はてなキーワード: 立憲主義とは
ここでいう「自費でやれ」は税金を使うことに対して言ってるので、それを否定するのは「納税者は払った税金の使い方に文句をつけるな」ってことになると思う。
↑このコメントが一番スターを集めているのでコメントしたいけど、それは芸術についての議論と、立憲主義についての議論を混同していると思うよ! 僕は法学の方が得意なのでコメントしておくと、納税者は税金の使い方に文句をつける権利はあると思う。しかしそれは、個々の芸術に口を挟む政権にこそ向けるべき。芸術に対する判断は、アホには出来ないって言うのが元増田の立場だと思うし、現政権にできるわけねーだろと思う。
芸術はその場で鑑賞しなければ、まっとうに批評することができない。図録でわかるのは、そんな作品があったってことだけだ。その作品がどのような芸術性を有していたのかをきちんと判断するなら、その作品に向かい合える空間に足を運ぶしかない。もし僕の友人の作家たちが、図録だけでその作品の芸術性を判断されたとしたら、たとえほめられても喜ばないと思う。いや、ほめられたらちょっと喜ぶか。でも、作品の本質を理解したとは考えないだろう。
その点、今回あいちトリエンナーレに対する補助金不交付を決定した文化庁は、我々が芸術をその場において鑑賞する権利を奪っている。すなわち、本来の意味で芸術を批判する権利さえ奪っているという点で、芸術に対する冒涜と考えられる。そのような文化庁の決定に対して、我々はまっとうに税金を使えと要求する権利を有していると思う。
新聞は、自民党にやってるのと同じように、野党に大しても行いのチェックをやっていくべきだと思う。
新聞が自民党だけを叩いた結果、国民が自民党のどこに注目してるかという情報が自民党の選挙対策部に伝わり、対策を取りやすくなってるのではないだろうか。
一方、野党は新聞に叩かれないので、国民が野党のどういう動きをチェックしてるのかという情報が野党の選挙対策部に伝わらなくなり、熱狂的な支持者の声だけを反映した選挙活動になりがちなのでは。
つまり、新聞が自民党だけを叩き続けた結果、新聞が自民党をアシストしてしまってる形になってそうな気がする。
そうではなくて、新聞は野党の問題点も同じように追求していくべきだと思う。
野党だってそれなりの権力を持った組織なのだから、その動きがおかしい時は、きちんとメディアによるチェックが行われてもいいはずだ。
個人的に立民の動きとして嫌だなと思う点を書いておく。
このコピペ思い出した
------------------------------------------------------------------------------
朝日が日露戦争をマンセーした事をもって保守化したとか言ってる奴がいるが、
親大陸派=親アジア主義、親儒教、親社会主義、親官僚制(=中央集権) 親全体主義、親人治主義と
親英米派=親国際主義、親資本主義、親封建制(=地方分権)、親自由主義、親立憲主義
なんだよ。
親大陸派は天皇制を認めるかどうかで国家社会主義(親ドイツ)か共産主義(親ソ連)に分かれ、
親英米派は伝統の重視の度合いで保守主義と自由主義に分かれる。
今風の言葉で言えば、反米保守は親大陸派で、親米保守は昔ながらの親英米派なんだよ。
両者は戦後、反共産主義という一点で手を組んだ訳だが、元々は水と油。
共産主義が崩壊した90年代以降、元の親大陸派vs親英米派の構図に戻っただけの話。
戦前の革新官僚や軍部の中に国家社会主義者に儀装した共産主義者が沢山いたってのは
有名な話で、この両者は天皇の扱いを除いては対立点はないから、転向は簡単。
でも、親大陸派は絶対に親英米派にはなれない。逆もしかり。根本の思想が違う。
で、日露戦争の評価について言えば、「白人に対する被支配者有色人種の勝利」と言う点を重視するのが
親大陸派の特徴で、英米日の文明国が専制的(=アジア的)なツァーリのロシアに勝利したと言
う点を重視するのが親英米派の特徴。当時の人々はどう思っていたかと言うと、圧倒的に後者
が多いだろね。当時の一般の日本人は文明の度合いを肌の色よりも重視した。
このように考えると、朝日が日露戦争を賛美したのは何の不思議も無い。国家社会主義と共産主義
の間は容易に転向できる。そのうち、大東亜戦争の「白人支配からの解放」という面について
賞賛する日も近いだろうね。そして孫文のアジア主義の訴えだが、中国は伝統的に日本と英米との
ひとえに昭和天皇の意思表示の無さ、昭和天皇の求心力の無さにある。
昭和天皇は議会政治を過信して自らの意思表示を殆どしなかった。
皇帝の力は絶対的であることを前提として、皇帝自らが自らを律するための法律として作られている。
明治天皇はこのことを熟知していた。
それが故に明治天皇は強権的に振る舞い、積極的に政治に干渉し、強い皇帝としての威厳を保ち続けた。
大正デモクラシーは日帝憲法を無理矢理民主主義的に解釈しようとする運動である。
欽定憲法と民定憲法とではその根本において致命的な差異がある。
だがそれは出来なかった。
そればかりか大正デモクラシーは日本に致命的な問題を残していくことになったのだ。
大正デモクラシーの結果を受けた昭和天皇は明治天皇のような専制的な君主ではなく、
議会政治に根ざした共和的な政治を目指すようになってしまった。
その結果、民衆と君主の共通認識を背景に憲政の常道と呼ばれる擬似議会政治が成立することになった。
民衆と天皇の流れに取り残された日帝憲法は大きな問題を孕む事となった。
そのため議会、行政、立法、軍事、それぞれの権力は全て皇帝が直接掌握しなくてはいけない。
にもかかわらず、議会中心の政治体制を国民は支持し、天皇はそれに従った。
結果、議会、行政、立法、軍事、全ての権力をまとめることが出来る人間が居なくなり、統率が崩れ、第二次世界大戦へ突入していく事となったのだ。
昭和天皇の問題は最高権力者の地位にいながら民定憲法の制定を推進しなかった点、もしくは専制的に振る舞い権力を掌握しなかった点にある。
つまり、民主的にも専制的にもなれず半端な位置に立ってしまった昭和天皇に最大の責任があるといえる。
この原因は外的要因ではないと思う。
私はそう考える。
昭和天皇がもし民意を無視して専制的にふるまったとしてもクーデターが起こる確率が増えるだけだ。
しかし、実際には変えることが出来た。
日本国憲法第四条に曰く、天皇は「国政に関する権能を有しない」という。
戦後日本は立憲主義の民主主義国家となったのだから、血統による継承を行う地位に付随する政治権力を持たせないのは当然のことである。
しかし、同時に日本は自由と平等の国となったはずなのだ。憲法に、特定個人の権能を制限する条文が堂々と書かれている。まったくもって自由とも平等ともかけ離れた事態だ。
真に自由と平等を指向するのであれば、法に特定個人の参政権を制限する条文があってはならない。
こんなことを書くと、多分不敬だなんだと騒ぐ者が現れるだろう。題に掲げた通りだ。私は天皇に敬意を抱かない。
私の持論では、戦後日本の天皇という『機関』(今更天皇機関説かよ、と言われるかもしれないが)は、日本国挙げての人権侵害装置である。
職を選ぶこともできず、生まれた時から人生を決められて、一生を縛り付けられる国の奴隷制だ。
だから私は、"天皇"に敬意を抱かないし、抱いてはならないと考えている。
究極の貧乏籤をひかされた"天皇"に対し、敬意を抱くということは、この悪しき制度を次代へ、さらにその次へと引き継ぐ力となってしまう。
私は、それを許容しない。
つまり、はっきり言ってしまえば、私は天皇制を廃止すべきだと考えている。
たとえ建前であっても、現実がそうなっていなくても、人間には平等に権利が存在する。
現実に流されて理想を語ることをやめたら、世の中はそれ以上良くならない。そして、私の理想とする社会には、生まれで権利を制限されるような人がいてはならない。
一方で。
30年という長きに渡って、自動的に背負わされた重責を、言動の一つ一つが見張られているような状態で勤め上げた明仁という方に対して、私は敬意を表したい。
これは、天皇に対する敬意ではない。私という人間が、明仁という人間に対して対等の立場で抱く気持ちである。
天皇と対等だなどと思い上がりも甚だしい、不敬だなんだという声もあるだろう。だが私はそれを聞き入れるつもりはない。
もちろん、私は彼のことを知っているが、彼は私を知らないだろう。会ったこともない。
そうだな、会ったこともない人に対して呼び捨てをする行為は、立場がどうであれ普通に失礼かもしれない。
だから、こうしよう。
安倍さんの有能無能というより怖い。安倍さんも日本国会議も、国家のための国民を作ろうとしています。それは "日本国憲法改正草案" からも見て取れます。
憲法は、法律ではありません。近代立憲主義憲法は、国家権力を制限し人権を保障する法です。つまり、法律を作るときや、それを運用するときに守らなければならないことを示し、国民が国家に遵守させるという、法律とは逆方向の役割を本質とする法です。時に国家は暴走するという歴史的教訓から生まれた役割であり、日本国憲法も、(制定過程の議論はしませんが、少なくとも内容において)そのような役割を担っています(※1)。
今回の草案は、そうした従来の意味での憲法ではありません(その事実についてどう考えるかは自由です。)。 つまり、現行憲法では公務員のみが負っている憲法尊重義務を全国民が負い(102条1項。これはQ&Aによれば「遵守」より重い義務です。)、「公益及び公の秩序」(12条後段、13条後段、21条2項等)による人権制限が認められ、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」(12条後段)することが要求され、国民の義務が大幅に増え、前文冒頭の主語が国家になるなどして、国家から国民への法に変容しているのです。
そもそも個人主義的な方向にシフトしていかないといけないという指摘があります。
人間を自由にしていけば必然的にたどり着く個人主義というものを前提に、制度を家のように作り上げ、その中に住む。自由な発想で全力を出せば、それが全体の力になる。これがルネッサンス以来の世界の文明の方向性であり、人類は実際にそのように発達してきた。基本的に、システムが個人をサポートすることばかり考えてるといっていい。それ以外の方法は、なにより個人個人の支持が得られないことにより、廃滅しつつあるのだ。
しかし、日本会議や安倍政権が実行する施作には、全体主義的なものが多い。道徳を評価対象の教科にしたり.., 必要性の低い空母を導入したり.., 過労が問題視されてるのに高プロを導入しようとしたり.., 憲法素案にさえ.. その全体主義的な傾向が現れている。
ひとつひとつの政策をつなぎ合わせると、上への服従という言葉にまとめられる気がする。改正憲法の条文を読むと、日本がこんなに凄いんだぜ、っていう文章が並んでいて空気感が伝わると思います。しかも、この上への服従は、「私」への服従だと思う。自己肯定感を満たすために、若い人達が利用されていると思う。
安倍政権の諸々の政策やそれを支持する人間の言動は、「権威主義」や「権威への服従」という観点で読み解けば、すべて一本の線上にある。個人で物事を判断せず、親や教師、組織の上位者、そして国家の上位者の指示に服従することが「道徳的」であるかのように教化する。個人で判断することを否定する。
ネトウヨの人たちは、他国を見下して自国を称揚して、自己肯定感を高めようとしている。安倍政権を利用して自己肯定感を勝ち得ようとしている。でも、実際には、全体主義の下位側に位置付けられて、安い給料で働かさせられ、彼らの自己肯定感を満たすために利用されている。ネトウヨだけではなく、普通の人もみんな。本当になんなんだこの構図はと思う。
もちろん、自己犠牲は悪いことではないし、戦後の価値観が正しいとも思わない、正直、忖度だって、誰もがみんな空気を読んで生きてるのだから、忖度そのものが悪いものだとは思いません。
でも、安倍政権、日本会議の理念は、「私」は偉いという物語、宗教、神様であって政策ではないと思う。そんな自己肯定の物語にうちらを引きずり込まないでほしい。
youtubeで、日本会議での講演内容が流れてきている。それがまた基本的人権をないがしろにしたり、無駄な戦争をあおったりとひどい内容。
現に日本会議の委員がやっていた児童虐待とヘイトやってる幼稚園(モリカケのモリ)の話がある。
総理自身が立憲主義を全く理解してない。憲法が権力を律するのが絶対王政時代の話と全く逆の内容。
通じるのは「えらい俺様が完全に支配する社会であればうまくいく」という腐った儒教。
これが漫画の世界ならともかく、ナチスもユダヤ人への虐待について「あんな非常識なことしないだろう」と初期は言われてたり、初期は反対運動が起きていたことを考えると、
本当は、集団的自衛権も仲裁メインで戦争が収まらないところがあれば枠組みと制約があれば場合によってはとは思ったりもするが、まるでまともな改憲案や運用が見えないからもう憲法に触るなという気しかしない。
俺のスタンスは
https://anond.hatelabo.jp/20171020174416
に書いた感じ。
だから、「憲法が権力者を縛るという役割」を設けて「暴走しないために歯止めをかける」というのを理解したうえで、
じゃあ、どういう範囲であれば、日本国民(自衛隊員含む)の安全と、国際社会の平和のバランスをとれるか?というのをきちんと定義出来たらよい。
といっても、バランスなので、2つの選択肢があって、どちらがましか、どの定義がよいかという話。
ただ、悪い、もうその最低限のところが安部ぶっ飛んでて、立憲主義全くわかってないのわかるから、
もう安部一切触るな!昔のままの日本国民の諸権利との衝突の範囲での自衛権=個別的自衛権のままでいい。それ以上絶対触るな。
というスタンス。