はてなキーワード: 美術館とは
集合して、予約した店でごはんを食べて解散、というデートばかりしていた。極々々まれに、映画とか美術館とか買い物とかもあったけど、基本は食事だけ。会計は割り勘。酒を飲まないから2軒目もない。
泊まりのときは、18時頃に来てもらって、適当に何か食べて、恋人が銭湯から戻ってきたらセックスして、寝て起きて、6時頃に帰ってもらっていた。ちなみに就寝は22時頃。送り迎えはしていない。
会うのは週末だ。そんな付き合いかたで1年半。苦情もなければ、寂しいとも言われず、わがままだって聞かされたことがない。
のんきな俺は、優しいなぁいい人だなぁ結婚したいなぁ、なんて考えていた。
バカだった。ここに書く前、紹介してくれた友人に上記を報告すると「キープじゃん」と吐き捨てられた。
もしかして本人にもそう認識されているのだろうか。だから何も言って来ないんだろうか。求めないのは優しさでなく、諦めているからなのか。
不安になった。いつかの明け方、別れ際の、帰りたくないなぁという言葉を適当にあしらったことを思い出した。思い出せないだけで、似たような失敗を他にもしているような気がした。
一緒にいる時間を増やそう。そう決意したのと時を同じくして、年明け頃から恋人は、俺と予定を合わせてくれなくなった。
いつもデート(と呼べるものじゃないが)の終わりに次の約束をするのだが、だいたい1週間後は無理で、ひどいときは3週先まで予定が埋まっている。平日は仕事を理由に断られる。GWは最終日だけ会えた。
映画や美術館もダメだ。混んでるとか長時間になるとか理由をつけて、食事以外の誘いを拒む。店は俺の好みに合わせたものばかりで、メニューを選べずに困った顔をすることも、ひとくち頂戴と強請ることもなくなった。
泊まりのときは、風呂に入ってから来るようになった。少し触ると、もう大丈夫だ、と言う。俺が目覚める前に起きて、身支度を整えて、本を読んだり音楽を聴いたりしている。戸締まりのことがなければ俺が寝ていても始発で帰ってしまうだろう。
何を伝えればいいのか分からない。最初から俺が間違えていたことだけ分かっている。
ごめん。寂しい。会いたい。もっと一緒にいたい。わがままを言ってほしい、我慢しないでほしい。ケーキ屋に行こう。本当はお風呂だって一緒に入りたい。キスしてるうちに強ばってた体がふにゃふにゃになるのがかわいい。好きだ。好き。
昨日増田がそこそこ伸びたと書いたが、その増田のブコメを見てしまった。
引退したからとはてなだけは意地でも見ないようにしていたのだが、こうして毎日増田を書いたり読んだりしているのにブコメだけを見ないことにいったい何の意味があるのだろうと考えたからだ。
ブコメの内容はほぼ想定内で、ブクマカもいつも通りの人がほとんどだったので、ブコメを見たからといって特にどうということはなかった。
しかしながら、いったいなぜ俺ははてなの閲覧を強く拒み続けていたのだろうかという思いが脳裏に浮かんでは止まらない。
はっきり言ってはてなを見るのは時間の無駄だが、それ以上に無駄に時間を浪費しているのはこの日記の執筆をも含めた増田だ。
ならばこの日記は辞めてしまって、かわりにこれまで通りはてなを続けた方がまだましだ。
素人たちの罵詈雑言を読んで時間を無駄にするだけではなく、それらに反応して時間だけでなく精神も消耗するのは人生の浪費と同じだ。
MOAはMokichiOkadaAssociationの略でしてよ。手かざしで有名な世界救世教の開祖、岡田茂吉が美術愛好家だったことからできた美術館ですわ。
滋賀のMIHOミュージアムでも思いましたけど、宗教団体は山の中にクソデカい施設作るの好きですわね。
けど山腹から見る海は絶景でしたし、設備も金かかってそうで良かったですわ。
展示室のガラスがすごい透明度で、一瞬何も無いのかと思ってしまいましたわ。隣のおじさまなんか額をごっつんこしてらっしゃいましたわ。
蒔絵を特集した展示だったのですが、時代別に並べられてその変遷が興味深かったですわ。
最初は仏の神々しさを表現するものだった金が武家や町人の文化と共に一般化、技巧化していくように感じられましたわ。
あと最後に展示されてた現代の工芸家が作った作品が、ため息が出るくらい美しかったのですわ。
当たり前ですけど、漆も金も銀も螺鈿も、作られた当初からはかなりくすんでしまっているのですよね。
世界救世教は自然派農法大好きで、古参はてなーには有名なEMを推進してる団体なのですわ。
EMがインチキでもEMを使うようなこだわりのある農家が作る野菜は大概うまいのですわ。
女だから痴漢にあうとか、そういう話なんだが周りと比べて回数が異様に多い。
家を出る頻度が他人と比べて多いわけでもない。電車通勤を週五日、使用路線もまあそこそこ多くの人がそこそこ使う路線。一度痴漢にあったら車両は変えている。時間も始業時間よりだいぶ早く着くようにズラし続けてる。
スーツではない。制服支給なので職場まではリュック背負ってるし後ろ姿だけなら大学生に見えるかもしれない。
でも高校生のときから痴漢にあうし、大学生の頃もあったし、今もあう。
周りも痴漢にあったことない女はほぼいないが、自分ほどの頻度はない。手が当たっただけでは?とか言うが、正直今のご時世、冤罪と言われないように男性の多くは自衛している。鞄が当たってるだけで痴漢とは言わない。尻を揉みしだかれる、精液がかけられている、ストッキングを破かれるは多分痴漢だと思う。
普通にスカート切られたことあるが、ハサミが当たったので恐怖で動けなくなった。犯人を指摘とか言えなくて直後の駅で降りて、何車両目で切られたので気をつけようありますか?て聞くだけで終わった。優しくて毛布貸してもらった。ちょっと泣いた。
という感じでそこそこのペースで痴漢にあってる。
仕事の関係で金髪とかにはできない。強い女ファッションも考えたが仕事に行くから大体無理だった。ピンヒールは足を捻った。
ハイブランドも考えたがそれに精液かけられたら普通にお金に困るのでルイピトンみたいなパチモン持ったことはある。精液はなかったがバレたらしく痴漢された。
幸い職場はいいところなのでセクハラとかはないが、イベントで席隣の人が延々と喚く人でスタッフを呼ぶだとか、映画館でも痴漢されるとか、なんか単純に運が悪い。
最近某同人誌即売会で隣の男性が大喧嘩始めて自分のスペースに人が寄り付かなくなったことまである。運が悪い。
席順なんてよっぽど運なのに五回に一回くらいはなんかやばい人に当たるし、ナンパもめちゃくちゃされる。ナンパが駅で人待ってるときだけならまだしも、美術館とか公園とかスーパーとかでもされる。スーパーで疲れた顔してる女に声かけないでくれ。最寄りのスーパーだったのでつけられないかちょっと怖かった記憶がある。
全体的に、幸が薄そうな顔でもしてるのだろうか。カモにいいと思われるのだろうか。疲れ切ってるのが悪いのだろうか。
どうすればいいのだろうか。
表現規制の話を見ていると、「私たちは規制を求めていない」「不快であると言っているだけ」「批判をしているのは広告であって作品ではない」「加害行為を誘発する作品は批判されて当たり前」などなど見かけるわけだけど、
そんな人に、ぜひ「昭和天皇コラージュ事件」を知って、考えてほしい。
富山県立近代美術館の企画展で招待された富山出身の芸術家である大浦信行氏の作品にまつわる事件である。
この作品は「遠近を抱えて」というタイトルで昭和天皇の写真と女性のヌード写真などを合成した作品であり、企画展終了後に美術館に所蔵・図録掲載することになった。
ところが、一部県議が不快感を表明し、街宣右翼も抗議活動をした。反対派のある人物は県知事への暴行未遂事件を起こした。
事態を重く見た美術館は肖像権への懸念などを理由に作品を個人に売却、図録は焼却処分することになった。
これに対して大浦信行氏は表現の自由に対して、市民が知る権利を侵害されたとして訴訟を起こした。
原告側は、「作品が他人の権利を侵害したわけではないのだから、部外者の行動を理由に作品の展示を不許可とするのは不当である。」と訴えた。
被告である県・美術館は大浦氏に作品を作るなとも、作品を公開するな、とも言っていない。そして作品を「廃棄」したわけでもない。(図録は処分したが)よって問題ないと主張した。
第一審では原告の主張が一部認められたが、原告被告双方ともに控訴した第二審では「公開すると管理上の問題が発生する可能性があるから」という理由で被告・美術館側の全面勝訴、上告も棄却された。
法曹界では、「表現の自由」の意義を軽視した不当な判決内容である、という評価が一般的である。
この大浦信行氏、あいちトリエンナーレでも作品を発表している。その名も「遠近を抱えて PartII」
そう、あの昭和天皇の肖像を燃やした灰を足で踏む映像作品である。まさにあの写真こそ「遠近を抱えて」である。
大浦信行氏によれば、昭和天皇の肖像を燃やしたのは自分ではなくて美術館だ、ということだ。(繰り返すが作品は燃やされておらず、焼却処分されたのは図録だが)
クリエイターから見れば、作品が燃やされたわけでもなくても、作品の魅力を伝える手段たる図録から排除されることもまた、作品を燃やされることと同等だという事であろう。
これの増田だけど
喫茶店にいったり公園にいったりも何度もしてるが毎回ページ開けないで本置いたまんまスマホ触り続けてる
完全にただの置物と化してる
フィクションじゃない他の本でもこれは同じ
映画とか映像コンテンツもよしこれ見るかと思ってもそこから手が止まってなぜか再生できない
新しいものじゃなくて昔好きだったドラマとか映画とか久しぶりに見るかーとか思ってもそれもやっぱり再生できない
ついこの前一本だけなんとか見れたけども
昔からとんでもない面倒くさがりでこういう傾向はあったんだけど最近特に悪化していると感じる
本当は困ってないんだろというようなコメもあったけど、うまく説明できないが現実逃避のためにフィクションに触れたいのにそれすらうまくできないから困ってるという感じ
現実が何も面白くないしめんどくさくてたまらないからせめて架空の世界を楽しみたいのにそれすら億劫ってもうどうしようもない
動物園水族館美術館もいってるし楽しいは楽しいけど毎回集中しきれないし周りの人間の些細な動きですぐに気が散るし帰る頃になるとどんよりした気分になる
メガネがないと俺は目が悪い
厳密にいうとメガネがあっても目は悪いままか
とにかく、言わんとすることはわかると思う
悪いんです
しかし、世界が謎のマーブル模様にしか見えなくてホンマにおしまいやってことはなくて、近くは鮮明に見えるし、遠くだってボヤけててでかい文字すら全然読めないくらいで、ベンチがあるとか看板があるとかそういう最低限の部分はわかる
生きていける
そんで、たしか初めてメガネをかけたときは、世界ってこんなに美しかったの?!なんて感慨があったんだけど、逆になくしたらなくしたで気楽というか、この程度の解像度でも生きていけるもんなんだなーと思う
ぼやけている
全部ぼやけている
向かいのホームに立ってる人たちについては、シャツの色しかわかんねえ
それはそれでいい感じがする
手元だけしっかり見て、遠くはボヤッと
そういう生き方でもいいのかもしれないと思う
よくねえんだよな
PCが見えねンだわ
メガネ、作るぞ〜!!
作りたくねえ〜!!!
ふいーいてきたー
えっといくついったんだ
おもてむきにアリバイで少し一般のうってるけど本体はえろうってるむかしながらの本屋3個
マンガ倉庫とブックオフゲオをあわせて2,3こくらいと思ってたのにいざ出向いてマップアプリでみたらいっぱいあるんだもんなー
まあこれでせいせいしたわ
とちゅうでマックスバリュで割引になってた弁当をかってたべたらくそまずかった
けっこういくとちゅうに住宅街とか山方面をとおったら史跡とかよーわからん個人美術館とかあって、そっちメインでのんびりまわりたかったなと思ったりした
ただ自転車はやっぱきついなー
かったのはゲーム2つくらいだけど、知らない店、場所にいくのがメインだったしいいんだ
溜池にはからだくろくてくちばしがオレンジの親子の水鳥がいて正体不明
ねこはみなかったな
工場っぽいのの横に犬がつながれてた
昔ながらの団地っぽいとこの裏に、めっちゃさびてくちはてたシーソーがあって、うおおおおおおお!めっちゃえもい!!!と興奮して写真とりまくった
共感するけど、まあでも美術館はマイノリティじゃない(つまり「マイノリティの反撃」ではない)と言われたらそれはそう。
「差別に異様に厳しいマジョリティ」というのが自分のやってる差別には無自覚っていうのは、まあ定番ではあるので、この張り紙自体は別に何も悪くなくても、なんか色々連想してキモイというのもわからんでもない。
先日、「美術館が「差別主義者お断り」という張り紙を出していた」というツイートがバズっていた。以下のリンクがそれである
https://twitter.com/tamago_sukidesu/status/1520608613127008256
このツイートのリプライや引用を見ていると、以下のような「冷やかし」のようなツイートが実に多い。
大別すると
①ミサンドリー(男性嫌悪)が入っていない。男性差別には賛成するのか?
②今まで排除される側だったマイノリティが他人を「排除」して楽しいのか?
といったものだ。
もういつもいつもこの手のカスみたいな意見を見て、しかもどうやら本人たちは上手いこと言ったつもりらしくてウンザリなので、改めて反論しておきたい。
①ミサンドリー(男性嫌悪)が入っていない。男性差別には賛成するのか?
→それで言えばイスラム恐怖症とか学歴差別とかここに書かれていない偏見、差別は山ほどあるけど。あなたはこの看板を見て
「なるほど、同性愛差別はダメだけどイスラム教徒の差別はオッケーなんだな」とか思います?
普通は思わないだろ。そこで敏感にミサンドリーの不在だけ読み取ってしまうのはなぜなんでしょうか。
男女関係でいえば歴史的に女性が被差別層だったわけで、反差別の文脈でミサンドリー反対よりまずミソジニー反対が出てくるの、そんなにおかしいか?
こういう人たちがBLMに対して「アジア人の人権も擁護しろ」とかイチャモンつけてたんだろうと考えると勝手な納得感はあるよ
②今まで排除される側だったマイノリティが他人を「排除」して楽しいのか?
→一端冷静に考え直して欲しいんだけど、「感情的な理由に基づく差別」と「「全ての人間は平等に権利を持つ」という理念をベースにした反差別」が、本当に同じものに見えるのか?
自分が極めて差別主義者に優しく、差別する人の肩を持っている自覚がある?
「普段のイジメは完全に無視するくせに、いじめられっ子が反撃するやいなや高速で駆け寄ってきて「君は今暴力を振るったよね。暴力を振るった自覚はある?」「今君はいじめっ子と全く同じことをしたわけだよね」とか言い立てる人」
なんだよね。そのくせ自分は中立の立場で冷静にものを言ってるという自認なわけ
でも実際には「差別に対する抗議」を差別に仕立てることで、「たしかにイジメは良くないけど、イジメの被害者がそれに反撃するのは「イジメっ子イジメ」だから平等に悪だよ」みたいなことを言ってるんだよ。
頼むからその行動力を最初に差別した人に向けてくれませんかね。
■追記
・ミサンドリーはミソジニーの対義語なんだから無いと不自然と感じるのは当然では?
→別に対義語だからというのは理由になってないでしょ。じゃあホモフォビアがあるのにヘテロフォビアは無いのはいいんですか?
この手の話をする際に重要なのはマジョリティとマイノリティの非対称性で、人種差別もトランス差別もホモフォビアもミソジニーも、ぜんぶマジョリティからマイノリティへの差別なわけですよ
で、マイノリティがその差別に対抗するためにこういう言説を持ち出すわけでしょ。だからマイノリティ目線の主張の方が優先度が高いのは何もおかしくない。
こういう話の時に「マイノリティがマジョリティを差別するのは許されるんだよなw」みたいなことを言う人がたくさん出てくるわけだけど、もちろん許されないですよ。明言しておくと当然ミサンドリーだって許されない。
でもそれって「当然マイノリティ差別は許されない」という大前提があってのものでしょ。「差別に反対するくせにミサンドリーに反対してない、はいアウト。やり直し」みたいな態度は何様なんだよ。
「どっちもどっち」的な構図に引きずり込もうとする意図が見え透いているんだよな。
→これはその通りと思う。それにこういった意見は多かったので最初から取り上げるべきだった。
改めて記載しておくと、差別・偏見といった人間の思考をあえて病状に例える必要は無いと思う。
根拠がないし、そういった思想が何らかの精神疾患とセットになっているケースはあるのかも知れないが、それは個別のケースに過ぎないので。
それをあえて病状のように記載すべきではない。
→じゃあ世界で一番人口が多いのはアジア人だからあらゆる白人はマイノリティで弱者になりますね。
■追記2
深夜に書いたせいか重要なことから抜けている。コレを最後の追記にしたい。
→これは重要なことなんですが、あなたがもし「内心ではめっちゃ差別してるけど、言動には移さない人」であれば、あなたは差別主義者ではありません。
なんか美術をテーマにしたテレビ番組や漫画、エッセイ的なものから仕入れた知識だけで書いているんだろうなってのが伝わってくる。
あるいは自分の考えとか実感ではなくて「正解」を書こうとしてるからそんなふうに感じるのかもしれない。
少し知識を仕入れて絵を見たほうが楽しめる、とか書いてるけど美術館に行けばガイド音声の貸出があるし最近だとスマホでアプリをダウンロードしてとかも出来る。
それに展示されている作品の横にはもちろんキャプションがついてて作品の解説をしている。
そして美術館に来るような観覧者はたいていその解説を読み耽る。
なんだったら作品より、その横の文字を読んでいる時間の方が長い人もいる。
そういうリアルの体験があったら、知識がないと凄さがわからない、とかさらっと書けないと思うんだよな。
どうやったら素人にも凄さがわかるだろうか?ってことを学芸員は工夫して伝えようとしてるんだからさ。
あと最近は環境にもよるが実際に見るよりもデジタル画像として見たほうが鮮明で詳細に作品を鑑賞出来る場合が多いということも知っておいた方がいい。
美術館の展示って雰囲気を出すためのライティングをしてるから場合よっては間近で見ても作品がよく見えないなんてことがままあるんだ。
私は実際に体験したことあるけど、さっきまでリアルに目の前で見ていた美術品なのに展示と展示の間に設けられた学芸員による作品解説の動画を馬鹿デカくて馬鹿高いんであろう4Kか8Kかしらないけど超精細で鮮明な画面で見たら全然気づけなかった部分に気づいたってことがある。
とまあ長々と書いたけど、体験に基づく考えとか感想というのはこういう感じになるんだ。それは正解かどうかは知らないけれど少なくとも「私の考え」になる。
美術館で展示されるような作家に下手な奴はいない。みんな上手い。
有名作品を写真で知っていても、実際に見ると今まで見たことのないような色彩や質感だったりする。
サイズも大きければ迫力があるし、小さければ繊細さが際立つ。
技術的な上手さは、緻密で写実的なものなら素人にもわかりやすいが、そうでないものはまず判断できない。
というか、冒頭にも書いたとおりみんな上手い。
そうしたときに気づくことは上手い人はやっぱり上手いということ。
先日も近所に新しい美術館が出来たってことで暇つぶしに行ってきたんだけど、
その展覧会はひとりの画家がメインなんだけど、同時に同時代の画家の絵も展示されてたのね。
そういう形式のときには私は展示室に入ったときにパッと全体を見渡すのね。
それで遠目から、あああれ上手いな、って感じた絵に目星をつける。
で、ゆっくりと一点ずつ絵を眺めていくわけだけど、あっあれいいな、って最初に感じた絵ってやっぱり超一流の画家のやつなんだよね。
もちろん展覧会にかかるような絵なんだからみんな一流の画家なんだけど、それでも超一流とはなんかが違うんだろうね、超一流の描いたやつはわりかし習作みたいなやつでも人の目を惹きつけるようなものを埋め込んでいる。
抽象画の私には意味の分からないチンプンカンプンなものでも他の人とピカソの描いた(たぶんピカソの中ではしょうもないやつなんだど思う)絵では魅せられるものが違う。
なんというか普通(?)の一流の画家の絵って傑作はあるけど全部が全部当たり前だけれど傑作ってわけではない。んだけど、超一流って全部が全部光ってる感じなんだよなあ。っていうのはまあビッグネームとかブランドに踊らされる哀れな消費者目線ってのは含むとは思うけれど、実感としてもあるっちゃある。