はてなキーワード: 自然死とは
■本文。
朝のワイドショーで[社会的ひきこもり]を特集するようになるとは、世の中、つくづくアレなんだなあ、と思う今日このごろですが、今月のお題は『ONE』です。本当は最終回まで取っておこうと思っていたのだけど、小倉さんとデーブ・スペクターと斉藤環が同じ画面に映っているのを見たら、辛抱たまらなくなったのですよ。しかし、『二時のホント』が終わったのは、ワイドショーマニアの筆者には痛い……。
―――さて、『ONE』をプレイして強く感じたのは、母性と父性の欠損に対して、援護射撃に頼らない直球勝負を挑んでいることだろう。ただ、同じ主題を扱っていても、手慣れたテキストの『Kanon』に比べると、まだ手探りの部分が多く、比喩などにあからさまな引用も多い。だから、必ずしも褒められたものではないのだが、BGMと画面演出の組み合わせを効果的に使う[音の魔法]に頼っていない分、言霊の比重が高くなっている印象を受けた。
重要なポイントは、この作品で描かれる世界には、超えるべき父性は最初から存在しないことだろう。同時にそれは、学習することもできないということでもある。[他者]は、主に母性を巡るものとして描かれているが、主人公である浩平の母親は、カルト系の新興宗教に盲従した結果、母親であることを放棄している。そして、浩平は、他人との関係性を肉親から学習しないまま=子供のままで妹に対し、父の代わりを演じたが、妹の死により、父性の獲得=男性としての自立にも失敗してしまう。そのため、主人公は二重の意味で心理的欠損を抱えているのだ。
更に、母親が発狂し、ウロボロス的な母性を発動させてしまった際に、母親を拒否している浩平は、壊れた母性に対する嫌悪感を潜在的に抱き続けている。由起子おばさんが、一度も浩平の視界には現れないことや、長森シナリオでトゥルーエンドに辿り着くためには、長森を嫌悪し続けなければならないことの理由でもある。いわば、母性と父性の欠損を巡る内面の問題こそが、『ONE』という物語の核になっている。また、宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。
だから、この作品の基本構造は、どのシナリオもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じだ。他者との距離感を知らないまま成長していくことに、情緒的な病による死を予感した浩平自身の本能が、自然死を避けるために、偶然を装った出会いを起こし、浩平に欠損した部分を取り戻させようとしたことが、物語の動機になっている。そして、浩平自身の本能は、ゲームの作り手であり、浩平はプレイヤー自身である。
だからこそ、浩平の鏡像となる女の子たちは、それぞれが身体的なハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりが選ばれたのだろう。同情という媒介を用いなければ、出会いという動機を持つことができないほどに、浩平の病状は悪化していたし、宝探しを始めるには、同じ宝を共有できる相棒が必要だったのだ。
本能の企てに乗せられた浩平は、達成されなかった父性の確立に再度挑戦する。ところが、達成寸前に壁が現れる。それが[えいえんのせかい]という、癒しの象徴でもある異界への願望だ。もっとも、異界が具体的に描かれることはない。まあ、具体的に描いたら、山上たつひこの『鬼面帝国』か、出口王仁三郎の『霊界物語』みたいになってしまうような気もするが(笑)。
―――いや、最初から浩平は異界に取り込まれていたのだろう。つまり、浩平が抱いていた、思春期独特の中途半端な世界認識が、そのまま、異界への潜在的な願望として、妄執のように内在していた。それが、絆の発生で、完全な鏡となった女の子を介して照らし出されたのだ。つまり、中途半端に終わった目的を今度こそ達成しようという意志(現在)と、中途半端のままで反復しようとしている記憶(過去)が衝突したことで、[えいえんのせかい]という、思考停止状態に陥ったのだろう。
さて、プレイヤーとしての浩平が一度、舞台から退場することで、今度は、選ばれた女の子が自身の母性=主題を自覚することになる。そして、父性と母性が相互補完的に成立することで、浩平は再び舞台に戻ることができる。つまり、互いを鏡像=他者と認識することによって、欠損を補填した訳だ。この構造自体はありふれたものだが、ありふれたものであるがゆえに、強い言霊を生み出すことができる。そして、この作品で特筆すべきことは、美少女ゲームで描かれる世界が失われたロマンティックであり、実際にはあり得ない世界だということを巧妙に描いていることだ。
何故なら、『ONE』の登場人物たちの多くは、自分たちの生きている世界に対し、無自覚な肯定をしない。強い否定もしない。約束された楽園が既に失われてしまっているということを、登場人物自身が自覚しているように見える。プレイヤーもまた、物語を介し、その完結に立ち会うことによって、楽園が失われたことを知りながら、ゲーム内の楽園に耽溺するという、二律背反的な認識を持つことになる。
例えば、『ToHeart』が、ゲーム内ではいったん完結しながら、アニメ化(メディアミックス)にあたって物語世界を再構築した際に、約束された楽園=主題を持たない真空状態を維持すること……終わらない物語であり続けることを選択し、ユーザーの楽園願望を全面的に肯定したことで、現在でも現役の商品として、人気を保っているのに対し、『ONE』の場合は、主題を巡る部分が『Kanon』と『鈴がうたう日』という二つの作品に分岐&移行してしまったことで、作品と商品の両面で、既に幕を閉じているのだ。
この辺の違いについて、最も分かりやすいのは、やはり、長森シナリオであろう。『ToHeart』のあかりシナリオに対するメタ的な構造を持っているからなのだが、筆者も鈍いので、気づくまでに何度かキレそうになったのは余談だ(苦笑)。
もっとも、『ONE』以降、恋愛描写を重視した[泣き系]の作品が氾濫したことで、相対的に主題の空洞化と、[お約束]としての普遍化が起こっているのは否めないが、この作品自体は、非日常と日常や、万能感と無力感の間で葛藤する思春期独特の世界認識と通過儀礼を描いた作品として評価できるだろう。
更に言えば、本来は『WhiteAlbum』や『デアボリカ』のような、ユーザーの価値観を揺さぶるタイプの物語が担っていた役割を、『ONE』の成功で、思考停止による癒しを主目的とするタイプの物語でも担えることを証明したのだ。
物語とは、社会と個人を繋ぐ媒介だと思う。いつの時代も、その本質は変わらないが、物語を伝達する手段は、時代の変化と共に変わっていくものだと、筆者は考えている。美少女ゲームを媒介として、社会と繋がり、社会を学習していくという構図も存在できると思うし、一見、楽園を肯定するような表現に重層的な含みを持たせることで、現実社会との距離感を認識させる手法の確立を、本格的に模索する時期に入っているのではないだろうか?
■あと一回のお知らせと総括。
ホームページでは既に告知済みだったのですが、本コラムは次号で最終回となります。次回は連載総括という形で、これから発売される作品について触れたいと思っていますので、作品ごとの論評としては、今回が最後です。
降板の理由は、今年に入り、筆者の健康状態が悪化して、月刊ペースでの連載が難しくなってしまったからです。無理に書いて、自己模倣に陥ってしまっては意味がありませんし……。
―――そういう訳で、読者とメーカーの方々には、一年と少々、筆者の回りくどい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございました。連載はあと一回ありますが、この場を借りて御礼申し上げます。
うつの時は重大な決断をするなって言うけど、本人にとっては熟慮を重ねた上での決断だから妥当性があると思っちゃうんだよな。
まぁ俺の場合うつ病じゃなくて躁鬱病(双極性障害)なんだけど。
うつの時「俺は口先だけのクズだ、素晴らしい環境にいるのに俺がクズなせいで周りを振り回している、周りのせいじゃなくて全部自分のせいだ、迷惑かけて本当に申し訳ない、巻き込まないために今からでも行動しないと」と思って、今の時期になって「進学やめます、無能でごめんなさい」ってメール出したりしたよ。
人はいつか死ぬし、その時必ず人に迷惑をかけるんだから今迷惑かけたって同じじゃないか、と思って自殺しかけたりした。「自殺 準備」とかでググりまくったりさ。自殺したら自然死に比べて人に迷惑がかかるからダメだと必死に抑えてたけど。
症状が落ち着いた今となっては「あのときは頭おかしかったなぁ」と思えるけど、その最中は本当に正しい選択だと思っちゃうんだよな。
周囲のストレスが原因となる適応障害なんかと違って躁鬱病は脳がおかしくなって鬱or躁になる病気なんだし、自分に合う薬を探って何とかするしかないのかなぁ。
死にたくなりたくないなぁ。
「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」という暴力 - キリンが逆立ちしたピアス
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20130612/1371012059
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/font-da/20130612/1371012059
障害児を産むのが恐い http://anond.hatelabo.jp/20130613094716
両親が子供を作れば、子供は生まれてきて様々な体験をする可能性があります。
子供がどうなるかはまったくわかりませんが、それを作るかどうかを最終的に決めるのは両親です。
作りたければ作ればいい。作りたくなければ作らなければいい。
子供を作る人たちの多くが見落としているか軽視しているであろうと思われる、子作りに対する「ある観点」。
これは子供を作る上でしっかりと念頭に置いた方が良い重要な観点であると思われます。
この増田を読んで何か思う事がありましたら、自分なりによく考えてみると良いかも知れません。
特に将来子供が欲しいと思っている人は、事前に考える機会があっても良いかと思います。
というわけでこの増田は、読んだ人に考える切っ掛けを提供するための増田です。
よ く 考 え て く だ さ い。
また、どんな目に遭う可能性がありますか?
想定出来る事だけでも不幸苦痛の雨あられですね。
想定外の不幸も起こり得る事をお忘れなく。
本当にそうでしょうか。よ く 考 え て く だ さ い。
生まれなければ、それらを 全 て 回 避 出 来 ま す。
どんな場合でもハッキリ言える事は、
親が産まなければ子供もそんな目には遭わなかったという事。
親 は 直 接 の 原 因 だ ろ う が。
この問題から逃げないでください。
何故子供が欲しいのか、よく考えてください。
考えればわかりますが、全 て 自 分 の 都 合 で す。
即ち、親の目的は己の利益。利益を得られるかどうかは運に依存する。
賭け物は子供。
要するに、子供(賭け物)を用意して利益を得ようというのが子作り。
賭けに勝てば(運が良ければ)親は利益を得る。
賭けに負ければ(運が悪ければ)親はその身を削る事になる。
(当然、勝ちとも負けともつかないケースもある)
(当然、勝ちとも負けともつかない人生もある)
この博打の性質として、一つ目の博打も二つ目の博打も常に絶えず打ち続ける事になる。
その博打を打つ点(つまり人生)が無数に繋がり線となったものが人の一生である。
せめてこれ位は理解した上で子供を作るかどうかを決めるのが望ましい。
そして、実際に交尾をして作るわけだ。
では仮に、とてつもなく幸福な気持ちで生き、幸福なままの気持ちで死ぬ可能性が90%、とてつもなく不幸な気持ちで生き、不幸なままの気持ちで死ぬ可能性が10%の人生があるとする。
交尾によって子供にこの人生を負わせるとした場合、親は子供が幸福になる可能性を容認すると同時に、子供が不幸になる可能性も容認している事になる。
可能性を容認するという事は実際にそうなる事を容認するのと同義であり、親は『子供が不幸になる事も容認した上で』子供を作っているのだ。
その辺は理解出来るよな?
例えば、日本人の1/3はガンで死ぬ。日本人の男女が子供を作る場合、その男女は「自分の子供がガンで苦しみ抜いて死んでも良い(仕方が無い)」と思って子供を作るわけだ。
例えば、人間は必ず死ぬ。どこかのカップルが子供を作る場合、そのカップルは「自分の子供が死んでも良い(仕方が無い)」と思って子供を作るわけだ。
例えばこの世では、病気、障碍、事故、犯罪、災害など様々な危険が降り掛かる可能性がある。
子供を作る者は、当然の事ながら「自分の子供が病気になっても、障碍者になっても、事故に遭っても、犯罪に遭っても、災害に遭っても良い(仕方が無い)」
と思って子供を作るわけだ。
「子供が欲しい」という親のエゴを充足させるために、膨大な危険を子供に「無理やり」背負わせるのだ。
子供への思いやりが無いからこそ、こうして子供を作る事が出来るのである。
別に法的な話をする気はない。
出産というのは、相手が死ぬとわかっていながら子供を作る行為だ。
生まれてすぐ死のうと80年生きてから死のうと、人の死ぬ原因が「両親がそいつを作ったから」であるのは確実だ。
事故で死のうが事件で死のうが病死だろうが災害で死のうが、そもそも死ぬのは「両親がそいつを作ったから」。
人が殺された時って「殺した犯人」が非難されるが、そもそもの問題として「親が産んだから」子供は死ぬ。
出産というのは殺人よりも根本的な意味に於ける人殺しじゃあないのか。
人が何らかの理由で死んだ時、その理由というのは死の時期を決定するものだ。
だが、親はその時期に子供が死ぬ事も容認して子供を作っているはずなので、親が犯人を責める事は出来ない。
そして、子供に死という結果そのものを喰らわすのは他でもない親だって事。
「人生(子供にとっては非常にリスクの大きなギャンブル)」と「死(これは確定している)」。
この2つを他人に無理やり押し付けるのが子作りなんですよ。
それが善いとか悪いとかではなく、「わかっててやってんの?」って言ってんの。
わかっててやってるなら私は「鬼畜」だと思うし、
そんな事すらわからずに子供を作ってるなら私は「バカ」だと思うのね。
「子供を作りたいから作る人」に対して私があれこれ言う事は出来ません。
しかし、「子供を作る事を正当化しようとする人」については批判します。
どんなに悲惨な状況であっても
その通り。逆に言うならば、
どんなに恵まれた状況であっても
それを不幸に感じる子供も居るかも知れん。
「子供が不幸になる可能性」とは、
エゴですよ。
ここではそういう話をしているのだ。
まず「不幸」の定義をはっきりさせろ。
「本人が不幸だと感じたら不幸」だ。
本人の主観に依存する問題なので、細かい定義をする事自体がナンセンスである。
強いて言える事があるとするなら、不幸とは「絶望感」に苛まれている精神状態である。
絶望感に対して積極的な気分で向き合えないのなら、それが「不幸」だ。
つまり、「本人が不幸だと感じたら不幸」という事だ。
将来設計も無計画で、自分たちに子育ては困難なのも知っている。
だが、一時的な感情の高ぶりを抑えるのが生まれつき苦手で
他人への迷惑行為は抑えられないような「人間味」である場合が多い。
「子供でも産めば何か変わるかもしれない」という
手っ取り早い一人前扱いにすがる。
ようするに「母親になるという大いなる名目」を周囲に突きつけることで
これは「親になれば一人前」という風潮を作った社会にも責任はある。
駄目だった奴の遺伝子で頑張らなければいけないのだから子供は楽じゃない。
いくら期待をかけても、結果も親そっくり。
子供は自分の所有物という意識が強く、自分の為に子を利用するタイプ。
自分の趣味を押し付けたり、芸能界に入れて下品なことをさせる親もこのタイプ。
彼らが愛しているのは子供ではなく、個性的なパパママを演じている自分自身である。
上記のような理由だけではかっこ悪いから
社会貢献などを持ち出して、さも自分が先見の明があったかのように装い
という問題は「考えると暗くなる」と不問にし、
「子は親を選んで生まれてくる」と思っているタイプ。
なぜ時空を超えるほどの存在が、極めて人間臭い修行に励むのでしょうか?
人間でさえ「罪を憎んで人を憎まず」と言っているのに
何もしないだけでゴミのように扱われ、自殺するのすら苦痛を伴う
頑張ってこの世で生きていく道を選んだとしても
最期は大半の人間が病気やなんやで苦しみながら死に、それまで築き上げてきたもの全てを失う
こんな苦行みたいなもんに自分たちの都合で強制参加させる親は自己中
自分たちの幸せのことだけで、子供のことなんてまったく考えていない
でも、いざ生きていく事に耐えられ無くなって来て生きるの辛いねといえば、みんなはもっと辛いんだ甘えるなと返される。
別に成長して行く子供も守られてる訳ではなく誰も助けてはくれない自己責任。
でも誰もが何時も子供を守ってると言うしそれが正しいと思ってる。
助けを求めれば当然誰も助けてはくれない。
支えてる振りして子供を操ってるのと、何もしてないのに守ってる恩を与える。
親には、なぜ、私を産んだのか。何度も聞きました。
その理由が私にとっては納得のいくものではなくて、余計に腹の立つものでした。
傷つける気持ちがあったというより、腹が立ったので言ったんだと思います。
そのあと、あんたが産まれてくると分かっていたら産まなかった。
とも言われました。
自分だけを食わせて生きいる強さのある人間は凄いなあ。と思います。
そういう人が、何を思って生きているのか知りたい。
そもそも子供を産まなければ何も起きなかった
頼んでもいないし産む必要もない
親を責めないことでちょっとでも自分の評価を高めようという姑息な考え?
この世界の地獄っぷりは日々ニュースでも目にしてるはずなんだがな
自殺スレをまわって少しでも苦しまずに死ぬための情報を集めてると
心底怨みがこみ上げてくる
親が産まなければこんなことしなくても良かったのに
「どうして私の子がこんな目に」
という場面をテレビなどでよく見かけるが理解出来ない。
”こんな目に”あう可能性が充分ある世界という事は既に分かっていたはず。
何も不思議じゃない。普通に想定出来る範囲の悲劇が起きてしまっただけ。
運が悪い?そうだな。この世界に生まれた事が既に運の尽きだ。
”どんな目にも”あうかもしれないという事を想像、覚悟するべきだ。
でもこれらを全て受け入れて
それでも産もうとする人間なんてそれこそ、理解出来ないけどな。
・そういう考えはネガティブ思考だ
・人間苦労して成長する
・こんなこと言う人は頭のネジが足りないんじゃないの
・うつ病じゃないの
と、偉そうなことを言うのである。
「どうして私の子がこんな目に」
「どうして私がこんな目に」
とこうである。
子供を作ったやつがその人生で苦しんだとしても同情することない。
「ポジティブ思考で苦しんでください」
「人間苦労して成長する」
と言ってやればいい。
いつ子供に自殺されても「親不孝」などとは決して言わないで欲しい。
自分の意思以外で産まれてくるのだったら、せめて不幸になった場合は
親はそれをたまに起こり得る「織り込み済み」のこととして納得してください。
子供が自分で死ぬ、これもまた自然のうちだと認識してください。
生きる事は辛い。死ぬ事も辛い。
両方とも辛いのだから、現時点でマシな方を取ればいい。
「死んだ方がマシだ」と思うようになるまでは生きる。
最期までそういう風に思う事が無ければ自然死するまで生きてもいい。
それで何の問題も無い。
生きるも死ぬもクソだが、マシな方を選べばいい。
生きる事が素晴らしいと思えるならば、そう思っても別にいい。
ただ、言える事は、
生まれて来たヤツが人生をどう捉えるようになるかはわからない。
人生を肯定出来るヤツになるかも知れんし、
子供を作るという事は、「生まれる子がどっちになるかはわからないけど取り敢えず作りますよ」という事だ。
何故作るかと言えば、それは「作りたいから」。つまり自分のためだ。
この事を変に美化しようとするから、子作り賛美の醜悪な風潮が出来上がる。
美化などしなくていい。
「子供がどうなるかは知らんが、俺は子供が欲しい。それだけだ」
子供の事を自分よりも優先させたければ、子供を作らなければいい。
この「子供を作らない」という事に関しても、自分がそうしたいからそうするだけだ。
その点が異なる。
と言ってるだけで、これは紛うことなき事実で真理だろ?
どんな心理でか考えて見ればいい。
の都合しか出てこない。
子の為に子を作るんじゃなく、自分の為に子を作るんだ。
そこには別に善も悪もないし、求めてもいない。
子供を作るなと書いてる訳でもない。
これがあるよね、ってだけだ。
それだけ
矛盾が無い否定論を正しいと見て置き、作りたい馬鹿は勝手にすればいいだけ
不条理も込みでね
クリティカルヒットを与えてしまい、逆にそのことを根にもたれるようなって、小学校を出るまでいろいろな場面で困った。
なので、変に反撃に出るってのも考え物だと思う。
反撃して決着がつけばいいけど、逆に負けちゃって余計に立場が弱くなることだってある。
子分になって服従する関係性ができればいいのだが、子分じゃなくて搾取先でしかないのだ。
先生に申し出るのも、賭けだ。
先生の対応如何では、妙なクラス会議になって、逆に悪い立場に追い込まれることもある。
親も何らかの組織の一員なので、その後ろ盾が弱い立場にあるときは、それなりの効果しかない。
先生だってただのサラリーマンだ。聖職者ではない。残念だが、強いものには弱いんだ。
子供対子供の関係性だけでなく、親の所属する組織、宗教、政党、地縁のような目に見えない属性があり、それらの力関係もすべて、子供たち同士の関係性に否応なしに入り込んでくる。子供にはがんばる競争を煽っておきながらも、勝者はあらかじめ決まっているんだ。
ちょっとしたつまらないことで揚げ足をとられて、追い込まれる。
いじめる側は、そのつもりがなくても組織的な行動を証拠なしにするだけでいじめ状態に追い込める。
そんなのに個人で立ち向かうのは困難だし、クラスという枠組みが変化するまでその関係は固定化されてしまう。
クラス編成の運がいいか悪いかの問題でしかない。番号順に並んで前後のヤツは、苗字の五十音の近いヤツだ。阿部君は一番前のほうで、渡辺君は、一番最後だ。「あ」で始まる名前は大変だ。第一声で空気をつかまないといけない。そんな理不尽なことは運の一言で片付けるしかない。
クラス替えまで我慢するとか、卒業するまで我慢するというのが、一番だった。
図書室でも保健室でも逃げ込めばいい。そっちのほうが絶対に楽しいぞ。
とにかく、学校という枠組みを自分の人生のメイン作業からはずして道を見つけよう。
大人になってからのいじめのほうがより巧妙かつ合法的に行われるのだ。
ブラック企業なんて、その最たるものだし、パソナルームなんてお仕置き部屋や望まない配置転換だってある。
結局、ある程度の多数があなたを望まないときは、いったん身を引いて、新天地を求めるしかない。
シビアな判断を要求される場面で迷ったときには、みんなが笑顔で卒業できるか、何年後かの同窓会を楽しく迎えられるかと考えるといい。
会社だったら、円満に退社して、送別会をやってもらえるように行動するしかない。
いじめる側もいじめられる側も常にうまい上がり方を考えて、大人に振舞うしかない。