はてなキーワード: 幼児期とは
ガッツ石松。どう贔屓目にみてもガッツ石松がむーんって幼虫みたくぷぃぷぃしてた。
女の子なのにこんなんでこのこ将来どうするの…と絶望して泣いた。
会陰切開されるは体中バキバキだわ胸は変に張って痛いし、こどもはかわいくないし、最初は泣いてたんだけど
おっぱいをひたむきに吸う姿をみてると、
こう、ぶわーーーーー!っと
こんなこだけど私が守ってやらなくて誰が守るんだ!!!ってなんか変なホルモンがこみあげてきて
なんかもう存在が愛おしくなった。
客観的に可愛くないよなぁ、とおもいつつも「それでもいいんだよ(私にとっては)かわいいよ大丈夫だよ」って
なんだか今までに経験したことのない存在というものを発見した感じだったよ。
余談だけど、こどもができてから、世間のこども絡みの事件をニュースとかでみるとすごい泣けるようになった。
これがもし自分の子だったら・・・とか考えるともうダメ。涙腺崩壊。
幼児期ほどその傾向は強かったけど、小学生くらいに育つと薄れてきたけど。変なホルモンはもうでなくなってきたのかね。
ちなみにガッツ石松だったうちのこは、育ってもガッツ石松のままでした……ってことはなく、まぁ十人並みくらいの容姿に落ち着きました。
それは幼児期までさかのぼる話だ
赤ちゃんの頃私はおじいさんと同じ部屋で楽しく過ごしていた
私の生みの親はそれが間違っていたことに片方は気づいていたが
結局何の対処もしなかった
ある日 花粉症だったことが判明した
その日以降 私はアレルギー性鼻炎と花粉症を背負って生きていくことになった
マスクなしでは外に出れないと言う生活が必須になってしまったので
20年経った今、
自問自答し続けているのだが育てるもらった両親を一方的に攻める訳にもいかない
またこの時期に風邪をひくとアレルギーが悪化して最悪な状態になる・・
熱も出て簡単に動くのも難しく感じる
とりあえず何回も病気に行って何回も薬貰って過ごしている間に
社会人になってこういう思いをしながら
働くことは難しいだろうと予想する今日この頃
なんかそれ、幼児期の体験に原因が隠れてそう
理由って、ことね。
ソースは、こちら。
例えば。笑顔なら
もともと笑顔がきれいな人が、よりきれいになるように努力をしたうえで、激しい競争に勝ち抜いて、ようやく「CA」になった人たちが美しい笑顔を見せているのだと考えれば、いかに笑顔の教育が難しいものであるかがお分かりだと思います。
http://ugoki.cocolog-nifty.com/hairiyasui/2013/02/post-e467.html
コミュニケーション能力なら。
親の力…ばかりでは、ないだろうが。
社会人としての基本のコミュニケーション能力は幼児期、学童期、反抗期に充実したプロセスを踏んでおくことかもしれません。コミュニケーション能力とは自立能力と言えるかもしれません。
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。
汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。
面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。
自分の精いつぱいの物を。
然し、必ず、こはれるものを。
然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。
それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。
私が、私自身に裁かれさへしなければ。
たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分は前回、少なくとも今の自分が"そうである"と信じる所を書いた訳である
しかし、いくつかの指摘には自らの答えを以って表明とするのが正しいと信じ、追記をする
前回の記事を書いた後の指摘にて自分が後悔したのは"欲望がどこから来るのか"という部分だ
それは押し付けられたのではなく、もともと潜在的に有していたモノが開花しただけかもしれない。
クジラックスが好きだけど異常性癖になった事はない、ただ少女愛は元々備わっていて偶々手に取ったのがそういった趣向のエロ漫画だったというだけだ。
これらの指摘は、全く正しいと思われた
"人はエロ漫画の持つ力で屈服させられ、目覚めさせられ、開発され、汚染される"といった趣旨の事を書いたように思う
私は私の体験を文章として切り取ったにすぎず、故にこれを撤回しない
しかし、自分は自分の表現し得る辺縁の部分まで突き詰めてみたく思う
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
フリードリヒ・ニーチェ著「善悪の彼岸」
自分を屈服させ、従わせ、駆り立てるのは誰か
あくまで「自分が選び、自分が惹かれ、自分が決断し、自分が選んだ」に過ぎない
決めたのは自分自身に他ならない
然しそれでも、私の主観としては「作品によって、自分は屈服させられたのだ」という感覚を捨てきれない
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。
そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。
自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。
誰がそれを許したのですか。
許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
坂口安吾著「余はベンメイす」
「明らかに自分が選んでいる筈なのに、屈服させられていると感じる」という主観
主体と客体の逆転がここで生じることについて、このエピソードが近しいのではないか
荒い海で漁師として働いたことがあったという(一夏のアルバイトであったと想像しよう)。
この時、船の上で、彼の同僚である無教養な男が、海上を指差した。
強い陽射しを反射して、キラキラと輝いていた。男は次のようなジョークを放った。
対象a
人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象。
他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象、自己対象との関連性が指摘される。
経験として象徴化された世界の背後の示唆、亀裂、欠如としてのみ経験される。
単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの。
満たされない欲動の向かうところ
詳しくはこれを参照して欲しい
求めれば完全に満たされ、不快なことはすぐに排除され、自分の意志によってすべてが好転する
「世界には自分以外の存在があり、すべてが自分の思い通りなるわけではない」という事が分かるようになる
絶対的な依存や信頼、母子密着状態からの脱却、対象との関係性の生起である
母親の代わりに毛布を肌身離さず持ち歩くようになる(※1)
成人した後は、形を変えて残る
人は過去の幻影を追って止まないし、追わないで居られるほど聖人君子でもない
「夢を追う」「面影を探す」「憧憬する」「焦がれる」「つい見てしまう」「どうしてか同じ行動をしてしまう」
幼児の頃の万能な世界や、絶対的な幸福、真理や真実と表現されるもの探し求める
絶対的な愛情は存在しないし、絶対的な幸福は存在しないし、絶対的な絶望も存在しない
しかし、人はそれを求める
逆説的であるが、人がそれを追いかけるときに初めて真理は存在することとなる
即ち真理は、常にたゞ探されるものです。
探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。
真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。
坂口安吾著「余はベンメイす」
自分が信じた正義(今回で言えば、緑のルーペ氏が描いた人間の尊厳を冒涜するエロ漫画を否定する事)は
主観としては作品そのものの力によって屈服させられたように感じられる
自分を駆り立てものはいつだって「ガラクタ」、「吊るされた人参」、そして坂口安吾の言う所の真理である
欠如の象徴としてのそれらを埋めるため、自分は「人の倫理を破壊する作品」に惹かれる
それと同時に、自らの正義がそれを許容せず「自分が望んでいるのではない、望まされたのだ」と投影させる
それは、こうした葛藤を生じさせることに意識的であったからだろうか
※1:投影
投影(projection)とは、自分のなかにある受け入れがたい不快な感情や性格を他者が持っているかのように知覚することである。
たとえば、怒りっぽい人が、自らの怒りの感情を受け入れず、それを他者に投影して逆に他者が自分に対して怒っているのだと決めつけるような場合である。
現実界
フロイトの現実原則や、カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)
などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。
以下に記述する想像界にも象徴界にも属さない領域であり、例としてはトラウマや不安、現実における体験などで言及される。
象徴界
ラカンは言語活動によって形成される人間のつながりを大文字の他者と名づけている。
これは自己と他者をつなげる共通の第三者としての言語を指している。
大文字の他者も言語活動の一部であることから、象徴界に属するものとして考えられている。
想像界
その正確な描写となると大変な労力を要するような対象と世界を指しており、
かつわれわれが頭で思っているものを言う。
同性と寝たことがある。異性とは寝たことはないが、寝ることは可能だろうし好奇心と興味もある。
長い人生、たまたまこれまで異性相手に心動く事がなかっただけで(性的興味は一時期かなり抱いていた)
そんな中でたまたま同性と関係する機会を得ただけだと思っていた。
異性に性的関心はあるが、恋といった感情はまったく抱いたことがない。ときめきもしない。
むしろ嫌悪する事のほうが多い。これは幼児期の経験からによるものと推察している。
それにしても私は全く異性にときめかない。美人を見ても「綺麗だな」と思うだけである。
同性だと違う。胸が高鳴る。親しくなりたいと思う。あわよくば……と考えてしまう。
私はこれまで、自分をバイだと思っていた。
結婚し、家庭をもつだろうと思っていた。
しかし私は異性に恋愛感情をもてない。それどころか嫌悪しがちである。
親愛の情をもてたとしても、性的な欲求は夫婦生活の中で解消できない気がする。やがては浮気するかもしれない。
どうしよう。気づきたくなかった。何も考えたくない。
いや、自分が育てられた基準がベースになるってのは理解できるんだけどさ。
自分が受けた教育で気に入らない部分もあるだろうし、配偶者の考え方に影響される部分もあるでしょ。
問題になるのは、自分がどう育てられたかじゃなくて、自分と配偶者の価値観のすり合せとその中での取捨選択だよね。
それは、A=善、B=悪みたいな考え方じゃなくてさ、子供を育てるにあたって大切にしたいものはなにか?を家族で考えることだと思うわけよ。
だって「ヨシケイ使う=旦那に嫌な顔されるに違いない」っていう時点で、上記のすり合わせができてないじゃんか。
「嫌な顔される」で思考停止してると、あーこれ視野狭窄だわって判断されちゃう。
学歴の話をすれば、高学歴な夫婦はもちろん大学受験前提だし、教育方法について信念を持ってるかもしれない。
でも一方で、あまり重視しない項目ってのもはっきり持ってんだよね。これは外部を使おうとか、逆にこれは絶対大切にしようとか。
その選び方や割り切り方が上手だから、高学歴になれるんだと思う。
大学受験って効率的に知識を蓄積して、瞬時に回答を選択できないと上手くいかない。参考書の数と偏差値って別に比例しないでしょ。
とりあえず板書は全部するけど成績上がらない系の母親っていう揶揄は、取捨選択が上手くなくて判断が他者依存的ってことを言っていると思う。
取捨選択の結果、ヨシケイ使わないでもOKなんだけど、説明の仕方がちょっと違う。
「周囲からダメ親判定されるに違いないからヨシケイ使わない」ってのと「幼児期における食生活は大きな影響があると考えているから、ヨシケイ使わない」ってのは印象が違う。後者のほうが主体的なわけで、高学歴な親は後者が多いと思うよ。
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1413780573565.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.excite.co.jp/News/bit/E1413780573565.html
最後に少しだけしか触れられてないせいかブコメじゃスルーだけど、キャラ弁は「食育」の観点から嫌がる幼児教育者ってのは結構多い。
「キャラクターの印象が強すぎるキャラ弁は、素材の味や美味しさなどといった食育面で感性が育ちにくくなる可能性もあるでしょう」
これね。
あと「食い物で遊ぶな」「幼児期は普通の食事を普通に食べられるようにと言うのが重要なのに、キャラに釣られて食ってるんじゃ意味ない」
「小学校に入った後で給食はキャラ弁じゃないからと嫌がる子が出てくる」とか、そういうやつ。
ただガキ預かって遊ばせてるだけと思ってるのも多そうだけど、幼稚園ってのはれっきとした「教育施設」。
先生方も小学校以上の「先生」と一緒。「教育者」なわけ。ただガキと一緒に遊ぶだけが仕事じゃない。
だから食事の時間は「家とは違う環境で、ママがいない所でも食事が出来るように」と言う意味があるし
最終的には「小学校に入っても給食を一人で食べられるようにする」と言う目的があるし、素材とか味とか栄養とかそういうのも教えたいわけだ。
そういう教育に「キャラ弁」ってのは邪魔になるので、嫌がる幼稚園が多いってのは分かる。
(勿論教育方針によっては気にしない幼稚園もあるだろうし、そもそも完全給食と言う所もあるだろうが)
はてなーは何でもかんでもイジメが本音だろとか親が怠けたいだけだろとか言いたがるけど、それだけじゃないのよ。
保育園は本来は「ただガキ預かって遊ばせてるだけ」の保育施設とはいえ、今では幼稚園と同じように「教育」面も意識している所が多いので
あまりに煮詰まっている。自分の子どもたちを優先順位の一番に出来なくなりそうでヤバいから精神安定剤的にカキコしようと思う。長文申し訳ない。
私は某宗教で育った。アメリカの再臨派から分かれてるのに唯一無二のキリスト教ってうたってるやつだ。
小さい頃から鞭でぶち回されるのは当たり前だったし幼稚園も行っていない。伝道活動に連れ回される中、幼稚園の前を通った。垣根越しに園内を覗いたことがある。にぎやかで楽しそうな世界だった。子どもながらに心臓がぎゅっとつかまれる気がした。
その時代は信者は週三日の集会、週五日の午前午後の伝道活動が当たり前だった。子どもは親と一緒に連れ回された。終わりが来る、とずっと言われ続けていた。高校なんて考えなくていいし、仕事は伝道活動を最優先にしてと言われていた。
小学校に上がってから、学校はとても楽しかったが、出来ない行事も多かった。日本の伝統行事、誕生日、クリスマス……。御神輿をクラスで作成する中、先生に言い、私は一人椅子で本を読んでいた。先生への証言は気の重い作業で、でも仕方なかった。校庭で校歌ダンスがあった時は、一人で膝を抱えて木陰にいた。
私は音楽が好きだった。高学年になってマーチングバンドに入りたかったし、少年団のソフトボールに入りたかった。
だが、諦めざるを得なかった。世との交わりになるし、優先すべきは放課後の伝道活動と集会だったからだ。
中学校になり、私は部活に入りたかった。本当にどうしても入りたかった。この時は多少抵抗したが、会衆の長老を含めて親の説得に負け、仮入部した部活を自分から取り下げた。応援してくれた先生や同級生に、本気ではないと思われ、信用をなくした。このとき多分全力で抵抗していれば順調に年齢通りに社会生活を送れたのだろうが、洗脳も強かったし、親を愛しすぎていた。組織を出るなら殺すと言われ、それに負け、無力感とともに青春を送り始めた。
その後10年思い出したくもないような宗教漬けの日々の後、その宗教を辞めた。
幸いな事に結婚も出来た。子どもにも恵まれた。やりたい場所でやりたい仕事をし、そのためにやりたい勉強をし、好きな家を買って暮らしている。
子どもはまだ小さい。4歳と1歳だ。平日は、保育園に預けている。とてもいい保育園で、子どもたちに毎月の行事をしてくれているし、園も季節感のある飾り付けになっている。リトミックや英語、図工に体育など年齢に合わせた遊びながらの教育もしてくれている。給食もおいしい。ほんと楽しい場所だ。
ふっと気を抜くと、最近子どもにイライラしている。子どもを応援する母親になりたい本心がある一方で、私は人生を取り返したくてたまらないし、たくさんわがままを言える子どもが羨ましくて仕方がない。子どもに嫉妬するのは馬鹿げていると理性が思う一方で、私の中の子どもが、楽しそうな上の子を虐めたがっている。
上の子の2歳後半から3歳にかけてのイヤイヤ期には本当に手を焼いた。自分は大人しい子だったし、常に人目を気にしていた。公園で泣きわめかれたりお店で転がれる気持ちがわからなかった。あまりにもひどいとき、とうとう手をあげてしまった。小さい頃の自分を叩いたようで、夜中吐いて泣けて反省した。だが、その後も元気がよく、私も我慢しすぎて階段から付き落としそうになるよりは、躾の範囲で言い聞かせてその場で服の上からお尻なりひっぱたいた方がよっぽどカラリとお互いのためにいいのではないかと、何度かはしているうちにイヤイヤ期が収まってくれた。
まずいのは、夫はこういう葛藤を理解できるはずもないという事だ。夫は育ちがよく、彼の母親は始終笑っている人だ。子どもも夫も動物も可愛がって楽しむ人だ。
上の子どもが赤ちゃんだった頃、何のためらいもなく行えた誕生日会。幼児期になってから辛くてたまらない憂鬱な会になった。
子どものイヤな面が私に似ている。それがまた私を責め立てる。自分の性格のせいで親からの自立が遅れ、上手くいかなかったのは単に自分のせいだったことに気がつかされてしまった。
気分が沈んだ日は、疲れているから、と言い訳にして、子どもを放置した時間だけが過ぎていく。子どもとの今日一日はかけがえのない日だと分かっているのに。エネルギーのあまっている子どもを休みの日に一日外に出さないで、たまった家事の解消にあてたりすると、もうへこむ。
さて、今朝のことだ。仕事で昇進し、今度はチームを動かすほうになった。チームワークについて、常日頃年下から学ぶ事が多すぎて、自分としては自信がない。学生時代に部活が出来たら経験になったに違いないと思ってしまう。だからつい、夫に学生時代に部活が出来なかった事がいつまでも経験の少なさとして尾を引いていると愚痴ってしまった。すると
と言われ、ついお互いムキになってキレてしまった。だが、こうして文章として起こしてみると、そんなに重いものを裏にして話す方が悪い気もしてきた。
午前中、悲しすぎて棒に振ってしまったから、せめてこれから子どもたちにも夫にもいい一日になるよう頑張ってみようと思う。
だが問題の本質は、分かってほしい人に分かってもらえないと、子どもをだんだん愛しづらくなっているという事だ。だがそれも他力本願な甘えでしかない。
それ生物学的にも間違ってるから。きちんと性淘汰に関する本を読んだ方がいいと思うよ。
生物全般にとって性淘汰がオスにかかる、メスがオスを選ぶというのは傾向的にはそう。この傾向は繁殖速度の差に由来している。
つまり卵子を作る速度と精子を作る速度に圧倒的な差があるから、精子に対して卵子が供給量が少ないため需要と供給の法則でメス側が選ぶ立場にたつから。
ただし中には性淘汰がメスにかかる種もあって、これもまた繁殖速度の差に由来している。
つまり卵子と精子の製造以外に、繁殖に関わる要素があって、それがオスに対して負荷を与えて、全体としてはオスの負担がメスの負担を上回る場合には繁殖市場においてオスの供給量の方が減る。
具体的には、繁殖に際して自分の身を削って精嚢をメスに栄養源として渡すコオロギとかはそう。メスが卵子を作るよりもオスが精嚢を作る速度の方が遅いので、オスがメスを選ぶことになる。
魚類で割合広範囲に見られるのは、オスが子育て行動をするので、オスの方がより長く繁殖に拘束され、繁殖市場においてオス不足が生じ、メスが性淘汰を受ける側に立つこと。
理論的に性淘汰が生じない場合もあって、それは一夫一婦制を採用している場合。夫婦共同で繁殖→夫婦共同で子育て、をする場合は、子育てが終わるまでが繁殖ターンなので、オスとメスに繁殖速度の差が生じない。この場合は、両性に対して性淘汰が生じない、双方が双方をお互いに選ぶんだけど、実際には鳥類で一夫一婦制なんだけど明らかに見た目がオスの方が派手、つまりオスに性淘汰がかかっている場合も多い。これは、繁殖において不倫行動がけっこう多いから。不倫行動が生じる、つまりオスが生まれた子の育児に関与しない状況が生じると、卵子と精子の繁殖速度の差が意味を持ってしまうから、オスに対して性淘汰がかかるわけ。
で、哺乳類の場合は、メスは必ず育児行動をとるわけ。メスが育児行動を取るからオスはとらないでいい、とらない場合が多く、必然的に一夫多妻制になりやすく(一夫多妻制ってのはオスが子の面倒を全くみないから可能なんだからね)、オスに対して強い性淘汰がかかるの。オスだけに牙がある、ツノがある、鬣があるなんてのが多いのは哺乳類が一夫多妻制を原理原則にしているからです。
これは社会学的にというだけじゃなくて生物学的にも基本、一夫一婦制になっている。なんでかと言うと、要はヒトの場合は幼児期間が長くて、育児コストが膨大なんですね。メスだけでは賄いきれんわけです。メスだけでは賄いきれんのでもしメスだけで子育てをするとたいていの場合は子供は死ぬわけです。
脳の肥大化、ヒトのネオテニー化、幼児期の長期化に伴う学習期間の長さ、学習期間の長さに伴う知識のアウトソーシング化(非遺伝化)、一夫一婦制、ヒトの社会性の獲得、すべてつながっているわけです。そのどれが欠けてもヒトはヒト集団を維持できないわけです。
で、一夫一婦制においては、性淘汰がかからない、かかりにくい、両性が双方を選ぶことが生じるわけです。結果的にオスとメスの形態に限りなく差がなくなってくる。実際、類人猿の中ではヒトは一番、男女の性差が無い種です。そうなんですが、形態的に言えばヒトはむしろ例外的にメスの方に異形化が強く生じているんですわ。肥大化した臀部と胸がそうですね。これ、性淘汰の結果ですから。
これはヒトが単に一夫一婦制を採用しただけではなく、社会化した結果であって、社会化っていうのは、血縁関係にないオス同士が共存するホモソーシャルな共同体を作ることによってのみ可能なんです。つまりオスがメスを管理する、メスを通貨として扱う、メスをやり取りすることによってオスが結束を強め、本来共存できないオス同士の共存を可能にして強力な集団、生産性が非常に高い集団を作り上げその中で子育てを行う、そういう方向で進んできたのがヒトなんです。
だから男社会なんてものはない。正確に言えば社会と言うものは男社会しかありません。
これっていうまでもなくフェミの理念からは真っ向からぶつかるので、フェミが力を持てば、この自然な人間社会は崩壊します。少子化はまさしくその一例です。でもその方向に向けてヒトが進んだのも、「進化」の結果であるので、「自然に帰る」ってこと自体、自然な進化運動からの逸脱であるわけです。
まあある意味、ヒトとその社会は進化してきた結果、生物的な土台から逃れるステージにようやく到達しつつあるとも言えるわけで、それは問題を生物学的にではなくて、社会学的な手段で解決する、乗り越える力がヒトに備わってきているとも言えるのです。
だからこういう話になると、必ず生物学的にはーって言いたがる人がいますが、それって参考程度の話であって、それに拘泥しなければならない必要はまったくないんですよ。ヒトはすでに生物学上の限界をある程度は超越した種なんですから。