はてなキーワード: アファーマティブアクションとは
リベラル派の主張と構造主義、そして自由意志の関係について、いくつかの重要な誤解があるように見受けられます。
まず、論理の飛躍が見られます。元の議論は、「思考は言語によって行われ、言語は文法というルール(構造)による制限を受けるのだから自由意志など存在しえない」という主張と同等です。これは構造の影響を過大評価し、自由意志の可能性を不当に否定しています。
次に、「構造的要因を持ち出さないとアファーマティブアクションは主張できないだろう」という指摘がありますが、ここで言う構造的要因が構造主義でいう「構造」と同一であるという前提は誤りです。構造主義の「構造」とは、「異なる文化や時代を超えて共通する、普遍的な構造」を指します。一方、大学進学率や人種、経済問題などは社会によって大きく状況が異なり、必ずしも普遍的構造とは言えません。
むしろ、リベラルの立場は構造的要因を考慮した実存主義者と捉えるべきでしょう。彼らは社会の構造的問題を認識しつつ、個人の選択と責任も重視します。構造主義が普遍的な構造を解き明かした瞬間から、その構造を知った上でそれに従うかどうかという判断と責任が生まれ、その時点でその構造の普遍性は相対化されます。
さらに、構造と自由意志は必ずしも二者択一ではありません。社会構造が個人の選択に影響を与えることは認めつつ、その影響の中でも個人が一定の選択の余地を持つという見方は可能です。これは決定論と自由意志の両立可能性という哲学的立場に近いものです。
また、リベラル派の主張する「自由意志」は、必ずしも絶対的な自由を意味するわけではありません。むしろ、与えられた条件の中での相対的な選択の自由を指すことが多いのです。アファーマティブアクションなどの政策は、この相対的な選択の自由を拡大するための試みと解釈できます。
最後に、「リベラル派」という言葉で一括りにすることの問題性も指摘すべきです。リベラルな思想には多様な立場があり、すべてが同じ見解を持っているわけではありません。
結論として、構造的要因の認識と自由意志の尊重は、必ずしも矛盾するものではありません。むしろ、社会の構造的問題を認識した上で、個人の選択と責任を重視するという立場こそ、多くのリベラル派の真の主張であると考えられます。この問題に対するより深い理解のためには、哲学的考察と経験的証拠の両方を踏まえた慎重な検討が必要です。
意味だよ? 俺はリベラルだが、アファーマティブアクションという主張にな
びいたりしねえよ。そんなもんクソくらえだ。俺はリベラルとして抑圧のな
い社会を望んでいるだけだよ。リベラルを主張している政党や運動家の有象
無象などと一緒くたに扱われるのなんて、まっぴらゴメンだね。
「構造的な要因」に原因を求めるということは、人間の行動は構造によって決定されるという考え方をとっているわけで、自由意志を否定している
例えば、アファーマティブアクションとして、理系の大学に女子枠を作る話などもそうである
構造的な要因で、女性が理系の大学に進学できないという説明をするのならば、当然にしてそこに人間の自由意志はない
しかし、リベラル派は「女性は構造的な要因で理系の大学に進学できない」「女性の自由意志で大学を選べるようにするべき」という二つを主張しているのである
自由意志を認めるならば、有名大学に黒人が少ないのも、経済格差があるのも、議員に女性が少ないのも、全て「自由意志の結果」のはずである
自由意志を認めないのならば、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」という主張は不可能である
なぜなら自由意志を認めない立場からすれば、自由意志はこの世に存在しないため、自由意志という言葉と事実はなんの対応関係も存在しないからである
よって自由意志を認めない立場の人間が、「自由意志による選択ができるようにするべきだ」と主張するのは、言葉の定義が不明瞭な一種の疑似問題であり、棄却される
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⚪︎ここに反論を載せておく
「差別が構造的なものであるという主張が個別の行為に関して構造によって決定されるという主張を含意するわけではないでしょ。構造によって選択肢は制限されるがその限られた選択肢からどうするかは自由とか、個々人は自由に行為を選択するがマクロ視点では一定のパターンが生まれるとか、いろんな考え方ができる。藁人形論法じゃない?」
という主張を認めるならば
「物理学的な制約(世界は物理法則に従って動いているという制約)が存在するため、そもそも人間に自由意志はない」
という主張も認めなければならない
なぜなら構造とは最終的には物理的なものに還元できるわけだが、前者を認めて後者を認めないというのは
「特定の物理的影響によっては自由意思は制限されるが、その他はされない」
リベラルでないものをリベラル認定すればリベラルの主張と矛盾するのは当たり前のことである。
実際には彼のような人物がリベラルの定義を都合良く操作している」
←構造的要因を持ち出さないとアファーマティブアクションは主張できないだろ
アファーマティブアクションを主張するリベラル派の理論武装の中に確実に含まれているが
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
議論がとっ散らかってるけど、この四つを許容するのならアリだし、どれか一つでも許容できないのならナシ。もちろんそれぞれ独立してるわけじゃなく相互に絡み合ってるけどね。
民間企業の行うものは差別ではないとするもの。レディースデーや保険料など。
当然、採用や給与で差異を設けることを含みうる。(辞める可能性が高いから採用しない、という判断を認めるか)
スポーツの男女分けや医大の男性優遇合格枠(事前に公表すること前提だが)はここ。
加えてその一に絡むけど企業の採用や給与、保険料はここにも該当する。
差別されている側(女性)が利益を得るものだからアリとするもの。アファーマティブアクションなど。学割も学生の所得が低いことを理由とするならここか。
実はスポーツの男女分けも元々はここに入る。
同等の権利の主体(正確には意志能力)とみなされていないので差異を設けて良いとするもの。子供割引など。
例示を見てもらえばわかるが明らかに程度問題なことがわかる。(自民党が「差別」を「不当な差別」と書き換えたときは批判一色だったが妥当な書き換えだったと思う)
そして、スポーツを除いて、性別による差異を設けることってのは世論として認められにくくなってる感覚がある。
女性枠(アファーマティブアクション)も時代遅れになりつつあるしね、時代遅れになってから採用するのがいかにも日本的。
合法だろうが差別はダメだし、そうやって社会運動は進んできたはずだ。
アホなブコメがあったので
保険料、特に自動車保険に代表される損保は一応統計的裏付けがあることになってるのを知らないって言うのはさすがに増田が適当に書いているだけって言う証左(´・_・`)恥ずかしい
アファーマティブアクションは多数の専門家による長期間の緻密な歴史・マス社会分析・丁寧な観測とルール制定によって行われており、
お前みたいな反知性主義のバカの土人が10秒くらいで考えた感情論で割って入ってくるの迷惑
どの層にとっても迷惑
ちげーよ!
アファーマティブアクションというカス政策に逃げず、機会平等になるよう大学が十分対応すべきだろ
それでも十分対応しても男女差があるならそれは生まれながらの興味関心の差だ
結果平等にこだわるのはやめろ
普通のまともな人間は、次世代にツケを残して苦しめないために必死で政治やって理不尽を片付けるんですけどねえ
お前らジャップは世代丸ごとバカで政治無関心、理不尽を放置しまくり、次世代に負の遺産を残すクソムーブをキメてるゴミ親しかいないからじゃん
他国はもう何十年も前に終わらせてアファーマティブアクションなんて昔の出来事なのに、今更やってもなかなか追いつかないよ〜
アメリカでは提訴されて法の下の平等に反しているとして憲法違反と判定された結果、いまはアファーマティブアクションの指針を廃止してんだよ
トランス女性がスポーツで無双!みたいなニュースを見るたびに、テストステロンで階級分けすればいいじゃんって思う。
柔道やボクシングが体重で階級分けされているのは、体重を同じくらいにすればフェアな戦いになるとされているからだし、それくらい体重が重要なファクターであることを意味してるよね。
同じように生物学的な男女、あるいは性染色体に由来するファクターが競技に大きな影響を及ぼしているのであれば、そのファクターで階級分けをするという発想は自然でしょ。
男女の枠を取っ払って、直近何年のテストステロンの平均値とかで階級分けすればフェアになるんじゃない?まあ標本にすべきホルモンはアンドロゲンなのか甲状腺ホルモンなのかよくわかんねえけどさ。そうしたらトランス女性だろうが何だろうが全員平等にスポーツできてハッピーじゃん。
で、同じことを大学入試とかにも思ってるんだけど、これ言うと絶対差別だって言われるの分かってるから匿名で書く。
日本の(というか海外もそうなのかもしれんけど)入試って長時間の集中と反復がモノをいう世界で、これって明らかに一部のASD・ADHDと相性がいい。で、ASDもADHDも男性のほうが多い。そうなると、仮に社会的な性差別構造が全部なくなったとしても入試における高得点層の男女比は1:1にたぶんならないのよ。アファーマティブアクションで女生徒を優遇する大学もあるみたいで、現状別にいいとは思うんだけど、「バスケ選手の身長を均質化する」みたいないびつな動きになっていくのも容易に想像がつくよね。
そうなると真に平等な入試って、(これも標本として適するファクターならなんでもいいが)ASD・ADHDの度合いで階級分けすることになるんだけど、これって絶対に許されないじゃん。議論することすら許されないでしょ。男子生徒の上位層がとびぬけてテストの点数がいいといえば「統計的差別」と言われ、それがY染色体由来の”病気”だといえばそれも叩かれる。この問題って今後どうすんの?
もっと分かりやすい例でいうと将棋界がそうじゃん。フィジカルの世界じゃないのに、男性プロ棋士と女流プロ棋士の実力は明らかに違う。女性のほうが頭が悪いから?そんなわけない。正しくは「将棋というスポーツに有利に働く生得的特性があり、それを持っているのは男性に多いから上位コンマ数パーセントを抽出すると男性ばかりになってしまうのだが、これを言うと絶対にしばかれるので誰も言えない」が正解だ。遺伝子解析で発達障害の度合いが測定できるようになり、男女平等が完全に実現した社会では、真に平等な将棋のリーグが実現可能になる。でも絶対に実現しない。
横からだが、意外とあったってる気もするな。男女無差別にしたら女子選手はメダル争いどころか予選にすら届かないだろ。
女子スポーツはアファーマティブアクションの先駆けだと思う。
オリンピックの女性枠がアファーマティブアクションという珍説は初めて聞いたが…
純粋に疑問なんだけどなんでそんなに女性枠をつぶしたがるんだろう・・・?アファーマティブアクションに対するバックラッシュなのかな?ancvさんのコメントにもはぐらかしてちゃんと答えてないし。