はてなキーワード: 黙示録とは
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ウェブやSNSの各所にできるだけフェイクニュースを散りばめましょう。そこに断片的な真実を散りばめ、人びとに大きな物語を作ることを促しましょう。その際、ひとつひとつの断片に歴史的背景を備える宗教的・政治的シンボルを付与することで、より効率を高めることができます。
少しずつ真実を混在させることがとても重要です。 少なくともそのように思わせることが重要です。これは実際、人びとの探究心や創作欲求を刺激するもっとも優れた方法です。こうして物語が量産されるようになります。
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やがて物語を作ろうとする者、物語を読み解こうとする者、結論だけを求める者、そして、何も知らない知ろうとしない者に人びとが弁別されていきます。弁別が繰り返されることで自然と人びとのうちに階層が生じるでしょう。
こうして発生した階層構造のもと、自律的なゴイム社会が生まれます。彼らはより高い階層を目指しますが、互いにいがみ合うことに注力するため、結局ゴイムであり続けるしかなく、当然真実にも到達しません。 つまり、真実はけっきょく真実たり得ず、イリュージョンでありつづけます。
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この断章も物語の断片たるべく書かれました。ゴイムには、常に物語を作らせる必要があります。物語の再生産がゴイム社会を健全に保ちます。その意味でこれをある種の祭礼と捉えることも可能です。
真実を知るのが誰なのかは私たち自身にも分かっていません。しかしそのことで、私たちの財産がゴイムから遠ざけられ、冗長化され、より堅固なものとなることは明らかです。
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以上はごく簡単なトリックですが、とても強力です。この断章のもうひとつの狙いは、すでにある程度の社会的成功を得た者に、社会階層の維持の方法、財産冗長化の手法を教唆し、これと似た断章を生みだすことを促すことにあります。
これをもって、現代版黙示録を生みだす作業ということもできるでしょう。断片的物語の集合こそが黙示録といえるからです。そうでなくてはイリュージョンとしての真実を示すことは不可能です。現代において黙示録は、集合知という位相に安置されるべきものです。
一時は200万の借金に加えほとんど引きこもりに近い生活を送るほど荒れていたが、
少しずつ生活を立て直し。実家を飛び出しても2ヶ月くらいは生活できるほどの貯金もできた。
心機一転満を辞しての転職活動。今さら焦っても仕方ないしオリンピックの余韻が続く来年3月ごろまでに決められれば御の字だろうと悠長に構えていた矢先のコロナ禍。資格試験をキャンセルしポートフォリオ制作も投げ出し、ひたすら求人検索エンジンやコーポレートサイトのリクルートページをチェックし片っ端から応募。エージェントにも6社ほど登録した。
現在の仕事は夜勤も多く、仕事が終わってからエージェントのヒアリングや面接のために6時間待機し、その後反省点をまとめる作業に1時間かかり、2時間の仮眠のあとシャワーと食事を済ませてまた出社…というような日が4日続いたり、1日置きに1週間という感じでこの3ヶ月を過ごした。
丸一日休みをとれても、不安でうまく眠れないしやらなければいけないことがいくらでもある状況下なので寝てはいけない。
そんなことは何の言い訳にもならないが、転職活動を始めてから現職の方でミスが増えてしまい、上司にも目をつけられるようになってしまった。
正直いうとここ最近半狂乱に近い状態で、病院の予約時間を1時間早く間違えたくらいで「自分はこの程度のスケジュール管理もまともにできないのか」と帰りの車中で泣き喚き散らしてしまうくらいで、何にしても冷静な判断がくだせるという自信が持てない。
内定までの経緯が少し変わっていて、内定をもらった会社をA社とするとそこと全く別のB社にもともと俺は応募していた。すると採用担当とは別のB社社員から個別に電話がかかってきてA社を紹介された。A社社長と数回電話面談を行ったあと直接会って内定が決まった。
サイトを見る限り俺にとってA社は魅力的ではある。学生時代から未練があった業種に携わっていて、そこに未経験から挑戦するとすれば今が俺にとってラストチャンスかもしれない。しかし選考時の豪快さが妙に気になって仕方がない。
そしてここにきて俺はフロントエンドやWebデザインのポートフォリオ作りに熱をあげている。
もともとHTMLやCSSやらはテキストサイト全盛期だった小4の頃から見様見真似で暇つぶしに書いていた。書いていたといってもレンタルサーバに手打ちしたファイルをあげたり、WordPressに自作のテーマを仕込んだりはてなブログのカスタマイズ機能にCSSやJavaScriptをちゃちゃっと加えてたぐらい、だが、そらである程度書けるぐらいの知識はあった。
イラレやフォトショも大学の課題制作で嫌になるくらい使った。というか卒業してからもフライヤー制作とかで使った。
これくらいのことなんて常識の範疇で、AT限定免許所有者くらい取るに足らないレベルなのはわかっている。しかし病んで人と会話できなくなったりパソコンがお釈迦になって何もできなくなったりとそんな風に何かが起こっても常に俺が関心を寄せていたのサイトやWebデザインだった。
もともと転職活動で当初志望していたのもデザイナーやフロントエンドだった。借金を完済したのを契機に念願のラップトップを買ったので今年の2月から意気揚々とポートフォリオ制作を始めていた。この時はまだかっこよくてかつしっかりしたサイトが作れさえすれば、どこか拾ってくれるんじゃないかと思っていた。いや、就職できるかどうかは二の次で、かっこいいサイトを作りたい、サイトをもっとちゃんと運用できるようになりたい、もっとフロントエンドの知識を深めたいというのが一番の動機だった。
コロナ禍で転職活動を方向転換してからは求人があるうちに動かなくてはという思いで、ひたすらお気持ちポエムみたいなPR文を募集先に送りつけた。手元に何もない俺にはそれしか出来ることがなくていつも情けない気持ちだった。そんな嫌な毎日の中でポートフォリオ作りに関することが俺の逃げ場になっていった。借りてるさくらサーバー、VirtualBox上のFreeBSD、CentOSを仕込んだラズパイ、稚拙な知識を黙示録として書き記した雑魚虫なQiita…こんなとこに俺の未来なんてあるはずもないのに、もはや使い捨ての傭兵のようにこきつわれるだけで死んでく分際なのがほとんど決まってる癖に。
コロナ禍はリーマンショックとも震災とも違った。業界業種で影響の度合いに差がありすぎるし、情勢の変わり方も激しい。いきなり悪くなったり劇的に改善したりする。じわじわと影響が露出してきて経済が回復するのも長期的だった従来の経済的混乱とは違い、病床数やワクチン開発などの医療の状況、緊急事態宣言等の社会情勢で一変する。その時が来れば一気にコロナ禍による経済不安はなくなる。現に緊急事態宣言のあの騒ぎは劇的に落ち着いてしまった。
そんな中でこれは未曾有の危機!20年代は暗黒の時代だ!とヒステリックになり、よくわからない企業に飛び込んでしまうのはかなりのギャンブルなのではないかと感じ始めている。その反面これが自分の宿命なのだと得体の知れない企業で怨念にずぶずぶ浸かりながら野垂れ死ぬことを受け入れなければならないんじゃないかとも思う。
考えがまとまらずとっ散らかった文章になってしまったが、俺は何がしたいんだろうか?何が一番ベターな選択になるのだろうか。
フロントエンドの知識なんて俺にはたいしてない。30年近く生きているにも関わらず。でもだからこそもっと知りたいし、知らないことが悔しいし、しょうもない雑念に囚われて何のスキルになるのかもわからない仕事で時間を消耗することを受け入れられない。どう気持ちに折り合いをつければいいのかわからない。
増田での最大の楽しみはポリコレバトルウォッチである。そう考えているのは私だけではないはずだ。過激派フェミニスト・子供部屋アニオタ童貞おじさん・キモくて汚くて金の無いおっさん等々の玉石混交な人々が自己の価値観をぶつけ合うバトルは、現実社会で行われる会話や議論に比べたら非生産的で意味の無いことだ。しかし、当のバトラー達が綴る文章は世界の破滅を示す黙示録であるかの如き筆致であり、「日本死ね」等の言霊の扱いに数多のウォッチャーが打ちひしがれてきたことだろう。
私はそうしたバトルを眺めるだけには飽き足らず、脆弱な理論で書かれた愚痴を正論ストレートの反論でぶち砕き、堅牢な理論に対しては間違った反論をわざと書いてその身を炎上の燃料にしたこともある。その際には憂国ネット右翼から革命的左翼まで様々な人格を演じて増田を盛り上げてきた。こうしたことができるのも増田のメリットだ。Twitterでは過去の発言と比較して矛盾を突かれてしまうし、匿名掲示板であっても5ちゃんねるのようにIDがあると自演乙と一蹴されてしまう。
しかし最近の増田は一体どうしてしまったのか。このご時世私は外出を控えているので、必然的に増田に入り浸る時間ばかりになるが、新型コロナに対する日常生活の不安や政府批判ばかりでつまらない。そんなことは真っ当なメディアで扱えばいいことであり、匿名による怨嗟の声が蔓延するバトルフィールドである増田に好ましくない。ほんの一二か月前は宇崎ちゃんやラブライブのイラストでフェミVSオタの熱いバトルが繰り広げられていたのだ。一枚の絵画で激論バトルをするなど教科書に載るレベルの歴史的美術品でもできないことを彼ら彼女らは増田を舞台に繰り広げていたというのに、今はすっかりいなくなってしまったのだ。
新海誠監督「天気の子」を公開初日に見に行ったくらいファンではあるが、子どもが幼いためなかなか2回目を見に行くことができず、先週末やっと見に行った。
1回目は勢いに乗っかって、がんばる帆高を応援しながら見たもんだった。2回目はもっと粗が見えちゃうんじゃないかと思いつつ見ていたが、やはりおばさんには若者のがんばりが眩しく、同じように応援しながら見てしまった。1回目と違うのは、じゃっかん須賀視点で見てた部分があったことぐらいか。個人的にはなかなか楽しめたし、今の時代に合ってるなぁと思ったし、「君の名は。」のようにわりと人におススメしやすいかなと思った。最後の展開は賛否両論なんだろうけど。
んで、あと3回は見に行きたい(無理だけど)。
3回目は展開をメモしつつ。ディスクが出るまで、メモとサウンドトラックで脳内再生できたらいいのに。
5回目はひたすら目に焼き付けたい。
ちなみに「君の名は。」は12回見た。子どももいなかったし、時間があったのだなぁ。
昔は同じ映画を2回以上見に行く人ってどうしてなんだろう?と思っていたけれど、いまは「まあ、見に行くよね」と思っている。初めて「もう一度見たい!」ってなったのは、「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」でした。3回見た。
「君の名は。」は同人誌作るつもりだったから、よけいにメモとかとりながら見てたね。隣の席の人は「なにこの人」と思ったかな。もう3年前か。子どもいないときのような時間の使い方はできないけど、また同人誌作りたい気持ちはあるので、ネタ帳は作っておこうと思っている。
長いことやってる人(5~10年くらい、又はそれ以上)のブコメ欄がときどきすごい辛辣なコメントが飛び交うのは
はてな界隈の中で流通している交友関係が分からない人間としては不思議でしょうがない。
理知的なブコメが多いな、と思ってるブクマカでも、特定の古参ブロガー相手になるととにかく口を極めて罵るのにはギャップを感じる。
ある程度読み進めるうちに「なるほどこれはダメなブロガーなのかも」というふうになんとなく察することが出来ることもある。
(青二才と呼ばれてる人なんかはそう思った。それでも一部のブクマカはちょっと酷く言いすぎじゃないかなぁ、とは今もかすかに感じている)
けど多くの場合
「ちょっと叩きすぎじゃないのか」
って戸惑う。
何らかの遺恨あってこそそういう罵倒が飛び交うのだろうけれども。
その遺恨の元になって事件や記事が、どういうものだったのか見当もつかない。ごく稀に掘り進めるうちに「なるほどこれが震源地か」って納得するクソエントリを見つけることもあるけど
だから「何でこんな酷いセリフを吐くのか?」というモヤっとした感じだけが引っかかり続けて精神的に大変よろしくない。
たまに過去のはてなであった出来事をまとめてる記事なども見かけるが、それらの多くは「当時の大スターだった人々や大事件の記録」であり
いまは古参みたいなツラをしてるけど当時はペーペーだった、今もはてな界隈に残っているベテラン、の起こした様々事件までは網羅していない。
俺にとって、もはや退場した過去の大スターの起こした抗争・事件はどうでもいい。
村の中では中堅~あるいはそれ以下だったけど、いまやはてなの長老然として残っている人たちの間に繰り広げられた(当時は大して価値のなかった)瑣末な遺恨のあらましが知りたいのだ。
自分もはてなブログを始めてまもない新参だけど、このはてなという界隈は不思議な感じがする。
横の繋がりが異常に強いという雰囲気を感じる。
ブロガー同士の抗争みたいなのは他所でもたまに見るが、それは1対1、あるいは1対1の体裁を採りつつ有象無象のコメント欄の匿名ファンネルや腐れツイッターフォロワーの抗争で
はてな村のようにブロガー複数と対峙するブロガー個人(あるいは複数)という抗争はあまり見覚えがないので新鮮。
思想傾向や発言履歴を追いかけることのできるはてなブックマーカーという脇役の存在も大きい。
この辺の人間模様は、増田やはてなに慣れた人にはどうでもいい日常なのかもしれないが、ゴシップを覗き見するようでとてもスリリングだ。
このやたらと濃いコミュニケーションの軌跡を出来るかぎり知りたい、そう思っている。
特撮は知らないが仮面ライダーディケイドという作品がどうもそういうような作品だと聞いてる。
同じ人物ではないけどその世界における仮面ライダー達(昭和だと同一世界の別人の仮面ライダーが多かった気がするが)
デビルマン:不動明に乗り移ったアモンが主人公のアニメ版、アモンを宿して戦う不動明が主人公の漫画版、取り込まれたアモンの方があとで目覚めた「AMON デビルマン黙示録」、デビルマンレディー、実写映画版、ネトフリ版、デビルマンG(グリモワール)
マジンガーZ:兜博士の人格がそれぞれ違う漫画版とアニメ版、リメイクの衝撃Z編、マジンガーを含めたロボットを擬人化・美少女化したロボットガール
ループ物として漫画版やアニメ版の差異なども作品内に落とし込しばしばロボットアニメの始祖として呼ばれるマジンガーZとそれ以降まで含めた真マジンガーZERO、おそらくZEROを踏まえて作られたインフィニティ
あのなあ、聖書の「最も原本」って何?本文批評とか二資料仮説(これは黙示録とは関係ないが)とか聞いたこともないんだろうと思うけど、原本がどこかにぽん、とあるような代物じゃないんだよ、聖書は。手による筆写に筆写を重ねた代物で、その原典なんて研究者の中でも誰も見たことがないんだ。その中で、どのようにして少しでもオリジナルに近い文を探すか……ということの為に多くの研究者が膨大な時間と手間をかけて検討を続けているわけよ。
あと聖書の英語訳だ日本語訳だ言ってるけど、何種類あるのか知ってるの?どれの話をしているわけ?英語だけでも欽定訳から新世界訳聖書(まっとうなクリスチャンから見たらクソだけどな)までたくさんあるし、皆カラーが違う。日本語だって去年新しい共同訳聖書が出たばかりで、それ以前の文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳、他にも新世界訳(まっとうなクリスチャンから見たらクソだけどな)、フランシスコ会訳とか、なんぼもあるんだよ。