はてなキーワード: 社交辞令とは
都内某所。同性2人のペアで参加。参加人数は男女計300人。
対象店舗は6店舗で、最初1店舗目・2店舗目は指定であとは好きなお店にいける。
同性2人のペアで参加。常に2対2のペアリングで座ることになるし、席替えもある。
8~12人くらいの異性と知り合える。
カンタンニヤレソウデスネ!
女は3Hで@4000円だったので安い値段で食べ飲み放題目的(+興味本位)で行ったが、
そこについては、食べ物が出れば人が殺到で並ぶ&すぐ無くなる・後半の店舗フリーの時間にはお店に入るのも待ちになる...残念な感じでした。
男性は高いから(@7000円くらい?)、みんな出会い目的なんだろう。
連絡先交換はラインなので、最低でもペアの1人はラインが入ってないとまごつくだろう。
逆に言えば、ライン交換なので気に入らなければブロックできるので安全かも。
③イケメンもいる
逆に女性は、ふわふわした感じの人が多かったから、黒髪の人なんかはいい意味で目立ってたとおもう。
④アフターフォローがめんどくさい
ほとんどが終了時間後に「これから二次会行きませんか?」だけど。
翌日以降も雑談やらずっと語尾に質問文章を飛ばしてくる人もいて、
○総評
行ってみたけど、いろいろな人がいて面白かったです。
自分は出会ったばかりのひとと恋愛しようとは思えなかったけど、
人それぞれなんだろう、行ってみないとわからない。
適当にFOしよう…
自分は社会生活に必要ななにかしらの素質みたいのが欠如してるから、ぼっちは本当に楽でいい。
なにかしらの集団に所属してると、大抵の場合その団体の規律とか全体の向かう方向性みたいなものがある。
もちろんこれは社会人になったら絶対に必要なものなのだと思う。
だけれど、とにかくそういうのが面倒くさくて、大学生のうちは集団に所属しようとは思わなかった。
自分のしたいことをしたかったし、自分のしたくないことはしたくなかった。
集団の規律は、個人のしたいしたくないといった意思を無視して、統制をとるためのシステムだし
そういうものに逐一とらわれるのは非常に不満だった。
それに、そもそも一番の感心事は他の人ではなくて、自分そのものだ。
他の人がどうしたとか、どうなったとかそんなことはどうでもよくて、自分がなにをしたいか何を考えているかが一番重要だ。
自分は一時期、音楽系サークルに所属していたが、非常に飲み会が不満だった。
酒ばかりだして飯がほとんどでない安っぽい飲み屋に毎回お金を払わされるのが不満だった。
ライヴはたのしいが、飲み会はつまらない(そして、つまらないほうにお金を払わされるという最高の不愉快)
そこでライヴだけ参加して飲み会に毎回欠席していると、語らいの場には来いという指令がだされた。
何が語らいの場だ。酒ばっかりのんでなんにも考えてないくせに。アル中になって死んじまえ。
そしてサークルをやめた。自分のしたいことを強制されるような集団に所属するつもりはない。
だれにもなににも従う必要はないし、自分のしたいことをすきなだけすればいい。
社交辞令的に友達とかと遊びに行く必要はないし、先輩に媚びる必要もない(たいていはクズだ)
自分のしたいことをすればいいし、自分のしたくないことはしなくていい。
すばらしいではないか!
ところで、こんな生活をしばらく続けていれば、いつのまにか少し友達もできる。
サークルのやつらは牛の糞みたいなやつらばかりだったが
学科や、そのほかの交流でできた友人は比較的いいやつだったし、個人的にも興味が持てた。
集団に所属するのではなくて、自分から少しづつ関わりをみたいなものを作っていくほうがいい。
そして、最終的には自分で自分の納得のいく集団をつくればいい。
ダメなぼっちは、永遠に自分の中だけで生き方を完結させている。それではだめだ。
twitterで自分より上手い奴が下手だって言ってると励ましリプより殴りたいってRT見たけど
そもそも自分のことを下手だって呟いてる奴にも色々居ると思うんだわ
自分が今まで見てきた書き手にもこれだけ居るのだから、もっと色んな奴が居るに違いない。
上記のようなやっかみを買うのが面倒くさいから言わないだけで、大抵の書き手は下手だ未熟だと悩みながら努力してるだろうよ。
何か仕事でトラブルやミスがあった時によく使うダメな管理職あるいは指導者あるいは先輩の責任転嫁の逃げ口上。
その① 【言ったでしょ?言ったよね?】
これを高圧的態度で言う人を見ると、
「ああ、こいつ馬鹿なんだな。」
とよく思う。
私はちゃんと言ったし、ちゃんと説明したし、それなのに言った通りのことをしなかったお前が悪い。
だから私は悪くない。
悪いのは全部お前。
この思考に欠けているのは、
アフォ管理者が言った内容がお粗末すぎて相手にちゃんと伝え理解させられれていなかっただけ
自分の保身のためだけに相手に責任転嫁して自分だけは安全な場所に逃げようという腐った根性が如実。
その② 【気をつけて】
「今度からは気をつけるように。」
「私は気をつけるように言った。
言ったのに不具合をまた起こしたお前らのせい。」
こういう心の中がよく透けて見える。
「気をつけて」
便利な言葉だ。
本当に不具合を今後無くしたいのならば、
それを今後起こさないための具体的な改善した作業方法の指示をだすべき。
その③ 【頑張って。頑張ろう。】
これを何か大きな集まりで挨拶の常套句的に使うのは社交辞令的なものなので問題はない。
しかし、実際の業務の中で一つの指示として発言するのはアフォだ。
従業員は当たり前のように皆頑張っている。
それでも会社の業績が芳しくない時、
具体的な指示だ。
頑張ろうという意気込みは既にみんな持っている。
そこに更に頑張ろうと言っても意味は無い。
「どう頑張るか」
それを指示できない知恵のない管理者はただの木偶の坊。
お前の知らない所で他の人達同士は日程調整してるよ。
お互い様じゃん。
お前が自分からそういうこと一切しないから、周りの人もお前はそういうのしたくないんだな、と思って一切しないんだろ?
そういう場では社交辞令とかっていうより、なんとなくでみんないうし、お互いなんとなく合えば実際調整しようとするだけ。
お前のその場での反応も嫌な感じなんだろ。お前の言い方だと自分からは言ってないみたいだし、周りから見たらお前はそういうの嫌いなんだな、って見られてるだけ。
忘年会、新年会、普段会わない人と再会する機会が多くなる時期。
会も終わる頃、別れ際になると、決まりきって、「また近々会おう」と言ってくる。
本当に会う気があるなら日程調整をするだろう。日程調整なしに会うことはない。
こう言う人に限って、その後、会った試しがない。
社交辞令といえばそれまでだろう。
でも、この社交辞令は後味が悪くて好きになれない。
自分にとって「会おう」というのは”約束”で、約束した以上、実行しないと気持ちが悪い。
とは言え、こちらから会いたいと思い日程調整するほど会いたくもない。
自分は、本当に会いたければ、「会おう」と言い、日程調整も軽くする。
会う気もないのに、よく「また会おう」なんて言えるな、と思う。
師走ってことで、アポなしでひっきりなしに来客があって、仕事が中断されまくってた。
用件は年末ご挨拶ってんで「今年はお世話になりました、来年もよろしく」とかの社交辞令で、誰が使うかわかりゃしないダサいカレンダーとか置いてくだけ。
時間にして数分から10分程度なんだけど、自分の仕事がブチブチ途切れてしまう。
普段顔も見せない「偉い人」も来たりして、「来年もよろしくお願いしますよ、ハッハッハ」とかいってんの。
普段やりとりもしてないから、別に話すことなどないし、適当に「今年は寒いですね、お正月あたりは天気の方は大丈夫でしょうかねえ」とかどうでもいい話するしかない。何この時間?
あげく、一緒に連れてきた新入社員に「これが日本社会の習慣なんだぞ、しっかり押さえておけよ」とかドヤってるし。
師走は忙しいって、そんなバカな行脚して時間つぶしてたらそりゃ忙しいよね。
「あの人年末挨拶にこなかった、無礼者め」とか思わないから。絶対。
ていうか、普段からちゃんとコミュニケーション取れてるなら、そんなことにこだわらない。
わかりやすく私の考えを説明するために、皮肉の反対の側から考えてみましょう。皮肉の反対、皮肉屋反対派とは「悪口反対」派のことで、つまり「賛美正義」ひいては「社交辞令」に辿り着きます。するとこの性質上自分の口から誰かを叩くことは主義に反し、じゃあ何を武器に戦うかというと「何も言わない」、平和主義的な考えを信念として持つようになります。しかしやはり人間ですから、現実なかなかそう上手くもいきません。これはチョット理想主義的と言わざるを得ません。何日も続けているとさすがに嫌になっていきます。けれどもまあ人間というものは良く出来ており、アイデアが浮かんだら即座にメモする小説家志望みたいなのや自称思想家なんかでなければ自分の考えなどすぐに忘れてしまい、結果普段の元気を取り戻すようになります。しかしながら、明日になれば「あなた」という皮肉屋はまたひょっこりやってきます。そして皮肉屋反対派はまた負の一連を繰り返すわけであります。ちょっと気が緩んで皮肉屋の皮肉を言ってしまったらそれはミイラ取りがミイラになるようなもので、そういう様子を見かけたら是非握手でもするのがいいでしょう。彼はあなたと同じことをやっているわけですから。このようにあなたは日頃の鬱憤を吐き出すことで毎日せいせいとした日々を送れ、さらに周りは平和主義者なので誰も尖ることなく、あなたは自然と人生が楽しくなっていくわけであります。そうして平和主義者の方はどんどん現実との乖離に苦しみ、やがて神経衰弱になるのがオチでしょう。
あなたの皮肉に賛同するものが現れればなおよろしい。あなたは志を同じくする友を得、さらに楽しさ二倍・悲しさ半分という例の法則で愉快さは倍増です。皮肉というものはどんなものであれ言ってて楽しいものでありますから、別に良心を痛める必要などないです。そういう善行は釈迦とキリストにでもまかせておきましょう。皮肉を否定するのが一番いけない。ブラック・ジョークというものがあるように、皮肉はユーモアとも切っても切れない関係にあるのです。さて、懇切苦心したつもりではありますが、以上の私の拙文に、皮肉的ユーモアが十分含まれていればいいのですが。
877 :ソーゾー君:2013/12/14(土) 15:45:14 ID:yRNwt8mc
オリンピックで秘密保全法案=原発再稼働、自民党、日本政府の障害になる情報や発言禁止法案を正当化
それではまだ足らぬとデモを煽る・・だけど集まる面子も規模も何時も同じ・・カルト信者ばかり・・
その怒りを憤りをこの掲示板でぶちまけるのはやめてよ?w
目的もわからん・・何がしたいのかも解らん・・何故やらなければならないのかも説明できない・・
そりゃ大切な休日を捨ててまで参加しないわな・・たまたまデモやってたから参加しては見たものの・・
あのクソブログと同じようなカルト丸出しの中身スカスカの社交辞令が交わされる・・
「結局コイツ等は集まってデモをして何がやりたいんだ?デモをする事が目的なのか?」と疑問を持たれて
次は不参加になるわな・・
目的は明確にしないと暴徒になるよ?ゲイのレインボーパレードと勘違いされるぞ?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/l50
「Perfumneのコンサートに行ってきた」エントリーを見た。
ブコメも好意的でなので拝見したが、宝塚ファンが見たPerfumeのコンサートといいながら、宝塚のDisりが酷すぎると思った。
「私たちはお芝居の間中背もたれから背を浮かすことすら禁止されている。」コンサートとの比較らしいが、宝塚ファンでない一般の人ならば、奇異に移るかも知れないしきたりを平気な顔をして書くことに違和感を覚えた。
私は宝塚もPerfumeも詳しくないのだが、宝塚はマナー重視のファン活動らしいのでこんな事は宝塚ファンならはこんな浮いた様な文章は書かないだろう。
また、「ファンが大事」という言葉を「はいはい、社交辞令ですね」と思うとは、愛情が無さ過ぎる。
と言うか、関心もないのだろう。
このあたりは、本人も気にして追記でごまかしているが、分かる人には分かるわざとらしい言い訳。後の祭りである。
また、いかにもコンサートが初めてと言う部分を強調したいのか、「そうか、コンサートは動く!」だの、「上手下手ではなく塁・そうかここは球場か!」(後者はあるかも知れないが・・・)とかの発言があるが、
なんかよくデートで前の彼氏と行った事がある場所に「私、ここ初めて」と言っている様な感じの文章を少しおバカにしてリアリティを出しているのだろう。
なるほど、釣り文章としてはうまくできているつもりなんだろうが、わざとらしすぎる文章にあきれた。
また、コンサートの描写ではPerfumeの存在にのめり込んでいる所だけ感じてしまう変な文章であった。
Perfumeの大ファンであり、Perfumeが好き過ぎて宝塚をスパイスにPerfumeをベタ褒めしたい。
一部不快だと思われているブコメの方もいるのに堂々と追記しているその姿に悪質さと気持ち悪さを感じた。
Perfumeファンってみんなこんな感じなのか?
試してみようと思う。
もしこのエントリーがブコメされなかったら、Perfumeファンは最低だと判断する。わざとスルーしている可能性が高いから。
お友だちに誘われて、前日まで行く予定にしていなかったのに急遽行くことになった。
こちらオリコンチャートにのるような音楽には全く詳しくない宝塚オタク。音楽番組は紅白を家族が観ていたら観る程度。Perfumeはもちろん知っている。好きな曲もある。だから、物は試しにと行ってみた。
ちなみにコンサートなるものに行くのは高校生の時親に連れられて以来という、まぁ、なんていうか、私の人生から縁遠いものだ。
「どんな服でいったらいい?」「動きやすい服でいいよ」
そうか、コンサートとは動くのか。普段は宝塚しかみない私はその時点で新鮮だった。私たちはお芝居の間中背もたれから背を浮かすことすら禁止されている。後ろの人もちゃんと楽しく観劇するための当然のマナーである。
何を持っていけばよく分からないからとりあえず、普段宝塚を観劇するために持っている倍率10倍のオペラグラスを持っていく。
京セラドームでたった倍率10倍がどこまでの効果を発揮するとか、私は知らない。そもそも京セラドームの広さを私は知らない。
貰ったチケットには@塁と書かれていてそれに驚く。塁!そうだ!!ここは野球場だったのだ!!!という新鮮な驚き。
上手下手ではないらしい。一つ賢くなった。
そして席に着く。なんとか手持ちの10倍オペラが有効に使えそうな距離だった。近い。と思った。ちなみに宝塚なら劇場からはみ出てる程度の距離感ではある。それでも、なんだか近かった。
コンサートの前にチョコラBBのCMが画面に流れそれに手拍子で応える観客。私はこんなに熱いCM鑑賞を初めて見た。私も手拍子しておく。
コンサートの内容についてはどこまで話していいか全くわからないし、曲名も知らないままのものが多かったので割愛。
3人しかいないのにお衣装チェンジとかどうするんだろう、宝塚みたいに着替えている間に違う人が場を埋めてくれるとかできないよな、とか真剣に悩んでいたけど、すごくうまいことなってた。凄い!!っていうかなんでも宝塚基準で考えるのやめよう自分。それ、狭い世界の話だから。
良く知らないけれど、それでもその場の空気に適当に乗ることにためらいがない私はずっと手拍子したり手を振ったりキャーって言ってみたりして、凄く楽しかった。同じアホなら踊らにゃ損損。
楽しかった!!かしゆかもあーちゃんものっちもみんな可愛かった!!本当にお人形さんが動いている。
この会場の大きさに対しあーちゃんもかしゆかものっちもとにかく小さいなと思った。別に本人が無力とかそういうことじゃない。本当なら一人5メートルくらい必要だと思う。それでも足りないかもしれない。
3人だけの力じゃなくて、映像や音響の力もあっただろうけど、たった3人でこのおっきな会場を埋めて、満たしていたPerfumeは本当に凄い。
大きなスクリーンでは踊る3人の表情が観れる。それでも、表情も確認できない、オペラをつかってなおバービー人形のようにしか見えない3人を観ている時間が長かった。必死に踊っている3人はとても近くて、遠かった。
凄いなって思った。
そして、何よりこの3人はとてもファンのことを思ってくれてるなと凄く感じた。
宝塚の舞台でもジェンヌさんはよく「ファンが大事」と言ってくれる。でも、ファンとして信じきれない時がある。
だけど、3人のコンサートは、私が本当のファンではないちょっと離れた距離から観てたからかもしれないけれど「こんな大きなドームをたった3人で埋めてしまえるほど凄い子たちにとっても、ファン一人一人は大事な存在なんだな」と本当に随所から伝わってきた。
もうちょっと、自分の大好きな宝塚のジェンヌさんたちの「ファンが大事」という言葉を「はいはい、社交辞令ですね」とか思わずに受け止めようってちょっと反省した。
ライブ、凄く楽しかったのです。言いたいことはいっぱいあって、連れて行ってくれた友人にもありがとうって凄く言いたいし、他にも書きたいことはたくさんあるけれどどこまで書いていいのか分からないからこんな適当な感想になってしまった。でも、面白かったことを誰かに伝えたいからここに書いておきます。
こんなにも反響があると思っていなくて少し驚いています。読んでくださってありがとう。そしてPerfume愛されてるなぁ!!!
一応言い訳なんだけど、ジェンヌさんたちの「ファンが大事」という言葉が本心でないとは思ってないよ。みなさん、心底言ってくれていることは本当は知っていて。
ただ、中にいすぎて外からその姿がどう見えてるかわからなくて、(すでにのめりこんでいるというのに)のめりこむのも怖くて「はいはい、社交辞令ですね」と受け流してしまうのだと思う。もちろん、Perfumeの3人とタカラジェンヌではファンとの距離とか思いの返し方は全く違うので比べるだけ無駄なのかもしれないけど。
タカラジェンヌだっていろんな人がいて、いろんな返し方をしてくれているし。
でも、そういう物事をベタに受け止められなくなっている自分に気付かされたライブでもあったのです。もうちょっと、ベタに受け取った方がいいなという反省。
宝塚も独特だけどとても面白い世界なので興味を持ったらお近くのヅカヲタまで声をかけてみて下さい。すごい勢いで宝塚の世界に案内してくれると思います(笑)
15歳で私立の女子校に入学して、18歳で上京して大学に入学、22歳で都内の企業に就職した。
環境が変わるのとほぼ同じ頻度で彼氏が変わって、社会人になってからは3人と付き合った。
今の旦那は6人目の彼氏だけど、その6人を時系列に並べると、ステータスも外見も人間性も確実にステップアップしていて、自分でも感心する。
華やかに見られがちな今の職場は、スキルのある女性が活躍できる環境。美人で社交的な同僚が多い。
1年付き合った彼氏と26歳で結婚したときは、独身の先輩女性から「早いね」と驚かれた。
その度に、結婚願望はなかったふりをして「私も早まったと思います」と笑いながら、「結婚しなければならない状況に至った」経緯と結婚生活の不満を適当に言うことにしている。
結婚なんて本望じゃなかった、今の生活には不満ばかりと知って相手は我が意を得たりと納得する。
なのに、酔うと「彼氏に結婚する気がない」とか「いい人がいない」とか、同じような話ばっかりする。
30代で未婚の同僚女性は、仕事に夢中でキャリアを積んでいるうちに、または「私にはもっといい人がいる」と余裕こいているうちに婚期を逃した人ばかり。
私はそんな独身女性たちに比べて、仕事のスキルも容姿も正直劣っていると思う。
その分自分を過信せずに、冷静に状況と時期を判断して、今の結婚生活を手に入れた。
女性としてのステータスになる肩書きのせいで少しはちやほやされたけど、それに惑わされて結婚を先延ばしにしなくてよかった。
30代で結婚できていない先輩たちを見ていてそう思う。
女性が輝きながら働けて仕事で自己実現できるって恵まれてるように見えるけど、
スキルもあって美人で、かつ女性として普通に結婚・出産したいという願望もある人には逆に不幸な環境なのかもね。
キャリアを追求するならすればいいし、結婚したくないならそれで自己完結してればいい。
自分と違う道を手に入れた私を失敗例にすることでしか、自分の選んだ道が正しいことを確認できないのはなんかみっともない。
「結婚なんてするもんじゃないよね」という話を聞きたい人向けの苦労話のストックはたくさんある。
と尋ねられたので、
と答えた。
模範回答は「挨拶することは良いこと(倫理的)だから」だろう。
しかしこれは建前であって実際は違う。
また、「なぜ良いことなのか?」という質問を反復しているだけで回答にもなっていない。
就活生や新入社員は、挨拶を含むマナーや礼節を身体に叩きこむわけだが、中には「そうした振る舞いが倫理的に求められるから」とベタに信じている人もいるだろう。
しかし、社交辞令は倫理と関係ないばかりか、時に倫理と対立する。
目的達成のために相手をヨイショしたり、へりくだったりすることはいくらだってある。
どうも昨日のエントリでこれ【「会話ベタ」を治すので、2分だけ僕に時間を下さい。】書いたものです。
そのエントリの冒頭で、共感なんてクソくらえみたいなことを書いたのですが、今日はそれについて。昔は僕もめっちゃ会話が苦手で、自分のことコミュ障だと思ってたし、悔しくてよく自己啓発本てか会話本とかを読んでいました。勉強(笑)してました。wそこに必ず出てくるのが、「相手の話に共感しよう」というフレーズ。お!なるほど!と思いもちろん意識はします。
俺「うん、うんそうだよな!俺もそう思う!思う。思ぅ…(リスカしょ..)」
…でも、会話が続かない。
なぜなら、俺は指◯が好きじゃないからだ。なんで好きでもない◯原を好きだと言わねばならないのか…。でもここで気がついたことがある。それは、本来「俺もそう思う」必要なんてないということ。ここが、会話ベタな人が陥りがちな罠だと思う。
本来、共感なんて「出来たらするもの」だ。相手の感じ方・意見が自分と一致「した」時にするもの。自分と相手のそれが合わない時に、でも無理やり合わせてそれをするのは単なる「同調」であり迎合。共感って相手の感じ方・意見と自分のそれとを一致「させて」、自分のそれをねじ曲げてするものではない。
だから、昨日あんなことを書いた。自分の心には嘘をついちゃいけない、じゃないと自分がなくなってしまう(というよりどうしたら自分が出るんだろう)…と思って自己主張がしやすい話し方、人に媚びない話し方(マインド)をずっと模索していて、今俺がとりあえず辿り着いたベターな方法だから。たえずああやって相手を傷つけない・尊重する形で場を楽しみつつ自己主張してみる。小出しにしつつ。共感はした時に表す。顔をひきつらせてまで無理にしない。…で、それを繰り返してるうちに色々考えられるように、自分の意見を持てるようになってくる。そこに関して、俺も本当にまだまだだけど。
そして、普段はノリを出せばいいけど、逆に真面目な話とかの時はトーンを落として、ノリを消せばいい。そしたら、余計に「言葉だけ」が相手に伝わるから。(もちろん「落としたトーン」というニュアンスが含まれるんだけどね。)
…ただ、こんなことを言っておきながら、相手のため・場のために共感「する」というのは有効だとは思うよ。テクニックとしての共感とでもいうか。ただ、可愛くもない◯◯を可愛いー!!なんて言えるのはお世辞・社交辞令をさらりと言える人だけ。これも必要なスキルではあるけど。
でもここで、勘違いしないでほしいのが、特に女のいう「可愛いー」がいつもいつもこれをしてるからというわけではないということ。そこには感受性の違いがある。自分の感受性で人のそれを推し量るのはやめた方がいい。同じだと思わない方がいい。感受性の違いって簡単にいえば、「笑いのツボ」みたいなもんだ。浅い奴は何を言っても笑う。本当に面白がって。そういうこと。
更に、言葉にするから表情にするからその感情が換気されるという側面もある。だから、とりあえず大げさに笑ったり、ウケるwとか言ってみるといいよ。こういうのリア充・DQNの話し方とか思って敬遠しちゃう人は、外国人をイメージしてみるといい。そして、感受性を高める努力は絶対に大切。笑う、運動する、映画とか見る、知識を得る、人と話す、話してるのを見る・聞く・それを真似るとか。とりあえずこうなりたいなって人がいたら、その人の言葉(の調子、昨日で言うニュアンスでの相槌、感情の込め方)とかを真似してみるといいかも。
そして、下ネタ言っても許されるキャラになれるくらいまで、ニュアンスを操れるようになれば、多分その時はそこまで自分のこと会話ベタっては思わなくなってるよ。無理無理…っていうじゃん? でも下ネタってただ言葉にしたらキモいんだよな。そこをどうキモくなく、楽しく伝えられるのか、そういうニュアンス込められるのかっていうのは、試金石であり研磨石だと思う。
中身の無い人間が、服装だけ着飾ったってすぐにボロが出る。
口ばかり達者な人間は、長く接していると矛盾が見えてくる。そして信頼を失う。
技術だけの人間は、社会に出ても美味しい汁を吸われて安く使われるのがオチだ。
心優しい人間は、言葉や行動を伴わなければ存在しないのと変わらない。
躰たくましい人間は、それを生かす方法を見つけられなければ無意味だ。使い方を間違えたら害にもなる。
努力している人間は、その成果について常に確認しないと努力の意味がない。努力の行為そのものに満足していたら最悪だ。
「着飾ったって意味がない」とか「口達者は信用できん」とか、特徴の一点を否定するような言い分は詭弁だ。
「努力にこそ価値がある」とか「心だけは優しくあれ」とか、特徴の一点だけを肯定するような言い分も足りない。
中身が伴わなくたって、口達者でおしゃれな人間はきっとモテる。
心が冷たくても、躰たくましく頭も回る人間は、文武両道としてきっと一目おかれる。
ダサい恰好してるけど、技術がありさらに努力している人間は、たぶんナメられない。
いくつもいくつもパラメータが積み重なって人間の性質が出来上がるわけで。
ひとつひとつの特徴だけを否定したり肯定するようなことは、論理として足りない。
その行為自体に満足するなんでもっての外だ。
努力は、その結果として何かの成果を出して、それが人に認められなければ無価値だ。努力は手段でしか無いんだよ。
もし貴方が何かに努力しているとして、その姿についてきっと周りは称賛の言葉を投げてくれるだろう。
しかしそれは貴方が挙げた成果への承認ではない。しかし社交辞令でもない。彼らは割と本気で貴方を称賛してくれている。
それは何に対する称賛か。
それは「未来に発生するかもしれない成果に向かう貴方の姿」への称賛だ。承認ではなく応援なのだ。期待なのだ。
もしこの称賛に満足してしまったらどうなるか。
満足は人の足を止める。そこで未来予想図は砕ける。それは彼らの応援に対する裏切りだ。
応援は応援として受け止め、それを「承認として曲解し、足を止めるようなこと」は絶対に避け、
彼らの声に応えたいならば足を留めずに進んでいこう。
ある時点で何か諦めるのも別に悪いことじゃない。それはそれで選択だろう。
それは別の何かの可能性の始まりになる。
でも、何かを辞める理由を「十分努力したから。努力という目的は達成したから」みたいな歪んだ理由として自分を騙すのは、ダメ、絶対ダメ。努力は手段なんだよ。「努力に満足する」なんていう動詞は在っちゃいけない。そんな辞め方したらその先もまた同じような失態を繰り返す。
為末 大 @daijapan
成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う。アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提。
私はこの発言を大肯定する。
これはおそらく現実だ。
でもね、この発言を引用して、「じゃあ才能ないけど努力してる俺の努力は無駄なのかよ」みたいな論調で否定するような行為は愚かだからやめたほうが良い。
才能があるかどうかなんて完全には分からないし、才能がもし足りなくても努力で補える可能性が1%くらい残ってる。そういうところにしがみつくのが本来の努力だと思うのよ。そんな意地も持てずに、彼の発言を理由に自分の努力を無駄扱いするような言動はとても恥ずかしい行為に見える。もっとプライドを持とう。
他人とうまく人間関係を築けない奴はダメ人間、人間のクズらしい。
正直、他人が怖い。
誰も本音で話してくれない。
裏で何を考えているのか解らない。
「自分は○○だと思う」と言うとみんな「そうだね」「いいね」と言ってくれる。
けど後から聞いたら聞こえないところでは「あれは違う」「ないわー」等言われているらしい。
一番身近な例だと、面白そうなコンセプト居酒屋を見つけた。ここ行きたいという話をする。
じゃあいつ行く?と聞くと黙る。
いや、解ってるよ。実は行きたくなかったって事は。
行く気が無いのに乗ってくるのがすごい面倒。
最初から「抵抗ある」って言ってくれればそれ以上話を振らないのに、社交辞令でなんでもかんでも同意されるから、どこからどこまでが社交辞令でどれが本心なのか分からない。
(補足するけど常に断られるわけじゃない。だから嫌われてるのかそうじゃないのかの判断もしかねている。)
この間なんか飲み会に行こうって話してたのに、具体的な日程調整してたた突然「釣りだった?」って聞かれて断られた。
正直意味がわからないけど、消極的な態度に思われたのかもしれない。ああめんどくさい。
逆に、脱出ゲーム行きたいという話が出た時は誰も乗らなかった。
みんな興味なしかと思ってたら数日後に「脱出ゲームどうなったの?なんで行かないの」と責められる。
ついでに「脱出ゲーム行きたいから企画立ててよ」と丸投げされる、けど実際に企画立てたら誰も乗ってこないというね。ふざけんな。
とりあえず本気かどうかのジャブを入れたりしてみるけど、探りながら「何で自分こんな事してるんだろう」って思う。
飲み会や遊びってこんな細心の注意を払うような苦労するものだっけ?
一緒に行ったら行ったで必死に話を盛り上げたり、相手に嫌な印象を与えないようにしないといけないし
本当に疲れる。
辛いしんどい。
楽しく思えない。
結局一人が気楽でいいやって事になってどんどん一人行動が増えて行くんだけど、そうしたらこの間「他人と居るのが嫌な人だと思ってた」って言われた。
いや、他人と楽しく遊びたいよ。
なんか、他人が「接客中のお客さま」みたいな感じになっちゃうんだよね。
かといって気を使わないで普通にしてたら「つまんない奴」って言われて見放されるし。実際されたし。
いつからこんな感覚になってしまったのか解らない。学生の時は平気だったし、知らない人にも普通に話しかけに行くタイプだったのに
今は他人が心底めんどくさい。
一方で、できれば治したい。普通に接したい。そう思うから話しかけるけど、結果はやっぱりめんどくさい。
もうどんどん他人との接し方が分からなくなって、どんどん他人と離れて行って、そのたびによりクズになってる気がする。
何でこうなったんだろうなぁ、本当に。
凄いシンプルに言えば、彼氏 または 彼女がいる人間が 第3者と食事をして
デートのあとにまた誘ってくださいね。というのを社交辞令と考える人間と
この両者がぶつかるとトラブルが起きる。
きっぱり断ないしやんわり断ってくれれば、すっきりご飯ごちそうしてよかった。と思う人間もいるんだ。
誘われたときは、言い難かったかと。そこは男が譲歩してもいい。
彼氏彼女がいるのに、次もを匂わせる表現を社交辞令でもするから、ものすごく傷つくんだ。
彼氏がいるから誘われるのは、それとなく 迷惑かなーという風にしてくれれば、キズつかない。それは、多くの女子に知ってほしい。
そうするかどうかは自由だが、そういう方がすっぱりいい気分になれるという男もいるんだ。
そういう風にまたって言わないと、パワハラするおやじがいるのかもしれないが、それは、そのオヤジに言ってくれ。言えないかもしれないが、俺らに文句を言うな。
自分が浮気をする可能性が0%とはいわねーよ。だれだって聖人君子じゃねーよ。そんなことを言ってるわけじゃねーよ。
だからといって、100%OKでもねーよ。