はてなキーワード: 乾杯とは
ずっと4部がサイコー!だったけど、最近はスティールボールラン…特にジャイロとジョニーが雪の中で乾杯するところ、美しくて好き。ジャイロかな。
コムドットについて詳しくなくとも、SNSで拡散される彼らの活動を目にする機会は多い。彼らはそのように有名になってきたのだから、彼らのファンでない私のような人間が彼らに言及することも、ごく自然なことだと言える。
彼ら、というかリーダーのヤマト氏の炎上に対する声明を読んだ。
少し調べれば、多くの人がその文章に対し強い違和感を抱いていることがわかる。今暇なので、この違和感を明文化してみようと思う。
まず、コンビニ、近隣住民への騒音での迷惑等についての謝罪がある。これはそうだろう。コロナ禍でなくても絶対にやめてほしい。赤ちゃんが寝付いたばかりかもしれないし。
ここでは明確に謝罪の対象にしていないが、彼らは当然マスクをしていない。感染症予防のため、飲食店等を除き、複数人でマスクなしで密になることは避けるべきという『ルール』がある。
コムドットはこれまでも何度か炎上しているようだ。YouTuber飲み会をはじめとするそれらは、『ルール』に違反したから炎上した。
ではここで、この『ルール』について踏み込んで考えてみよう。
ここでの『ルール』とは、法律ではないものの、社会全体の利益のために守るべきこと、とでも言い換えられるだろうか。現在におけるマスク着用はまさにそれだろう。
私が彼らの炎上やそれにまつわる弁明について調べ強く感じたのは、彼らは本当にこの、マスク着用『ルール』の必要性を理解しているのだろうかという疑問である。
マスク着用ルールは、判子は斜めに押すとか、乾杯の際はグラスを下にすべきとかそういうクソくだらない仕草ではなく、疫病の蔓延を防ぐためという目的を持ち、また明確に効果が判っているものである。マスクは本当に不便だが、私たちは自分がウイルスの運び屋にならないよう、大切な人、あるいはそうでない人を守り、この疫病を根絶させるため、マスクをして、密を避け、ときには帰省や結婚式を我慢して過ごす。
自分と他人を守るための『ルール』を履き違え、大きな問題となった、NAMIMONOGATARIというHIPHOPフェスについて、知る人は多いだろう。HIPHOPにカウンターカルチャーの側面は認めているものの、それは体制的な抑圧であったり、不条理な命令であったりに対するカウンターである。
おそらく参加者にとって、マスク着用、密の禁止、禁酒もしくは減酒というルールは、「根拠のない、上からの不条理な命令」程度の認識だったのだろう。だから破っていい。
コムドットメンバーの根底に、同じような気持ちを認めるからこそ、ファンは不安すら覚えているのではないか。
コムドットのファンには良識的な人が多いと感じる。悪いことをしたことは認めつつも、応援の姿勢を示し続けることは簡単なことではない。
だからこそ彼らは不安を抱くのではないか。自分が応援している人たちが、バカではないと信じているからである。
コムドットと『ルール』は意外と根深い関係性を持つ。彼らが盗撮を嫌い、直接ファンに苦言を呈する動画をアップロードしたことは有名らしい。
盗撮はもちろんルール違反であるが、ただちに法律違反ではない。そんなことを言い出したら、彼らの撮影中映り込む人々は、彼らを訴えていいことになる。
では何をもって悪意のある盗撮とみなすのか、その線引きが難しいからこそ、『ルール』によって彼らは自分たちの、また、ファンは彼らの盗撮を許さない。
マスクおよび密を避けるというルールと、この盗撮に関するルール、正当性については述べるまでもないが、彼らは前者のルールをたびたび軽んじ、それどころか、タバコは外で吸うが(条例違反)、他人のタバコのポイ捨てを厳しく指摘するなど、矛盾が多く見られる。
これは大きな違和感であるし、彼らもその矛盾を否定はしないだろう。だから謝罪文は早々にその姿を変える。
ヤマト氏による謝罪文は、いかに多くの誹謗中傷が寄せられ、その恐怖が如何程であるかを切々と述べている。情に訴えている。
さらには過去に行きすぎたネット上の誹謗中傷により自ら命を絶った有名人をもちだし、覚えていないのかと訴える。
ここにも大きな違和感がある。明文化するのは難しいかもしれないが、やってみよう。
まずここでの有名人はまず間違いなく木村花氏のことであろう。彼女の痛ましいニュースは私たちに否が応でも画面の向こうに人がいることを思い知らせた。もちろんそれを私たちに教えるためだけに彼女は亡くなったわけではない。
まず第一に、このタイミングで彼らが自らその話を持ち出すことに対する違和感である。
任意の誰かが社会通念上誤ったことをしたとき、「そんなに叱ったら死ぬよ!」などと言われたら、私たちはどうしたらいいのだろう?
死は究極的に個人的なものだ。100人いれば100通りの死に方があるだろう。もしそれが自死であれば、その理由は本当に個人的なものだ。
彼らはあえて木村花さんという個人名を出さないことで、これに関するそしりから逃れようとしているのかもしれないが、個人名を出せないということは、それは配慮ではない。後ろめたさがそこにあるということである。
木村花さんは、何もしていない。本当に何もしていないが、マスメディアにより悪意のある人間に仕立て上げられ、自分の意見を述べることもできず、頼れる人もおらず、また前例もないため、亡くなるほど追い詰められていたことに気づく人もおらず、孤独に死を選んだ。彼らとは土台から違う。それを指摘されたくないから、個人名を出さなかったのは、卑怯とすら思う。
自分たちの引き起こした不祥事に、無関係の故人を持ちだし、自分の死を匂わせることで、批判から逃れようとする姿勢がダサい。彼らの肩で風を切るイメージとあまりに相反する態度に、違和感を覚えるのである。
もちろん誹謗中傷はルール違反ですらなく法律違反だし、絶対に行ってはいけない。密になるよりマスクしないより騒音を起こすより、明確に悪いことである。そういう人に対し、彼らは私刑に出る必要もない。法的にアプローチすることができる。皮肉なことにこれは、あきらかに木村花さんの事件あっての効果である。
正直なところ、そんなに批判の矢面に立つのが嫌なのであれば、大きな芸能事務所に入ればいい。大きなところであれば文春スキャンダルを揉み消すこともできるし、こういった際矢面にたちタレントを守ってくれる。
しかし彼らは自由でいることを選んだ。事務所のものになり、金銭的、肉体的な縛りを受けるより、自由に活動していくことを選び、彼らのそんな姿勢がウケているのである。
自由は必ず痛みを伴う。これは、自由な者は痛みを覚えるべきということではない。痛みを受けることと自由であることは、ほとんど同じ意味であるということだ。
総合的に一貫性がない、悪い意味で、あらゆる立場のいいとこ取りをしてやろうという彼らの甘えを私たちは感じ取っており、彼らと彼らのファンが大事にする『筋を通す』ことができていないことに、失望を抱かれているというのが、現状への分析である。
会えて一緒に乾杯とかできたら最高だね。それまで元気でいよう。
ずっと大きな声で言いたかった。
だから匿名ではあるが、自分の正直な気持ちを書き連ねたいと思った。
そもそも菅さんが総理に就いた時から困難な道であることは分かりきっていた。分かっていて菅さんは総理大臣になった。私はそこに菅さんの覚悟を感じた。
誰もが納得のいく100%の答えを出せる人がいるだろうか。絶対にない。あり得ない。
それなのに「ぼくのかんがえたそうりだいじん」「ぼくのかんがえたせいさくじゃない」とすぐに攻撃的な言葉で罵倒する奴、政府にお膳立てしてもらえないと自分の行動すら決められない奴、菅さんのほんの少しのミスや言い間違い、しゃべり方、果ては外見を大きく取り上げ、人格攻撃する奴、
菅さんはそういう屑すらも救おうと頑張っている。それも「そんなアピールは要らない」
結局、自分のような勤め人は日中SNSに関わることは殆んど無い。じゃあ朝から晩まで政権批判という名の人格攻撃をしているのはどんな奴なんだということになる。
そういったノージーマイノリティがSNSを占拠していることに心の底からうんざりしている。
また、声高々に政権批判している奴ほど、清々しいほどブーメランが返ってくる。
五輪中止を叫んでる奴が選手がメダルを取ったとツイートする矛盾。
人の命がかかってるから五輪中止をと叫ぶ奴らが密になってデモを行い、挙げ句は居酒屋で乾杯。
五輪中止を延々と報道したメディアが五輪特集。そして飲み会開催。挙げ句骨折。
そして何故か五輪中止を叫んでた奴らは高校野球とフジロックは絶対に批判しない。で、高校野球は辞退校が出る、フジロックは既に陽性者が出た。
挙げ句は五輪地獄だなとのたまった左翼歌手が平気で密のフェスに参加。挙げ句、下品な政権批判の替え歌。ダサ。
コロナ禍で分かったことは、こういう非常事態だからこそ人間の本質が出るなということ。大好きだった歌手や芸能人、ああこの人ってこういう考え方するんだと分かり、幻滅したことも多数。
勿論逆もある。
中島みゆきのファイトという歌の中に「戦う君の歌を戦わない奴らが笑うんだろう」という一節がある。
先日、ワクチン接種に行った。
とてもスムーズな流れだった。
戦っていた。
今、この未曾有の危機で、みんなで乗り越えようとするパワーを感じた。
自分も頑張ろうと思った。
菅さんは第一線で戦っている。立場上どんなに罵詈雑言をぶつけられても言い返すことが出来ない。それが分かっているから鬱憤のたまった奴らが菅さんをサンドバッグがわりにしても、菅さんは粛々とやるべきことを進めている。
声がでかいのはいつも口を開けて餌を待ってる雛鳥だけだ。自分ではなにも出来ない。うるさいだけの人間が安全なところからスマホ片手に反論できない人を批判して鬱憤を張らしている。
もう飛び込むしかない!
行くわよ!
カンパーイ!っていったら乾杯ですからね!って言う一番嫌われるやつあるわよね。
もう飲んじゃったよ!みたいな。
あのさ、
私思ったんだけど、
あそこをお漬物にして
よく婆ちゃんが作ってくれてたんだけど
よくよく考えたら囓った後のものを漬物にするってなんか食い意地張ってる感じの夏の風物詩でもあり
風物詩の夏でもあるわよね。
白いところ多いなーって思いながらスイカ漬物食べてた様な気がするのよ。
今なんか白いところが全くないというか少ないというか、
カントリーマームの小ささなどお菓子がいつの間にか小さくなっていると思ったら、
私たちが大きくなっていたって、
縮尺がよく分からないわ。
きっと誰かが夏休みの自由研究でスイカの白いところの巾を研究した自由研究少年少女もしくは
電話をして見破られないように
スイカの白いところが少なくなってきているんですが!って
6歳なのによく気が付いたね!って褒められたいの!
でもまあ食べるところが美味しくなったら良いので、
実際私はあのスイカの白いところ漬物より赤いところがたくさん食べられたらそれはそれで嬉しいんだけど、
真ん中だけの美味しい甘いところを隅々まで行き渡らせる美味しいスイカの名産地の研究は進んでいるのかしら?って思うの。
一所懸命考えていると思うのよ。
八百屋さんで
スイカは丸ごと1玉まるごとを買う方が断然美味しいぜ!って教えてくれたけど
白菜とかスイカとか丸ごと買っても使いきれるかどうか問題あるじゃない。
そう言うこともあるから
あれだと
同じぐらいカワイイじゃない。
やっぱり小さくまとまっている方がいいのかなーとも思うの。
外国のさー
虎のお寺あれ今あるかどうかまだ分からないけど、
騎虎って一度は憧れるじゃない。
流石に小さいからカワイイって理由で子どもの虎に乗っかるのは流石に無理そうだけど、
大人の大人しい虎なら背中に乗って大冒険しても怒られないと思うんだな
でもあれって
虎のやる気をなくすために鶏肉しか与えてないという切なくもあり
虎のお寺って虎ン禁止になったんじゃなかったっけ?
そんで、
虎で思い出したけど、
虎ダイエットって言うのがあって、
虎は獲物を捕らえるために何百キロも歩き回って獲物を探すってことで
車とかで通常行く買い物を徒歩で行って虎のように歩いて行くってのが虎ダイエットの神髄らしいわよ。
ってそれ普通の行動を徒歩に置き換えただけじゃないって言われそうだけど
徒歩だけにトホホとは言わないけど、
これはさすがに時間がいくらあっても足りないわよね虎ダイエット。
押しちゃうの!そしたら一休さんはびっくりして虎の穴に入っている分だけ
アピールタイムがゲット出来るって仕組みでその時にアピールした場所が虎ノ門って今でも名前が残っているぐらい
なるほどねー!って思ったし
虎のお寺のように虎のやる気をなくすために鶏肉を与え続けていて虎が大人しくなったところを
捕まえに行こうと思ったら虎の子どもがめちゃくちゃ鶏肉食べて育っていて大人の虎になっていた!って
結局一休さんはそのことを忘れないように屏風にその大人の絵を描いたの。
あの屏風の絵は実は一休さん自身が描いていたってことになっているのよ。
なかなか虎屏風のあの話しも奥が深いと思わない?
私はそう思うわ。
まあ今日は
うふふ。
暑いしさー、
もう美味しいものを食べるっきゃないってことよ。
ガブガブ飲めちゃう!
水分補給はしっかりね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ほかは、解釈は広いし、そこまで酷くないだろ……
と思って、歌詞を見てみた。
https://www.uta-net.com/song/304161/
この歌、コロンブスは別として、2つ現実の事象を描写している。
それ以外はぼんやりした何とでも取れる話。
で、その2つは、
途方もない時間を割いて
捻り出してきた(ようやく)
拍子抜けに乾杯(完敗)です
ポテトヘッドは(what's rule)
謎めいてく昨今のルール
なのだが、
まあ、あだ名なしルールは、20世紀に子供時代を過ごした者にとっては違和感を持つところは無いではないが、現場の知恵として、有効だと考えてやっているのだろうし、単純に愚かな事と断じるのも浅はかだろう。実際昔からあだ名で加速するいじめはあった。そもそも、いじめ対策はそれだけでないだろう。
これに続けて、『正義ふりかざすいじめっ子 一番厄介な現実』と言うにいたっては、何が言いたいのかわからない。
そして、後者のMr.ポテトヘッドにいたっては、事実誤認である。
おもちゃのシリーズブランドが『Mr. Potato Head』から、『Potato Head』に切り替わるのであって、Mr. Potato Head も Mrs. Potato Head もキャラクターとしては変わっていない。Mr. も Mrs. もいるのに、ブランドが Mr. なのはどうか、というので単に「Mr.」を外すのだ。
https://corporate.hasbro.com/en-us/articles/create_your_potato_head_family_launching_this_fall
つまるところ、この歌の芯は、ワイドナショー史観というか、予断に満ちた『いきすぎた』ポリコレを笑うという程度の視点しかもたないのである。
(ワイドナショーでポテトヘッドの件を揶揄していて、わかってないなーと思った記憶がある)
本気で作ったという歌が、ポリコレを揶揄する視点しか持てないのは、まあなんというかね……。せめてそれ以外の視点もあれば説得力が多少あったろうに、自民党のLGBT法案めぐる情けなさとか、オリンピックのあれこれとかさ。
社長は65歳以下なので正規のルートではなく、セレブ人脈で融通してもらったようだ。
やっぱりそういうのがあるんだな。この世は金だよ。
で、思ったんだけど、今のうちにワクチン接種して、それでガラガラに空いてるオリンピックを観に行くんだろう。
2019年の抽選の時は流石のセレブ人脈を駆使してもチケットが取れなかったそうだから、ラッキーだと思ってるんだろうな。
アルコールもOKになったみたいだし、国立競技場でスパークリングワインで乾杯でもするんだろう。
なんとなく、なんで菅首相があんなに叩かれても平然としていられるのかわかった気がした。
自分にとって利益のある人とだけ親しく、そうでない下々の者は関係なく。