はてなキーワード: カタカナ語とは
特に国語なんかは、文章を読むという行為は親でもできることだから、「お前には国語力が無い」みたいなクソ発言をされたりしたので、嫌だった。(逆に、お前に古典や評論が読めるのか!と言いたかった)
社会、理科、英語も、新聞で政治面を読んだり、テレビで生物特集見たり、カタカナ語で単語だけ半端に知ってたりで、何かしら自分も知識があることを主張してくる(俺もその学問を知ってる風な発言。お前とは勉強時間や知ってる量が全然違うんだよ!知ったかすんな!!と言いたかった)ので、嫌になる可能性があった。
ただ、数学は違った。たしかに算数のころは、四則演算やら割合やらで、ああしろこうしろと干渉があったが、数学になってからはもう何も言ってこなかった。
連立方程式も2次関数も、親にはもう何もわからなかったのだ。そういう意味で、数学は親から干渉されない幸せな空間だった。
親の、半端で何も本質がわかっていない発言に、下手なダジャレを聞くようなイライラを感じなくて済んで本当に幸せだった。
だから、私が数学を勉強するという行為は、数学自体が好きだからということ以上に、そういう親からの独立手段のひとつだったんだろうと今は思う。
そして自然な流れとして、数学科に進学し、実家の近くにそのような学科は無かったことから、物理的にも独立して生活することができるようになった。
本当に幸せを手に入れることができたのだ。
まあ、結果として、数学の研究者になることはできなかったのだが、そういう点で今現在でも、数学という学問の存在に心から感謝している。
数学は、親という干渉物から逃れる精神的な支えであった。数学という抽象的な学問が、抽象的に私の人生を救ってくれたのだった。
ルイーッス
本日は日本においては川柳発祥の日、東京国際空港開港記念日、チキンラーメン誕生の日、即席ラーメンの日となっております。
インスタントラーメンのインスタントってあのラーメンだけに使われてる特殊な造語とかでは無いんですね。
instantっていう英単語があってのインスタントです、っていう話は中学校ぐらいの英語教育で理解しそうなもんですね。
でも子供の時分は『こういう食品にはこういう単語を使うんだ』という気持ちでおりました。
アルミだのスチールだのレトルトパウチだのカステイラだの英語とオランダ語か何かが混ざったようなカタカナ語がいっぱいあるのでなんかそういうのが合わさった造語なのかと思っておりました。
一瞬とか、即時とかの意味合いになるのだそうです、instant。
あと、インスタグラムはinstant(即時の、一瞬の)とtelegram(電報)を合わせた造語だそうです。
気をつけて参りましょう。
ということで本日は【言語の把握よいか】でいきたいと思います。
脅迫ファクス事件で男2人を逮捕 送信30万件超 「恒心教」を自称:朝日新聞デジタル
https://digital.asahi.com/articles/ASR8Q6TZCR88UTIL011.html
苦情メール・電話・ファクス計1000本、「ふるさと納税の寄付打ち切る」…村議長傷害事件 : 読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/national/20230623-OYT1T50061/#:~:text=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%AF%E3%82%B9
企業の受発注や経理の業務からファクスの山をなくす――。消費税のインボイス制度導入が企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)を進める好機と捉える官民の動きも活発になってきました。 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA03B2R0T00C23A8000000/#:~:text=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%AF%E3%82%B9
町長は町として中間貯蔵施設の建設に向けた調査を受け入れる考えを表明しました。 町は午前11時前に中国電力にファックスで調査受け入れを回答したということです。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230818/k10014166331000.html
新聞メディアが「ファクス」と書くのは語源が「ファクシミリ」だから「ッ」は入れるべきではないって考えなのかな? カタカナ語の書き方で大手紙が判断分かれずにNHKだけが孤立してる言葉って珍しいのでは?
現場の問題はそんなに割り切れて解決する方法はないから苦しんでいるのに、
型に嵌めて右から左に流すことで、その「型」利用料金として高額な請求をするから。
長年付き合いのある部下を解雇できないので苦しんでいるのに、「固定費削減が重要ですから3人解雇しないと経営がなりたちませんよね?!(ドヤァ)」みたいなことしてなんていうか現在価値で並べなおして低いところは全部捨てなさい、みたいなことしかしない印象。
(余剰で現在価値が低いから解雇しろといわれた奴が業界をひっくり返すような商品サービスを大ヒットさせて企業が再生する、みたいなことはベンチャーくらいの規模だとたまによくある)
発注する方も確信犯的になってて、自分で解雇して憎まれたくないから代わりに汚れ役をやらせる、みたいな使われ方になってる面もある。
コンサルも業務効率優先すると紋切型であんまりものを考えない結論を経営層のお墨付きで処理するだけみたいな実体も結構ある。
あと最近は減ったかもしれないが、やたらカタカナ語で煙に巻くようなしゃべりの人もみかける。最近の人事コンサルのDEI関連とかものすごくカタカナ飛び交ってない?
ネットで定期的にそんな書き込みを見かけるけど、自分なりに疑問に思ってることを書く。
『本当の金持ちは敢えて上下ユニクロとかシンプル、でも靴と時計だけはこだわってる』
『本当に頭のいい人は難しい言葉を使わず、こちらにも分かりやすく話してくれる』
言われると確かに~ってなるんだけど、同時に引っかかる点もあったので、
自分の考えの整理のためと、ほかの人の意見も聞きたいので内容をまとめる。
疑問①『本当の』金持ちって表現があるということは『偽物の』金持ちがいるの?
この手の話の中には共通のイメージがあるようで、例えばお金持ちの話になると以下のような順序になる。
一般人 < ブランド品を身に着けて高級車を乗り回して自慢してくるタイプの金持ち < ひけらかさないいわゆる『本当の』金持ち
イメージとしては分かる。
少年漫画でも武器めっちゃ持ってるアーマー着たマッチョと、古びた刀一本持ってる寂れたジジイが戦ったらまず本当に強いのは寂れジジイの方だし。
でもブランド品を購入して高級車乗り回してるんだから、その人の金持ち度は偽物ではなくない?それを俺ら庶民が「ああいうのは本物の金持ちはしない」って否定するのおかしくない?
性格や容姿みたいな数値化しづらいものならまだしも、資産という明確に数値化できる指数があるのに、それをひけらかすと本物扱いされないのはおかしいのでは?という疑問。
疑問②それ『本当に頭のいい人』っていうより『我々のような馬鹿に対して置き換えや比喩表現での説明が上手い人』じゃない?
俺馬鹿だから周りの友達もずば抜けて頭のいい人っていなくて、サンプル数が少なくて申し分けないけどよォ、
人生の中で関われた頭のいい人って、理系の大学の教授数名と、元大企業の役員だった増田の働く会社の社長くらいなのよ。
客観的な数値を出したわけではないけど、まぁどちらも間違いなく日本人のトップ数%の頭のいい人だから、『本当に頭のいい人』って言っても差し支えないと思う。
そういう人の話に出てくるワードって、俺たちが理解出来るレベルの言葉に噛み砕いちゃうと、逆に齟齬が出ると言うか、事実と違う言い回しになっちゃう。
だから正しい言葉のまま発信する必要があるし、むしろ受け取り手が勉強していないとそもそも会話が成り立たない。
逆に表面上の浅い部分のみを、俺らに分かりやすく比喩表現を交えて理解出来るところだけ話してくる人って、せいぜい俺らよりちょっと頭がいい人とかくらいで、それこそ本当に頭のいい人って立場上俺らに噛み砕いて説明する必要が無い立場の人なんじゃねえかっていう推測。
疑問③『本当の~』で話題に上がるイメージの人、全員人格者過ぎない?
お金持ちにも頭いい人にも一定数性格が悪い人いるけど、『本当の』を付けると、何故か自然と人格者である事が求められる。でも実際は性格悪い人って一定数いるけど、そういう側面を見ると「本当のOOはそういう事しない」って否定される。
以下、推測
①意外性によるバズりやすさ
難しい事が分かる人『なのに』難しい単語を使わない
こういう「普通こう思うけど実はOO」みたいなのってバズりやすいから目に付く。
意外性がフックになって、読んだ人が納得すると豆知識のように拡散したくなり、結果目に入る回数が増える。
個人的にはこれがインターネットの民の深層的にあると思っている。
きちんと事業を成功させて、でもひけらかさずに謙虚な人とか最高じゃん。
俺らより何段階も頭良いのに、小難しい言い回しせずに真摯に分かりやすく話してくれる頭良いやつとか好きじゃん。
世の中自分より上の人ってそういう人がネットだと持て囃されるけど現実はそうじゃない。
お金あって性格最悪な人とか、頭が良く仕事が出来るけど、カタカナ語多用して伝わらないと馬鹿を見る目で見る人とか普通にいる。
だから俺らの防衛本能として、そういう奴らは『本物』じゃないって自分に言い聞かせてるんじゃないかという推測。THEインターネッツ。
これ書いてる増田は弱い人間だから、心のどこかで『俺の尊敬出来る良い人間が金持ちとか天才であってくれ』って僻み半分羨ましい半分で考えてしまう。比べてもしょうがないのにね。
百合とかBLとかセクマイとかの「クィア」を客寄せ要素として使ってるけど扱いが不誠実、みたいなのをクィアベンディングと呼んで差別だと指摘する意見がある。
カタカナ語であることからもわかるように英語圏で流行り、最近は日本でもセクマイを扱ったエンタメや芸能人が批判される際に、意識の高い人たちを中心に使われだしている。
百合営業とか腐営業やってるくせに浅いし適当だし失礼なんだよ、みたいなことは昔から日本でも言われてきたが、クィアベンディングという用語を使った場合、倫理面での強い批判というニュアンスになり、批判された側は申し開きが難しくなると思う。
私は百合やBLを楽しんできたオタクであり、同じジャンルのオタク友達の中には、クィアベンディングなどを指摘する人も結構いる。
クィアベンディングにある程度の問題があるということは否定しない。
だが、私は、クィアベンディングであることを理由に何かを責めるつもりにはなならない。私は、客寄せのクィアを散々楽しんできたし今後もそうするだろうからだ。
そして私が認識している友人たち(レズビアン、ゲイ、バイ、トランス含む)や、世間のほとんどの人もそうだ。
(おそらく異性愛者であろう)アイドル同士がMVでほっぺにキスをしあうところや、キャラクターが不意のボディタッチであわあわするシーンや、役者が作品中ではなくオフショットで共演者にあすなろ抱きや壁ドンしている写真や、Twitterのフォロイーや私たち自身が同性友達とお出かけすることをデートと呼称することを、ニコニコしながら……時にはキャーキャーウォーウォー言いながら私たちは楽しんできた。
それらの半分以上はクィアベンディングと呼ばれてもおかしくなかったと思う。でもそれらは燃えなかったからわだかまりなく楽しんでいます、だけど何かのきっかけで燃えた物に対しては、急に真っ当な顔をしてクィアベンディングで差別的だと全力で怒ります、という気持ちにはならない。
ダブルスタンダードとかブーメランとかの指摘が力を持ちすぎる風潮は歓迎していない。人間は考えを変えたり矛盾したりしてしまう生き物だと思うので。
でもそれにしたって、タチの悪いダブスタをやりつつ倫理的に正しい側に立った態度をするのはよくないだろう。
クィアベンディング的な売り方はよくないと学びました、私も悔い改めて今後それらを楽しむことはしません、ということならばわかる。
だが、先月クィアベンディングで怒ってたのに、翌週には2.5次元俳優の楽屋での距離の近さにときめいてて、来月出る百合萌えゲームも楽しみだけど、今日はまたクィアベンディングに怒りますというのは、よくないよ。
自分自身がセクシャルマイノリティであろうとなかろうとね。
エンターテイメントや芸能業やスポーツ含めた興行というのは多かれ少なかれ外道の商いで、売り手も買い手も、私たちはみんなその悪を背負っている。
それでも、悪すぎるものは程度問題として批判され改善された方がいいと思うが、その時話題になっているモノの悪さの程度はどれだけなのかというのをちゃんと考えた方がいい。話題性だけに引っ張られて怒り、クィアベンディングという使い勝手が良くて非難として強い言葉を使い、自分の普段の行いを棚に上げて善人面していないか。
一般論として読んでほしいから具体名を出すか迷ったけどボカすのも不自然かと思うので名言すると、このエントリを書くきっかけは水星の魔女の話題である。
百合やBLを尊いとか萌えとか言って楽しんできたし今後も楽しむであろうベンディングエンタメ大好き人間が、水星の魔女を批判する際にクィアベンディングという用語を使うのはスジが通らないと思う。
まず前提として、水星の魔女の作中・作外においての結婚の表現の避け方が、余韻を生む効果より、不自然で違和感を生むマイナスになっているとする。この前提に同意せず「作品の質を上げるためには結婚表現の回避が必要だった」という立場もあるかもしれないので。
あの不自然な結婚表現の回避が、誰かの思想によるのであれば(百合を売りにした作品じゃなかったとしても)同性婚冷遇的すぎてよくないし、海外展開の妨げになるからと勘繰られているのが本当にそういうなら商業主義のせいで作品に不自然さという瑕疵を作っていてよくないし、だいたい婚約指輪を描くのはいいし花嫁花婿と言うのもいいけど結婚と言うのはダメみたいなピンポイントの言葉だけ隠せば問題ないという基準は馬鹿らしい、などの批判なら、大いに頷ける。
増田はどうかわからないけど、こうした主張は保守や右派と呼ばれるような人が論じてくることが多い。
しかし私が思うには、こうした日本や日本語を大切に思う勢力こそ、日本語の柔軟さや強かさに気づけていないのではないか。
なぜ彼らは、カタカナ語やカタカナ表記もまた日本語の範疇と考えられないのだろうか。
漢字という表意文字があり、ひらがなとカタカナという役割を分けうる表音文字がある。
アラビア数字もアルファベットにも馴染むし、縦書きでも横書きでも表記しうる。
こんな強い書き言葉は滅多にないだろう。
日本という国が(保守派だったら日本という美しい国が、と書いてもいいところなのかもしれない)、
長い時間をかけて色々な文化を吸収し、それでも、たとえば匈奴や烏丸のように歴史の中で無くなってしまわず、国際社会の中で存在している。
長い時代をかけて日本語表記は例えばセルや魔人ブウみたいにいろんなものを吸収して強かに生き残ってきた。
これに自覚できず、そしてこれを誇りに思えないで、どうして保守を名乗れようか。