はてなキーワード: 自己評価とは
にこやかに用事を頼む妻の様子のどこにこんなことが読み取れるんだよ
>お母さんは夫に対する思いやりも敬意も持ってなさそうなキャラ
いや、私だったら夫があんなに陰鬱な顔をしてるのににこやかに用事を頼むことなんてできない。心配になるし、気を遣う。
だから、最初のカットだけでお父さんをコマかなんかみたいにしか思ってなさそうだと思ったし、思いやりも敬意も持ってなさそうだと思ったよ。お父さんの都合も聞かずに自分のお願いだけしてるし。
落ち着いた口調で苦言を言ってるだけの妻の様子のどこが「修羅場」「怒る怒る」なんだよ
いや、落ち着いた口調って言ってるけどあれはあきれた感情が入った声だし、怒っているのは火を見るより明らかじゃね?というか、もし増田があの様子のお母さんを見て怒ってないと判断するんだったら、そっちの方が怖いんだけど。
>風呂上がりのお父さんはお母さんに謝り、お母さんもなぜかそれだけで許してしまい
パパのイレギュラーな行動により結果として起こったことは「子供の誕生日のお祝いがが1,2時間遅れた」これだけだ。
朝の様子、「家族思いのパパ」という表現、帰宅時の怒りのトーンから見ても普段の夫婦関係が悪いなんてことはどこにも示唆されていないし
陰鬱なお父さんに笑顔で用事を頼むお母さんという朝の様子は、お母さんの思いやりも見えないしお父さんも楽しくなさそうでこれだけで夫婦関係が悪いと一発で思うし、「家族思いのパパ」という表現はお母さんのお父さんに対する評価ではなくお父さんの自己評価である上お父さんはそういう自分に納得してなさそうな様子が見て取れるし、帰宅時の怒りのトーンが低く見えるらしいが普通相手を怒らせた時点でアウトだろう。お母さんが声を抑えてくれていても、それに甘えて「あ、あんまり怒ってない」って判断する増田の価値観、怖すぎなんですが。
子供の誕生日のお祝いが1,2時間遅れただけっていっても、その理由が交通トラブルとかだったら一言謝罪すれば済むと思うけど、飲み会で家族よりも他人を優先しました、という理由ではちょっと一言で許してもらえると思うのは虫が良すぎない?
増田は私が明後日の解釈をしているというけれど、私から増田の主張を見ると、増田は対人関係の感覚がマヒしているとしか思えない。
お父さんが陰鬱な顔をしていても、お母さんが笑顔ならその関係は良好に見えますか?良好な関係というのは両者ともに笑顔でいられる関係でしょう?
それに、普通は人を怒らせることってないじゃん。だからこそ、人が怒ったときは誠意をもって接することが必要でしょう?それなのに、お母さんは声を抑えているからあまり怒っていないと判断して、子供のお祝いが1,2時間遅れただけだから一言謝ればセーフって思ってるのは正直怖いよ。そういう考えこそ、普段から人を怒らせ慣れている上に人の怒りにまともに取り合わない人の考えにしか思えない。
そして、お母さんがすぐに夫を許してしまうところからすると、そういう人の怒りを軽く見ている人がこの脚本を書いたのかもしれないと思わさせられる。どんなによく解釈しても、お母さんはお父さんを許したのではなく今は子供のお祝いのために怒りを押し殺しているだけだよ。
勝手に自分の家族関係を投影するなっていうけどさ、私が今いる世界から見るとこの家の家族関係は怖いとしか思えない。うちはもっと平穏だよ。
もしかしたらこういう家が普通なのかもしれないし、この家族にとってはこの一件は大した話じゃなしに石鹸で洗い流せる程度の出来事なのかもしれない。
でも、私は妻の立場だけど、朝から暗い顔をしているお父さんに笑顔でものを頼んでしまうお母さんは決して笑顔通りの朗らかさには見えない。頼みごとをするのにも気を遣えない人なのだろうと思うし実際使ってないと思う。お父さんも、例え後輩のためという大名義分があって飲み会に行ったとしても、飲み会中のお母さんからの電話を無視する理由まではないよ。そのあとの一言謝るだけの行動も家族と向き合う姿勢が全く見えなくて幼稚だと思うし。
成人した人間の最低限の処世術として、自分の感情を無闇矢鱈に他人にぶつけない、ぶつけてもどうにもならない、他人はコントロールできない、自分の感情のツケは自分が払うしかないって理解しなければ、社会生活は大変に難しい、と言う前提があると思う。
ところが、世の中には些細なことを粗探ししたり、小さなことで他人を恫喝したり、意識せずにモラハラを働くような(それこそ、「なんで私が怒ってるかわかる?」式の)人間や、逆に他人からの評価が自己評価に直結してて、他人からの承認を集めないと自分を保てない承認欲求モンスターたちが掃いて捨てるほどいる。こう言う人たち は何を考えて生きてるんだろう?
普通に考えて、自分と他人の精神は別で、他人の精神はコントロールできないなんて当たり前のこと、誰にでも分かりそうなもんじゃないか?自分と他人が未分化なのか?赤ん坊なのか?社会は赤ん坊ばかりなのか?赤ん坊がそのまま社会に出て無数に対人トラブルを起こし続けているのか?
他人の精神をコントロールしたいと言う願望を実行するのは、他人の肉体を傷つけたい、と言う願望を実行するのに負けず劣らず醜くて卑劣なものだと思う。
社会生活を送る上で山盛りの支障があるにもかかわらず、どうにも自分は他人から信用を得たいとか、信頼されたいとかいった感覚がまるでわかっていないような気がする。
当然何かと相手のご期待に応えられず「信用を失うことが怖くないのか!」といった形で叱責されることが年を重ねるごとに増えてきたのだけれど、
こちらとしては、えっ、私のこと信用なんかしてたんですか?ダメですよポンコツなんだから信用したら。期待しないでくださいよ間抜けですね。ってな感じだ。
なぜこうも信用に対して無頓着なのか、自分の思考はどの辺りが歪なのか、その辺をもう少し掘ってみようと改めて考えてみた。
そもそも相手に対して信用があるかないかで対応を変えるものらしいということは知識としてはわかっているし、
現代の人間社会におけるコスパの面で、信用というのがかなり優れていそうだという事も頭では理解しているのだけれど、自分としてはまるで実感が伴わない。
「虫嫌いの人は虫を近づけられるのがイヤだ」という感覚が、自分は虫が好きであるがゆえに「知ってるけどイマイチわからない」のと同じ感じだ。
この辺のちょっとしたことに関する実感の伴っていなさは、抱えている発達障害由来のものなのかもしれない。
基本的には過去の膨大な失敗や知識から得たパターン学習を基に頭でワンクッション考えてから行動することで相手に沿った適切とされる対応ができる場合が大半なのだが、
自然とわき出てくる感覚としての実感がないので、未経験の応用パターンを「少し考えれば当然わかる事」として求められるとたまに失敗してしまう。
例えば「虫嫌いの人~」を応用して「虫嫌いの人に虫の図鑑を見せにいってはいけない」というのは、子供の頃なかなか納得できなくて飲み込むのにかなり苦労した。
だってこれ絵じゃん、というのと、詳しく理解すれば恐怖心も薄れるだろう。という発想だったのだが、まあ、ズレている。
現時点で自分は、信用というものの評価を心の奥底で「ある方がいいけど何か無理してまで得たいとは思わない程度のどうでもいいこと」としか捉えていない気がする。
では、なぜ頭の中でコスパのいい要素だと知っていながら、信用をどうでもいいと感じているかの理由を考えていると、
そもそも自分が誰かを信用していないまま、コミュニケーションを円滑にするために相手を信用しているポーズを意図的に発信し続けているために、
信用などなくても表面上は特に問題なく生活ができるものなのだと学習してしまっている。という可能性に辿りついた。
自分が他者を信用する感覚について特に意識したことはなかったが、改めて考えてみるとどうやら他人のことをろくに信用しておらず、
他人の感情や思考を真に理解することができない以上、あらゆる他人は常に次の瞬間自分に敵対する可能性を持っている。
とごく自然に考えて、それをベースに生きているぐらいの殺伐エンジンが根底に横たわっているように思えてならない。
こう考えると、これまで自己評価的には、素直で人懐っこくて純朴な性格だと自分のことを思っていたのだけれど、
「敵」か「今は敵じゃない」かの二段階だけで区別しているせいで、とりあえず敵じゃないと判定して、
一般的に信用しているとされるポーズを発信し始めるまでがかなり早いだけのことだったのかもしれない。
これは思い付きの仮説だが、そういった他人を信用しない姿勢に加え、色々な感覚過敏がある事が、
他者とのコミュニケーションや人の多い環境で異常に体力・精神力を疲弊する遠因の一つになっているのかもしれない。
自然と視界内の他人の体の動き、歩調、視線、呼吸、緊張とかの情報を無意識に受信、分析していて、
敵対しそうな気配があるかどうかのセンサーを全開で働かせてしまっているとしたら、そりゃまあ疲れそうだ。
そういえば一度、大阪の電気街でひったくりを遠目に目撃した際に、犯人が走り出す前から犯人に妙な違和感を感じて足を止めて注視していた事があって、
同行していた知人に後から「なんでお前わかったん?」と気味悪がられた。
まあウスノロビビリモヤシなので追いかけたりはせず、覚えておいた特徴をあとから警官に伝えただけだったが。
しかしなるほど、私はどうやら信用というものに対して大変根本から向き合い方が捻じれていたようだ。
思えば、知人友人関係どころか、家族恋人相手ですら、常に直後に相手と縁が切れても大丈夫だと思える程度の関係を保ち続けている。
進学時に学費を出してもらう際や、家を借りる時に保証人になってもらう必要があったが、なにかとても気持ち悪くて非常に落ち着かなかった。
とはいえ、自分としてはあくまで個人と個人として、相手を一知的生命体の個体として尊重して接してきたつもりだ。
思想に立ち入らず、主張に踏み込まず、追わず、求めず。それで十分だし、それ以上の関係を他者と築きたいと思ったことも恐らくまるでないと思う。
貸し借りをすることがあっても、返ってこなくても惜しくないものしか貸さないし、自分が弁償できそうなものしか借りない。
昔、恋人関係になった相手から、ものすごくよくできたロボットが自分のことを人間だと思い込んで人間のフリをしているようだ。と言われたことがある。
あの言葉は、結構核心を突いていたのかもしれないな、と今になって思った。
さて、どうしたものやら。
私は前職で、女性をメインターゲットとしたサイト構築に携わった。
売り上げも上昇傾向で、経営者の戦略がニッチな分野を攻めた良いビジネスプランであったことが大きかった。
『巧遅でも綺麗なソースコード』を書くことを評価する風潮が強かった。
SEO集客では『巧遅でも綺麗なソースコード』がサイトの成長を加速させるのではない。
SEO集客では『拙速だがトライ&エラーを繰り返すこと』がサイトの成長を加速させる。
システム部門の責任者が『巧遅でも綺麗なソースコード』を求めることはサイトの成長を鈍化させる。
誤解しないでいただきたいのは、汚いソースコードでも良いと言っているわけではない。
冗長なロジックは排除し共通化はしっかり行い、可読性・保守性はしっかり担保するべきだ。
オブジェクト指向などの方法論を追及しすぎずに費用対効果を考えバランスを重視せよと言っているのだ。
この考え方を前職の上層部に訴えたこともあったが残念ながら響くことはなく前職の会社を去ることになる。
現職の会社では、システム部門において『拙速だがトライ&エラーを繰り返すこと』、すなわち『プロトタイピング思考』の重要性を
チーム内に浸透させることからスタートし周囲からの理解を得ている。
現職の上層部からも自己評価と同等のフィードバックをいただけたこともあり、労使間でWin-Winな関係を築くことに成功している。
自己犠牲の話 http://anond.hatelabo.jp/20170604072641
を書いてから、たくさんの人に意見をいただいて驚いていた。全部読ませていただいて、客観的に見ると私はかなり重い女だなと実感した。うすうす気がついてはいたけども。
自己評価はお察しの通り低い。後天性の身体的欠点ができてしまったので、気付かぬうちに自信のなさにつながっていたかもしれない。理性としては個性の一種と受け取っているし、そこら辺を彼氏が本当に気付かないようにフォローしてくれて、全くコンプレックスとしては感じなくなったけども。
彼氏が知らない複数人からもいい人だと言われて嬉しかった。いい彼氏に釣り合えるように、自覚できた欠点は改善できるように努力したい。
彼氏の意見が整理できたとのことだったので、どっちの方向に整理できたのか若干ドキドキしながら聞いていた。
昨日私が痴漢に遭ったのは彼氏の実家に行く道すがらのことで、私は電車の中でSOSの連絡をした。
ところが私が彼氏と会った時は私は笑顔で、一見こともなげにあった事実のみを報告し、そのあとは何事もなかったかのように楽しそうにふるまっていたから、もう少し悩みを共有したかったとのこと。
また、帰りしな私が少しずつ漏らした痴漢の詳しい話は彼氏には想像より複雑で深刻な話だったようで、それをどうして早く言わなかったのかとも思ったかもしれない。
それでも私が困ったことが起きた最中に彼氏に言えたことがとてつもない進歩なのに(正直彼氏以外に個人的悩み事を最中で相談したことがない)、そこまで頭が回らなかった、と。
結果、彼氏に「自分が悪かった」と謝られて、私は自分の性格の難を謝ることができなかった。やはり彼の方がずっとずっと大人だった。
私はもう20余年こうやって生きてきたけど、彼氏とはずっと一緒に居たいので、程よく面倒をかける方法を探していきたいと思う。ただでさえ会おうと思っても気軽に会えない距離にいるのだから、自分の考えを我慢せずに吐露できるようになろう。
「心配かけないようにしていることが、かえって心配されることにつながってる」とブクマコメにあったが、ビンゴでそれだろうな。
でもどれくらいおんぶにだっこになっていいかもわからないし、極端に違う方向で重くなる可能性も考えられるから、とりあえず、相談するときしっかり助けてもらう意識で話すことから始めたい。
つらい。つらい。どうにもつらい。
なにをどうがんばっても今よりより良い状態に辿り着ける気がしない。今まで今までなりにがんばってきただろうにそれでどうにもならなかったので今更どうにもならないとしか思えない。生きる才能がなかった。生きることに向いていない。その才能がない。本当に向いているなら今はもっとよりよいじょうたいに或るはずである。そうでないということはつまりこれから生きていても無駄なのではないか?
なにか大義のためであったりそうでなくても今よりほんの少しずつ物事をよくしていくために人間は生きているはずなのであるがそれがない。だったら生きている意味などないのではないか? おそらくない。ならばなぜこんなに辛い気持ちを味わってまで生きていなければならないのか?
この辛さがいつか報われて今よりももっとよい状態をいつか手にできると信じられるからこそひとは辛さに耐えられるのではないか。あるいはよほど辛さに前向きに鈍感であるかだ。わたしにはそれがなく今の人生は延々続く責め苦に感じる。自分の人生がこれから面白いものになる期待が持てない。どうせ今までがんばってきてそれもなにひとつうまく料理ができなかったのだ。
わたしは凡百の才しか持たぬ。いや凡百以下である。就活で失敗したのは、就活という枠組みに適応できなかったという理由なのではきっとなかった。単にひととして劣っているので雇い口がなかったのである。自己評価が低いのではない。能力が低いからこそ、評価が低く、評価が低いからこそ、自己評価が低いのである。それほどまでにどうしようもない人間であるからして、生きているだけでそれは無駄なのであろう。
こんなにつらいならきっと死んでしまったほうがまだマシだ。そうであるのに、死ぬとそれはそれでいろんなひとに迷惑がかかる。親は紛いなりにも悲しむだろうし、それはそれとして、昨年祖父の葬式があったが、それがひどくめんどうだった。それに親族知人に自殺者が出るというのはたぶんかなり気分の悪いものだろう。中学生の頃に自殺未遂をし、弟に死にたい気持ちを吐露したら、親に「そういうことは弟には言わないで」と言われた。当然だ。弟には申し訳のないことをした。愚痴や弱音、希死念慮の吐露は他人にとっては害だ。わたしは生きていく価値のない人間であるから他人に害なすことは道理に合わない。生きる責め苦から逃げ出したい。けれど他人に迷惑をかけることなくこのゲームから降りることは許されない。
ああどうせ死ぬならそのまえに、死ぬ気で好きなことをやってみろって? もうやった。やった。でもなんにもうまくいかないんだよ。なんも楽しくない。映画を見てる最中は楽しいけれど、その後はなんにも残らない。結局のところ創造的な営みでなければひとは快楽を得ることはできないんだよ。でもその創造的な営みには才が要る。気力が要る。体力が要る。それがなんにもないんだよね。時間はきっと作ればあるはずなのにね。自分で自分を楽しませてやれない。死にたいわ。労力に対して、脳内で分泌される快楽物質の量が圧倒的に不足している。要はコスパが悪いんだよね。でもうつではないと思う。だって毎日自炊をして、出勤してる。要はつまり、単にわたしは生きるのに向いていないってこと。生き物として間違っているということ。
運動?やってるよ。毎日自転車通勤してる。野菜?食ってるよ。大量にたまねぎと人参を刻んで煮込んでスープストックつくって、それにしめじやほうれん草ドカドカ入れて毎日食ってる。瞑想?してるよ。じゃなきゃ、もうとっくに潰れてる。でもね、だめなんだなぁ、これが!
やっぱり、低級市民。やっぱり、負け組。みんな優しいから、そんな君も生きていていいんだよと言ってくれる。でもみんな、やっぱり、わたしよりよほど立派な人間なんだよね。
いい歳したおっさんだが「本気を出せばSだが面倒なのでBクラス」だと思ってる
やりたくない理由はこうだ
・責任が増える
・常にその頑張りを期待され続ける
・どんなに積み上げても寿命が来たら死ぬし、寿命が来る前に劣化する
・金を手に入れても買いたい物もない
ようするに頑張ったところで所詮無駄だと思っているのでのらりくらりして生きたい
なぜそんなところに入ったのかを説明すると面倒なので省くが流石にサボり続けられなくなってきた
辞めたくはないので勉強しないといけないのだが正直ノリ気がしない
誤解しないで欲しいが元々の頭は自己評価で高い方だと思う
自分が成長して力を獲得すると経験上間違いなく傲慢な人間になる
これを基礎人格の俺としたらいつも24時間表に出てるのは偽造人格の俺だ
基礎人格の俺は弱者は死ねといい、敵も死ねといい、言う事聞かないやつは死ねと思っている
偽造人格の俺は基礎人格の俺にデメリットを感じ、嫌気がさして構築した
もし俺が事件を起こしたら「挨拶できてしっかりした子(おっさん)だったのにねえ」とコメントされるタイプだ
この偽造人格を被ってる間だけ俺は大人しい草食動物でいられるし
弱いからこそ他者にマウントしたり高圧的な態度を取らないでいられる
なんと美しいのだろうか
基礎人格のように醜い闘争に快感を感じるのと違い他者を思いやろうとする素晴らしい性格だ
ここまでで気づいただろうがこの日記を書いているおっさんは極度のナルシストだ、残念ながら
せっかく押さえていた基礎人格もここから求められる成長性と共に
男性特有のマッチョイズムも発掘していかなきゃいけないと思うとかなり憂鬱だ
平和で平等で融和で調和を愛したかったがこの世界の経済はそれだけでは生きるのを許してくれない
俺が野獣になっていくところを見ても同僚はどうか失望しないでほしい
俺のせいじゃない
言う方は無いです。ひたすら言わない(言えない)という現象です。
特に女性のアレが苦手です。なんか褒められて、褒め返して、それでコミュニケーションが完結するというやり取り。まず自己評価が低くて褒められるのが居心地悪くて超苦手。相手を褒めるのも、自分なんかジャッジする立場に無いと思うし、上から目線な気がして無理です。
単なる社交辞令を難しく考え過ぎなんだと思うし、みんな素直で、褒められて嫌な人はいないと思ってるだけなのも分かるし、褒め返さなかったら貰いっ放しみたいな印象になるだろうことも分かるんですが・・・・
普通の(大抵の)人なら嬉しいことが、自分にとっては嬉しくない。どころか、かなり微妙。ぶっちゃけ嫌なことに属する。自分がされて嫌なことを他人にするのが抵抗がある。でも相手は、ひねくれた自分なんかと違って、そんなこと全く思ってないんだ(うわわああああん)。でループしてる感じです。すいません一方的な自分語りしてしまって。