。たどたどしい外国語ででも現地の学生(その多くはおそらく日本語学科)と友達になり、休暇には旅行に行ったり適度に楽しんでいる。僕は彼女よりは現地語を使いまわせている、でも正直言って友達の数では負けているのではないだろうか。
もちろん、友達の数=コミュニケーション能力・頭の良さという風に早合点してはいけない。
それにしてもやはり、彼女に言われて改めて気付いたことに学歴の違いがどうやら何かしらの差を生んでいるみたいだ。それは見えにくい。
アメリカで行われたという心理学の実験をご存知だろうか。まとめブログなどで面白がって取り上げられることが少なくない、スタンフォード監獄実験のことだ。囚人の役、看守の役を割り振られた人が時間が経つに連れてそれぞれの役に没頭し、暴力にまで発展してしまった挙句の果てに中止された実験である。
すなわち、役を割り振られた者はその役に没頭する、このことが学歴から来る意識の違いにも当てはまるのではないかということだ。
実際に見たことはないが、東大に入った学生は入学式の時に「日本の未来は君たちが担っている」とでも言われるのではないだろうか、入学式以外ででもそんな風に言われることはあるだろう。
こんな風にもてはやされた人間はどういう意識を持つようになるだろうか?「自分たちが世界のリーダーになる!」とでも考えてしまうのではと僕は考える。勿論東大生の全員が全員そういう意識を持つだろうとは言わない。
僕は今の大学に入ってから「なんだ、日本の有名大学って所詮こんなものか」と思うようになった。僕は勉強が好きで一ヶ月に数冊は本を読む、外国語もそこそこやっている。それに比べて周りの奴らからは授業は寝るサボる、本には無縁、プレゼン発表の内容も高校生か?という印象を受ける。(勿論僕が見てないサークルやバイトで頑張っていることは分かっているが敢えてそれを考慮しない)
でもそんな自分と彼らとの間に何か共通点らしきものがあるとするなら、それはベタな言い方だが「チャレンジ精神」というものだろう。僕の場合は学問的意識の高さから、彼らは職業的意識の高さからそれは来ている。
「本を大量に読んでるから国際学会に遊びに行くぜ」という形か、または「たくさんの人脈とコミュ力あるからテレビに出るぜ」という形か。
リーダーになる、というのではないがそれに遠からずな意識を少なくとも僕は持っている。だからと言って賢いわけではない。留学中の今なお不十分な外国語で半端ない苦労をしているし、読書力もまだまだ足りない。
高学歴と低学歴とで何が違うか、高学歴の人間は高学歴の人間が大したことないことを知っている、低学歴の人間はそれを知らない。
そしてどれくらい自分に自信を持てるかという程度が違ってくる、そこからどんな難題に自分を放り込めるかどんな責任を自分が負えるかについての自意識が決まってくるのだと思う。
彼女のように高学歴の学生を過剰視している人は実際そんなにいない。けれどもある程度はやっぱりいるんだと思う。影ではなくイデアに至るべしとギリシャの哲人は説いたけど、そういう意味で真理は追い求めないといけないんじゃないかな。特に影が巨大で化け物のように見える時は。
最後に、少々変だが車の運転に例えてみよう。
低学歴の人間の多くは高速道路で時速80kmまでしか出さないのに対し高学歴の人間はほとんど高速道路で200km以上出す、しかし別に低学歴の人間が240kmで走っても高学歴が60kmで走っても良いのだ。人の意識は環境に左右されるものだが、誰にも拘束されない、されてはいけないものである。
びっくりしたことがある。
いわゆる現代文や小論文の分野あると思うんだけど、あれを教えるにあたる授業が、ない。
古文や漢文はがっつりあるんだよ。ミミズみたいな変体仮名をひたすら読解するだけの授業とか、漢文をみっちりやる授業とか。
でも現代文は、ない。ここでいう現代文ってのは、読解力とか論理的思考とか、基本的な現代思想(これは倫理でやるからスキップされてるのか、いやでも倫理って選択制だよな)とか。
強いて言えば日本語学くらいだろか。これは現代日本語の文法が中心で、「てにをは」とか修辞とかそんなん。
あとは模擬授業をやる授業で「その教え方だとわかりにくい」とか指摘されるくらい。そこでも論理についてとやかく言われることはなく、テキストの内容がうまく伝わってるか、が判断される。
で、これで何が起こるかというと、だ。論理性とか読解力の教育に関して、完全に先生個人の感覚にまかされることになってしまう。
つまり、未だになくならない「現代文はセンス」みたいなナンセンスな考えが地味に拡散してくわけだよ。
いやね、仮にも国語の先生になろーなんて人が「現代文はセンス」とかナンセンスなこと言ってるわけねーよwwwって思ってたんだけど、教育実習に行って、その考えはガラガラと崩れ去ったよ。
皆、自分が得意だった科目で先生になるもんね。それと教師になるのに学力制限はないものね。
難しいことはわかんないけどとりあえずそこらの私大入って、そのまま先生(公務員)になって……って妥当な人生設計だから、こりゃまた多いんだよな。
勉強家で修士とかもってる先生もいるけど、「company(こむぱんわいと発音)ってどういう意味?」「俺英語嫌いだからワカンネwwだから国語にしたしw」「だよねーwww」みたいな会話が実習仲間で繰り広げられている現実もあるんだよ……。
国が、生徒にはこんなこと教えてね、って方針がまとまってる指導要領には、はっきりと読解力とか論理的思考を育てる、みたいなことが書いてるんだわ。
でもこのままじゃ先生の良心と向学心に祈るしかなくて、真反対な教育が野放しになってる……。
これは、やばいと思うんだ。