はてなキーワード: 原子とは
ビッグバン→水素、ヘリウム、ベリリウム誕生→星の誕生→核融合、超新星爆発で周期表の元素が出そろう→太陽系、地球の誕生→多原子分子(アミノ酸、リン酸、塩基など)の誕生→rna、dna発生→生物誕生→原核生物→真核生物→多細胞生物→植物、動物発生→脊椎動物→陸に上がる→哺乳類→人間
間違えがあったらすいません。まあおおまかな流れは合ってると思う。
初めは物質の集まりに過ぎなかったのにどこかの時点で意識が生まれ、感情が生まれ、知能が生まれる。人間も原子の集合体にすぎなくて、自分の喜怒哀楽の感情もすべて原子に還元されてしまうのかと考えると恐ろしい。結局観念論は唯物論に敗北したということなのか。
観念は原子の集まりに過ぎないというのは納得できるのだが、その原子論も長い人類の歴史を経て生まれたものであり、近代以降に生まれた新しい思想なのだ(古代にデモクリトスはいたけれど)。
将棋は楽しいボードゲームで、基本的に殴り合いのオフェンスゲームです。仮にチェスがディフェンスのゲームで、お互いに防御の構えを組み換えながら敵側の綻びを見つけ出すゲームだとすれば、将棋は蟻の一穴をこじ開け落城させるオフェンスのゲームと言ってもいいでしょう。
チェスの競技人口が一説には5億人とも言われる中、将棋の競技人口は一千万人程度とガラパゴスの様相を呈していますが、明らかにゲームとしてのバランスではチェスに勝っています。チェスの公式戦においては先手勝率が40%程度、後手勝率が30%、引き分けが30%程度なのに対して、将棋の先手勝率は50%程度、後手勝率は48%、そして引き分け(千日手)の確率は2%前後であり、引き分けの可能性がチェスに対してずっと少なく、そして先手と後手の勝率が拮抗し合っているため将棋はボードゲームとして極めて高い完成度を誇るゲームと言えるのです。
更に付け加えると、ダメ筋(明らかにダメな手)を含めた、ありとあらゆる手の組み合わせ(ありとあらゆる進行の総数)を計算すると、チェスが10の120乗程度なのに対して、将棋は10の220乗程度ということですから、ゲームとしての奥深さも将棋はチェスを上回っています。因みに、宇宙に存在する原子の総数が10の70乗程度ということなので、如何に将棋というゲームが奥深いかは言うべくもありません。つまり、ある部分において将棋というゲームは宇宙それ自体より『深い』のです。
僕は腕前としてはアマチュア初段程度で、つまりアマチュアが目指すべき差し当たっての目標点にいます。やはりアマチュア二段以上を目指すとなるとかなり強烈な努力が必要になってくる印象です。アマチュア初段は将棋を普段嗜んでいる人間の中で、上位25%前後の層を指しているとお考え下さい。
将棋の道は極めて長いです。そして険しいです。詳しくはこの「将棋の名人とはどのくらい強いものなのか:https://ncode.syosetu.com/n5490eb/」という素晴らしい記事をご覧になって頂ければよいかと思います。(この記事の作者様と私は同一人物ではありません)
将棋のプロになるためには奨励会という育成機関を通過する必要があります。この奨励会は入会すると6級からスタートとなるのですが、これはアマチュアで言うところの四段以上の腕前に相当すると言われています。しかも、この奨励会に入会するのは小学生や中学生の少年少女です。つまり大の大人が血の滲むような努力をしてようやく到達できる地点に、ある程度の凝縮された努力によって遥かに短い時間で到達できる人々、つまりは天才たちだけがこのスタートラインに立つことができるということです。
さて、当然奨励会員になったところでプロになったわけではなく、プロになれるのは奨励会三段リーグを突破して四段の資格を得た者だけで、年間に四人しか輩出されない仕組みとなっています。更に、四段になった後もプロとしてのグラデーションが存在しており、そこには才能の差という影がいつまでも付き纏います。
才能のあるプロ、つまりそんな天才の中の天才は、将棋を指す際にどのように思考しているものなのでしょうか?
先に紹介させてもらった記事では、天才達の中でもグラデーションが存在しており、将棋のトップに立てるのは本当に一握りの人間であることが述べられていました。
つまりトッププロとは、仮に将棋人口が1000万人だとすれば上位0.0001%の人間のことです。すなわち、トップの十人、それが実質的な日本のトッププロ達です。
羽生善治、藤井聡太、渡辺明、豊島将之、永瀬拓矢らがそうです。将棋を指す者達は彼らのことを畏怖の目で見つめ、時折プロが招かれるイベントなどで間近に見る際には、化け物や、宇宙人。あるいはこの世の理を超越したものを意味する視線が、彼らには注がれることとなります。
つまりは才能とは一体何なのかという話になるのですが、脳内将棋盤というのがポイントになってきます。
人は、数理的思考能力、つまりIQが140を超えると立体的なイメージをあらゆる角度から検証できるようになるという話があります。人間のある種の知的能力と、立体的な像を脳裏に生み出す能力には深い繋がりがあるということなのです。つまり、才能のある将棋指しは脳の中に将棋盤を作り出すことができ、これによってどんな時でも(つまり実際の将棋盤がなくても)脳裏において将棋の情報を扱うことができるようになるほか、将棋に関する凝縮した思考を連綿と行うことができるようになるということなのです。勿論、プロもこの「脳内将棋盤」を持っており、彼らの脳内将棋盤にはそれぞれのバリエーションがあることも有名です。
以下コピペ。
羽生四冠
「4分割(5×5中央重複)の部分図が高速で行ったり来たり。盤全体は1度には浮かばない、負荷が大きい。盤面は白、線は黒。駒は外形が無く黒の一字彫り。アマ二、三段くらいになった10歳ごろからこんな風。」
森内九段
盤駒のみの思い浮かべる事はほとんど無く背景も付随。対局中は当時の対戦相手や対局場の雰囲気まで再生。普段は自室の背景に板盤。」
「盤は黄色で1一が右上に固定されている全体図で、線は無い。楷書の文字1字だけが駒として自動的に動く。」
渡辺二冠
「ダークグレーの空間に、字の書かれていない黒に近い灰色の駒が浮かんでいるだけだが、どちらのどの駒かは分かる。」
「黒くぼやけた盤面のどこか一部だけが見えている。駒はゴニョゴニョ、あるか無いか分からないまま何かある感じ。」
「盤も背景も黒く、線の無い盤全体に文字の無い黒っぽい駒がモニョモニョ。」
(出典:AERA No.38増大号'12.9.17『天才たちの「脳内パネル」』)
さてトッププロどころかアマチュア4~5段の人々にはこの脳内将棋盤が基本的に備わっていると言われています。つまり、この脳内将棋盤は確かに、ある程度将棋の強さ(棋力)の指標となるのです。しかし、トップの人々に関してその指標がピタリと当てはまるかというと、疑問だと言わざるを得ません。脳内将棋盤というものは将棋の猛者にとって当たり前のアイテムかつ大前提のアイテムであるため、最上位層の人々の能力を測る尺度としては些か信頼性に欠けるということなのです。というか、一応奨励会三段(アマチュアではなくプロ基準の三段)ともなれば、既に常人を超越して人間卒業レベルに至っているので、やはりその中にいる更なる化け物達を推し量るには、脳内将棋盤の有無のみならず別の尺度を用いる必要があります。
つまり、その二者。単なる化け物と、化け物の中の化け物を辨別する際に必要なのは、脳内将棋盤が「ない」ということなのです。
頭の中で将棋盤が無く、視覚的なイメージに頼ることなく思考できる人々が、化け物の中の化け物にはいるということなのです。
「最初の一手……まず、角の斜め前の歩を前に一つ進めるだろ。すると、後手の相手も同じように角の斜め前の歩を一つ進める。だとしたら俺は飛車先の歩を一つ前に突いて、相手も突き返して……横歩取りの筋に合流しそうだ」などなど。
つまり、常人は基本的に画像、目の前にある将棋盤の視覚的なイメージを用いて思考しており、そのイメージを介さずには将棋を指すことができないのです。ある意味では脳内将棋盤の存在も、視覚的な情報に基づいているという点においてはその思考の延長線上にあると言っていいでしょう。そう、人は基本的に将棋を考える際には視覚的なイメージを媒介とするしかないのです。
しかし、プロの一部にはそのような思考法は――視覚的なイメージを介した思考は――あくまで「補助的なものに過ぎない」と証言する者もいます。藤井聡太や増田康宏、羽生善治などがそれらの棋士です。
では彼らはどのように思考しているのでしょうか。
将棋の符号とは、数字と文字によって駒の動きを表したものです。いわば駒の「番地」とも言われるもので、次の記事が参考になると思います。
https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=77758
例えば、少し前に書いた横歩取りの定跡だと以下のような記述になります。76歩、34歩、26歩、84歩、25歩、85歩、78金、32金……。このような記述の仕方は江戸時代以降から共通であり、いわゆる将棋の対戦の記録である「棋譜」は古くは数百年前のものが記されています。古い文献において、盤面は視覚的に、絵図を用いて記述されることはなく、符号を使って記述されているのです。
いちいち絵図で盤面を描き残すよりも、文字で表した方がずっと労力は少ないですからね。
以下の記述はあくまで本人らの証言を参考に記しているものであり、彼らの思考を追体験したものでは当然ないのですが、つまり彼らの思考は以下のものになります。
先程書いた将棋の符号が、将棋に関する思考を始めた瞬間にズラズラズラ~~~っと文字列で浮かぶのです。
「ズラズラズラ~~~っ」って……、と自分の文章表現力の稚拙さに絶望しそうになるのですが、そう言い表すほかない。そう、真のトッププロにおいては、文字によって思考が行われるのです。そこに画像の介在する余地は、僅かにしかない。羽生善治曰く、「思考は基本的に符号で行って、その後、ある程度局面を読み終わった後に、自分の思考を確認するために思考を画像に起こす、という作業はありますが、基本的に画像で思考することはありません」とのことでした。
先に書いた通り、画像で物事を表すというのは、文字列で表すよりも遥かに手間が掛かります。つまり、脳の処理を要します。
となれば、より情報量の少ない符号によって思考するということが、より高速な思考法として適しているということなのです。
ある意味、それは楽譜における音符の存在と似ているでしょう。というか、そのものかもしれません。音楽というものは体系化され楽譜という共有形式を持つ以前は、完全に口伝であり、人々が歌い継ぐことによってしか継承を行うことができませんでした。しかしそれが数学的・音楽的に体系化され、楽譜の形を取ることになると、そのような継承の際に起こり得る障害はほぼ完全に撤廃されることとなります。そしてこれらの音符を読むことで、人々はそのメロディーを脳裏に想起することができるようになりました。将棋の棋士もまた、それと同じ知的処理を行っていると言ってもいいかもしれません。
つまり、ドミソ、の音符が並んでいるのを見て、タララ~、という和音が脳裏に浮かぶのと同じように、将棋のトッププロたちは符号によって将棋の盤面を把握することができるのです。これは、将棋のある程度の才能がある人々には必須の能力ですし、実際に高位のプロ棋士やトップアマチュアは、棋譜を一目見ただけで盤面の進行をまざまざと思い浮かべることができると言われています。
とは言え、そのことと「思考に符号を用いる」ことはやはり一線を画していると言ってもいいでしょう。
勿論、理屈としては分かるのです。我々が音楽を継承する際に楽譜を用いたように、あるいは将棋の対局を語り継ぐために符号によって棋譜を残したように、それらの音符や符号といった記号には意味を圧縮することができ、効率的な情報伝達を行うことができるのだと。
勿論、理屈としては分かります。とは言え、それらの記号を使って後世へと情報を伝達することと、それらの記号を用いた思考を正確に効率的に実践することとは、また別問題です。
というわけで、画像を媒介にした思考と文字列を媒介にした思考とでは、効率において文字列による思考に軍配が上がるということでした。プロ棋士らによる思考の抽象化が極限にまで達すると、本来立体的な駒やそれらの視覚的イメージを用いずして思考することが不可能であったはずのボードゲームも、文字列を介した思考によって再現されてしまう、ということなのでした。実に、これは驚くべき異常性であり、そして、個人的には文化として、そして娯楽として、このような常軌を逸した営みを次代へと継承していかなければならないと感じます。
さて、ところで常軌を逸していると言えば、藤井聡太二冠の名前はもはや語るべくもなく有名ですよね。彼のインタビュー記事は相当数発表されていますから、彼の語る様々な内容について把握している方も多いかも知れません。
その中でも異質のインタビューと言えば、2020年の夏に発表された、小説家白鳥士郎氏によるインタビューでしょう。https://originalnews.nico/139502
――棋士はどなたも『脳内将棋盤』を持っておられます。でも藤井先生は、あまり盤面を思い浮かべておられる感じではないと、以前、記事で拝見したのですが。
「はい」
――では、対局中はどんな感じで考えらおられるのですか? 棋譜で思考している?
「ん……それは、自分でもよくわからないというか。んー…………」
――盤は思い浮かべない?
「まあ、盤は(対局中は)目の前にあるわけですので」
「詰将棋は読みだけなので、盤面を思い浮かべるという感じでは……」
――えっ? ……私のような素人だと、詰将棋を解くときこそ将棋盤を思い浮かべるというか……むしろ手元に盤駒を置いていないと解けないくらいなんですけど……。
将棋のプロの世界は腹の探り合いであり、自らの能力の本質である「思考の方法」について簡単に詳らかにすることは、本来無いことと言ってもいいかもしれません。とは言え、これまで語ったようにそれらをはっきりと述べる棋士の人々がいらっしゃるのもまた事実です。そして、このインタビューにおいて行われた藤井二冠の発言もまた、棋士の思考の一環を覗くことのできる重要な機会であるように思われます。
さて、ここで述べられているのは、そもそも思考する際に「なにもない」ということです。
全くの虚無、というわけではないにせよ、少なくとも目の前に分かりやすい形で示すことのできる思考は、存在しないということなのです。
以下のインタビューで彼は次のように語っています。https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/3394?p=1
彼は基本的にはこれまで述べたように、「符号」を使って思考するのですが。しかしある種の詰将棋などにおいてはそのような符号さえ必要にしないということでした。
このような、実際の目視確認→脳内将棋盤(符号による棋譜理解)→符号による思考→符号さえない思考という構図を単純なステップアップの過程として語ることはできないとは思うのですが、しかし、将棋というゲームについて思考する際に、その思考が極限まで達した人は何かしらの深淵へと、虚無への道を辿っているような、そんな感触を覚えてしまうのは僕だけなのでしょうか。
さて、というわけで、トップ棋士たちの、良い意味での思考の異常性について語りました。現在、12/6午後五時三十分ですが、僕がこの世の隅っこでこの文章を書いている間、世間の大舞台では羽生善治九段と豊島将之竜王二冠のタイトル戦第五局が、行われている最中です。
植物を植えても大気中のCO2(二酸化炭素)は減少しないという説がある。植物は光合成により大気中のCO2を吸収して成長するが、成長が止まればそれ以上にCO2を吸収することはない。そして、植物が枯れたら微生物により分解されて植物を構成する有機物はCO2に分解されて大気中へと排出されることになる。植物は枯れるまでの間は炭素原子を有機物として蓄えているが、枯れた後は微生物により分解されて大気中へとCO2が排出されるので、大気中のCO2総量に変化は生じないということだ。
マクロな観点でも同様なことが言えるだろう。人の手が加わっていない森林は植物が成長したり枯れたりと新陳代謝をしているが、森林が拡大・縮小している訳でなければCO2の吸収量と排出量は等しいので、大気中のCO2濃度に変化を及ぼすことはない。森林を直接ないしは映像で見ると、森林を構成する木や草が大気中のCO2を吸収しO2を排出しているかのように錯覚するが、それは間違いであると理解できるはずだ。
仮に人類が伐採してきた地球上の森林を植樹により全て元に戻すことができたとしても、大気中から吸収できるCO2は、伐採した木材資源の燃焼により排出した分だけである。石油や天然ガスに代表される化石燃料の燃焼によって排出した分のCO2まで吸収することはできないので、大気中のCO2濃度は人類が化石燃料を使用する以前の値まで減らすことは不可能である。
そこで私が提言するのはタイトルの通り木炭を作って埋めることである。CO2を樹木に吸収させることはこれまで人類が行ってきた植樹による環境活動と同様だが、その上に成長した木を伐採して木炭を作ることが既存の植樹活動とは異なる。生成された木炭を燃焼してCO2を排出したら本末転倒なので、木炭は地中に埋めるものとした。植樹した木から木炭を生成して埋設するまでの過程を仮に【木炭埋設法】と呼ぼう。この【木炭埋設法】を繰り返すことにより、理論的には下記の化学反応式の通りに、大気中のCO2は木炭のC(炭素)とO2(酸素)へと分解されることになる。厳密には光合成による反応式と炭化による反応式で説明すべきだが、本質ではないので簡略に述べた(単に著者が詳しくないだけでもある)。
CO2 → C + O2
もちろん木炭を生成するには何らかの熱エネルギーが必要となるので、ここに石油や天然ガスを使用することもまた本末転倒となる。燃料としても植樹によって育成した木を用いるか、電気炉(当然、化石燃料を用いない発電による電力が望ましい)を使用するなどの工夫が必要となる。いずれの方法をとろうとも、最終的には生成した木炭を埋設することになる。
これには様々な反対意見が考えられる。燃料として使用可能な物を埋めるだけなのはもったいないだの、経済的な生産性がゼロもしくはマイナスで不合理だのといった意見があるだろう。環境問題は年単位の短期間で解決できるものではないし経済的合理性を持っているわけでもないから、長期的な観点から問題を解決する視点を養う科学リテラシー教育が必須となるだろう。大気中のCO2削減という大きな問題を解決するには、せいぜい百年程度しかない人間の寿命はあまりにも短いからだ。【木炭埋設法】で埋設した木炭は、石油や天然ガスが枯渇した将来の人類に残す資源だと考えれば投資活動と解釈できるので、長期的な視点で見れば経済的合理性を持つともいえるだろう。
国家でもNGOでも企業でも、CO2排出を削減する為に様々な提言・活動を行ってきたことだろう。植樹以外だと、石油や天然ガスの消費量を削減することや、原子力・水力・風力・太陽光などの代替エネルギーの利用を推進することだったりする。それらの営みはCO2排出削減に大きく寄与してきたことだろう。しかしながら、排出するCO2を削減することはできても、大気中に存在するCO2を削減することにはならないのである。昨年話題になったグレタ・トゥンベリ氏にしても、演説で怒りの表情を露にして世代間対立を煽るという既存の環境活動にない斬新なものだったが、演説以外での活動内容はといえば既存のCO2排出削減の枠組みを超えるものではなかった。
しかし【木炭埋設法】は違う。CO2排出量を削減するだけで、大気中のCO2を削減するという根本的な解決を後伸ばしにしたり無視する様な、これまで人類が行ってきた消極的な環境対策とは大きく異なる。大気中のCO2を減らすという積極的な環境対策のみならず、将来の人類の為に木炭資源を投資するという長期的な経済活動をも含有している。残念ながら短期的な観点では利益を残すどころが損失しか生まない活動なので、企業ではなく国家やNGOによる積極的な賛同を得ることが望ましいところだ。そのための礎として、単に植樹をするだけでは大気中のCO2を削減することにはならないことと、【木炭埋設法】こそが真のCO2削減になるという知識を、これを読んだ皆さん一人一人に伝われば幸いである。
なにに結合しますか
あぁ、ケツな、2万でH ケツとお口ありで まぁ、そういうふうにも解釈できるよな・・・
だんだん血が巡ってきた
何かいてんだ
寝起きのネタおもいついたから、とりあえず、忘れる前にメモだけど
あほすぎた。
2H+O=?
まぁHが書いてあるから便宜上 エロかどうかを聞かないといけないから
と言わざるを得ず
化け学の質問で、水素原子が2言 酸素原子が1個の 化学式の答えはなんですか? という質問で 水分子が応え という質問です
あれ、変な夢 まぁ2万でどうH お口で
いけないんだろうな
たしかに2万円のH O おくちあり とも
そりゃ読める。・・・いや・・・いちおう高校でも習うし、どうかとは思うが
まぁ、そういうふうに聞こえなくもない という夢で起きた
大変だなとおもった
夢って怖い