はてなキーワード: gplとは
排除するためのソフトがある。GPLを検出するためのソフトがあって、混ぜられてたら警告してくれる。
まず雇った人間が勝手に使った場合は、基本的には排除していくし気がつかなかった場合でもさまざまな措置がある。
管理職が使った場合は、それは公開していくだろう。名誉名声がもらえるからね。
なんでこんな特殊な書き方をしているか?というと更なる事故があって、GPLだからといって、(まぁ使うほうが悪いんだけど)
さまざまな事例があるために必ずではないが
ソフトを持っていない人が開示請求できないという条件だと、自分が所有数GPLソフトを不正に使われた場合作者が開示請求できなくなるけど
これはたしか、GPL製作者が、GPLを利用した製作者に勝ってソース開示の請求権を得た裁判があったように記憶している。
GPLの権利主が非公開のソフトを訴えるという事例があったはずなので、必ずしもソフトの利用者である必要性はないはず。特例だけど。
そうだっけ?アプリを作る人のものだから、アルゴリズムを見たいからと言う理由が合った場合開示しなくてもいいんだっけ?よくわからないけどそう覚えていた。
アプリの利用は絶対条件ではなくて、あくまでも、GPLである根拠の提示だとおもっってた。
ぐたいてきにこのソフトのと提示する必要があるため、ほぼ自分が持ってないといけない。ただ、自分の関係者であれば問題ないとおもってた。
GPLは利用者がソースを自由に見られるし、自由に再配布してもよいライセンスなので
ゲームとかでGPLライブラリ使ってるのにコードが公開されてないじゃん、はいライセンス違反ってなるのは、
MastodonはAGPLで開発されており、AGPLに則れば誰しもが自由に参入し使用することができるということは前回のエントリで言及させてもらった。
つまりコレはMastodonへ接続するいわゆるクライアントアプリケーションを作成する自由も認められていることとなる。
そのMastodonクライアントアプリケーションの1つとしてiOS向けに提供されている「Mast」という実装が存在する。
Mast - App Store
MastはiOSでは比較的高品質なMastodonクライアントアプリケーションとして知られ、多くのMastodonユーザから支持されている。
App Store上では¥600で提供されている有償ソフトウェアだが、ソースコードはGPLv3ライセンスの元にGitHubで公開されているので誰しもがMastを自由に使用することができるというフリーソフトウェア運動の一環として非常に好ましい姿勢であると見られてきた。
ShihabM/Mast - GitHub
GNUを代表格に自由を重んじるフリーソフトウェア運動へ関わるFLOSSなユーザはMastには¥600を支払う価値があるとし、景気よく¥600を支払ってMastを利用した。
GitHubからソースコードをcloneし、Xcodeでプロジェクトを作成、コンパイル&ビルド、iOS端末実機で動かすなんてことは¥600支払った(女性かも知れないが)彼らのスキルからすると簡単すぎる手順であり、何なら自動化すらできるだろう。
スタバでMacbookを用いて1回ドヤリングするよりも彼らはMastの理念に感銘しMastに¥600を支払うことへ価値を見出したのだ。
そんなMastの製作者Shihab MehboobはGab問題で揺れるMastodonの創始者Eugen Rochkoの提言へ賛同しMastへ禁じ手たるアップデートをしてしまった。
Mastを購入したユーザに同意せずMastを起動するたびにMastodonサーバへ対してユーザに無断でGabをドメインブロックするシステムコールを送信するアップデートを施したのである。
つまりどういうことか?と言えばMastは¥600で購入するマルウェアと化したのだ。
百歩譲ればMastがスタンドアロンな機能としてGabとの通信が不可能になるアップデートを施すのならまだ擁護のしようはある。
しかし、今回のMastのアップデートは無断でMastodonサーバへGabをドメインブロックするシステムコールを送信してしまっているのだ。他人のサーバを無断で操作してしまっているのだ。
このMastの振る舞いは情報技術者へ問えば100人が100人とも「マルウェア的振る舞いであることは疑いようがない」と言うだろう。
しかも¥600支払っているのである。別に¥600が惜しいわけではない。フリーソフトウェア運動としてShihab Mehboobの生活の足しになればと思って多くの者は¥600を支払ったのである。
¥600支払ったユーザへ対して明確すぎるShihab Mehboobの背信行為が今回大炎上しているというわけだ。
勘違いしてならないのは、この件は別に北米の極右が集うとされるGabを擁護するためフリーソフトウェア運動を標榜する者たちが声を荒げているわけではないということだ。
GNU宣言を読めば理解できるように、フリーソフトウェア運動はコンピュータの制御権は個別のユーザへ対して帰属するべきということを一貫して主張しているだけなのである。
Gabのブロックは個別のユーザの価値観で決定されるべきであって、AGPLを冠するMastodonの創始者Eugen RochkoやGPLを冠するMastの製作者Shihab Mehboobが強制すべきではないと主張しているのだ。
Eugen RochkoやShihab Mehboobが歩もうとしているのは疑いようもなく言論統制への道であり、それはリベラリズムが憎む道でありGabが歩んでいる道でもある。
だからこそ今回のMastのアップデートは許されるべきではないとされ、Eugen RochkoやShihab Mehboobはフリーソフトウェア運動を標榜する者たちから反論が起きている。
詳細は「GNU」とググってもらえれば判ると思うが、正確性を担保せず説明するのであれば「リチャード・ストールマン氏が創設した自由ソフトウェアに関する考え方の1つ」だ。
ジョークとして「GNUは宗教である」と語られるほど過激なGNU信奉者もおり、GNUに関わる者達はGNUの正当性を社会へ発信し、そして社会へ貢献している。
GNUは自由と密接に関わるため、しばしば左派思想と結び付けられる傾向にあり、そんな自由思想に染まるGNUな人と接触する機会を得たので日本の社会問題を色々と感想を聞いてみた。
あまりにも長くチャットでやりとりしたため会話形式で紹介すると増田では書き切れないので、GNUな人の意見を抜粋する形で紹介したいと思う。
キズナアイのライセンスがGPLではない点について思うところはあるが、キズナアイの成り立ちや活動を見れば「キズナアイはおおむね自由である」と言うのがよくわかる。
キズナアイはライセンスに則ることを前提におおむね自由な利用を保証しているため、開かれたキャラクタと言える。これは評価したい点だ。
キズナアイのNHKに関わる今回の活動が生徒役に関する性役回り固定化の一つの現われだと見る向きもあるようだが、キズナアイはそれ以前から企業や製品PRを受注し、視聴者へキャンペーンをした実績に関してキズナアイを良しとしない層が無視しているのは正直なところ馬鹿馬鹿しいとすら感じる。
キズナアイが仕事であるとしても「この製品は良い」と紹介する、これはYoutuberではありがちなシチュエーションだと思われるが、見方を変えればキズナアイは明らかに先生役だ。
キズナアイは、女性は常に先生役に居なければならず生徒役をするなと言うことか?記憶しているフェミニズムの中には女性の教育学習権利の獲得などがあったはずだが記憶違いだったか?
キズナアイが、彼女という一個性が行なったこれまでの実績を無視するのか。先生であった彼女の実績を無視しゼロとするとは中々突飛な考え方だと評価せざる得ない。
女性の実績は評価されなければならない。彼女の実績を無視をしてはいけない。キズナアイの実績を無視したのはどちらなのか?は火を見るより明らかだろう。彼女の自由な表現を今後も応援していきたい。
歴史学や経済学、社会学の常として現代では評価しにくい分野の一つだからだ。
私個人の考えとして私自身が人間社会へ所属をすることを希求する。つまり人間社会が存在しないと私は非常に困るのだ。
天賦人権ではあらゆる権利が保障されている。生きる自由から他者を殺す自由まで、あらゆる自由が保障されているのだ。
しかし人間社会は人間社会を肯定するため、人間社会は人間社会を維持するために他者を殺す自由を認めることが出来ない。
人間の天賦人権を制限することによって人間社会は維持されるとの見方から、人間社会への所属を希求する私個人としては無制限な自由を諦めざる得ない。
GNUは人間社会の存在が前提として成立するものである。GNUは一種のアナキズム(支配者からの脱却)と見る向きもあるが、アナキズムは人間社会を否定するものではなく、特定の支配者に管理されない人間社会を希求する考え方だ。
この考えに則れば私は安倍政権を否定するだろう。むしろ安倍政権でなくとも否定する。そしてこれはおそらく求められている答えではないはずだ。
おそらく安倍政権の良い部分、悪い部分をGNUの視点で評価せよという意図の質問だったと思われるが、それはGNUの役目ではない。根本からGNUは「政権」を評価できないのだ。それは後世の歴史学や経済学、社会学の者へ任せたい。
AIと言われると非常に範囲が広すぎて答えるのに窮するが、その答えは「AIは人間社会を滅亡させるかも知れない」だ。
ただし、ここには前提があるものと考えている。それは「何らかの理由によって人類が滅亡することが確実視された際、人類を滅亡させる可能性のあるAIがそのワクチンとして機能する場合」であると考えている。
難解なパラドックスへ陥いっているが、早い話が「人類を滅亡させる病原へ対抗できるワクチンは存在するが、ワクチンの副作用によって人類が滅亡する可能性がある」ということだと思って頂きたい。
我々人類は高い知能を獲得し道具を開発した。この道具は石器でも何でも良いが、この道具がおそらく「人類を滅亡させる病原へ対抗する人類を滅亡させる可能性のあるワクチン」だ。
人類の歴史は道具によって生き延び、道具によって殺し合いをした歴史であり、可能性だけで言えばAIがその副作用あるワクチンのポジションになることは否定できない。
義務教育を修めた者なら誰でも理解することだが、AIだけでなく電気だろうが、スマホであろうが何であれその可能性は持つのでAIだけを槍玉に挙げるのは不公平とは言える。
GNUの信奉者、とりわけ私のような技術者は道具の可能性を信じて開発しているが、どこか頭の隅には道具の危険性を常に意識しているだろう。
技術者であるからこそ道具の開発がやめられないのは一部の道具の危険を訴える者達には少々申し訳なく思う。
原発を含む原子力技術の開発は現代日本で非常にセンシティブな問題であると認識しているが、私個人として開発は続行すべきと考えている。
この件に関してはGNU信奉者の中でも意見が分かれると思うが、原子力技術を考えるのであれば反物質・反エネルギーの存在が原発を含む原子力技術の開発続行を推奨する理由となっている。
現段階では反物質・反エネルギーなどというものはサイエンスを通り越してドリーム、人に寄ってはオカルトくらいの評価であると考えられるが、理論上は原発を含む原子力技術のデメリットを吸収できる可能性がある。
すなわちデメリットの反物質・反エネルギーによる対消滅へ期待しているのだが、当然ながら失敗すると宇宙全体が対消滅する可能性もあるため諸手を挙げた期待というほどでもない。
ただ、反物質・反エネルギー単体を考えると現在の原発を含む原子力技術の運用の応用の先に反物質・反エネルギーの運用があると考えられるので、現段階で原発を含む原子力技術の開発・運用を停めることは些か早計のように感じる。
これも先に話したワクチンのパラドックスの一種だと思われるので、人に寄っては立ち位置が違うのではないかと思われる。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kunisawamitsuhiro/20170707-00073002/
スマホの電池は2-3年で40%程度まで劣化することも珍しくないので、リチウムイオンは劣化するもんだという観念は広く染み渡っている。ところがそこは設計次第という面があって、放電深度によっては3年/500サイクルより長持ちさせることはできる。らしい。
ネットを見ていると、中古リーフ関連のテンプレには必ずバッテリ満充電容量を確認しろ、可能なら軽く劣化させて保証交換に持ち込め、と書かれている。テスラ関連の掲示板は常に社長の人柄(渡邉美樹に似たタイプだ)とOSアップデートの話をしていて、「バッテリ劣化」と口に出すと「テスラのバッテリは劣化しない」と言って叩き出される。「エアコンの航続距離への影響」も「知らん」の一言で終わる。走行20万kmで残容量93%というデータ(?)もあって、6万kmで90%を割っていると外れ値扱いになる世界なので、車の寿命まで持つから心配いらないというのも一定の事実を含むのかとは思う。
リチウムイオン電池は高価だ。概ね2万円/kWhで、低下傾向にある。つまりリーフの24kWhバッテリには原価が60万円ほどかかっている。リーフの定価は300万円前後なので、1/5がバッテリの原材料費ということになる(分数だ!!!!)。これをテスラ並みの48kWhや72kWhにすれば、24kWhでの公称航続距離は228kmだから、72kWhあれば650kmは走れるだろう。そうするとガソリン車の満タン感覚とも近くなってくるだろうし、仮に1/2や1/3に劣化しても燃費が悪くなったと言って済ませられるのではないだろうか。
もちろんバッテリの容量を2倍3倍に増やせば体積が2倍3倍になるのみならず、実質的にヴィッツとかフィットの価値しかない車が360万円や420万円といった価格帯になる(これはかけ算だ)。BMW 3が候補に入る価格帯だ。電池は重量がある。パワートレインを強化しよう。リチウムイオン電池の劣化は冷却によって抑えられる。冷却システムを改善しよう。そうして技術的に適切な解決を図っていくと、例えば48kWh, 10年後の航続距離が300km、辛うじてコンパクトの車がわずか520万円といった感覚になってくるだろう。そのような車は、東京~名古屋間を無充電で走行し、現地で少し急速充電した後、帰ってくることができるだろう。
同じことがトヨタ カローラにもできる。カローラの新車価格は150万円である。カローラ3.5台分の日本円を用意すると、その機能を保ったまま内燃機関を電池と電動機で置き換えることができる。多くの日本人は今やカローラを購入することに難しさを覚えるようになっている。すると、機能を保たずに新車価格を保つほうがビジネス的に理にかなっている。バッテリの劣化は納車後しばらく、クルマに対する情熱があるうちは明らかにはならない。であれば、技術には涙をのんでもらってバッテリを最大限にしばき倒し、主に都心を動かすシティカーだが頑張ればノートと同等の動きもできるといった宣伝で、うるさい人だけ保証や実費交換で黙らせていけばよいという判断があり、そしてそのようにしているというのがリーフのバッテリ劣化をめぐる状況なのではないだろうか。
何が言いたいかというとテスラのモデル3が欲しい。0-100km/hは5秒を切ってきそうだし、GeForce GTX 1060の搭載が決まっているし、GPLを盛大にぶっちぎってGNU/Linuxで動いているし、量産開始がアナウンスされている。別にどこかから金をもらっているわけではないが。くれるならRC版の3をくれ。
いい記事なのだが、いくつか反論や補足が必要だと思ったので書く。
このGPLのコンパイラとはGNU bisonやGCC(GNU Compiler Collection)について指しているのがほぼ明確なのでそれらについて書く。
確かに著作権法を元にしたライセンスは、ソフトウェアの出力結果に対してソフトウェアの著作権ライセンスが影響しないと解釈するのが妥当であるというのは正しい。
ただしこれは"著作権ライセンス"に限った話である、つまり著作権ライセンスでは不可能な制約がEULAなどでは課すことが可能であるということを意味する。
詳しくはGNUの書いた記事の"契約を元にしたライセンス"という項を読むと良い。以下に引用する。
https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.html
ほとんどの自由ソフトウェアのライセンスは、著作権を元にしています。そして著作権によって課することができる要求には制限があります。もし、著作権を元にしたライセンスが、上記に記した自由を尊重するならば、まったく予期しない他の種類の問題があることはありそうもないでしょう(予期しないことはまま起こりますが)。しかし、ある自由ソフトウェアのライセンスは、契約を元にするもので、契約はもっと広範な制限を課することが可能です。これは、そのようなライセンスが、容認できないほど制限が強く、不自由でありうる、いくつもの形態がありうることを意味します。
わたしたちは、起こりうるすべてのことをあげることはできないでしょう。もし、契約を元としたライセンスが利用者を(著作権を元としたライセンスでは無理な形で)異常に制限するならば、そして、それがここで正当だと述べられていないのならば、それについて検討しないといけないでしょうし、そのライセンスは、不自由であると結論づけるかもしれません。
また元の記事の著者はGCCやbisonがGNU GPLのような強いコピーレフトで保護されたソフトウェアでも、それによって作成された著作物はGPLにならない(つまりコンパイラやパーサーのライセンスを継承しない)ことを根拠に考察しているようだが、実はbisonやGCCのGPLにはライセンスに対する例外が付属していることを考慮すべきである。
GCCやbisonの著作権保持者であるFree Software Foundationは著作権法の話をするとき、たいていアメリカ合衆国を想定しているがこれらの自由ソフトウェアが広く使われるあたって、著作権法とそれを元にしたライセンスが異なった解釈をされることがありうることをおそらく危惧している、そのため出力に対してソフトウェアのライセンスが影響しないことを確実にするためにこれらの例外を規定しているのではないか。
この二つの理由から、元記事の議論は世界中に対して広く配布するFLOSSディストリビューションでは(非常に残念ながら)鵜呑みに出来ないと私は考える。
加えて言えば、たとえフェアユースの規定が全世界的に利用できて、営利目的でなければ利用できたとしても、
自由.0: どんな目的に対しても、プログラムを望むままに実行する自由
(i.e. オープンソースの定義 6項 利用する分野に対する差別の禁止)
がある限り、そのような制限をディストリビューションは受け入れられないだろう。
またOracle vs GoogleのJavaのAPI訴訟はケースとしてはかなり特例であり、
一般に広く適用すればlibcすら当てはまるのではないかと私は思っている、
これを根拠にしてよいのならばそもそもコンピューター業界がひっくりかえるのではないか。
少なくともUbuntuのようなプロジェクトにおいて、私は断固反対である。
というのは現状ほぼすべてのWeb翻訳(例外があれば教えて欲しい)はプロプライエタリないし、それと同じ結果をもたらすSaaSSだからである。
Webブラウザを介して使う翻訳サービスはSaaSSの代表例であり、ユーザーがコンピューターの計算のコントロールを
持つべきであるという自由ソフトウェアの思想と明らかに相容れないものである。
このようなサービスを利用することの弊害として、(例えば)Google翻訳に翻訳処理の計算を依存することにより、ユーザーの入力をGoogleが常に把握することが挙げられます。
もちろんこれはあまり良いことではない。
多くのFLOSSシステムディストリビューションは自由なソフトウェアを主に入れるというガイドラインを持っている。
アーカイブのごく一部にnon-free(Ubuntuならrestricted/multiverse)なソフトウェアがあるが、
これは事実上妥協の産物であり、排除しても大した問題がないならば配布から除外することに多くのディストリビューション関係者は異論を挟まないだろう。
また例えばDebianはあるソフトウェアがDFSG(Debian フリーソフトウェアガイドライン)に適合するフリーソフトウェアであったとしても、それがガイドラインに適合しない著作物に依存する場合、contribというセクションに閉じ込めており、それは公式のシステムの一部ではないとしている。(建前ではcontrib/non-freeセクションはユーザー向けの付加サービスとされる)
Ubuntuコミュニティで新規に作られた著作物がコミュニティの哲学に反する物に依存するというのは、かなり致命的である。
たとえ奇跡が起こり、例外的にGoogle翻訳や一部のプロ用翻訳ツールがBSDライセンス(Launchpad上での翻訳用ライセンス)での出力を許したとしても決して褒められたものではない。
Ubuntuのbug#1に"Ubuntuソフトウェアは自由である。常にそうであったし、今後も常にそうである。自由ソフトウェアは万人に望むままの方法で使い、望むままの人間と共有できる自由を与える。この自由は多大な利点である。"とプロジェクト創始者であるマーク・シャトルワースが書いていることをよく考えるべきである。
https://bugs.launchpad.net/ubuntu/+bug/1
この反論を読んだ読者の中にはあまりにGNUプロジェクト寄りに思想が傾いていると思う者がいるかもしれないが、
いわゆる"Linuxディストリビューション"の中には数多くの重要なGNUソフトウェアがシステムの根幹をなす形で入り込んでおり(例えばGCC,bash,glibc etc...)
またUbuntuの派生元となったDebianの成立経緯にはやはりFSFが関わっている。
さらに言えば、システムの保守を手伝う人の中にはシステムがフリーだからボランティアで頑張っているという人もいると思う。(ほとんどではないかもしれない)
のでUbuntu周りの話に限ってはこういった観点で見てもよいと思ったので書いた。